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禅と日本文化
東山魁夷
東山魁夷芸術の原点となる体験
恐らく日本の美術界で、東山魁夷(ひがしやまかいい)ほど幅広く国民的な知名度を得ている日本画家はいないと思うと桑原住雄氏が言っている(A)。その東山画伯の画や言葉には、禅に通じるものがあるので、ご紹介したい。禅の生活をする上で参考にしていただけると思う。
東山芸術の原点
熊本城での体験
房総の鹿野山での体験
東山芸術の原点
東山さんは、他力的な生き方、絶対肯定の考えを持つが、それはどこから生まれてきたのだろうか。
東山さんの二つの体験が重要な契機になっている。
熊本城での体験
昭和二十年七月、太平洋戦争末期のことだった。召集され、熊本の部隊に配属され、有明湾に米軍が上陸するとの想定の下に、爆弾をもって、戦車に肉迫攻撃する訓練を受ける。
輝く生命の姿を見た
「そんな或る日、市街の焼跡の整理に行って熊本城の天守閣へ登った帰途である。私は酔ったような気持ちで走っていた。魂を震撼させられた者の陶酔とでもいうべきものであろうか。つい、さっき、私は見たのだ。輝く生命の姿を−。」(A86)
すべてを放下した時
「あの風景が輝いて見えたのは、私に絵を描く望みも、生きる希望も無くなったからである。私の心が、この上もなく純粋になっていたからである。死を身近に、はっきりと意識する時に、生の姿が強く心に映ったのにちがいない。」(A87)
自我の欲から解放された時
「平凡な風景、平凡な自然の風景を、生命自体の輝きと見、その輝きを宿すものと見たのは、じつは、戦争のために、絵を描くことはおろか、生きる望みさえ失ったその瞬間でありました。私は、そのときの心がもっとも純粋であったと、のちに気がついたのであります。自我の欲から解放されて、そういう状態になったと思われるのです。
しかし私などは、自分の力でそういう精神状態になったのではなく、いやおうなしに、そういうところの立たされたわけであります。」(B60)
「私は召集が来るのを予期して、母や妻とお互いに後のことを相談はしてあった。だが、病気の母と弟、そして妻、またろくな絵も描けないで過ごしてしまった自分、と考えると全くみじめなことに違いないのだが、この際、徹底的な諦めの観念が、あらゆる感情を押さえていたようだ。浮世のちりを洗いおとすというようなことは、実生活の中では容易に出来るものではない。しかし、このとき、私の心は最も純粋になっていた。それが絶大な他力によって到達させられた境地であるにしても。」(D96)
戦争にあって、死を意識した。画壇にも認められなかった。希望が全くなくなった。天守閣から城下の風景を眺めていたその時、人間としての考えや意志や理想や、すべて人間的なものが放棄されて、ただ呆然となっていた。その時、生命の輝きが見えた。人間のはからいが全く止んだ時、生命の神秘に触れる。これは禅者の、自己(も世界もすべて)を忘れる体験、見性体験と同じだと思われる。
「自分の力でそういう精神状態になったのではなく」という、このことは重要です。ある種の宗教信者は「自分」が信じて「自分」が幸福になる、と思うでしょうが、そのように「自分」を認めている間は、禅も念仏もキリスト者でも、東山さんのような深い精神状況には到達しないでしょう。
「自分」のはからい、智恵、努力などを一切放ち忘れて、ただ自己の根底に働く何物かにまかせていくことをしない限り、生命の輝きも神の恩寵も知ることはできないでしょう。「自分」に自信を持っていて、自分の考えや自分の信仰で生きるという「強い」人には、神は見向いてくれないでしょう。
東山さんは、なまじ、宗教を意識してやらなかったから、無意識にすべてを放下できたといえます。仏教者は、禅者は、念仏者は、キリスト者は、自分の生命をもかえりみず、自分の不利益をもかえりみず、自分かわいさに執着して心に葛藤をおこしたり他人とあらそったりせず、ただ、奥底の声(教祖ではない、自己の根底の或るもの)に導かれてまかせていく時、あちら(教祖や教団ではない、自己の奥底から)からの救いの手がさしのべられることに気がつくでしょう。ただ、表面上は、飾った言葉で、どの宗教も似たことをいいますから、自分たちの私欲をこやすことを考えるあくどい宗教家に利用されて、家庭や職業や金銭や財産を捨てさせられないようにしなければなりません。
以前は、こざかしい工夫と欲
「自然に心から親しみ、その生命感をつかんでいたはずの私であったのに、制作になると、題材の特異性、構図や色彩や技法の新しい工夫というようなことにとらわれて、もっとも大切なこと、素朴で根元的で、感動的なもの、存在の生命に対する把握の緊張度が欠けていたのではないか。そういうものを、前近代的な考え方であると否定することによって、新しい前進が在ると考えていたのではないか。」(A87)
