禅と文学

宮沢賢治

『貝の火』

『貝の火』

 宮沢賢治は、童話で仏教を教えようとしていたのだから、そのつもりで、この童話を読んでみよう。この童話は、人間の根底は本来清浄(大乗仏教では仏性と呼ばれるようになった)なのであるが、その発現を妨げる煩悩(エゴイズムのような自分や他者を苦しめる心理作用)があることを教えようとしているとみる。この童話では、おごりによって、苦しみに落ちるところまでを描く。
 ホモイは、ひばりの子供を命懸けで救うという勇気ある行為によって、「貝の火」という宝珠と権力を得たが、慢心をおこし、権力を悪用した。ために、宝珠を失い、失明する。
 慢心をおこしているホモイは、そんなことをしていると「宝珠」が雲るぞ、という父の忠告を聞かなかった。(これは、他の人からの忠告でなくてよいのだ。自分のもう一つの心からの忠告があるはずだ。)
やがて、ホモイの宝珠が砕けて、ホモイは失明する。

ひばりのくれた宝珠

 「それはとちの実位あるまんまるの玉で、中では赤い火がちらちら燃えているのです。・・・
 ひばりの母親が又申しました。
 「これは貝の火という宝珠でございます。王さまの言伝(ことづて)ではあなた様のお手入れ次第で、この珠はどんなにでも立派になると申します。どうかお納めをねがいます。」・・・・
 ホモイは玉を取り上げて見ました。玉は赤や黄のほのおをあげてせわしくせわしく燃えているように見えますが、実はやはり冷たく美しく澄んでいるのです。目にあてて空にすかして見ると、もうほのおは無く、天の川が奇麗にすきとおっています。目からはなすと又ちらりちらり美しい火が燃え出します。」
 この「宝珠」は、私たち人間の根底の自己、仏性の象徴でしょう。わたしたちのこころはみな、清浄で、美しいものを映す宝の玉であると仏教は主張する。

おごり、悪事を働く

ホモイはおごり、悪事を働く、[父母の忠告を聞かない]

  • いばる、階級を作り与える
       母がいう[いばるんじゃありませんよ。]

  • 無茶な命令をして従わないもぐらをおどす。
      従うやつに命じて木の実を大量に集めさせる。
       父がいう[おどすな。こんなにたくさんの木の実を誰が食べるのだ。]
  • 狐がもぐらをいじめることを許す。
       [ホモイの父がみつけてしかる。]

  • 狐から毎日おいしい木の実を運んでもらうことになって、狐が鶏をとるのをとがめるな、というのを認める。(これはワイロだ)
     「こんなものはどの木にできるのだい。」とたずねますと狐が横を見てひとつ「へん」とわらってから申しました。
     「台所という木ですよ。ダイドコロという木ね。おいしかったら毎日もって来てあげましょう。」
     ホモイが申しました。
     「それではね毎日きっと三つずつもって来ておくれ。ね。」
  •  これは、伝統仏教、大乗仏教が批判しているエゴイズム(煩悩)である。教団(あるいは、他の組織)の幹部の中には、信者(部下、組織の構成員)が善良な人を恐怖させ、強引に、悪事まがいのことをして金を集めてくることを知って受け取る者がある。
     あるいは知らずとも、末端の信者(や部下)は悪事を働いて集めてくる者がある。幹部は金銭のノルマを課す。
     人を害してまで金を集める組織になる。
     「狐が角パンを二つくわえて来てホモイの前に置いて、急いで「さよなら」といいながらもう走っていってしまいました。」

    それをホモイは父親が喜ぶだろうと思って父に持っていく。

     「「お前はこんなものを狐にもらったな。これは盗んで来たもんだ。こんなものを食べない。」
     そしておとうさんはも一つホモイのお母さんにあげようと持っていた分も、いきなり取りかえして自分のと一緒に土に投げつけてむちゃくちゃにふみにじってしまいました。ホモイはわっと泣きだしました。兎のお母さんも一緒に泣きました。」
     宗教(あるいは他の組織)幹部は金集めを指令する。トップは幹部や構成員が多少のあくどいことをすることを認める。
     組織の上層部に、この父親のような「清廉無私」の心があってほしいという賢治の願いがある。しかし・・
     狐はまた角パンを持ってきた。ホモイはまた受け取る。狐が動物園をつくろうという。
     「ホモイは、急いで角パンを取ってお家に帰って、台所の棚の上に載せて、又急いで帰って来ました。」
     黒い金を受け取ることに不感症になっている組織の幹部。
     あくどい金でなくても金銭を受け取るのが当然となっている各種の組織の幹部、末端の者。経営者、宗教者、会社員、役人、あるいは政治家、大学教員、・・・・。賢治は、特に宗教者を見ていたのだろう。

