もう一つの仏教学・禅学

新大乗ー現代の仏教を考える会

禅と詩歌-相田みつを

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ぐち、我慢


 宗教者や偉人の言葉には、「○○するな」「○○せよ」という訓話があります。相田さんの言葉にも、そういうものがあります。こういう言葉は、聞く人の心の状態によって、役にたつこともありますが、縛られてしまって、非寛容な人間にしたり、小さい人間としてとじこめてしまったり(いわゆるマインドコントロールにかかる)、神経症の原因(誤ったはからい)になったりすることがあります。注意が必要です。
 人は、みな、同じ言葉に感動するのではなく、人それぞれに、違った言葉に感じるはずです。相田さんの言葉にも、二種あります。一つの言葉で救われる人、反対の言葉で救われる人。
 仏教、禅では、すべて言葉を超えていくようにすすめています。

ぐちを言ってもいい

 仏教でいう「愚痴」は、意味が違うので、現代語の「ぐち」で見ておこう。「ぐち」とは、「自分」の経済状態、対人問題、地位、扱われ方、思想などが「自分」の希望、「自分」の基準に合致していない不平・不満を他の人に言うことである。相田さんは、あるところでは、「ぐちをいってもいい」と書いている。
 「ぐちをこぼしたっていいがな
 弱音を吐いたっていいがな
 人間だもの
 たまには涙を
 みせたっていいがな
 生きているんだもの」(A84、B55)

ぐちを言うな

 次は逆に「ぐちをいわない」よう言っている。
 「   道
  長い人生にはなあ
  どんなに避けようとしても
  そうしても通らなければならぬ道−
  てものがあるんだな
  そんなときは その道を
  黙って歩くことだな
  愚痴や弱音を吐かないでな
   黙って歩くんだよ
   ただ黙って−
   涙なんか見せちゃダメだぜ!!
    そしてなあ その時なんだよ
    人間としての いのちの根が
    ふかくなるのは・・・・」(A100、D107)
 「あんなにせわしてやったのに
  『のに』がつくとぐちが出る」(A127)

どっち

 こういう言葉をみると、相田さんの本心は、「ぐちはいうな」ということである。
とすると、なぜ、「ぐちをこぼしたっていいがな」という言葉も書いているのだろうか。
 「ぐちを言ってもよい」「ぐちを言うな」の一体、どちらが相田さんの本音だろうか。
 実は、決まっていない。宗教にも戒律という名の我見があり、信者に強制するものがある。「・・・しちゃいけない」「・・・しなければだめだ」ということを強く持っていると、その人を苦しめてしまう。愚痴ばかり言って、人から嫌われて悩む人もいるだろう。愚痴を言わないで、自分一人で我慢したために、自殺した人もいるだろう。相田さんの言葉で救われるという人は、自分の都合のいい言葉の方をとればいいのである。だが、もっと深く探求する人は、どちらもとらない。一方に固執しない。
 愚痴りたい時には、自分の妻・夫(かんのんさまである)に愚痴り、泣きたい時は、泣く。夫などが愚痴る時は、しからず優しく聞いてやればよい。あなたにしか、それができないのだから。
 どちらでなければいけない、と決まっていない。こういう言葉は、受け止める側の境地の低さ高さで変わってくる。「真理の階層性」である。身近い人に、ぐちを言って、ストレスが発散され、相手がそれを受け入れてくれるひろい心なら、それでいい。言わないですむなら、それでいい。ただ、どうしようもなくて、こういう「するな」という言葉に縛られて、助けを求めず、一人悩んで、うつ病になり、自殺するようではいけない。
 自分の苦を救うためなら、どちらかをとればいいが、どちらかを取るのは、自分の我執かもしれない。もっと深く探求したい人は、禅に参じればよい。

