もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
禅と文学
遠藤周作
『沈黙』
宗教の信者は、その教団が尊重している像や絵画を粗末には扱えない。この小説は、マリアの像の踏み絵を踏んだ司祭を描いた。拷問に耐えていたが、「踏むがいい」という神の声を聞いて、ついに踏む。しかし、カトリック教会は「転んだ」として司祭の名誉、権限を剥奪した。神は、絵を踏むということを許さないのか。
神は本当に、人をさばくのか。いや、教団の「人間」がさばくのだ。
日本の宗教にも、教団から抜けようとすると神の罰がくだるようなことをいっておどかす宗教者がいる。そのおどしている人間の心の奥底をのぞくと、信者が減ると、宗教者の収入が減る、教団での地位が下がる、教団での職が失われるのを恐れるという我欲がある。
神は、人間の弱さを知っているはずだ。殺されようとしたり、人間として耐え難いほどの拷問を受けようとするなら、転ぶことを許すはずだ。
遠藤は、自分自身、戦争中に、敵の宗教を信じている、ということで似たような試練にあった。もし、踏み絵をさせられたら、遠藤の母は「踏みなさい」と教えていたのではなかろうか。人間の母でさえ、自分の子供が何度裏切っても、わが子の生命を奪いたいとは思わない。人間の母でさえ、人間の子供を許す。
とすれば、人間の母よりも深い愛を持つはずの神が、小さな裏切りなどで、生命を棄てよなどというはずはない。しかし、踏み絵を踏んだ司祭や信徒は、カトリック教会から追放されてきた。教会は過去において幾つかの過ちを犯したというが、これも過ちの一つかもしれない、遠藤のカトリック批判である。
神ではなくて、人間(教会の聖職者)が許さないのではないか。なぜなのだ。
遠藤はそこに聖職者のエゴ(自我)を見る。おそらく根底に、聖職者の、自分の生命のかわいさ、自己の生活、名誉などの確保、自己の地位、職場の維持などの自分かわいさ(エゴ)がある。『イエスの生涯』『キリストの誕生』『死海のほとり』などで描かれる。
これは、キリスト教団だけではない。仏教教団では、さらにひどいかもしれない。指導的立場にあり、自己洞察に深いと期待される学者にさえも、偏見やエゴイズムが渦巻いている。彼らが僧侶の宗教的境地を「宗祖のものとは違う」と裁いている。だとしたら、多くの僧侶はどうなのか。
『沈黙』では、実際の苦悩を知らぬ者が、苦悩する人間を裁いて、何が愛の宗教だ、という叫びが・・・
戦争の現場の悲惨さを知らず、自分は安全な場所で人を危険に追いやることを計画し、命令する指導者の傲慢さ、卑怯さを糾弾する永井隆博士の言葉があったが、教団にも似たものがある・・・。
闘う神
「(カトリシスムにおいて、)人間は人間しかなりえぬ孤独な存在条件を課せられております。したがって、神でもない、天使でもない彼は、その意味で神や天使に対立しているわけです。たえず神を選ぶか、拒絶するかの自由があるわけです。つまり神との闘いなしに神の御手に還るという事は、カトリシスムではありません。ここにカトリック者にたいする大きな誤解の一つ「君は信仰をもち救われたから、もはやくるしみがない」は 粉砕されるわけです。カトリック者はたえず、闘わねばならない、自己にたいして、罪にたいして、彼を死にみちびく悪魔にたいして、そして神に対して。
それ故、カトリック者の本来の姿勢は、東洋的な神々の世界のもつ、あの優しい受身の世界ではなく、戦闘的な、能動的なものです。彼が闘い終って、その霊魂をかえす時にも、神の審判が待っています。永遠の生命か、永遠の地獄かという、審判が待っています。」(1)
(注)
- (1)『人生の同伴者』遠藤周作・佐藤泰正、新潮文庫、47頁。
殉教は、教会が教えるような荘厳なものではない
教会は、拷問に耐え切れず、踏み絵を踏んだ者を裏切り者と、弾劾し続けてきた。
一方、殉教の時には、天地がふるえたり、荘厳な出来事であるかのように喧伝される。しかし、それは嘘だ。殉教はみじめだ、と殉教の装飾を暴いた。
「「日暗みて、神殿の幕、中より裂けたり」これが、長い間考えてきた殉教のイメージだった。しかし、現実 に見た百姓の殉教は、あの連中の住んでいる小屋、あの連中のまとっている襤褸(ぼろ)と同じように、みすぼらしく、あわれだった。」(1)
神は裁かないのに、教会、司祭が裁く
