もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
禅と文学
遠藤周作の宗教批判(2)
裁く神でなく苦を分かつ同伴者
遠藤周作は、一部のキリスト教者(一部の教会、神学者)がいうようなイエスではなくて、新しい解釈をしている。聖書の解釈が違うという。それは、仏教経典が、違うように解釈されるのと、同様の現象が起こっていることになる。違う解釈によって、多くの人々が断罪され、追放され、処刑されたこともある。宗教におて聖書、経典の解釈は、学者によって行なわれるが、解釈によっては、学者の浅い解釈によって、深く誠実な宗教者が裁かれて、学者が罪を犯したことになる。そういうことが仏教にもある。
宗教者も絶対者ではない。過ちを犯す弱い者であるという自覚が必要である。しかるに、宗教者が神の名を使って、人を裁き、不幸に追いやったり、殺人指令を出すという罪さえ犯す。神は裁くのではなく、苦しい人が救われるはずのものだ。各種の宗教者こそ、自覚されにくいエゴイズムに気がつき、宗教間、民族間の争いを除いてくれないと困るのだ。それは、学者にもいえる。世間の人は学者のいうことを尊重するからだ。それが、自覚されないエゴイズムに汚れていたら、己ばかりでなく、多くの他者が罪を犯す。影響が大きい。
遠藤の新しい解釈を、その小説でみよう。イエスその人はどんな人であったか、また彼とかかわった人がいかに愚かであったか、その愚かさによる過ちは、その後の教会の聖職者にも繰り返されたことを遠藤は描く。その争いに傷つき、過ちに気がついた人々が、その心にイエス愛の姿を復活させた。永遠の同伴者として。
『死海のほとり』
『イエスの生涯』
『キリストの誕生』
『深い河』
『死海のほとり』
小説『死海のほとり』では、私が学生時代の友人戸田と、イエスの足跡をたずねてイスラエルを「巡礼」する現代の話が続く。それと並行して、イエスの時代にイスラエルに住んでイエスとかかわった人(信徒と迫害者)の出会いの物語りが進行していく。彼らは、みな、イエスを違った目で見ており、どの人も、何か自分のもの(地位、生命、など)を守るために、イエスを見殺しにする。
○すべての人の同伴者
一人病気で寝ていたアルバヨのそばに、イエスはついていてくれた。この小説でも、神は裁く神ではなく、「永遠の同伴者」であるという面が描かれる。
◆「高熱にうなされてアルバヨが悲鳴とも絶叫ともつかぬ声をあげる時、あの人は小さな声で言った。「そばにいる。あなたは一人ではない」あの人が彼の手を握ってくれると、苦しみはふしぎに少しずつ減っていくような気がした。」(D84)
◆「彼はただ神はさびしがりやで、人間が自らを慕ってくれるのを待っているのだと言った。神は母を必要としない学者や祭司たちや人生に自立できる善人を求めているのではなく、泣きじゃくりながら歩いている人間を母親のように探しているのだと語った。」(D229)
○我欲で偉人を殺す
イエスが捕らわれた。イエスを迫害する側の百卒長は、群衆のおろかさを冷ややかに見ていた。彼もイエスを見殺しにした。
◆「広場の周りにも、それを囲む家々の窓にも、ユダヤ人の無数の顔がこちらを眺めている。そのなかには女もいた。老人もいた。母親にだかれた赤ん坊もいた。どの顔も白痴のように口をあけて、大きな貝殻を背負ったような囚人の動きを見おろしているが、誰一人として助ける者はいなかった。こいつらはどの時代にもどの国でも同じだと、百卒長は一瞬だが思った。」(D308)
◆「群衆はいつも見世物を楽しむ。あの男の処刑が次の見世物だ」(D298)
『海と毒薬』の昭和でも、オウムの現代でも、現実にあったが、どの時代にも、多くの組織の中で、自己保身のために、他人を見殺しにし、いけにえにしている出来事はざらにある。
宮沢賢治がいう「まっくろい大きなもの」。時として、愚かになる我々大衆。すべての人が、ある時、ある環境下では、こうなるおそれがあるという人間の弱さ。すべての小説で遠藤はそんな愚かな人間の「我執」を描く。
○さげすまれたねずみにも神が
学生時代に寮の舎監の手伝いをしていた、ねずみというあだなをつけられた修道士(コバルスキ)のことが気になり、私は、その足跡をたずねていった。多数のユダヤ人を虐殺したナチスの収容所でガス室に送られるのを他の人に変わって自分が先でいいと、申し出る神父。自分に配給されたパンを他の人に与える神父、そんな人たちもいたが、卑怯者とさげすまれていた「ねずみ」は、神が見捨てるのではないか、と私は思った。しかし、