弁 解

 「弁解」は、我執の一つの現れである。「自分」の失敗(実はそうでなくても、他人からは、そう責められている場合もある)について、罪が軽くなるような主張、自分だけの責任ではないと主張することである。「自分」の面子が問題である。通常、世間をうまく泳いでいくためには、弁解するものだが、相田さんは、弁解しないほうがいい(A63、C106)と言う。
 「  黙
 いまはなんにも
 いわないほうがいい
 語らないほうがいい
 つらいだろうが
 黙っているほうがいい
  いえばべんかいに
  なるから  」(D74)
 「  冬心
 樹木は風雪の
 中に他人に見せたくない自分の
 あるがままの
 裸をさらす
   ひとことも弁解しないで」 (B56)
 これは高い境地であり、実行するのは、なかなか難しい。あるがまま、自然、はからいせず、小細工せず、飾らず、背伸びせず、いたずらに卑下せず、弁解もせず、やるべき仕事、責任を果たす。評価は、他人にまかせる。弁解は、他人から見れば、醜く見える。本当は、見せないほうがいい、醜い姿(弁解、他者批判、うぬぼれ、差別心、名誉欲心、など)を見せているのに、本人は気がついていないことが、問題である。

我 慢

 仏教でいう「我慢」は、意味が違うので、現代語の「我慢」で見ておこう。
 最近、中学生が「切れる」という。そして人を殺害する、傷つける、という事件が話題になっている。我慢できない子供がふえている。相田さんは、「我慢するんだよ」という。
 「  忍
 がまんをするんだよ
 がまんをするんだよ
 くやしいだろうがね
 そこをがまんするんだよ
 そうすれば
 人のかなしみや
 くるしみが
 よくわかってくるから 」(C62)
 「 娑婆
 娑婆とは忍土
 忍土だから
 たえしのぶところ
 この世は苦娑婆
 楽娑婆とは
  いわない 」(B61)
 たしかに、「我慢強い」のは良い。しかし、悩みも打ち明けないで、一人で我慢して、悩んでしまって、自殺させてはいけない。「我慢」とは、「不満があるがままで、それを爆発させないこと」である。しかし、それでは、ストレスになる。限界がある。価値観の変換で「不満」を昇華するのがよい。相田さんは、こういう。
 「しぶしぶいやいやながらのガマンではありません。本心から納得したガマンです。だから、歯をくいしばって、むきになるガマンではありません。むきになると、息苦しくて長つづきしません。」(A104)
 一部の宗教では、価値観の変換で、通常の不満を昇華させる。徹底して弁解せず、我慢(不満をいだいていないが)した禅僧、白隠禅師がいる。近所の娘を妊娠させたという疑いをかけられたが、一言も弁解しなかった話がある。
 志賀直哉の小説『襖』(ふすま)に要領よくまとめられている。
 「祖父は白隠禅師の逸話を聞かしてくれた。有名な話でその後も色々な人から聞いたが、ある娘がみもちになって親から相手を聞かれるので苦しまぎれに白隠様だといったら、どういうわけだか知らないが親はそれを喜んで直ぐ白隠の所へ行って、その事をいうと、「ああそうか」といったぎりだったそうだ。しばらくして本統の相手が知れたので、親は閉口しきって平あやまりにあやまりながら、その事をいうと、白隠は又、「ああそうか」といったきりだという話だ。」
 仏教、禅では「我慢する」のとは、違う。通常、「我慢」といえば、心の中で、不満、不幸、不条理などを考えて不満、怒り、などの感情を起こしていながら、それを隠して平静を装いながら(このように、すでに心の中では多くの心の業を起こしている)、怒り、不満などの言葉をぶつけ(口の業まで起こす)たり、態度で表して、いじめる、暴力を犯し(身の業まで起こす)たりをしないことを「我慢」と言うであろう。つまり、心の中で、考えているので、穏やかでない。当然、ストレスになる。しかし、仏教や、禅の生き方は、違う。心の業も、起こさない。短時間、起こっても、すぐ気をつけていて、捨てる。起こさなければ「我慢」する必要はない。起こっても、すぐ捨てれば、「我慢」する必要はない。
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