禅と日本文化
東山魁夷
あるがまま
一切の存在をそのまま肯定
東山魁夷画伯は「肯定的な態度」で生きるという。「肯定的な態度」は、「あるがまま」といえよう。自分の能力や環境を嫌わず、否定せず、与えられたままを受け入れ、肯定し、そこに自分のできることを行っていくことであろうか。こういうと、こういう東山画伯や禅的生き方に悪意を持つ人は、「差別をそのまましのべ」ということで、差別の肯定だという。だが、仏教や禅でいう肯定とか、「あるがまま」はそうではないのだ。「いろんな苦しみに耐え」て生きていく自分の問題なのだ。苦を絶対のものとして見て苦にまけるのではなく、苦を違った眼で見て、苦を超克していく宗教的なこころの問題なのだ。差別する側の論理ではない。差別する者は、「あるがまま」になっていない。我利、エゴイズムの眼を持ち、闘争心、権力の行為を敢えて行う。それは仏教的「肯定」「あるがまま」ではない。
「あるがまま」に生きるという。しかし、ともすれば「あるがまま」は傲慢、エゴイズムな自分の「あるがまま」の人がいる。東山画伯の「あるがまま」は、
誠実、謙虚、素朴、無我のあるがままである。
「しかし、私の場合は、こんなふうだったから生の輝きというものを、私なりにつかむことが出来たのかもしれない。私が倒れたままになってしまわずに、どうにか、いろんな苦しみに耐え得たのは、意志の強さとか、それに伴う努力というような積極的なものよりも、一切の存在に対しての肯定的な態度が、いつのまにか私の精神生活の根底になっていたからではないだろうか。」(1)
「細い枯れすすきが、−−弱々しいものの、運命に逆らわずに耐えてゆく姿を感動をこめて見まもった。」(2)
(注)
- (1)東山魁夷『泉に聴く』 講談社文芸文庫、84頁
- (2)東山魁夷『旅の環』 新潮社、92頁
在るがままに在る、ひとすじの道
「在るがままに在る、ひとすじの道」を感じる画伯である。
「人生の旅の中には、いくつかの岐路があり、私自身の意志よりも、もっと大きな他力に動かされていると、私はこの本のはじめの章に書いている。その考え方はいまも変わらないが、私の心の中に、このひとすじの道を歩こうという意志的なものが育ってきて、この作品になったのではないだろうか。いわば私の心の据え方、その方向というものが、かなりはっきりと定まってきた気がする。しかし、やはりその道は、明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく、早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々として、在るがままに在る、ひとすじの道であった。」(1)
この作品は、『道』(昭和25年)である。「この作品により画壇的にも社会的にも認められる。」(2)という。
「いろんな苦しみに耐え」るためには、「あるがまま」である。人間のちっぽけな見解を一切入れない生の姿である。
今、神経症、うつ病などの心の病気、ひきこもり、自殺が多い。大胆に簡略化すると、神経症は「不安」をあるがままに受け入れず、不安を嫌い逃げる。「不安」をあるがままに受け入れない。「うつ病」は、仕事、人間、自分の能力、経済、など何でも自分の思いどおりになっていないとして、絶えず、嫌悪・不満の感情を起こす思考をすることによって「抑うつ」の状態になっていく。自己と環境をあるがままに受け入れ、冷静に観て、そこでできることをしようとする目が曇る。自殺は、「抑うつ」がひどくなった「うつ病」によることが多い。
「在るがままに在る、ひとすじの道」を我々も信じいつも感じていたいものである。
(注)
- (1)東山魁夷『泉に聴く』 講談社文芸文庫、95頁
- (2)同上、350頁。
月と花と私
『花明り』について、次のように語る。
「山の頂が明るみ、月がわずかに覗き出て、紫がかった宵空を静かに昇り始めた。花はいま月を見上げる。月も花を見る。この瞬間、ぼんぼりの灯も、人々の雑踏も跡かたも無く消え去って、ただ、月と花だけの清麗な天地となった。これを巡り合わせと言うものであろうか。花の盛りは短く、月の盛りと出会うのは、なかなか難しいことである。また、月の盛りは、この場合ただ一夜である。もし、曇りか雨になれば見ることが出来ない。その上、私がその場に居合わせなければならない。
これは一つの例に過ぎないが、どんな場合でも、風景との巡り会いは、ただ一度のことと思わねばならぬ。自然は生きていて、常に変化して行くからである。また、それを見る私達自身も、日々、移り変わって行く。生成と衰滅の輪を描いて変転してゆく宿命において、自然も私達も同じ根に繋がっている。」(1)
画伯は、大正15年、美術学校1年生の夏、長野を旅した(2)。山口村、小西屋に泊まった。夜、案内された公園の月と後に京都円山公園で見たしだれ桜とが重なって、『花明り』が生まれた(昭和43年)。
花が我で、月も我。我が花となって月を見る。我が月となって花を見る。「私」がそこにいなかったら、その風景はない。私だけの風景である。私のこころに描かれた風景である。生きているということである。私も無常。移り変わっていく。「私」は固定したものではない。
(注)
- (1)『日本の美を求めて』 講談社学術文庫、27頁。
- (2)同上、13頁。東山魁夷『美の訪れ』新潮社、192頁。『旅の環』新潮社、83頁。
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