もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
禅と哲学
なぜエックハルトか
禅や仏教を研究している者がなぜ、キリスト教の神学者であったエックハルトに注目するか。
上田閑照氏の「エックハルト」の「まえがき」の文を引用しながら、私が注目するわけをご紹介する。
「エックハルトの説く「貧」、一切の修飾なき純粋な(神も場合によっては修飾となりうる)、ほとんど「無」に等しい、ただ「ある」という「貧」に、エーリッヒ・フロムは自我熱によって嵩じる「所有」という人間模様からの脱却を見いだしている。」(1)
エックハルトは、こう説くのである。自我に執著して、自分に所有すると思う「知性」「地位」「名誉」「能力」などを誇り、権力として用い、自他を害し、苦しめることから脱却していくことを仏教も言う。
「「哲学の終焉」のうちで思索するハイデッガーにとってエックハルトは、「古き、学匠にして生の達者」(「古き」とは、「根原近くにあった」ということ)であり、「思索の巨匠」であった。後期ハイデッガーの重要な言葉であるGelassenheitは、エックハルトにおける根本語の一つでもあったLassenからくる。Lassentとは「手放す、捨てる、放下する、捨離する」、そして「捨て切って落ち着いた自由」がGelassenheitである。」(2)
エックハルトは、「手放す、捨てる、放下する、捨離する」と説くのである。仏教も、我執を捨てよ、煩悩を捨てよ、という。修行の微妙な段階に到っては、数息観も捨てよ、坐禅しているという意識も捨てよ(坐禅の行をやめるのではない)。坐禅中のあらゆる標準、快い境地さえも捨てていく。経典にいう壮大な思想、ブッダの言葉(経典)さえも放下していく。すべて捨て切ったとき、無であるところから自由なはたらきが出てくる、自己の根源に落ち着くのも、仏教や禅の悟り、と類似するのである。
「宗教的には我意を捨てることが眼目であるが、エックハルトはその遂行を「友のために、且つ、神のために、神を捨てるとまで言う。「我」(われ)が神を所有するとき、しばしば巨大な「我」(が)となる。教会も民族も国家も人類すらも「集合我」となりうる。」(3)
エックハルトは、我意、神を捨てる。仏教者も、ブッダの言葉(経典)に導かれながら、やがて、その文字に執著せず、文字から離れて(仏をも捨てる)己れ自身がブッダの示したものになりきっていく。なりきれれば、いや、もともと、自分にもあったものと心底自覚できれば、もう、仏も経典も不要である。そこは、仏も経典もない、すべての人の共通の根源と確証しなければ、自分よがり、自我肥大の「大我」に堕する。
だが、文字や思想に執著する者は、個人でも組織(教会、教団、民族、国家)でも、己の解釈を絶対とし、多数の力、権力によって我意をおしとおし、かえって、神や仏が排斥したエゴイズム(我意)を押し通す。そうして、少数の誠実な実践者を排斥し、多くの誠実な信奉者の上に君臨し、精神を操作していく。
「「生の達者」エックハルトは「何故なしに生きる」と言う。「何故」「何のため」ということがあってではない。生は生自身から根源的に滾々と湧き出る、それが「生きる」ということである。ただ「生きるが故に生きる」、それが生々滾々たる生の充溢の単純性である。」(4)
「なぜ生きる」のかは、問う必要はない。生は、すでに与えられている。ただ「生きるが故に生きる」。これも、仏教とは関係が深い。「いかに生きるか」を問うた。「手放し、捨てて、放下して、捨離して」生きる。何かを所有して、自分、他者を害し、苦しめるようには、生きず。
つい最近まで、エックハルトは、キリスト教では、異端者とされていた。教会や神さえも否定するような言葉が見えるエックハルトを、現代のキリスト教徒も理解し、納得賛同することができないかもしれない。しかし、上田閑照氏によれば、ハイデッガーは、エックハルトを理解する。私も、ハイデッガーの「無の根本体験」が禅や仏教の滅尽定、無分別智に通じるものがあると思う。また、詳細に考察するように、エックハルトの言葉は、多く、仏教や禅と通じるものがある。東西の宗教には深いところで通じるものがある、仏教とキリスト教が対話する橋渡しをするのが、エックハルトである。
(注)
- (1)上田閑照「エックハルト」講談社学術文庫、1998年、5頁。
- (2)同上、5頁。
- (3)同上、5頁。
- (4)同上、6頁。
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