禅と日本文化
宮沢賢治
『銀河鉄道の夜』
『銀河鉄道の夜』は、多くの評論家によって、その主題は、自己犠牲を媒介としてのユートピア構想、死後の世界、死と再生、など多くの解釈がされている。私は宗教批判であると解釈します。別に論じるように、宮沢賢治は、他の多くの童話でも詩でも、社会のエゴイズムを批判しているからです。社会のエゴイズムを批判すべき宗教が堕落しているので、特に宗教への批判が賢治作品の根底に流れています。
『銀河鉄道の夜』だけに、宗教批判がない、と読むわけにはいきません。以下の各項目について私の解釈を裏付ける資料を数多くありますが、ここでは根拠となる証拠はごく一部提示します。結論だけをご紹介する項目もあります。
ここにご紹介したのは、実際にこの童話を読んだことがないと理解できないでしょう。まだ読んでおられない方は、この際、ぜひお読み下さい。賢治を見直すことになると思います。この童話は、ジョバンニという主人公の学校生活や友達の様子が描かれて、間に彼の夢(または幻想)の中で「銀河鉄道」に乗っていく部分がはさまっています。ここでは、中心部分の「銀河鉄道」の部分だけの解読をご紹介します。
『銀河鉄道の夜』は宗教批判
天気輪の柱
死んだ文字をいじくる宗教学者
宗教でも様々なレベル
鳥をとる男、軽薄な宗教者
ジョバンニの切符は何か
一方通行、不退転
サウザンクロス、本当の神さまとは
カンパネルラの下車とジョバンニの孤独
第三次稿に秘密を解く鍵
『銀河鉄道の夜』は宗教批判
賢治は、ほんとうの宗教とは何かを追求し、そしてそれにはずれた宗教を批判しています。『銀河鉄道の夜』は各種宗教の優劣づけ、すなわち賢治のめざす宗教以外の宗教を並べて批判したものであると思います。では、この童話に出てくる重要な事項について解読いたします。
天気輪の柱
(課題)ジョバンニが昇った丘の上に「天気輪の柱」があります。これは何か?
「そのまっ黒な、松や楢(なら)の林を越えると、にわかにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へわたっているのが見え、また頂の天気輪の柱も見分けられたのでした。」(新潮文庫170頁)
「天気輪」とは何か、ということについての種々の解釈があります。「ブリューゲルの柱」説、(処刑場を囲んでいる柱)という説(別役実)、「太陽柱」説(太陽が細長く見える現象)、「宝塔説」(法華経に出てくる宝塔)などの解釈がされています。
私は、上記のどれにも同意しませんが、宝塔説は近い。
●天気輪は五輪塔、仏性、心
結論をいいますと、賢治の「天気輪」は、具体的には、「五輪塔」であり、それは仏教の「塔」であると解釈します。塔は、仏教では、「よくととのえられた心」「仏性」「清浄心」=すべての人の真の自己、の象徴です。
「塔」は人の本質、永遠の如来から賜ったもの。
▽私の説の根拠を二、三あげます。
賢治の詩の中に、「この青ぞらの淵の立つ/巨きな菓子の塔こそは/・・/あらゆる塵やつかれを払ふ/その童心の源である」という詩で、塔は「童心の源」であることがわかります。
『晴天恣意』という詩を読んでみると、五輪峠の上の雲=仏頂体=高貴な塔=大塔婆という構造になっています。 『病技師』という詩を見ると、最初の草稿では「五輪塔」という語句が後に「天気輪」に書き換えられています。
法華経に「法輪を転ず」(仏法を説法する)という言葉がある。五輪とは地水火風空の五つである。賢治は五輪塔を天気輪と言い換える時、転法輪=転五輪=>転空輪=>天気輪として、独特の「天気輪」という言葉を作ったのかもしれません。仏教の匂いを衣の中に包んだのです。
ジョバンニが丘の上で行ったのは、「転空輪」だった。賢治の詩に「五の空輪を転ずれば/常楽我浄の影うつす」というのがある。ジョバンニは、法華経(=仏教=禅)の真髄に触れた。これが賢治の舞台設定ではないでしょうか。
