もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と哲学-エックハルト 

禅、仏教との類似性(7)

 「  」はエックハルト言葉のそのままの引用である。他の文章で一段さげて太字にしているのは、エックハルトの言葉を要約(または大胆な意訳)して示している。

自我を捨てれば神がそこを満たす

 「心の貧しさ」は、一切の要求を放棄することである。すなわち「自我」の放棄、放下である。学者におおく見られる自分の知性へのおごりをも放棄するのである。それは「無我・無私」の実践、生活上の体現であろう。仏教の無我も存在論的な「体」についてもいうが、実践論的な人格化、生活化、「用」が宗教として重視されているのである。
 「心の貧しさが完全であり純一であればあるほど、この(神の)所有の程度はます」。自我を捨てれば、捨てるほど神(のもてるもの)がそこ(私の自我があったそこが空白になったところ)を満たす。
 このことは、仏教、今は特に禅が、これと軌を一にしている。初期仏教では、自我の心を煩悩といい、エゴイズムらしき心を捨てるように言う。道元禅師は「我見・我執を捨てよ」という。そうすると、清浄心が現れるという。清浄心は、仏性、阿弥陀仏とも言われる。
 「心の貧しさ」は継続的に人格上「成る」ことであり、行うことである。日々の生活である。道元禅師では「自己を習う」「我見・我執を捨てる」生活である。そして、「観た」後も、「長々出ならしむ」生活である。悟後の慈悲行である。
 このようなエックハルトの言葉により、キリスト教にも、仏教、禅と同様の修行道論があることが判明する。自我を捨てなさい。そうすると自分を超えたものの力が働いて自分を導いてくれる。自我を捨てることは、決して自分の命を捨てるのではない。神の命が満たしてくれる。仏教の言葉でいえば、煩悩、我見・我執を捨てなさい。そうすれば、自我のはからいを超えた無分別智が働く。自我を捨てた「そこ」に、仏の命が働くのである。

 自我が全くないことを「観る」のは、ある時の体験である。道元禅師では「自己を忘るる」「悟る」「身心脱落」であり、白隠禅師のいう「見性」である。「仏性」「自己の本性」を見る。そのことは、エックハルトも同様であるので別のところで確認しよう。
   
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