    狐にそむかれる

    狐が網のわなを仕掛けて小鳥をとっていたのをみつけて、ホモイがにがそうとすると狐がすごい顔をしてどなる。
    「ホモイ。気をつけろ。その箱に手でもかけて見ろ。食い殺すぞ。泥棒め。」
     もともと欲がからんでついていた幹部は自分の利益がおびやかされそうになると裏切る。いざとなったら裏切る人間が多い。そこも賢治は見ている。
     よくある内部抗争、権力闘争、である。教団(組織)は、利益を争っていくつにも分裂していく。
     夜、ホモイの家族はキツネからもらったものを食べる。

     お母さんはびっくりして
     「まあ、ご飯の支度を忘れていた。なににもこさえてない。おとといのすずらんの実と今朝の角パンだけをたべましょうか。」といいました。
     「うんそれでいいさ」とおとうさんがいいました。」
     盗んできたものなのにホモイの家族もそれを食べる。不感症になっている。
     ホモイの父親はまるで模範的な聖人のように正しく生きるようにホモイに何度も忠告していた。
     それなのに自分でも実際の生き方は、このように口でいうようには実践していない。
     口ばかりできれいなことをいい、実践が伴わない学者や宗教家の批判であろう。
     宗教者や学者(さらには政治家も)の家族でも、「お父さん、いつもあんなにきれいなことを言っているけれど、実際のお父さんも、そうしなければいけないのではないの?」と強く家族が戒めれば、違う行動をするのだろうが、家族も父の収入で楽な生活をする。賢治は正当な商売であった質屋の利益でさえも父が貧しい農民からとったものと後ろめたい気持ちを持っていた。
     家族ぐるみであくどい利益追求の恩恵を受ける、よくある話をこういう形で批判している賢治。「こんなことはどこにもあるのだ。」
     七十年後の現代日本のひどい状況を予想していたのかと慄然とする。

    貝の火、こわれる、ホモイ失明

    「貝の火はまるで鉛の玉のようになっています。」・・・・
     「貝の火は鋭くカチッと鳴って二つに割れました。
     と思うと、パチパチパチッとはげしい音がして見る見るまるで煙のように砕けました。
     ホモイが入口でアッといって倒れました。目にその粉が入ったのです。・・・・」

     玉はまた元のとおりになって、ホモイのもとから飛び去った。
    父はホモイをなぐさめる。

     「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいわいなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」

    賢治を批判する説

     この童話を軽侮する評論がある。
     「<ホモイには初めから主体性などなかったのだ。あるのは、情感の論理とでも呼ぶべき衝動的なあわれみの情と気の弱さであ>り、無知で主体性のない幼いホモイに負担の多い貝の火を説明なしに与えるのは不親切で残酷であり、それは人間造型における欠陥だとし、作者の若さの現れとみる続橋達雄説がある。」   (『宮沢賢治必携』学燈社、95頁)

     「けっして聖人君子でないホモイ、人並みの小心さや邪気もあるごく平凡な子兎ホモイには《貝の火》を保持しつづけることははじめから無理だったのではないか。」(天沢退次郎『宮沢賢治の彼方へ』247頁)

     こういう読み取りをして賢治を「作者の若さの現れ」と馬鹿にするのは悲しい。
     人間の現実は、賢治の描くとおりである。おごり、金集めにやっきとなる団体の幹部に、大衆が教祖様、会長様、委員長さまと、不相応な地位と金を与えてしまうのだ。それで慢心をおこすのだ。慢心を非難したり、あくどいこと、金を動かすことを世論でも問題にしたりしているのに、かえようとしないのが現実だ。清浄を基本とする人間の本性は、「説明して」与えられるのではなく、すでに与えられている。「悪い人間になるなよ」と「説明」されても、エゴイズムを身につけていく。
     賢治を「人間造型における欠陥だと」非難されるのは残念である。賢治の研究者に、こんなに賢治が理解されなくて軽侮されるのならば、他の人は賢治を信用しなくなるであろう。賢治の批判を受け取らず、世の中が賢治の期待するようには、いつまでもよくならない。このことは全くごくひんぱんにあることなのだ。それはホモイの父の最後の言葉が表している。  ホモイが失明したあとである。
     「こんなことはどこにもあるのだ。」