○法華経の塔
賢治が信仰した法華経に、あらゆるところに塔を立てよ、という言葉がでています。
「もしは経巻所持のところ、もしは園中においても、もしは林中においても、もしは樹下においても、もしは僧房においても、もしは白衣の舎(いえ)にても、もしは殿堂に在っても、もしは山谷曠野(こうや)にても、この中に皆まさに塔を起てて供養すべし、ゆえはいかん、このところは即ちこれ道場なり、諸仏ここにおいて阿褥多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得、諸仏ここにおいて法輪を転じ、諸仏ここにおいて般涅槃したもう。」(神力品)
法華経は、あらゆるところに塔を建てよ、というが、本当に「あらゆるところに」たてるためには、自分、自分はあらゆるところにあるから、自分自身を塔にするしかありません。自分=あらゆるもの、ところ=塔。禅者はこれを有形の建物、木造、石造の建造物とはとらず、禅定の心を保つことを象徴していると解釈し、実践する。我をたてず禅定にあるこころは、あらゆるものを、生み出す源泉であり、どこも人間の本質の仏性ただひとつしかない。それが塔です。
プリオシン海岸
(課題)白鳥の停車場でおりていくと、白い岩の上で過去の遺物を発掘している学者と助手がいる。このあたりは黒いクルミが沢山でる。これらで賢治は、何を象徴したのでしょうか。
(参考)賢治には厳しい学者不信がある。賢治は文字を研究するだけの学者を激しく批判する。
「これからの本当の勉強はねえ/テニスをしながら商売の先生から/義理で教はることではないんだ」
「じぶんだけで面白いことをしつくして/人生が砂っぱらだなんていふにせ教師も/・・・/そいつらみんなをびしゃびしゃに叩きつけて/それらをみんな魚や豚につかせてしまへ」
「学者なんどが半分の研究で本当の生活へ物を云ふことじつに生意気です。」
●死んだ文字をいじくる宗教学者
銀河鉄道という真のさいわいに至る道は、修羅の生活のすぐそばにあります。しかし、この分野は学問だけでは到達しえないものであり、自分で実践しなければだめです。学者のやっていることは古代の人が書いた文字を詮索しているだけであり、それは真実から遠く離れていて、死んだものです。学者、僧侶、在家宗教の指導者は全く道を実践していません。鉄道の話をしながら自分では全く乗っていない。そう賢治はいいたいのです。
▽化石、黒い文字ではだめ
根拠を少しあげます。プリオシン海岸は、花巻市内の「イギリス海岸」がモデルといわれ、今でもパタグルミの化石が出土するということです。『煙』という詩に、「青白い頁岩の盤で/尖って長いくるみの化石をさがしたり」という言葉があり、友人保阪あての手紙で化石ではだめだといっています。
「あなたと均しく数々の淋しさを私は感じます。保阪さん。化石しては我々はもう進めなくなりますから化石しないで下さい。」
『名声』という詩では、「黒き活字をうちねがはざれ」と言っています。
禅では学僧などが経典理解だけですまし、全くその精神を実践しないことを厳しく批判し、学問だけでは仏道を得られないと、繰り返し主張しています。以上の参考資料から、賢治は、こう言いたいのだと思います。化石は死んだものだから、生きた問題、人間とは自分とは、本当のさいわいとは、何かという問題には役にたたない、ということです。
乗り降りする人が多い
ジョバンニたちは、黒い遺物には興味がなく、また鉄道に乗って先へいく。汽車には、生きた鳥を押し葉にして商売にする男が乗って来る。汽車からは沿線に、ところどころ十字架が見える。それぞれ自分の好きな十字架のところで鉄道を降りていく。最後までいくのはただ一人。
証拠となる言葉などは省略して、重要な事項の結論だけをご紹介する。
十字架
