もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
禅と詩歌-相田みつを
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醜い自分・知らない自分
相田さんは、禅の心を詩のような短い文章を書にした。その言葉を考えてみましょう。これまで検討してきたように実際と言葉は違います。すばらしい言葉といえども、言葉にしばられては、また呪縛になってしまいます。そこを注意しながらみましょう。
わからない自分
相田さんは、人間が根本の真理を知らないために、不安があると言う。
「無明というのは、明らかでないということです。何が明らかでないか? 人間にとって、一番大事な、最も根本的な真理が明らかでない、ということ。根本的な真理が明らかでないから不安なんです。」(A115)
根本の真理は、自己の真理である。仏教は自己を知る道である。道元禅師は「仏道をならうというは、自己をならうなり」(『現成公案』)と言う。そういう教えがあるということは、たいていの人間が、真の自己を知らないからである。河井寛次郎は、戦争中に、「第二の自分」を知った。これが「真の自己」「仏性」「自己の本性」である。ふつう、「自分」と思っているものは、「自我」であって、真の自分ではない。だから、人は自分がわからない。そのせいで、何となく不安がある。最近、経営者、国会議員、役人などの自殺があいついでいる。その人たちは、半年前までは、よもや自分が自殺などするはずがない、と思っていたであろう。あなたもそう思っているだろう。しかし、人は自分を知らないのだ。だから、ある時、とんでもない行動をする自分なのである。
「一番わかっているようで
一番わからぬこの自分」(A58)
「 ?
物がいっぱい
ありながら
なにか不安で
もの足らない
もの足りない
なぜ? 」(D50)
醜い自分
相田さんは、自分の醜さを自覚する。これは、仏教者の「無我」に通じるものである。自分の醜さを自覚することは、自分の無価値を自覚することになる。自我が自分や他人を傷つけ、真実を見る目をふさぐものである。そのような自分は「自我」と言う。自我は、利己心、見栄っぱり、自己顕示欲、虚栄心などを起こす。また、自分の失敗を認めず弁解する、隠す、他人のせいにする、など醜い行動をおこすのも自我である。あるいは、背伸びした行動をしようとするのも自我で、それが続くと、燃え尽き症候群となり、休職、休学、自殺においこまれる。
「 自画像
欲張り
強がり
うそつき虚栄
コンプレックス
自己顕示欲
そのくせ大変
気が小さい
みなごちゃまぜ
わたしの自画像」(D124)
「 じぶん
背のびする
じぶん
卑下する
じぶん
どっちも
やだけど
どっちも
じぶん」 (D48)
相田さんは、嫌な自分を自覚している。「嫌な」ところがある自分に気がついている。「卑下」すれば、本来いきいきとしたいのちを縛る、力があるのに、さぼるという怠慢である。自己を悟る力があるにもかかわらず、「私はとても」という僧侶は、禅では卑下慢として、その怠慢を批判される。背伸びもせず、卑下もせず、ありのままの自分で生きるのが、楽だ。宗教でさえも、偉人のすばらしい言葉も、自分や身近な人にも押し付けないほうがいい。一種の「背伸び」「縛り付け」をさせることになるから、精神的に疲れる。自分のしたいことをできずに、おしつけられた活動を強いられるから、心が疲れる。不満がくすぶる。他人(親であろうと、配偶者であろうと)がよいと思うものでも、強いられると、偽善の心に疲れて、心の病気になるかもしれない。いつか爆発する。
我 執
「この自我
この我執
おれと一生
つき合う相手 」(D105)
自分に「我執」(がしゅう)があることに気がついていれば、救いの途上にある。我執に気が付くのは、叡知である。道元禅師は「鞭影しきりにみゆるがごときんば、即ち正路にいるなり」(『四馬』)という。自分に我執があることに気がつかない人が多いのだ。自分のエゴに気がつかず、他人や社会に怒り、不満をいだいていることが多い。宗教者でさえ、そうである。宗教の我執にかたくなに縛られて、他人を圧迫し、苦しめている宗教者も多い。
ただ、我執のある自分に気がついていて、開きなおっている人もいる。それでは、卑下慢である。すべての人間への不信がある。それでは、人間の本質(根底の清浄性)を見誤っている。
自己顕示欲も我執の一つ。次は「いま泣いたカラス(柔軟心)」の一節。
「面子、体裁、照れくさい
みんなまわりを気にしてのこと
なんで気にするの−
少しでも自分を
カッコよく見せたいと思うから
誰に見せたいの−
それは人間
常識豊かな人間
分別豊かな人間
相手はいつも人間」 (B18)
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