もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

 
禅と哲学

なぜエックハルトか

   禅や仏教を研究している者がなぜ、キリスト教の神学者であったエックハルトに注目するか。
 上田閑照氏の「エックハルト」の「まえがき」の文を引用しながら、私が注目するわけをご紹介する。
 エックハルトは、こう説くのである。自我に執著して、自分に所有すると思う「知性」「地位」「名誉」「能力」などを誇り、権力として用い、自他を害し、苦しめることから脱却していくことを仏教も言う。  エックハルトは、「手放す、捨てる、放下する、捨離する」と説くのである。仏教も、我執を捨てよ、煩悩を捨てよ、という。修行の微妙な段階に到っては、数息観も捨てよ、坐禅しているという意識も捨てよ(坐禅の行をやめるのではない)。坐禅中のあらゆる標準、快い境地さえも捨てていく。経典にいう壮大な思想、ブッダの言葉(経典)さえも放下していく。すべて捨て切ったとき、無であるところから自由なはたらきが出てくる、自己の根源に落ち着くのも、仏教や禅の悟り、と類似するのである。  エックハルトは、我意、神を捨てる。仏教者も、ブッダの言葉(経典)に導かれながら、やがて、その文字に執著せず、文字から離れて(仏をも捨てる)己れ自身がブッダの示したものになりきっていく。なりきれれば、いや、もともと、自分にもあったものと心底自覚できれば、もう、仏も経典も不要である。そこは、仏も経典もない、すべての人の共通の根源と確証しなければ、自分よがり、自我肥大の「大我」に堕する。
 だが、文字や思想に執著する者は、個人でも組織(教会、教団、民族、国家)でも、己の解釈を絶対とし、多数の力、権力によって我意をおしとおし、かえって、神や仏が排斥したエゴイズム(我意)を押し通す。そうして、少数の誠実な実践者を排斥し、多くの誠実な信奉者の上に君臨し、精神を操作していく。  「なぜ生きる」のかは、問う必要はない。生は、すでに与えられている。ただ「生きるが故に生きる」。これも、仏教とは関係が深い。「いかに生きるか」を問うた。「手放し、捨てて、放下して、捨離して」生きる。何かを所有して、自分、他者を害し、苦しめるようには、生きず。  つい最近まで、エックハルトは、キリスト教では、異端者とされていた。教会や神さえも否定するような言葉が見えるエックハルトを、現代のキリスト教徒も理解し、納得賛同することができないかもしれない。しかし、上田閑照氏によれば、ハイデッガーは、エックハルトを理解する。私も、ハイデッガーの「無の根本体験」が禅や仏教の滅尽定、無分別智に通じるものがあると思う。また、詳細に考察するように、エックハルトの言葉は、多く、仏教や禅と通じるものがある。東西の宗教には深いところで通じるものがある、仏教とキリスト教が対話する橋渡しをするのが、エックハルトである。

   
このページの本アイコン、ボタンなどのHP素材は、「てづくり素材館 Crescent Moon」の素材を使用しています。
「てづくり素材館 Crescent Moon」