もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー現代の仏教を考える会

禅と詩歌-相田みつを

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我を捨てる


 宗教的価値観によって、ある種の不満を不満とせず、通常の人が不満としないことを不満とする。相田さんは、禅をやっていた。そこで、通常の人が気がつかない「我執」「我見」について色々言っている。しかし、それにも縛られずに、超えていかねばならない。

我を捨てる

 真の自己を自覚し、精神的苦悩を解決するには、簡単に言うと「我(が)を捨てる」「我を離れる」というくふう(心の努力)につきる。道元禅師はこういう。  相田さんの言葉。
「  捨てる
どうでもいい
ものから
捨ててゆくんだね」
(D112)
 我が強いと、他人の忠告をきかないから、その人は少しも変わらず、人格的な成長がない。我を捨てて、他人の言うことを聞いてみると、自分の気がついていないことに気がついて、人格精神が変化していき、成長していく。我が強くない人は、こころが柔らかい。だが、いいなりになれ、というのではない。自分勝手な、独善的な、偏狭な、偏見ある、その他、自分中心の種々の醜い心によごれた眼で見ないで、他の権威に盲従せず、憶せず、主体的に判断していくことだ。
 この「我を捨てる」というのは、我利、我愛に執着することから離れることであり、日常生活において様々な形をとる。道場や家で坐禅するだけが、坐禅ではない。これまで、何度か書いたが、種々のくふうがある。相田さんは、四十年、禅の修行をしたという。工夫の言葉が書にされている。いくつか見てみよう。

懺悔する

「まごころこめて自分の非を認めることを、仏教では、懴悔(さんげ)といいいます。自分のうそ偽わり、いやらしい面、ずる賢い面、何もかも仏さまの前にさらけ出して、本心から悔い改めることです。懴悔した時、初めて自分の汚れが根本的に白くなるんです。」(A63)
 懴悔(さんげ)は後悔ではない。自分の非を認めあやまる。ある宗教では、宗教者(神父や教祖や他の信者など)の前で、懴悔させる。禅者は、そういう他者には依存しない。
 禅者は、自己の本性の前で懴悔する。懴悔は坐禅することである。懺悔は、日常生活の現場で、瞬間、瞬間に懺悔する。「仏さま」は、自己の心の根底である。坐禅は、こざかしい自我を働かせない行いである。「自分の汚れ」が動いていない。それを相田さんは、「根本的に白くなる」という。
 坐禅していない時にも、なるべく多い時間(働いている時も)を、我を離れた禅の心で暮らすことが、そのまま懴悔の生活である。我を出したら、なるべく、その直後に、それを自覚し、自分の未熟なことを思い、さらに自己の禅の向上を心に誓う。

負けてもいい

 相田さんは、「負ける練習、失敗の練習、恥をさらす練習をたっぷりさせておくこと」といっています。これも、「我を捨てる」ことですね。負けても、失敗しても、恥と思うようなことがあっても、なるべく、すぐ捨てて、後に尾をひかないようにする。どうすればいいか。坐禅の心でいいわけです。  すぐれた人には負けてもくやしがらない。できれば他人と比べる勝ち負けを問題にしない。
「自分の希望や思いが通らぬのが人生であり、世の中です。自分の思いが通らぬということは、言葉を変えれば<負け>ですね。自分の思いが通って、カッコよく勝つことなどはごく稀(まれ)で、ほとんどは<負け>になる。それが人生じゃないかと私は思うんです。・・・・・
 そのためには、子供のころから、負ける練習、失敗の練習、恥をさらす練習をたっぷりさせておくことです。そして負けに強い人間、失敗に強い人間、恥をさらすことを恐れない人間に育ててやることが、子供の一生を通しては幸せなのではないかと思うのです。」
(A80)

おかげさまと感謝する

 自分以外のものに今生かされていること、現在の自分が恵まれていることに、感謝する。
「ともかく
ここに生かされている」
(B21)

「 アノバチ
コノバチ
思い当たる
バチがいっぱい
それでもまだ
天がわたしを生かして
くれる 」 
(B38)