●ジョバンニたちが汽車から外を眺めていると、十字架が何度か見える。賢治は何のつもりで何度も十字架を出すのだろうか。
1、銀河ステーションを出てしばらくして、島に十字架が見える。
2、鷲の停車場も過ぎて、時計のある停車場のあるところに十字架。
3、サウザンクロスの停車場のあるところで、大勢の人々が降りていったところに。
●宗教でも様々なレベル
銀河系の白鳥座は北の十字星と呼ばれている。先の方には、南十字星の駅がある。十字架はキリスト教のシンボルである。「銀河鉄道の夜」には、全編を通じて、宗教、神の問題をテーマとする意図がある。
十字架はキリスト教のシンボルであるが、キリスト者にも様々なレベルがある。聖書解釈だけの神学者で自らは神を信じていないもの、実利面だけで信じているもの、自己犠牲的精神がキリスト教だと思うもの、・・・・それぞれみな自分こそ、正当なキリスト者だと思う。これが賢治が、各所に十字架を置いた意味である。そこで降りていく人、住み着いているグループがいる。
これはキリスト教だけに限らない。経巻、仏像、教祖、ご本尊などシンボルを持つ宗教(いわゆる禅宗教団も)はすべて同じことが言える。伝統の禅は、一切のシンボルを持たない。ジョバンニはそのようなシンボルのないところまで行く。
ハルレヤ、ハルレヤ
●次のような場面がある。
「その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳(い)たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした。「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。」 (177頁)
○サウザンクロスでも、十字架を見た人々が「ハルレヤ」と唱える。
賢治は、なぜ、「ハレルヤ」とせず、「ハルレヤ」としたのか。
●これも難解である。評論家たちも、意味不明とさじをなげている。
「賢治は「ハレ」とまで書いたところで「レ」を抹消して「ルレヤ」ト続けているところから、これはたんなる誤りではなくて意図的であったと考えられる。」(新潮文庫の注)
「賢治がなぜ、「ハルレヤ」としたのかは不明である。」(別冊太陽『宮沢賢治』81頁)
●賢治はキリスト教にも批判的だったといます。だからクリスチャンらしい青年の神についてジョバンニは激しく否定しています。ハルレヤというのは、キリスト教に限らないということです。「ナム−−−」だって同じだ、と賢治はいいたいのです。童話『蜘蛛となめくじと狸』には、山猫を崇拝する信者が「なまねこ」ととなえます。「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」のような「南無山猫」(なむやまねこ)をもじったもの。キリスト教に限定せず、呪文を唱える宗教はみな同じこのグループに含まれるという意図でしょう。たった、一字を入れ替えただけであるが、その意図がここにある。
●本当の道
童話『学者アラムハラドの見た着物』で、人間がしなければならないこととして、自己の身体の一部を犠牲にすることよりももっと大切なことがある、と書いている。
「人はまことを求める。真理を求める。本当の道を求めないでゐられないことはちょうど鳥の飛ばないでゐられないとおんなじだ。おまえたちはよくおぼえなければいけない。人は善を愛し道を求めないでゐられない。それが人の性質だ。これをおまへたちは堅くおぼえてあとでも決して忘れてはいけない。おまへたちはみなこれから人生といふ非常なけはしいみちをあるかなければならない。
たとえばそれはパミールの氷や辛度(しんど)の流れや流沙(るさ)の火やでいっぱいなようなものだ。そのどこを通るときも決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまへたちをまもる。それはいつもおまへたちを教える。決して忘れてはいけない。」
