もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
禅と文学
遠藤周作
『母なるもの』(短編小説集)(1)
これは、八つの短編小説を収める。そのうちの一つが『母なるもの』である。日本人の求める宗教心は、裁く(さばく)絶対者でもなく、自己の知性に絶対の自信を持つ者が解釈してみせる思想でもない。
『母なるもの』
主人公の、「私」は、カトリック作家。隠れキリシタンのいる島にたずねていく。彼らは納戸神として秘密裏に礼拝していた像を持っていた。信者以外には、誰にもみせたことのない像を、役場(中村助役)の人と、現代のカトリックの信者である次郎さんに案内されていって、今も隠れの信仰を持つ人の家をたずねていった。助役の強い要請でみせてくれたものは・・・・・。
「キリストをだいた聖母の絵−。いや、それは乳飲み児をだいた農婦の絵だった。・・・・この島のどこに もいる女たちの顔だ。私はさきほど頬かむりをとって助役さんに頭をさげていたあの母親の顔を急に思い出した。次郎さんは苦笑している。中村さんも顔だけは真面目を装っていたが、心のなかでは笑っていたにちがいない。」(1)
「にもかかわらず、私はその不器用な手で描かれた母親の顔からしばし、眼を離すことができなかった。彼等はこの母の絵にむかって、節くれだった手を合わせて、許しのオラショを祈ったのだ。彼等もまた、この私と同じ思いだったのかという感慨が胸をこみあげてきた。昔、宣教師たちは父なる神の教えを持って波濤万里、この国にやって来たが、その父なる神の教えも、宣教師たちが追い払われ、教会がこわされたあと、長い歳月の間に日本のかくれたちのなかでいつか身につかぬすべてのものを棄てさりもっとも日本の宗教の本質的なものである、母への思慕に変ってしまったのだ。私はその時、自分の母のことを考え、母はまた私のそばに灰色の翳のように立っていた。ヴァイオリンを弾いている姿でもなく、ロザリオをくっている姿でもなく、両手を前に合わせ、少し哀しげな眼をして私を見つめながら立っていた。」(2)
自分の心は醜い。しかし、母の愛は、子の心がいかに醜いものでも無条件に、無限に許す。
作者は、現代のカトリックよりも、隠れの信仰に近いものを感じている。そして、「日本の宗教の本質的なもの」は、「母なるもの」だという。
遠藤のキリスト教は、現代のカトリック教会が教えるキリスト教とは、異質のものであった。次郎さんも主人公や遠藤を理解しない。
「「馬鹿らしか。あげんなものば見せられて、先生さまも、がっかりされたとでしょ」
部落を出た時、次郎さんは、それがいかにも自分の責任のように幾度かわびた。」(3)
(注)
- (1)遠藤周作『母なるもの』新潮文庫、平成9年、28刷、48頁。
- (2)同上、48頁。
- (3)同上、49頁。
『小さな町にて』
日本の風土には父なるキリスト教は育たない
短編『小さな町にて』では、原理主義的、教条主義的な教会が描かれる。また、同じ仏像が、司祭の心が変化していくにつれて、違ってみえてくるのが描かれている。
同じ聖書でも、読む人の心が変われば、違って解釈されるわけだ。仏教の経典でも、読む人の心に何かがあれば、違って解釈される。
「もし、宗教を大きく、父の宗教と母の宗教とにわけて考えると、日本の風土には母の宗教−つまり、裁き、罰する宗教ではなく、許す宗教しか、育たない傾向がある。多くの日本人は基督教の神をきびしい秩序の中心であり、父のように裁き、罰し怒る超越者だと考えている。だから、超越者に母のイメージを好んで与えてきた日本人には、基督教は、ただ、厳格で近寄り難いものとしか見えなかったのではないかというのを私は序論にした。」(1)
日本人は、虚栄心に弱い。精神科医の粟野菊雄医師が、カウンセラーの組織が、全能者、プチ全能者で構成されていれば、真のカウンセリングにはならないと警告されているが、日本人は、この傾向に弱い。宗教教団は、この虚栄心、名誉、肩書を求める日本人の心を利用する。プチ全能者の階層をつくる。道元禅師は、名聞利養を求める心を厳しく批判しているから、もちろん、鎌倉時代からあった日本人の傾向なのであろう。
「連中に、その権限を奪わずにそれぞれ役目を続けさせ、その虚栄心を充たしてやればよいと言うのだ。」(2)
まことのオラショ、まことの信仰