「いいことはおかげさま
わるいことは
身から出たさび」
(B10)
 仏教では、すべての人が仏になれる、すでに仏である、という。すべての人が仏心を奥底に持つことに目覚める。親、子、妻、夫、みな仏であると感謝する。自分一人では、何もできないし、生きていけない。感謝できない人は、かわいた心の持ち主。幸せにはなれない。幸せとは、感謝と同意語。
 「わるいことは身から出たさび」は、注意が必要。謙虚であること、相手のせいにしない、ということである。いじめや、公害などによって、被害を受けることがある。それは、もちろん、「身からでたさび」ではない。相手が悪い。こういうことも、文字を硬直的に、偏狭な頭で、絶対視してはいけないが、それも、我執を捨てることを実践的に学ぶ坐禅をしていれば、身についてくる。

経典の束縛も捨てる

 このような、よさそうな言葉があると、境地の浅い人は、自分の心に負担を作り、基準を作り、厳しい戒律をつくり、かえって新しい苦悩を作ったり、他人におしつけ他人を縛り裁く傾向がある。よさそうな言葉も他人にはおしつけてはならない。たとえ、聖書、仏教経典の言葉でも自分にも他人にも強制しない。
 以上のような「我を捨てる」という工夫(くふう)でさえも、問題を解決したいと思う自分だけが取り組むべきであり、他人に強制してはならない。強制すれば、強制しているそのことが、「我」を他人に押し付けていることになる。苦悩している人を見た時、おしつけがましくなく、「こういう坐禅もありますよ」と一度だけ言うがよい。強制はいけない。
「親切という名の
おせっかい
そっとしておく
おもいやり」(D118)
 自分では親切のつもりであっても、その人の希望と違っていれば、その親切は、我のおしつけになる。他人が迷惑に感じる。こういうことを自覚して、宗教さえも他人におしつけてはならない。
 例をあげよう。相田さんは、次のように言う。
「終わりにつけ加えますが、在家の私でもできる三つの行を紹介します。
 一、一日一回汗を流す。
 二、一日一回何かに感動する。
 三、一日一回たとえ五分でも静かに息を調え、姿勢を正して坐る。そして自分の外側に幸せを求めることをやめる。」(A99)
 これは、できるならば、いいことである。しかし、こうでなくてもいい。この助言は、何か問題を持つ人が、これで心が軽くなるようであれば、しばらく実行するがよい。しかし、これに、縛られて窮屈になってはいけない。これを超えていく必要がある。何か具体的な内容を持った実践の言葉は、戒律と似て、ある人にはかえって、窮屈な、縛られる忠告になってしまう。身体の調子が悪い人は汗を流せない。毎日感動することがないから、自分はだめだと思ってはならない。感動は、思いがけなくもらうものである。自分の意志で感動できるものではない。言葉に縛られてはいけない。

「我」さまざま

 「我見」「我執」が出てくる心理、行動は様々な形がある。自己の心理、行動をみつめ、我見から離れていく。ほかでも、書いてあるが、簡単に繰り返しておこう。

◇我慢する
 心の中では、不満・怒りを渦巻かせながら、爆発させないのは、ストレスになる。できれば、不満・怒りがおきた原因の元を客観的、公平に見て、我利・我見に執着していることに気づき、不満・怒りを超える。どうしても、納得できないのであれば、しばらく棚あげにして、その問題から、心を転じた方がよい。坐禅のすすんだ人は、すぐ、できるものである。

◇弁解しない
 自分の正当性を主張し、自分の非をかくそうとする心を離れる。

◇うぬぼれない、いばらない
 自分一人の力でできているのではなく、多くの人、多くの力にささえられている自分を自覚して、謙虚でいる。自己顕示をやめる。

◇他人を裁かない
 自分の信念、宗教観などに固執して、その基準で他人を裁かない。

◇自分を裁かない
 自分で勝手に作り上げた基準、戒律、慣習、宗教観などに固執して、その基準で自分自身を裁かない。

その人に逢う

 相田さんは、足利市の高福寺の武井哲応老師に禅の指導を受けた。相田さんの人生への影響を大きく受けた。そこで、相田さんは、人に出逢うことの重要性を強調している。
「そういう人との<出逢い>をして欲しい。つまり、生涯の師、<人生の師>といえるような人と出逢って欲しい、ということです。人生の師との出逢い、それをわたしは、<絶対者との出逢い>と呼んでいます。鎌倉時代の名僧、道元禅師という方は、絶対者のことを<正師>と呼んでおります。わたしにとっての正師は、同じ足利市内におられた、曹洞宗高福寺の住職、故武井哲応老師です。」 (A17)
「 その人
その人の前にでると
絶対にうそが言えない
そういう人を持つといい
その人の顔を見ていると
絶対にごまかしが言えない
そういう人を持つといい