鳥をとる男、軽薄な宗教者
●鳥をとる男が鉄道に乗ってくる。本物の鳥を捕まえて、押し葉にしてしまう。乗客に与えるが、押し葉の鳥を食べたジョバンニが「ただのおかしじゃないか」というと男はあわてる。彼はごく短い区間しか列車に乗っていない。賢治は何を象徴したのだろうか。
●仏教の一派には、紙にかいたものをご本尊とするものがある。真の法華経観からみれば、真の本尊は無形のわれわれのこころ、仏性である。紙は、あくまでも紙であり、本物ではない。しかし、紙を高価な値で売りつける宗教が多い。人は同じものを種々に解釈します。あくどい宗教は、金を信者から集めるために、マインド・コントロールによって、価値のないものを価値あるかのように思いこませる。生きたもの(生きた鳥、仏性)を死んだもの(押し葉、お守りやご本尊などの紙)にしてしまう宗教。鳥を捕る男はそのような宗教者をたとえている。そのような男がいるような近くにも、十字架(仏像など)はある。そんな程度の宗教で降りていく人も多い。
ジョバンニの切符は何か
●ジョバンニは、切符を持っているという意識がなかった。しかし車掌がきたので、ポケットにはいっていた緑の紙を何でもいいやというふうに車掌に渡した。それは、どこまでも行ける切符だという。ジョバンニの切符は何か。
●切符とは、正しく実践された法華経信仰(禅と同じく深いもの)から自覚される仏性。人は自覚していないが、みなどこまでも行ける仏性を持っている。どこまでも行ける切符だから程度の低い現世利益的法華経信仰ではなく、大変深い宗教である。それは、終点近くまで行くとわかる。
特に、自分は偉い切符を持っているという意識なく、誇らないでこつこつと実践する者が悟る。
灯台守とリンゴ
●灯台守りが乗ってきて、乗客に「リンゴ」を配るが、これは何か。
●賢治は、リンゴで宇宙を象徴しています。銀河系はレンズの形をしている。リンゴの芯の部分もレンズ形である。灯台守りは皆一人一人が宇宙(仏性)を持つことを教えようとした。子供はすぐ食べてしまったのは、灯台守りの趣旨を理解しなかったが、食べた。ジョバンニとカンパネルラは大切にしまった。長く大切にするつもりがあった。この前に降りた人たちはこんなことを全く考えないで死んでいく。もらっても捨てる人もる。灯台守りは、鳥を捕る男たちのすぐそばにいるが、リンゴを教えてもらえるのは一部の人。それでも大切にする人は一部の人。
孔雀
●汽車から「孔雀」が見える(202頁)が、何か。
●「青ぞらいつぱいの無色な孔雀」「そらは一つの巨きな孔雀石の椀で」という詩の言葉がある。童話『インドラの網』にも出てくる。
「まことに空のインドラの網のむかふ、数しらず鳴りわたる天鼓のかなたに空一ぱいの不思議な大きな蒼い孔雀が宝石製の尾ばねをひろげかすかにクウクウ鳴きました。その孔雀はたしかに空には居りました。けれども少しも見えなかったのです。たしかに鳴いて居りました。けれども少しも聞こえなかったのです。」
●この表現は、禅者が自覚する自己。賢治の場合、孔雀は空いっぱいのおおきさで、無色、無声、無形だから、我々の自己の本性、仏性を象徴していると考えられる。これを見た人は子供と、ジョバンニたち純真な人々。
インデアンと新世界交響楽
●小さな停車場のあたりは、とうもろこしがいっぱい、新世界交響楽が聞こえる。インディアンが走っている。これは何でしょうか。(204頁)
●賢治は、新しい世界を目指していました。宗教にはそのような世界観を持つものがある。ちょうど「新世界」が現れるのは、鳥を捕る男がおりた後である。現世利益を追う宗教は、新しい世界観を持たないということをあらわしている。これより先のレベルの宗教は、高い世界観を持つ宗教だということである。
一方通行、不退転