開港した長崎にきた宣教師が、隠れキリシタンをみつけて、彼等のとなえているオラショは、正しくない、というと、隠れキリシタンは、反論する。形式的に教会が定めたオラショを正しく唱える司祭と、形式は違っているが、生活の中で心から唱えるオラショとどちらが、イエスの心にかなうのか。・・・
「お前さまのオラショはまことのオラショではなか」(3)
「お前さまの話はまことのゼウス様の話ではなか、わしらのオラショは父さまや爺さまが畠ば耕し、舟こぎな がら、心の底から唱えとったオラショじゃぞ。お袋さまが、わしらばだきながら唱えとったオラショじゃぞ。」(4)
飛躍するが、日本人は、学者たちが一人よがりな文字の解釈で無味乾燥な思想を「これが正しい仏教だ。禅だ。」と言い張り押し付ける学問仏教、学問禅を信じない。人は、生活の中で心からうなづけるものでしか安心を得ない。自分の弱さ、醜さを自覚する者は、「正しい学問」には寄り付くことができない。
(注)
- (1)遠藤周作『小さな町にて』(『母なるもの』新潮文庫、平成9年、28刷、68頁。)
- (2)参照=
全能者、プチ全能者=精神科医の粟野菊雄医師の言葉。
- (3)遠藤周作『小さな町にて』前掲書、82頁。
- (4)同上、83頁。
『学生』
誠実な信徒を殺す苛烈なキリスト教
短編『学生』。昭和二十五年、四人の学生がカトリック神父の努力により、フランスに留学した。そのうちの、一人は、私(遠藤周作)。そのうちの一人、田島は、修道院でも苛酷な農作業に健康を害して死んだ。その激しい労働と厳しい戒律を課した結果、殺されたようなものである。このような実直な信者を生かして、この世に生を受けた喜びを与えてやることはできないのだろうか。
解説者の藍沢鎮雄氏は、「無垢の日本人キリスト者すらも苛烈に押しつぶす西欧の父なる超越者はたいへん衝撃的である」(1)といっている。
キリスト教の中にも隔離された場所で、厳しい生活を送る人々がいる。『学生』で遠藤が紹介するカルメル会の修道生活の厳しさは・・・・
「冬でも一枚の下着とサンダル一つしか持てないのか。それに昼は百姓仕事をするのか」(2)
ほかに、外部に手紙を書いてはいけない(3)、外部の者とは面会禁止(4)、院長の許可により、3時間待たされて、5分間だけ面会を許された(5)など、厳しい。さらに。
「体力が追いつかないんだよ。ここの生活に」草の葉をちぎりながら田島は「精神力で頑張ろうと思うんだけど、何しろ、毎晩、眠れないもんだから。たとえば蚤(のみ)がすごくいるんだ。それも十匹や二十匹じゃない。寝ると同時に襲ってくるんだ。ぼくは朝がたまでドアにもたれて立ったままで寝るんだよ。一晩中、疲れて」(6)
「なぜ、上の人に言ってD・D・Tをもらわないんだ」
「それが駄目なんだ。それもここでの修業の一つだと叱られた。でも他の人の部屋より俺の部屋のほうがすごいんだ」
「ぼくだって、他のことは頑張ったんだけど。たとえば、冬、この山道をサンダルもはかずに歩かされるだろ。足が血だらけになっても、そんなことはやりぬいたんだ。労働だって、決してなまけたりしなかったし・・・・」(7)
「帰国して一年目、私は田島が結核の手術をトゥールーズの病院で受けたあと死んだというニュースを聞いた。それを電話で知らせてくれた彼の母堂は受話器のむこうで泣いていた。」(8)
『母なるもの』の解説者藍沢は、こういう。
日本の、「神なき人間の悲惨さ」「罪意識の欠落」と、
キリスト教の「父なる超越者の下では背教はすなわち救いの喪失である。」(9)
神や宗祖の言葉を利用して美しいことをいいながら、組織ではどこでも、神にかわり、神なき人間が全能者、プチ全能者として、傲慢にふるまい、罪の意識なく、組織にしがみつく哀れな子羊を内心では軽蔑し、差別し、あやつるという構図が成立しやすい。禅、仏教研究とて、同じ危険がある。
(注)
- (1)遠藤周作『母なるもの』新潮文庫、平成9年、28刷、229頁。
- (2)遠藤周作『学生』(『小さな町にて』前掲書、107頁。)
- (3)同上、110頁。
- (4)同上、120頁。
- (5)同上、120頁。
- (6)同上、122頁。
- (7)同上、122頁。
- (8)同上、126頁。
- (9)同上、229頁。
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