禅と文学
宮沢賢治
『蜘蛛となめくじと狸』
『蜘蛛となめくじと狸』
クモ
クモは網をはって、甘い言葉をかけて巡礼を誘い、食い殺して太る
「赤いてながのくぅも
天のちかくをはいまわり
スルスル光のいとをはき
きぃらりきぃらり巣をかける」
宗教の一部には、誠実、神聖なものに近いふりをしているが、魂胆は、腹黒いものもある。
クモ、なめくじに馬鹿にされるが、虫けら会の相談役になったことをいばる。
それを聞いて、なめくじは、くやしがる。
網を見て、危険を感じた蚊(か)が、あわてて逃げていった。
それを見て、狸が馬鹿にする。
クモはキリキリキリッと歯がみ。
クモは網が腐敗し、食物がたまって腐敗し、クモの夫婦にうつり、死んだ。
「虫けら会」の「相談役」というように、下らない組織の役員になりたがる大衆の風刺である。しかし、蚊のように、ひっかからない人もいる。エゴイズムが隠されているような人や組織は、賢い目で見抜いて離れることが大切である。
教団同志が互いの悪口を言い合う。
やがて、その指導者も死ぬ。
銀色のなめくじ
親切にみせて財産を巻き上げ太る
なめくじは、親切だという評判が高い。救いを求めてくる者を、
「あなたと私はいわば兄弟。−−−」といって、親切にふるまう。
かたつむりが来ると家にとどめて、すもうをとって、疲れさせる。最後に食べてしまう。
へびにかまれたトカゲが来ると、傷くちをなめながらトカゲの知らないうちに、からだを食べていく。
気がついたトカゲがいう。
「「なめくじさん。からだが半分とけたようですよ。もうよして下さい。」ととかげは泣き声を出しました。
「ハッハハ。なあにそれほどじゃありません。ほんのも少しです。も一分五厘ですよ。ハッハハ。」となめくじがいいました。
それを聞いたとき、とかげはやっと安心しました。丁度心臓がとけたのです。
そこでなめくじはペロリととかげをたべました。そして途方もなく大きくなりました。」
これは、信者をあれこれマインドコントロールにかけて財産をまきあげて太るカルト宗教教団を風刺している。正常な判断ができないほどに魂、知性をくらまさせる。こうなると財産をださせるのは簡単である。こうしてカルト教団は太る。
教団同志のあらそい
「あんまり大きくなったので、なめくじは嬉しまぎれについあの蜘蛛をからかったのでした。
そしてかえって蜘蛛からあざけられて、怒りくるい、熱病を起こしたのです。
そればかりではなく、なめくじの評判はどうもよくなくなりました。」
これは大きくなった教団同志のあらそいを風刺している。宗教教団は、互いにプライバシーをあばき、人格攻撃、罵倒しあうものがある。批判したり脱会すると同じ目にあう恐怖を覚えて、批判しないで、とどまる。まだ宗教にかかわっていなかった人は、宗教は怖い、近づくのはやめようと考える。こうして、良識ある人々からひんしゅくを買う。宗教が警戒される。
カエルがたずねてきたので、例のとおりすもうをしたが、カエルに塩をまかれて、うごけなくなって、カエルにたべられる。
そんな宗教は死んでしまえ、そんな教団は社会にないほうがいい、賢治の願いである。
顔を洗わないタヌキ
「ナマネコ」ーー念仏の風刺
「「そうじゃ。みんな往生じゃ。山猫大明神さまのおぼしめしどおりじゃ。な。なまねこ。なまねこ。」
兎も一緒に念猫をとなえはじめました。
「なまねこ、なまねこ、なまねこ、なまねこ。」」
浄土真宗では、念仏(阿弥陀仏を念ずる)という。「念猫」=山猫様を念ずる。
「なむあみだぶつ」と唱える真宗にたいし、「なまねこ」と唱える。
南無山猫、南無猫、なむねこ、なまねこ、である。
「な。なまねこ。」
最初は、念猫をいうのをためらいがちであるが、やがて、なめらかにいうようになる。賢治は真宗に批判的である。
たずねてきた兎を食べていく。兎は喜んで食べられていく。
「兎はますますよろこんで
「ああありがたや、山猫さま。私のようないくじのないものでも助かりますなら手の二本やそこらはいといませぬ。なまねこ、なまねこ。」
狸はもうなみだで身体もふやけそうに泣いたふりをしました。
「なまねこ、なまねこ。私のようなとてもかなわぬあさましいものでも、お役にたてて下されますか。ああありがたや。なまねこなまねこ。おぼしめしのとおり。むにゃむにゃ。」
兎はすっかりなくなってしまいました。
そこで狸のおなかの中でいいました。
「すっかりだまされた。お前の腹の中はまっくろだ。ああくやしい。」
狸は怒っていいました。
「やかましい。はやく消化しろ。」」
これも、多くの宗教への批判である。もし、宗教を指導する僧侶、指導者が、本当には阿弥陀仏などの存在を信じていない場合は、信者をだますことになる。特に、金(お布施)を信者からもらう。僧侶の腹の中を問題にしている。
悩みが大きい間は、冷静な判断を失う。そこに乗じられて、金も心もみつぐ。しばらくして、さめる。捧げた金も時間もとりかえすことはできない。
このことは、浄土真宗ばかりでなく、すべての教団がこの賢治の風刺の対象になる。苦悩する人々を救済する宗教はいいものである。しかし、その見返りに捧げる金と時間と真心が大きすぎるのはよくない。誠実な宗教までが疑われ、国民からそむかれる。
『農民芸術概論綱要』にこういう。
「いま宗教芸術家とは真善若しくは美を独占し販るものである。
われらに購ふべき力もなく又さるものを必要とせぬ」
宗教は善悪を販(う)っている。金がいるのなら、そんなものは必要ない。
買う力もない農民は救われぬ。そんなものは必要ない。賢治はそういう。
懴悔させる、恐怖におとしいれる
「お前もものの命をとったことは、五百や千ではきくまいに、早うざんげさっしゃれ。でないと山ねこさまにえらい責苦にあわされますぞ。おお恐ろしや。ななねこ。なまねこ。」
狼はおびえあがって、きょろきょろしながらたずねました。
「そんならどうしたら助かりますかな。」
狸がいいました。
「わしは山ねこさまのお身代わりじゃで、わしのいうとおりさっしゃれ。なまねこ。なまねこ。」」
こうして狼も狸に食べられてしまう。本来、狸より力をもっているはずの狼まで食べられる。
しかし、しまいに、狸も病気にかかって死んでしまう。
人々に罪を思い起こさせて恐怖に陥れて信者として引き留め、金を集める手口は、いくつかの宗教で行われているであろう。そのような宗教を風刺している。 賢治の考える誠実な宗教はそんなものではない。
地獄ゆきのマラソン競争
この3人とも、地獄ゆきの競争をして死んだ、という。だまして金と命(二度とない貴重な時間、いのちである、を教団の奉仕のために費やす)を巻き上げる宗教はなくなってほしい(この3人とも罰があたって死んでいる)、というのが賢治の願いである。しかし、現実には、次々と新しい人々(信者)が来て教団は太り、そのような教団は続いていく。人々が支持するからなくならない。人は、論理、理性だけでは、動かない。快・不快、好き嫌い、感情が大きな原動力になる。仏教学、禅学もそこを無視した解釈をすると間違うであろう。
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