    「それをよくわかったお前は、一番さいわいなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。」
     これについて天沢氏は、次のようにいう。(趣旨を要約)
    法華経譬喩品では、うぬぼれの心を起こした愚か者、法華経を捨てた者の受ける苦しみは、七、八十行にわたって憎悪をこめて説いている。ホモイの失明などはまだ軽い苦しみである。父親の言葉は、「法華経へのひとつの挑戦ともとれるのである。」
     つまり、天沢氏は賢治が法華経にも同意しない、というのである。
    「影響は影響として、しかしながら、ぼくは『貝の火』を法華経説話として読むつもりはない。ホモイの父親の挑戦を境として、法華経思想は文学によってのりこえられている。《貝の火》とは、ぼくらが引きつづいてみてきた「書くこと」の至高の星であり、失明にいたるまでの不安と歓喜の進行は、詩人の自己処罰の過程に対応している。ホモイに何の責任があるか?ホモイの孤独のおののきがあるだけなのだ。」(249頁)
     「法華経思想」とは、何を言うのだろうか。仏教学者の解釈か、天沢氏独自の解釈か。法華経の精神をどう理解するかで変わる。
     人は慢心ということを自覚しにくい(批評家にもあって自覚していないかもしれない)。自分の無明がわからない。慢心を起こすホモイが、数多くいる。多くの人には聖人のように崇めたてまつられながら、人を傷つけ、地位をえさに自分にひざまづかせ、自分に金をみつがせ、よごれた金を受け取ることに麻痺した組織(教団、会社、役所、種々の組織、病院、カウンセラーまでも)幹部連中が何と多いことか。「ホモイに何の責任があるか?」というが、これでは、賢治の仏教、エゴイズム批判が理解されないように思える。自分のエゴには、自分に責任がある。
     天沢氏ほどの人が、こう解釈されると、賢治が、この童話を書いたのが無駄になってしまう。しかし賢治の詩についての天沢氏の解釈には、大変深いものがあり、教えられることが多い。

     童話の最初にかえって、そこをみよう。ホモイがひばりの子を助けたのは、心からしたのではなくて偶然なのだ。ひばりの子供を救う時も、救ったあとも、ひばりを見て、ホモイはぞっとしている。ホモイは真の愛情から助けたのではないのだ。ただ偶然の行為を世間が過大評価しただけなのだ。すなわち、種々の幹部の地位は、真の人物ではないという象徴なのだ。
     「その子の顔を見ますと、ホモイはぎょっとして危なく手をはなしそうになりました。」
     「ホモイはそれを見るとぞっとして、いきなり跳びのきました。そして声をたてて逃げました。」
     

    仏性が雲る

     この童話は、みな人は貴い「仏性」という宝珠を持っているが、慢心は仏性を雲らす。慢心はやがて社会と自分に害を及ぼす、という「仏教」が裏に秘められていると思われる。およそ、仏教は、このことを教えようとしているとみることができる(ただし、僧侶、仏教学者によって、解釈がまちまちである)。原始仏教も大乗仏教も「煩悩」(自分や他者を苦しめるエゴイズムのようなもの)の捨棄を重視している。

     偉い人と人々には崇められている有名人でも、よく心を見てみると、汚れているというのが、仏教で教える煩悩である。
     自分におごり、いじめ、セクハラをし、独裁者として振る舞う。組織内の地位や仕事をえさに服従させる、金を集めさせる。組織内では言論の自由がないのは当たり前になっている。上層部に批判的な人をいじめて組織から追い出す。
     どの組織、インフォーマルなグループにもあるのだが、賢治の場合は、宗教の教祖、幹部の慢心、欲得ゆえの利用しあい、幹部同志の抗争分裂も念頭にあるだろう。皮肉なのである。仏教を標榜しながら、仏教が批判することを行い、自覚がない宗教者。
     ここまでは現実に多いが、そのような団体(会社でも宗教でも)がいずれは破滅するに至る、というのは、賢治の願いであって、悲しいことに(?)、現実には破滅しない。狐が多く、次々に出てくるからである。ホモイにあたる慢心者、金集めがすきな連中は現実には失明しないからである。一部の幹部が、法律違反として、摘発されることがあるくらいだ。