◆「だが、ねずみ型の人間は・・・ねずみ型の人間は、どうもがいてもそんな真似はできぬ。世界には、イエスがどうしても見棄てる人間がいるのかもしれぬ。」(D290)
コバルスキの最後を知っていた人からの手紙で私は、ねずみがガス室に送られていった時の様子を知った。
◆「コバルスキはよろめきながらおとなしくついていきました。その時、私は一瞬−一瞬ですが、彼の右側にもう一人の誰かが、彼と同じようによろめき、足をひきずっているのをこの眼で見たのです。その人はコバルスキと同じようにみじめな囚人の服装をしてコバルスキと同じように尿を地面にたれながら歩いていました・・・」(D345)
もう一人の人は同伴者イエスだろう。裏切り者のように他者から弾劾されていたコバルスキにもイエスは同伴してくれていた。コバルスキは自分の弱いことを知っていたが、それゆえ彼もイエスを必要としていたのであろう。教会の司祭のように弱い人を裁くような強い人は、神を知らないのである。逆なのである。神の問題は、他人に押し付ける問題ではない。神を必要とする人が心で神と対話して救いを得るべき自己の問題である。従って自分の神の名で他人を裁いてはならない。裁くのは、すべての宗教から中立の政治であるべきである。
『イエスの生涯』
遠藤は、聖書学や歴史学が提供してくれた資料を駆使して、彼自身の視座からキリスト像を描いた。彼が浮き彫りにしたイエスは、世俗的には無力だが愛の人であり、「永遠の同伴者」のイメージであった。イエスは自分を神格化しなかった。
無力であったイエス
イエスは「奇蹟」を起こさなかった。世俗的なことでは、「無能力」であった。
◆「現実にイエスはその力を何も見せはしなかった。彼は他の罪人たちよりももっと惨めな、もっとひどい死に方をしただけだった。弟子たちは地が震え、天幕が裂け、空が暗くナル神の威嚇を待ち望んだが、現実には空は相変わらず白く、雲間から鈍い陽が洩れ、エルサレムの街では人々や家畜の声がざわめいているだけで、それはいつもとは少しも変りない午後だった。」(B190)
◆「だが我々は知っている。このイエスの何もできないこと、無能力であるという点に本当のキリスト教の秘儀が匿(かく)されていることを。そしてやがて触れねばならぬ「復活」の意味もこの「何もできぬこと」「無力であること」をぬきにしては考えられぬことを。そしてキリスト者になるということはこの地上で「無力であること」に自分を賭けることから始まるのであるということを。」(B178)
○永遠の同伴者
人間が求めているのは、「奇蹟」でも「裁く神」でもなく、「母のような同伴者」だという。イエスはそのような愛の同伴者だった。
◆「だがイエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は、彼等を愛する者がいないことだった。彼等の不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独感と絶望がいつもどす黒く巣くっていた。必要なのは「愛」であって病気を治す「奇蹟」ではなかった。人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。自分の悲しみや苦しみをわかち合い、共に泪(なみだ)をながしてくれる母のような同伴者を必要としている。」 (B95)
◆「それらの人間たちの苦しみを分かちあうこと。一緒に背負うこと。彼等の永遠の同伴者になること。そのためには彼等の苦痛のすべてを自分に背負わせてほしい。人々の苦しみを背負って過越祭の日に犠牲となり殺される子羊のようになりたい。」(B104)
◆「洗者ヨハネ教団の持つ暗い禁欲的なイメージは拒絶され、そして彼等の考える裁く神、怒る神、罰する神ではなく、愛の神、神の愛がイエスの心に既に、生まれていたからである。」(B67)
『キリストの誕生』
イエスは信徒によって様々に解釈