●銀河鉄道は一方通行であるといいます、何を象徴しているのだろうか。
「ええ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易じゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向うからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう。」さっきの老人らしい声が云いました。」
●評論家平尾隆弘氏は、死者が生きかえらないことだと解する。(『宮沢賢治への旅』215頁)
「汽車は決して向うからこっちへは来ない、これがおそらく、銀河鉄道が「不完全」である理由だ。死んだ者が二度と還らぬ以上、汽車は一方通行、いいかえれば「不完全」なまま走るしかないのである。」
●賢治の法華経は死後のことは問題にしない。これより低いレベルの宗教信者、すなわち現世利益を求める宗教、本で読むだけであった人などは、容易に宗教のはしごをしやすい。あるいはやめてしまう。しかし、このレベルまでの宗教信者は退転しない、あともどりをしないということである。高いレベルの禅やキリスト教の信者は、現世利益の宗教には加入しない。逆はある。
大乗仏教経典に「不退転」「不退転の菩薩」がしばしば出てくる。悟り(無生法忍)を得た菩薩は決して仏道から離れないということである。ここまで達しない者は、やめてしまうことが多い。
サウザンクロス、本当の神さまとは
●青年は、いやがる子供を連れて「南十字星」の駅で降りていく。その時、神について青年とジョバンニとで意見が違っています。
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながらいいました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。
●青年の神は、自分と共になく、外にある。信仰を子供にも強制する。目的地を決めている。ジョバンニの神は、たったひとりだが、宇宙すべてという一人。自分とひとつという一人。自発的で、どこまでも行く。賢治はキリスト教とは言っていない。ご本尊とか西方極楽のような目印は、十字架と同じであると考えていい。偶像を決めてそれを仰ぐのは同じ。白い衣服を来た人に導かれていくが、他の宗教も教祖信仰を中心にすえている宗教もみなこの人々である。法華経の在家教団も信者もこの段階のものもあります。賢治は晩年にはもう日蓮上人にも田中智学にも熱狂的ではない。目印を持つ宗教は幼子にでも強制する傾向があると賢治は考えています。純粋の禅は、釈尊や道元禅師をも信仰の対象にしない、ただ目標は「真の自己のみ」です。ご本尊も教祖も教会の権威もない。ただ一乗です。唯一人である。自己の根底。清浄心。空。賢治も純禅も、自己の外に対象として描いた教祖や神を超えていく。サウザンクロスよりも先をめざす。
電気リスとくるみ
青年たちがサウザンクロスでおりていったのち、電気リスやくるみの木が見える。何だろうか。
「けれどもそのときはもう硝子の呼子は鳴らされ汽車はうごき出したと思ううちに銀いろの霧が川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金の円光をもった電気栗鼠(リス)が可愛い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。」(215頁)
●ここの「くるみ」は死んだ化石ではなくて、生きている。
身近い自然をみつめよ。 仏法を説いている。禅では「仏とは何ですか。柏の木だ。」という公案がある。くるみの木も、仏の姿。黄金の子供を次々と生みだしている。くるみの木は、生きて活発に働く仏性。黄金の子供を生むが、妄想、迷い、欲望、知識、学問もそこから生まれる。なぜ、電気リスか?