「教会の聖職者たちはお前を裁くだろう。わしを裁いたようにお前は彼らから追われるだろう。だが教会より も、布教よりも、もっと大きなものがある。お前が今やろうとするのは・・・」(1)
「(裁くのは人ではないのに・・・・そして私たちの弱さを一番知っているのは主だけなのに)と彼は黙って考えた。」(2)
「あなたたちは平穏無事な場所、迫害と拷問との嵐が吹きすさばぬ場所でぬくぬくと生き、布教している。あなたたちは彼岸にいるから、立派な聖職者として尊敬される。烈しい戦場に兵士を送り、幕舎で火にあたっている将軍たち。その将軍たちが捕虜になった兵士をどうして責めることができよう。」(3)
日本では、多くの人が自殺する。厳しい試練にさらされている。だが、僧侶や学者は、「嵐が吹きすさばぬ場所でぬくぬくと生きている」。そこで、不毛の議論・・・。
(注)
- (1)『沈黙』遠藤周作、新潮文庫、217頁。
- (2)同上、239頁。
- (3)同上、222頁。
神は罰しない、威張らない
永井隆もこう言っていた。
「神は人間に天罰を下すためにいるのではない。人間を幸福にするために、人間から目を離さない。」
「「さいわいなるかな泣く人、彼らは慰めらるべければなり」
この慰め手は神である。
神と愛によって直結している人の子は、いつでも神に向かって取りすがり、心ゆくまで泣くことができる。 こうして泣くとき、神から慰められる、その幸福!
たとい、この世の母を失っていても、母にまさる真の愛の親−−神と共にあると、あの子供のころのように 泣けるのである。」(1)
(注)
- (1)永井隆『この子を残して』サンパウロ、82頁。
キリスト教を変質させる風土・日本
日本では西洋そのままのキリスト教は根づかない、と遠藤はいう。
「だが聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日とよぶ信仰に変えていたのだ。」(1)
次は、先に転んだ司祭フェレイラがロドリゴに語った言葉。
「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っ ていない。」(2)
次は、切支丹を取り調べた奉行、筑後守が転んだロドリゴ(小説の主人公、司祭)へ語りかけた言葉。
「根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠には、五島や生月の百姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても似つかぬものになっておる」
「やがてパードレたちが運んだ切支丹は、その元から離れて得体の知れぬものとなっていこう」
「日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ、パードレ」(3)
(注)
- (1)遠藤周作『沈黙』新潮文庫、190頁。
- (2)同上、193頁。
- (3)同上、236-237頁。
新しい自分のキリスト教
絵を踏む。
「その踏絵に私も足をかけた。あの時、この足はへこんだあの人の顔の上にあった。私が幾百回となく思い出した顔の上に。山中で、放浪の時、牢舎でそれを考えださぬことのなかった彼の上に。その顔は今、踏絵の木のなかで摩滅しへこみ、哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」
その時彼は踏絵に血と埃(ほこり)とでよごれた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい喜びと感情とをキチジローに説明することはできなかった。」(1)
聖書の中で、ユダはイエスを裏切った者として描かれている。それは原始教団の解釈である。しかし、イエスはユダを裏切り者とは見ていない、というのが遠藤の発見である。
小説の中の信徒キチジローは踏んだことをうしろめたく思い、苦悩したが、ロドリゴは喜びを得た。
なぜ、二人に差異が生じるか。その問題の取り組み方の真剣さによるのだろう。自分を縛っていたもの(聖書や教会や教義)からの解放と、真に自分を救う神への目覚めであり、イエスの愛を自覚したのだが、これまでに至る理由は、言葉では説明できない。しかし、このロドリゴを教会は裏切り者として切り捨てた。
もはや、パードレではなくなった、ロドリゴのもとに、彼を売り、踏絵も踏んだ男、キチジローが告解を聞いてくれ、といってきた。「罪の許しば与えて下され。」
