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禅と日本文化
東山魁夷
心の泉を知らない不幸
心に泉がある
「森の中に、ひそやかな音を立てて、澄んだ水を流し続けている泉がある。そこには束の間の憩いがある。それが僅かなひとときのやすらいであるとしても、荒野を飛び続ける鳥には救いである。地上に生きる者にとっては、一日は一日で終りであり、明日は新しい生であるからだ。」(A12)
東山さんは、人の根源の心を自覚している。それを「泉」と呼ぶ。人が自分の根源の澄んだ泉を自覚できるならば、救いを得るのだ。
泉を自覚しない不幸
「その泉を、いつ、どこにでも見出し得るということは困難である。早く飛ぶことだけに気を奪われているからである。鳥たちの最も大きな不幸は、早く飛ぶことが進歩であり、地上の全ては、自分たちのために在ると思い違えていることである。」(A13)
「あわただしく時が過ぎ去って行くと、鳥は思っている。時は無限であり、不動であり、過ぎ去っていゆくのは鳥自身であることに気がつかない。何かにつかれているかのように、強く、早く羽ばたこうとあせる。それが、鳥自身がこの地上から、より早く消え去る不幸を招くことに気づかない。」(A12)
鳥とは私たちのことである。金や名誉や地位をあくせく追いかける者には、この泉を発見することはできない。自分の教団の国をつくるのだという宗我をふりかざす宗教者も思い違いをしており、それについていく小鳥は不幸である。時間についても思い違いしている。自然にさからい、こざかしい頭で何かしようともがくと、かえって自分の生命を縮める。この点については、我をださず、病気や不幸も神のみこころのままに、と従容と受け入れるキリスト者の生きざまが、かえって自然に、大きなものに、祝福されるのであろう。
すべての人が「泉」をもつ
「誰の心の中にも泉があるが、日常の繁忙の中にその音は消し去られている。もし、夜半、ふと目覚めた時に、深いところから、かすかな音が響いてくれば。それは泉のささやく声に違いない。」(A13)
東山さんも「人はすべて仏」という仏教の基本線と同じことを云う。「泉」は東山さんだけが持っているのではない。みなすべての人が「泉」をもっているのだが、くだらぬものを追い回すために、見落としているのだ。いつもあるから、時々、奥底からささやきかける。その声を聞き捨てにしないようにしたいものだ。
窓の外は架空、内こそ真実
ただし、自己の心の鏡があって、外の景色が映っている、というものではない。鏡という実体を認めるのではない。この点は、東山さんも同じで、次の文で知ることができる。
「孤独の部屋の真中に鏡があって、窓の外の世界が映るのを、部屋の住人は見つめる。直接、窓から外を除くということに、あまり興味を示さない。窓の外は架空の世界であり。真実は鏡の中だけに映る。
この部屋に住む人は、鏡の中の真実を各自の方法で形象化しようとする。自分の言葉で語ろうとする。それは易しい仕事であるはずがない。しかし、孤独な密室の中での、その住人自身のための作業であるにもかかわらず、いや、それであるからこそ、そこから生み出されたものは、窓の外の世界での普遍的な存在意義を持つといえる。より深い真実に触れることを人は希うからである。」(C180)
二元観は虚妄、自他一如、しかも、鏡の内こそ真実。東山さんは、外のもの、虚妄、を追いかけない。それは、おろかな集団の中での名誉、地位、虚飾の交わりなどであろうか。すべて世界は自己の心の鏡に映る。それだけが実在であり、外にあるのは虚影である。東山さんの芸術、画と文、は自己の心である真実を描こうとしているが、容易なことではない。ということは容易に理解されないのではないか。日本人は、別な方向へ向かっている。そこに東山さんの孤独観があるのではないか。
誠実、謙虚、素朴、無我
「泉はいつも、
「おまえは、人にも、おまえ自身にも誠実であったか」と、問いかけてくる。私は答に窮し、心に痛みを感じ、だまって頭を下げる。
私にとって絵を描くということは、誠実に生きたいと願う心の祈りであろう。謙虚であれ。素朴であれ。独善と偏執を棄てよ、と泉はいう。
自己を無にして、はじめて、真実は見えると、私は泉から教わった。
自己を無にすることは困難であり。不可能とさえ私には思われるが、美はそこにのみ在ると、泉は低いが、はっきりした声で私に語る。」(A14)
これを読むと、東山さんは、禅者である。禅を修行しなくて、禅者と同じ生きざまをされている。いつも(本当に、いつも、である。家でも、電車の中でも、職場でも)、奥底の何物かが、誠実であれ、自我に執着するなとささやく。たしかに、困難である。しかし、その自己の本質から離れたくないと、願い、すこしでもそちらへ向かうならば、多くの古人がやさしい眼差しで見ていてくれるのだ。
このような誠実な画家をよく世間が認めたものと感心する。日本の世間(画壇だけだとすれば悲しいが)も愚かだけではないところもあって、救われる。道元、良寛、賢治など誠実な人を認めないことが多い傾向にあるのが世間の傾向であるから。
誠実、いつも自分の小ささを自覚し心に痛みを感じる、自己を無にすると真実が見える、いつもあちらからささやいている、仏教は、これにつきる。自己を無にするところに真の美がある、とは柳宗悦の言葉にもある。
おごり無く、謙虚、自分を未熟と
「芸術の道では幸福に恵まれるということは恐ろしいことではないだろうか。私の芸術の立脚点は、謙虚と誠実と清純なところにあるべきではないか。世の中の拍手、そして賞の栄誉、ということに、もし自分が喜んでいれば、私は最も大切なものを見失うだろう。」(D107)
謙虚と誠実と清純とは、人間の根底の本質です。だから本物の芸術家は、その生きざまがこうなります。宮沢賢治の『ひのきとひなげし』にも同様の言葉があった。自分に得意になる者は、美しさの小さな泉を枯らしているのです、と。自分を偉いとおごる者、取り巻き連中に偉いと言わせる者は、最低の人間です。東山芸術や宮沢賢治とは無縁の「真っ黒い巨大な虚飾のもの」を作ろうとします。しかし、それは偉大な他力によって永遠に賛美されるものではありません。
無心の制作と奢り無き誠実
「障壁画は私が描いたのではないということであります。森本長老の熱意と、その背後の鑑真和上のお導きによって、私は無心で筆を動かしていたにすぎません。」(B67)
唐招提寺の障壁画を描かれた後のご文章です。あれほどの傑作を描かれたのに、自分でうぬぼれず、おごらず、まさに真の宗教者を見る思いです。
それに比べて、宗教教団のトップが、自分を威張り、驕り、うぬぼれる者の多いのを見るのは、見苦しいことです。自己を誇るものは美しさの泉を枯らしているのです、とは宮沢賢治の言葉です。
無常
「私はいまでも無常ということが人生の真実であって、人はそれを深く感じるところに生きる力が生じ、生きる態度が決められる者だと思うのである。」(C110)
「いちばん喜んでくれるはずの両親も兄弟もいまは一人もいない。しかし、このさびしさ、むなしさがあるために、その後、運命がどんなに私に微笑しても、いつも謙虚でいることが出来るのかもしれない。」(D102)
芸術は死後に評価
「結局、芸術作品は、その作家の死後に、正しい評価を下されるものである。」(D186)
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