賢治は、脳神経の中を情報が電気信号で伝わっていくことは知っていたであろう。
石炭袋
●(課題)「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの穴だよ。」
●星座ケンタウルス坐は、石炭袋と南十字星を含む。石炭袋は、銀河の中心部に、黒々と、穴のようにみえる暗黒星雲。禅の悟りでは、まず絶対の無を体験する。悟ることを桶の底を抜く、という。入れても、入れても、何も残らない。
道元禅師の弟子、懐奘禅師が悟りを得たとき、道元禅師から「穴があいたな」と言われた。
カンパネルラの下車とジョバンニの孤独
●きれいな野原がある、母がいると言って、カンパネルラは汽車からおりていった。あれほど最後まで一緒に行こうと言っていたのに、ジョバンニは一人残された。
●本当の道、深い信仰は結局、一人で行くしかない、さびしい、厳しいもの。神を信じるという信心さえ、愛する人に与えることはできない。悟りでさえ、愛する配偶者に与えることができない。その厳しさに目をつぶって、教会や教団に行きさえすれば、みな神の国に行けると思うのは、真剣さがたりぬ。本当に全員、同じほどに信じているかどうか、保証はない。本当のさいわいは、共に同じ汽車に乗っても最後まで行けるかどうか、本当に個人個人の問題である。それほどに厳しい道である。楽しいグループ活動、荘厳な雰囲気、現世利益などに幻惑されて救われた気になっている信者は後に、厳しい試練がきた時、少しも救われていないではないか、と自分も他人の目からも見えるであろう。また、カンパネルラは、人が誰でも愛するという「自分」ではないか。最も愛着していた「自分」と決別できた時、解脱、新しい人、ひとりだちしていけるという解放がおとずれる、とも読める。
第三次稿に秘密を解く鍵
『銀河鉄道の夜』は、以上のように、正しい宗教への「道」に乗って、決して途中下車してはいけない。従って他の宗教(浅い仏教も含む)を批判したものだというのが賢治の主題であると解読できる。これを決定づけるのが、第三次稿である。『銀河鉄道の夜』は大きく四回書きかえられており、最終稿の前の第三次稿にはブルカニロ博士という不思議な人物が登場する。
この人物の行動や言葉が禅的である。紙面がないので少し示す。「 」は童話の言葉の要約。[ ]は私の解読。
●「そのひとは指を一本あげてしずかにそれをおろしました。
自分というものが・・・なくなって、・・・ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。」
[これは、ジョバンニの見性体験(悟りの最初)である。自己を忘じた。自我はない、無我を証明する体験である。賢治はジョバンニが悟りを得るところまで銀河鉄道を走らせた。]
●「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いていかなければいけない。」
[鉄道の終着点近くに、さんさんとしたくるみの木、二本の電信柱が見えたが、それは、イギリス海岸だった。もとの生活地だった。本当のさいわいは死後にあるのではなく、現実のそこになければならない、いやあるのだ、それが本当の幸いだと示している。生活の中でいかしていかなければいけない。如来(神といってもよい)から恵まれた、いや自分の外にあるのではない、自己が如来とひとつである、この「わたし」を天然の働きにまかせて、人間が作り上げた束縛や思想やあしき宗教など、あらゆる束縛から解放させて、人々のさいわいのために使っていこうと願い行動していく。俗世界にはまっくろい大きなものがあるが一歩でも解放へ歩みたい。]
●「天の川のなかでたった一つのほんとうのその切符を決しておまえはなくしてはいけない。
[ひとがみなもっている切符を自覚し、それを失わないよう持っていかなけれないけない。本当の自己を自覚したいきざま、無心、無我、おごらず、むさぼらず、暮らしていく。そうすれば、本当のさいわいの銀河鉄道に乗っている。]
●「わたしはた大へんいい実験をした。」
[指導者は、ひとりの後継者を自己を究明するまで導いて、現実の生活のなかで強く生きていけるよう育てた喜びを得る。ジョバンニは、生まれかわった。生き生きとしている。生活も明るいきざしが展開してくる予感がある。]
賢治は意図をベールで包んだ
賢治は、このセロの声を削除した。それでわかりにくくなったが、賢治の『銀河鉄道の夜』の意図は解読できる。なぜ削除したのか。三次稿では禅や仏教であることがありありであるので、他の童話や詩と同様に幅広い読者に受け入れられるようあからさまな仏教の衣をソフトなベールに包んだ。この包む手法は、法華経がそうである。道元禅師の「正法眼蔵」もそうである。悟らない人と悟った人とでは、同じ文字を読んでも、全く違う解釈をするのである。たとえば「悟る」とか「仏」とか言う」言葉でさえも、違う解釈をするはずである。「銀河鉄道」は、底に、厳然として仏教精神が流れ、堕落した宗教への批判が噴き出ている。
宗教が批判される実状は今も変わっていない。この国には、種々の問題がふきだしている。宗教者も学者も、賢治が批判したほどに現在の宗教のありさまを批判できないでいる。
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