みじめな死に方をしたイエスが、後になぜ信仰されるようになったのか、そのなぞを追って、『キリストの誕生』を書いた。遠藤は、聖書や神学書や歴史書を幅広く検討して、イエス死後の信徒たちが、どのようにしてイエスの教えを守ろうとし、苦しみ、あるいは裏切り、対立しながら、イエスをキリストとして神格化していった。 イエスは弟子からも理解されなかった。弟子はすべてイエスを裏切った。イエスの死後、イエスの教えに気がつき、後悔した弟子が、イエスの教えを布教した。しかし、その初期教団の歴史は、その信徒たちが、自分たちの求める理想(あるいは欲)と生活が違うため、キリスト教徒同志で、イエスの教えの理解の相違から対立、争い、裏切りの繰り返しであった。
◆「エルサレム教会の保守派はポーロのキリスト教を全面的に承認しなかったし、ポーロもポーロで自分のキリスト教を固執して妥協しなかった。」(H161)
人間の条件
次は『キリストの誕生』の終わりに近いところで、遠藤は、人間は、「同伴者」を求めるものだという。
◆「人間がもし現代人のように、孤独を弄(もてあそ)ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処(どこ)かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。
だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。」(H250)
それぞれの人間が、求める「同伴者」の理想像なのだ。
◆「その切ない願いにイエスは生前もその死後も応(こた)えてきたのだ。キリスト教者はその歴史のなかで多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ。」(H250)
『深い河』
遠藤周作の最後の小説『深い河』。成瀬美津子は、カトリック系の大学の学生時代に空虚感を覚え、いいかげんな生活を送っていた。いつもチャペルで礼拝していた大津を好きでもないのに、からかうつもりで誘惑する。
大津は本気になったが、美津子は遊びだといい、去る。大津は神父になるためにフランスの修道院に勉強に行く。その後、美津子は結婚したが、新婚旅行中に、フランスで大津に会う。彼女は夫を本気で愛することができない。彼女は何が欲しいのかわからない。
一方、大津はフランスにとけこめないでいた。美津子は後、離婚した。大津は、神父になる試験で「神は他の宗教にもおあられる」と言って不合格となった。やがて修道院におられなくなり、インドに行く。インドの仏跡旅行に美津子が参加して、大津に会う。
神はキリスト教だけにあるのではない
神は、キリスト教徒だけに、いるのではない。どの宗教にもいる。これが遠藤周作の結論である。もちろん、無宗教の人にもいる。芸術家にも農民にも。
◆「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のな かにもヒンズー教の信者にも神はおられると思います」(A196)
次は、仙台藩からヨーロッパに派遣された支倉常長をモデルにした小説『侍』の一節である。
◆「イエスはあの金殿玉楼のような教会におられるのではなく、このみじめなインディオのなかに生きておられる。」(M177)
結局、神は人間を通してしか在を表現できない。どの時代にも、どこの国にも、どこの宗教にも、神の働きを実現した人が現れる。教会や教団の聖職者でないところに現れることも多い。
宗教者が殺し合う
宗教は、人の苦悩を救うものであって欲しいが、現実には、宗教ゆえの争い、殺し合いが日本にも世界にも多い。遠藤は『侍』で、カトリック内のポーロ会とペテロ会の争いを描く。『深い河』で、次のように言う。
◆「日本人の彼はこの国でヒンズー教徒やシーク教徒が争う背景も事情も全く知らぬ。結局は宗教でさえ憎みあい、対立して人を殺しあうのだ。そんなものを信頼することはできなかった。今の彼にはこの世のなかで妻への思い出だけが最も価値あるものに思えた。」(A305)
◆「時折、喧騒が町から伝わってくる。ヒンズー教徒がシーク教徒を襲っているのかもしれぬ。それぞれにおのれが正しいと信じ、自分たちと違ったものを憎んでいるのだ。復讐や憎しみは政治の世界だけではなく、宗教の世界でさえ同じだった。この世は集団ができると、対立が生じ、争いが作られ、相手を貶(おとし)めるための謀略が生まれる。戦争と戦後の日本のなかで生きてきた磯辺はそういう人間や集団を嫌というほど見た。」 (A307)
そのような対立を宗教者はやめようというと、その人は教団からほうり出される。
