もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー本来の仏教を考える会

禅と詩歌-松尾芭蕉        
禅の心で生きた芭蕉

    === 奢りなく、名利を追わず、自らを戒む ===

 芭蕉は禅を行じた。「物我一致」に至るという。禅は無我を悟ること。すべての人が平等、無差別であるという根源を自覚する。自己を誇らず、他者をそしらず、他者を許す、他者の幸福を願う、そういうのが「無我」。それに一歩でも近づきたいというのが禅者や念仏の人の願いである。であれば、自分だけがすぐれているという名誉、功名の心がおきるのを未熟として恥じる。各地の門人が大袈裟に接待してくれる時、通常の人なら有頂天になって威張るところ、芭蕉は自分はそんな偉い者ではない、無能だという謙遜の思いを持っていた。それを忘れて自分がつい浮かれて鼻たかだかの気持ちがおこるのを戒めていた。
 芭蕉の禅者としての生きざまを次の四点に整理した。

1、無智無能

 芭蕉の俳諧は知識で作るのではない。俳諧によって、名誉や財物を追うのではない。そんな気があれば、ものに接した時、心に感動は生まれず、よい句は作れない。無心になれ、無我になれ、無知無能になれ、その無心の心に光りがやどる。

小賢しいはからいを捨てる
 元禄二年(四十六歳)卓袋あて(?)書簡。おくのほそ道の旅に出る心境を語った。無一物の乞食になる覚悟である。  物知りで満ちた心にはものに向かっても光りがうまれない。汚れなき無心の心がものに対するとき、感動がはいりこむ。

「無能無才」の自覚
無智無能を知る誠実な友が恋しい
 類は友を呼ぶ。名誉や欲を先としない芭蕉は同じような友を求めた。芭蕉は次の句を俳友に送って、来庵をすすめた。俗的な交わりを避けた芭蕉は、道を語る友は恋しがった。無能な私だが、来て下さいよ、道を語りましょう。  素堂が『蓑虫説』で、この句に応えた。貞享四年(四十四歳)  芭蕉これに応えて、『蓑虫説跋』を書く。  人も才を鼻にかけたエセ知識人より、名もなく無能と思ってひかえめに生きる人が貴い。人間の本質はみな平等で無差別だ。かえって知識人の方がそれを自覚せずいばっている。

2、名利を追わず

 芭蕉は、弟子が俳諧で名誉を追うことを嫌う。風雅の道は名誉や権勢欲のあるところにはない。  膳所(ぜぜ、近江の地名)にて橋から乞食を見ての句。まことの人は乞食に身をやつしておられるだろう。どこにおられるのか。菰をかぶったすぐれた人がいるのではないか。自分に目がないためみつけられない悲しさ、と芭蕉が書簡で述べている。道を語りあえる人を得たかったのであろう。

世俗を超越するのが貴い
名利を追って誠を失う
 名利を思うことをいさめる。 風雅の行き着くところは乞食(=無一物)
 金沢の隠者、秋之坊が来た時の句。我が小さい、無我をいう。

無一物になる  ちやほやされていい気分になる自分を戒める。そういう軽薄な自分に気づくとき、俳諧すら空しいものに感じられる。俳諧もこれまでにしようと思っても、また誘われる。  「こもをかぶる」とは求道のために乞食の境涯に身を包んだ高僧の様子。もちろん、精神的なもの。偉そうなところをみせない、禅、仏教。たとえば、偏見、慢心などの煩悩のないこと。俳諧のゆきつくところ、人格的には、禅の無一物。仏教でいう「煩悩」の捨棄。

名利を追う心を嫌う

 芭蕉は江戸に戻ってから、七月までほとんど活動を中止した。この頃、名利を嫌う言葉が多い。仏教や禅でいう、煩悩、我執などの捨棄が現実に実践されていた。

 正月に加賀の句空から『北の山』集の序文を請われたが断り、自分の句を過分に入るのを嫌って二句にとどめるよう希望。
 三月、猿雖あて書簡  名利を追う人々から遠ざかる。
 二月、曲水あて書簡 『風雅三等之文』に「まことの道に入る人は少ない。」という。
 五月、『芭蕉を移す詞』に、山中の不要の木は、人から切られず、その生をま っとうする。わたしはただ芭蕉の葉の破れやすいのを愛する、という言葉がある。