「また、制作する私の心には、その作品によって、なんとかして展覧会で良い成績を挙げたいという願いがあった。商売に失敗した老齢の父、長い病中の母や弟というふうに、私の経済的な負担も大きかったから、私は人の注目を引き、世の中に出たいと思わないではいられなかった。友人は次々に画壇の寵児になり、流行作家と云われるようになって行ったが、私はひとりとり残され、あせりながらも遅い足どりで歩いていたのである。こんなふうだから心が純粋になれるはずがなかったのである。
その時の気持ちをその場で分析して、秩序立って考えたわけではないが、ただ、こう自分自身に云い聞かせたのはたしかだ。もし、万一、再び絵筆をとれる時が来たなら−−恐らく、そんな時はもう来ないだろうが−−私はこの感動を、いまの気持で描こう。
汗と埃にまみれて熊本市の焼跡を走りながら私の心は締めつけられる思いであった。」(A88、D97)
こざかしい人間の考えをめぐらし、金や名声を求めている間は、自然の本当の輝きは見えないことを体験によって悟った。無心、無我の自己の自覚と、それにまかせる時偉大な力がさずかることの自覚であった。
東山さんは、熊本での体験に続いて、鹿野山でもまた自然と自己と一体という体験をされた。
このふたつの体験が、東山さんに独自の自然観、世界観、人間観、人生観をはぐくんだ。おそらく私たちも、東山さんにならって、絵は描かなくとも、誠実で、謙虚で、おごりなく、自分のつとめに励んでおれば、きっと東山さんと同じように生命の神秘に触れる時が来るに違いありません。
房総の鹿野山での体験
「昭和二十一年の冬、私は千葉県鹿野山へ登った。山頂の見晴らし台に立ったとき、おりから夕暮れ近い澄んだ大気の中に、幾重もの襞を見せて、遠くへ遠くへと山並みが重なっていた。褐色の山肌は夕ばえに彩られて、淡紅色を帯びたり、紫がかった調子になったり、微妙な変化をあらわしていた。その上には雲一つない明るい夕空が、無限の広がりを見せている。
人かげのない草原に腰をおろして、刻々に変わってゆく光と影の綾を、寒さも忘れて眺めていると、私の胸の中にはいろいろな思いが湧き上がってきた。喜びと悲しみを経た果てに見出した心のやすらぎとでもいうべきか、この眺めは対象としての現実の風景というより、私の心の姿をそのまま写し出しているように見えた。私は翌年の二月にも春にも写生に行って構図を考え、第三回日展に「残照」と題して出品した。この作品は特選となり、政府買い上げとなった。」(D100)
この時には、「風景が自己の心そのまま」という主観(自分)と客観(もの)が一つという自覚が生まれた。この東山画伯の体験は、芭蕉のいう「物我一如」、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」の「純粋経験」、柳宗悦の「直観」、禅者誰でもいう「自他一如」と同じであり、無我の体験からくる自覚であると思う。
無我とは、自我は実体がないことをいい、自我がなければ、ものと我とがひとつという大いなる自己にめざめる。
死の認識によって生の映像を見た
「北方の極は死の世界ではないだろうか。その死の意味は、生命と、愛の対極としてである。私はこの書で、いま、はじめて愛という言葉を使った。死の認識によって、生の映像を見た私であることを、この書の冒頭の章に書いたが、愛もまた、死の認識によって、その対立者としての姿を鮮烈にするものではないだろうか。」(A110)
「いわゆる末期の眼で、ものを見た時点から、作家としての活動が始まったと思われる私達は、文学と絵画という表現形式の差異はあっても、底に流れて響き合うものを共有しているのではないだろうか。」(C188)
(川端康成、井上靖を語る)
禅では、「大死一番、絶後蘇息」(自我に死んで、真の自己に活きる)というが、東山さんが「死の認識によって生の映像を見た」とは、死に望んで自己を空しくしたとき、自分に働く生の根源を見たというのであろう。それを仏とも神ともいうが、画伯は、「泉」(A13)、「もっと大きな他力」(A95)、「私の小さな意志なんかではなく、大きな力」(A107)、「無形の何物か」(A133)という。画伯が友情をかわした川端康成は、この何物かを、住吉三部作では「あなた」と呼ぶ。
そのうちのひとつ、『反橋』は次の言葉で始まる。
「あなたはどこにおいでなのでしょうか。
仏は常にいませども現(うつつ)ならぬぞ哀れなる、人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ。」
以上の二つの体験は、東山画伯の絵画、生き方、文章、思想の原点である。だから、次のように、しばしば、これを語られる。
- 熊本での体験--A87、B28,60、C112,188,202,232,D97
- 鹿野山の体験--A30,B28,C162,202,D100、E140 》
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