◆「対立や憎しみは国と国との間だけではなく、ちがった宗教との間にも続くのだ。宗教のちがいが昨日、女性首相の死を生んだ。人は愛よりも憎しみによって結ばれる。人間の連帯は愛ではなく共通の敵を作ることで可能になる。どの国もどの宗教もながい間、そうやって持続してきた。そのなかで大津のようなピエロが玉ねぎ(神)の猿真似をやり、結局は放り出される。」(A316)
教会の過ち
ロドリゴは教会からそむかれて初めて、教会の、自分の過ちを自覚した。次のような過ちを犯す教会の聖職者には神はいないのだ。教会の自覚されにくい過ちを遠藤は他にも数多く指摘している。
◆「私の傲慢さと虚栄心とは今日まで多くの人を歪め、傷つけて参りました。私は神の御名をかりておのれの虚栄心をみたそうとしたのです」
「私は神の御意志を自分の意志と混同いたしました」
「私はおのれの征服欲と虚栄心とに気づかず、それを神のためだと自惚れていたのです」(M408)
この自覚されない過ちは、宗教者にも無宗教者にも現れる。飛躍しすぎるが、悟ること、解脱を否定する学者には、同様の過ちがあり、自覚されていないと思う。
◆「社会道徳を守っている人間の心には、自己満足、偽善、他人を裁く、そういう宗教倫理からみると、汚ならしいものが生じているはずです。その汚ならしいものにわれわれは往々気づかないのですが、しかし神の光の中でそれがはっきえい浮かびあがることがあるでしょう。」(E180)
深い河
何かを求めてわからなかった美津子は、インドに来て自分のさがしていたものが深い河であったことに気がつく。そして、大津はヒンズーの人々の中で黙々と働いていた。さがしていたものは、エルサレムでもローマでもなく、インドで気がつかせてくれた。
ガンジス川には、死体が流される。すぐそばで信仰を持つ人が沐浴する。死も生も受け入れて流れていくガンジス川。二つの対立するものをさらに包む大きな世界が存在する。「インドへ行くとそれが感覚的にわかってくる」(F21)。私たちすべての人が、善も悪もすべて包みこむ大きないのちの中にあって、かつ一人一人がそのような大きく包むこころを持つ。私たちのこころも美醜、善悪を共に包んで受け入れている。求めるものは、よそにあるのではなくて、我々すべてのこころの奥底に存在していたのである。
◆「ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎ(神)を考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。玉ねぎという愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます。」(A302)
◆「でもわたくしは、人間の河のあることを知ったわ。その河の流れる向こうに何があるか、まだ知らないけど。でもやっと過去の多くの過ちを通して、自分が何を欲しかったのか、少しだけわかったような気もする」(A342)
人間の底にあるエゴイズム
一部の宗教者や信者は、無意識に、イエスやその宗教の教祖の精神を忘れて、イエスや教祖が批判した形式、儀礼、戒律を作り、それを強制し、他人を縛り、他人を裁く。神ではなく、「教会」「教団」の人間が裁く。このエゴイズムには、その団体に属しているとなかなか気がつかない。他の宗教教団が別なことを主張していて、不愉快であり、絶対に受け入れられないと思うであろう。その同じ過ちをしていることをなぜ、自覚しないのだろうか。人間の教祖、法皇、聖職者は絶対者ではない。人間は過ちを犯す弱い存在であることを自覚していなければならない。「私は救世主である」「ブッダの生まれかわりである」という人間は神から、ブッダから最も遠い人間であろう。学者が「私の解釈は絶対である。」と思うのも傲慢である。不遜、傲慢、虚栄心。過去の歴史において、そのような宗教独裁者のエゴゆえに多くの争い、殺し合い、いやがらせが起こった。おそらくどの宗教にも属していない人からみれば、宗教者が勝手にエゴを主張している様子がよく見えるであろう。しかし、他人事ではすまされない。社会は、そのような巨大な宗教の論理で動いている。作家の灰谷健次郎氏は、こう言う。
◇「それにしても深く思う。民衆は賢くならなければならない。なにかに躍らされる愚鈍な民衆にだけはなりたくない。」(『フォーカス』九七年七月一六日)
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