    本来清浄の仏性を持ち続ける者は少ない

     みな清浄な仏性を持って生まれてきたのであるが、持ち続ける人は実に少ない。
     「これは有名な貝の火という宝物だ。これは大変な玉だぞ。これをこのまま一生満足に持っている事のできたものは今までに鳥に二人魚に一人あっただけだという話だ。お前はよく気を付けて光をなくさないようにするんだぞ。」
     法華経精神は、理解されていないようである。釈尊は坐禅をしていたのに、現代日本の仏教学者さえもが、仏教は縁起のみとか、坐禅は仏教ではないというほどに、仏教は理解されていない。そうすると法華経も理解されていないのである。
     そのような法華経解釈の本を参考にすると、法華経を誤解されるおそれがある。賢治が、この童話で法華経精神を教えているのではないといってはならないであろう。
     ある特定の文句と比較して「法華経に挑戦」というのは当たらないであろう。法華経を愛した賢治が法華経に挑戦するはずがない。たしかに初期、国柱会に夢中であるころは、狂信的で、観念理解だったが、晩年には法華経の誠実な実践者となり、それと全く一つになった、と私は賢治を好意的に読み取ることにしている。
     法華経精神は学問では決して体得できない。「人を苦しめてはいけない」と理解できることと、「実際に、しない」こととは別なスキルであるということである。初期の頃、国柱会にかぶれていた頃の賢治の法華経理解と実践は浅い。友人の保阪が去っていったのは当然ともいえる。しかし、死亡の直前の賢治は法華経の誠実な実践者になっていると私はみる。(法華経精神とは何かで解釈が違ってくる)

    仏性はこわれない

     ホモイの目をつぶした貝の火はまた元に戻ったが、仏性は絶対にこわれない、というのが仏教の主張だ。 自分のいるところにいつもあって、どんなことがっても壊れない。
     仏性を持ち続けるのは少ないといったが、実はすべての人が仏性(自性清浄、自灯明、般若、などともいう)を持ち、仏性そのものである、というのが仏教の教えである。
     ただ自覚していないし、本来の仏性をいかしていない(慢心、自分や他人を苦しめる、など)ことを、仏性を持っていない、という言い方をしているのである。
     道元禅師は次のようにいっている。
     「おほよそ仏性の道理、あきらむる先達すくなし。諸阿笈摩教および経論師のしるべきにあらず。仏祖の児孫のみ単伝するなり。仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理、よくよく参究功夫すべし。三二十年も功夫参学すべし。」 (『正法眼蔵仏性』)
       (注)諸阿笈摩教−−原始仏教経典
          経論師−−−−経典を学問的に研究する僧。つまり学者。
    (そもそも、仏性の道理を明らかにした先人は少ない。原始仏教経典や学者には知ることができない。仏祖の子孫のみがただ一筋に伝えてきた。仏性の道理は、仏性は成仏(悟りを得る)より前に備わることはない、成仏より後に備わる。仏性は必ず、成仏と同時に備わる。この道理、よくよく参じ究めなさい。二三十年でも功夫し学びとるべきである。)
     岩波文庫(水野祢穂子氏)では「仏性かならず成仏と同参するなり」を「修行するところに同時にある。」と、悟道無視の前提の解釈をしているが、この場合は、ある時から仏性らしく働き出すことで、悟ることである。仏性は悟らない学者の知るべきにあらずといっているのだから。悟らない(成仏しない)学者には仏性がわからないと主張している。だから、法華経もわからないことになる。自分の煩悩(エゴイズム)を洞察して、自粛するような実践が道元禅師からも要求されている。そこを無視してはいけない。

     HP「現代人の禅」には岩崎八重子嬢の悟りのことをご紹介した。平塚らいてふ氏の悟りもご紹介している。修行して後、ある時点でわかる。それ以後、その自覚したように動くという一面もある。そのように、仏性を知るのは、勉強の結果ではない。実践による。禅や真の法華経実践(それは禅と同じであると思う)によるのであるから、頭の善し悪しには関係ない。ただ、誠実に、真剣に、自分の心を見つめることによる。
       
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