もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と哲学-エックハルト 

禅、仏教との類似性(5)

 「  」はエックハルト言葉のそのままの引用である。他の文章で一段さげて太字にしているのは、エックハルトの言葉を要約(または大胆な意訳)して示している。

離在、無心、自己の死

 人が神になる、神と合一するということをエックハルトはどう言っているか。要約すると、自己を忘れて、離在に入り、自己と神がひとつであることを自覚することである。離在には、「存在から離れる]という意味があるが、原語がそういう意味を含んでいたのであろう。禅では存在を自分の身心に代表させて身心脱落(しんじんだつらく)という。仏教教理では、法空、人空である。ものと、自己が空である、という。エックハルトを読む限り、同じものであると思う。  「万物を創造しない以前の姿」を、仏教の唯識説では「無分別」という。「唯一者」は、法華経が「一乗」という。「無相」は、中国禅で強調された。「不動」は、原始仏典(8)にも出る。  「無心」も、中国禅で強調された。思想的には、種々言われるが、実践的、体験的には「無分別」と同じであるとみなすことができる。禅の実際においても、たとえ、悟りに至らない人の坐禅でも、正念でいるから、その時には、苦悩(それは分別、思考であるから)は、生じていない。しかし、悟らないうちは、坐から立つと、分別を開始して、苦悩が戻る。「離在」に徹した時には、分別、思考しても、「離在」の中でのことと自覚があるので、苦悩しない。ここも、エックハルトと仏教、禅と近似する。  禅者、久松真一は「私は死なない」と言った。つまり自己がものとなる、ものとひとつになる。自己が脱落する。すなわち、自我の「死」である。これは禅でいう無我や悟りと同じである。
 本当の禅を知っている人は、以上の文章は容易に理解するであろう。そうでない人は難しいかもしれない。これが14世紀ドイツのキリスト教神学者の言葉であるとは、驚異である。しかし、溯れば、聖書でイエスがそう語っておられたのを知る。釈尊、道元禅師、白隠禅師、イエスキリスト、エックハルト、みな同じ「一なるもの」「最初の源泉」を見たのである。このように、キリスト者も、生きたまま(生物的な死後でなく)、活動中に(眠っている時や、臨死時や苦行時の朦朧とした精神異常時などでなく)、自己の脱落(自己が意識されないゆえに「死」である)という体験がおこり、自己が死んだという自覚に出る。エックハルトはキリスト教神学者であるが同じことを言っている。

 エックハルトの言うような「離在」を証明したいと思う人は参禅されるがよい。エックハルトの言葉の、一々が、事実だと納得できるであろう。
   
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