「この国にはもう、お前の告解を聞くパードレがいないなら、この私が唱えよう。すべての告解の終わりに言う祈りを。・・・安心して行きなさい」
怒ったキチジローは声をおさえて泣いていたが、やがて体を動かして去っていった。自分は不遜(ふそん)にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜(ぼうとく)の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」(2)
「私は転んだ。しかし主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけが御存知です。ーーー
だがそれよりも私は聖職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている。」(3)
「踏むがいい」という言葉は、踏んだ後であるべきだ、という批評があるという(4)。これはどういうことか、よく味わうべきであろう。
(注)
- (1)遠藤周作『沈黙』新潮文庫、240頁。
- (2)同上、241頁。
- (3)同上、223頁。
- (4)『人生の同伴者』遠藤周作・佐藤泰正、新潮文庫、142頁。
遠藤は踏絵を踏む
「曽野綾子さんも前に、踏み絵の前に立たされたら拷問されるのがこわいからすぐ踏み絵を踏んでしまうと言っていたようですけど、私も棄教してもまた信仰し、また踏んでというようなことの連続だろうと思います。それもやっぱり信仰だと思うのです。決して立派な信仰とは思いませんが、私の信仰なんてその程度なんです。」(1)
遠藤周作は、自分は拷問に耐えられないから踏むだろうと言う。
禅者も、釈尊、道元、自分の師の絵でも踏む。釈尊は、依るべきものは、自分と法だといった(自燈明・法燈明)。禅には偶像崇拝はない。真の宗教を知らない者が迫ってくる迫害行為をかわして生命を守るならば、踏むことを神は許す。弱い自分を守る(迫害からも)のが神であるから。
もし、生命があぶないならば、釈尊、道元、自分の師の絵でも写真でも、踏めばいい。真の釈尊や自分の師は、そんな小さいものの中にとじ込められてはいない。生命をながらえて、「真に本質的なもの」を守っていけばいい。
(注)
- (1)遠藤周作『私にとって神とは』光文社文庫、197頁。
「事実」を違って解釈
牢獄に閉じ込められた司祭ロドリゴ。ある音が聞こえてくる。いびき、だと思った。しかし、そうではなかった!・・・。
人は同じ「事実」を見たり、聞いたりして、違う解釈をして、違う行動をするものである。同じ文字を見ても、自分の経験と好き嫌いで、違って解釈する。
「遠くで何か声がする。二匹の犬が争っているような唸り声で、耳をすますとその声はすぐ消え、しばらくして、また長く続いた。司祭は思わずひくい声をたてて笑った。だれかのいびきだとわかったからである。」(1)
「おや、いびきがまた聞こえはじめた。・・・・(中略)・・・・
だが、自分の人生にとって最も大事なこの夜、こんな俗悪な不協和音がまじっているのが不意に腹立たしくなってきた。・・・・(中略)・・・・司祭はさらに烈しく壁をうち始めた。
閂をはずす音がする。誰かが遠くから急ぎ足でこちらに近づいてくる。「どうしたな。どうしたな。パードレ」
通辞だった。あの獲物を弄ぶ猫のような声で、
「怖ろしゅうなったな。さあさあ、もう強情を張らずともよいぞ。ただ転ぶと一言申せばすべてが楽になる。張りつめていた心がほれ、ゆるんで・・・楽に・・・楽に・・・楽になっていく」
「私はただ、あのいびきを」と司祭は闇の中で答えた。
突然、通辞は驚いたように黙ったが、
「あれをいびきだと。あれをな。きかれたか沢野殿、パードレはあれをいびきと申しておる」
司祭はフェレイラが通辞のうしろに立っているとは知らなかった。
「沢野殿、教えてやるがいい」
ずっと昔、司祭が毎日耳にしたあのフェレイラの声が小さく、哀しくやっと聞えた。
「あれは、いびきではない。穴吊りにかけられた信徒たちの呻(うめ)いている声だ」」(2)
(注)
- (1)遠藤周作『沈黙』新潮文庫、206頁。
- (2)同上、210-211頁。(大田註:沢野はフェレイラが転んだ後の日本名)
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