ついに門を閉ざす

 人との面会を中止。元禄六年(五十歳)七月中頃から一ケ月。
その理由を述べた言葉に、男女の恋を捨て難いのはまだ、許せるが、金銭欲の中に魂を苦しめて、物の情をわきまえない罪は許せない、と。( 『閉関の説』)  人が来ても、道のことではなく、無用の雑談ばかり。私が出向いていっても、 真剣に必要としているわけでなければ、仕事の邪魔になるだけだ。持病の痔と疝気(腹の病気)という肉体的不具合に加えて、人々への不信感が募る。

弟子に世俗にまみれることを注意

 芭蕉が最後の旅にたった後、書かれた書簡で、俗風に傾いていく弟子に芭蕉が注意した。それに対し、反感をもつことなく注意を守ることを約束。

3、争わない、恨みを捨てる

 我をたてれば、我と我がぶつかってあらそいになる。禅者、芭蕉は我を捨てて争わない。過去に芭蕉にそむいた弟子であっても、恨みを捨ててつきあう。

力ある弟子の自重を これに対して洒堂が付けた句は  師弟の息があっている。

人と争うなとしばしば弟子に語る

 仏教や禅は、不毛の議論をするな、という。己れの説を曲げようとしないで、我執を捨てない者の間の議論ははてがなく、無駄である。説くのは、悩む人、安心を得たいという人に対してである。そういう人は、我を折っており、聞く耳を持つ。  菩薩の思想がある。古来からの俳諧のしきたりを破ることはある。それは罪ではあるが、人に心安く遊んでもらいたいためである。

恨みを捨てて

 芭蕉は、元禄七年(五十一歳)、名古屋で荷兮宅へ寄る。「恨みを捨てて」(許六)とある。

4、奢らず、卑下、自戒

 おごるな、慢心するな(威張るな)、なども仏教や禅が誡める煩悩障であり、我執である。芭蕉も、それを捨てる、ふと、出そうになると自らを戒める。

私にはもったいない所だ

  貞享三年(四十三歳)幻住庵に入る、その四月、如行あて書簡。有名になっていた芭蕉なのに、おごりがない。  世の人々が懸命に働いているのに、私はいいきになって勝手きままなことばかりやって暮らしてきたものか。

有頂天にならない

 『笈の小文』の旅の途上、熱狂的に迎えられている中で、有頂天にならず、謙遜、自戒の思いが込められている。(貞享四年、四十四歳)  華やかなところに目をうばわれるな。この後、芭蕉は罪をとわれて伊良湖崎に 近い畑村に蟄居中の杜国を見舞った。往復五十里の道を。次はその時の句。

おごらず、へつらわず

 『おくのほそ道』の旅で大垣でのこと(元禄二年、四十六歳)。
大垣藩家老戸田如水は門人ではなかったが、藩の武士の多くが芭蕉に師事するの で面会した。その日記に面会の様子。宴会に誘ったが、受けず帰った。高い地位 の者にもへつらわないし、おごるでもない芭蕉の姿がある。
 大垣で、竹戸という者に旅に用いた紙衾(ふすま)を与える時、 「翁」という呼称をやめさせる

 元禄四年(四十八歳)七月、『猿蓑』刊行時。 下座がよい  名誉に執着する者は席順を問題にするが、芭蕉は下座がよいという。上座に坐らせてもらって有頂天になったり、上座に坐らせてもらわないと怒る者には、仏教や禅がわからない。

 このように、芭蕉は、仏教や禅でいう煩悩、我執を捨てて生きた禅者、仏教の実践者であった。そのような眼で見れば、芭蕉の俳句は深い味わいを持つ。
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