その人の眼を見ていると
心にもないお世辞や
世間的なお愛想は言えなくなる
そういう人を持つといい

その人の眼には
どんな巧妙なカラクリも通じない
その人の眼に通じるものは
ただほんとうのことだけ
そういう人を持つがいい

その人といるだけで
身も心も洗われる
そういう人を持つがいい

人間にはあまりにも
うそやごまかしが多いから
一生に一人は
ごまかしのきかぬ人を持つがいい

一生に一人でいい
そういう人を持つといい 」
 (B52)

人に逢い、そして超えよ

 正師に会え、とは、釈尊も道元禅師も言う。「よき人にめぐり逢え」ということは、同様であると思う。
 しかし、注意が必要である。指導者の中には、来る人を真に精神的に独立させる誠実な心があるのではなく、自分の収入の継続、自分の組織の拡大、とりまき人間の数を増やす意図のある「我利」(その本人の利益)の精神を持つ宗教者がいる。特に、自分を絶対者と考える宗教者は、独裁者にほかならず、信者を自分への忠誠心の差異により、必ず差別する。そのような、絶対の人は実は、人を差別する俗物であるから、近づかないほうがいい。人はみな本来仏、師に頼るという呪縛からも精神的独立をはたさなければならない。

親は独立を願う
 子供を真に愛する親は、子供がいつまでも親への依存心を持つのをやめさせ、子供が親に依存(精神的にも経済的にも)せず、生きていけるように独立性をとげるよう育てるであろう。禅の指導者の願いも似ている。様々な問題を自覚した人が禅をしたいとたずねて来る。すべての人が、すばらしい仏性を持ちながら無自覚でいるために問題をかかえて、思想宗教に頼る気持ちが起きただけであるから、そこを気がつかせて、自分が「主人公」であることに目覚めさせて、「もう、指導してうただく必要がなくなりました。」と独立してもらうことが、「正師」の願いである。
 まずは、指導者とめぐり逢い、その指導によって、問題をかかえる自分の心をみつめていく。しかし、指導者への依頼心がおこると、自分の心を縛ることになる。正師に導かれつつ、最終的には、自己の根底に「そんな人」(真の自己、仏)を自覚しなくてはいけない。そう指導する指導者でなければならないというのが仏教、禅である。いつまでも、組織、指導者に依存する精神ではいけない。
 相田さんがいう「その人」を、「生身の他人」ではなく、自己の根底にみつめるべきである。自分以外の現実の人間に、「その人」を求めると、一生求め続け、求めることが止まない。自分とは何か。いかに自分の人生を生きるか、については、師と同等、あるいは、師を超えなくてはならない。師はいつまでも、そばにいない。仕事の都合で、師か弟子が遠くへ引っ越していくことがある。師が死亡することもある。不治の病になった時、指導者は、弟子の死の問題を代わってやれない。結局、問題を、自分で乗り越えていかねばならない。

正法の布教のため、多くの人への慈悲のため
 別な意味でも、仏教は、弟子が、師をも超えることを喜ぶ。師に頼る気持ちも、呪縛である。それも、我執であり、それを捨ててほしい。師から、いつまでも独立できなくては、主体的活動が制限される。それでは、正法がひろまらない。それでは、救済される人が限定される。正師は、同じような力のある正師をできるだけ多く育てて、独立させていくのが、釈尊を初めとする仏教の慈悲であろう。
 道元禅師は、正師、如浄禅師に出逢って、わずか2年で、師のもとを離れた。白隠禅師も、正師、正受老人のもとで修行し、悟りを得ると、すぐ去って、二度と戻らなかった。各自が、師とは、別の土地で、慈悲行を始めた。そうして、正法が、広まっていった。
 相田さんの思いも同様であろう。すぐれた師を持て。師の指導を受け、やがて、師から離れて、相田さん独自の境地を開いて、多くの人に、喜びをもたらしている。
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