道元は「見性体験」のようなことは認めていない
??? 疑問の説=石井修道氏=道元は「見性」を嫌った ???
石井修道氏は、道元が、見性体験を否定したと主張する。多くの論文にあるが、『ブッダから道元へ』の文を引用しておく。
道元は見性を蛇蠍のごとく嫌う
石井修道氏は、道元が見性体験を否定したという。
「最後に「叱咤時脱落」の話による転迷開悟の見性の禅を、道元はなぜ蛇蝎のごとく嫌うのであろうか。
まず第一に、見性の禅は、言葉を無視した体験至上主義があって、真の悟りは言葉で表せないというのに対して、道元は言葉を重視し、道得を大事にする。
第二に、見性の禅は、因果や業を越える悟りを強調して因果や三時業を撥無無するのに対して、道元は深く因果や三時業を信ずることを仏教の正法とし、仏教者として、帰依三宝を説く。
第三に、見性の禅は自己の悟りを先行させ、脱落による自由の自利をもっぱら努めるのに対して、道元は利他の坐禅を説き、自未得度先度他の誓願に生きる。以上の三点は袴谷憲昭教授の説を参考にまとめたものである。
その結果、悟りを強調する禅は、時空を超えた根源的なものに還ることによって、仏教が否定した真我を認める思想構造に原理的には立つことになるのである。
道元は、以上のように「叱咤時脱落」の話に見られる悟りを認めなかったことは明白であろう。いくら強調してもし過ぎることはないので、如浄から学んだ「仏祖の坐禅」を「叱咤時脱落」の話と比較する意味で『宝慶記』の文で結んでおきたい。
仏祖の坐禅というは、初発心より一切諸仏の法を集めんことを願うが故に、坐禅の中において、衆生を忘れず、衆生乃至昆虫をも捨てず、常に慈念を給いて、誓って済度せんことを願い、あらゆる功徳を一切に廻向す。この故に仏祖は、常に欲界に在って坐禅弁道す。」(1)
(注)
- (1)奈良康明監修「ブッダから道元へ」東京書籍、1992年、197頁。
石井修道氏への反論
これが見性体験の否定説であるが、実践の誤解だらけである。
悟道体験を蛇蝎の如く嫌うのは石井修道氏である。石井氏は、嫌っていると、公言している。『六祖壇経』の「見性」と、道元禅の「悟道」を同一視しては困る。道元は、『六祖壇経』の定義する「見性」は嫌うが、「悟道体験」を蛇蝎のごとく、嫌っていない。坐禅や悟りや利他(他者の苦のカウンセリング)が嫌いな学者が、道元に託して坐禅、見性体験、利他行を否定する解釈に曲げている。
自分の嫌いな坐禅、見性体験、利他行を否定したいという強い先入見の動機があるために、緻密に六祖壇経や道元の文章を考察しようという態度ではなくて、考察と論理づけが我田引水的である。このようなことが学問であるとされ、釈尊や道元の真実が否定されてはおかしい。坐禅、悟道は、現代人の苦悩をも救う。多くの人がうつ病などで自殺するが、説明だけではうつ病や自殺は止まらない。自己の真相を体験的に探求できれば救われる。
簡単に反論の方針を述べておく。詳細な反論は別に行う。
- 六祖壇経や道元の文章を先入見なしに、冷静に見ると、六祖壇経の「見性」は、道元のいう悟道体験ではない。道元は、六祖壇経の定義する「見性」を否定している。道元には、悟道を強調する多くの言葉がある。道元は六祖壇経の見性を否定したが、悟道体験は否定するどころではなく、重視した。これが、石井修道氏への反論の要約である。詳細には、次のステップで反論する。
- 道元が見たはずの『六祖壇経』では、「見性」をどういう定義で用いているか。別に、引用して論証するが、『六祖壇経』を詳細に検討すると、その「見性」は、自性の清浄なることを理によって「信解すること」である。修行しないでも見性(すなわち理解)できる。頭の聡明な者はすぐ悟る。そのような知解の「見性」である。これでは、道元が否定するのも当然である。
- 次に道元が「四禅比丘」巻で「見性体験」を否定したと、石井氏や酒井得元氏はいうが、本当にそうか。「四禅比丘」巻で、道元が否定する『六祖壇経』の「見性」は何かを慎重に考察する。一つは、道元も、上記のように、『六祖壇経』の「見性」は、坐禅修行しないでも理で知解するものであると読み取っただろう。これでは、仏教が知解のみになる。果然、道元が否定した。第二に、道元は、「四禅比丘」巻では、三教で一致する内容の「見性」を否定している。道教、儒教では坐禅しない。そういうものと一致する「見性」は、釈尊のいう解脱でもなく、道元がいう「悟道」でもない。これでは、やはり道元は否定する。
- 一方、道元は、「悟道」「悟り」を重視したことを論証する。これは、昭和の正信論争以来、多くの禅僧が主張してきたので、容易である。
以上で、道元が、「四禅比丘」巻で、悟道体験を否定したという説の誤りであることに対する反論となるであろう。
石井修道氏の三点への反論
さらに、石井氏が、上記にあげた三点は、『六祖壇経』や、堕落した中国禅の一部の「見性」には批判として妥当であろうとも、釈尊の解脱・成道や道元のいう「悟道」にはあたらないことを考察するだろう。詳細は省き、方針だけを述べる。
第一に、悟道は、釈尊の初期仏教でも、大乗仏教でも、道元の十二巻本「正法眼蔵」でも、言語道断のところ、戯論寂滅のところとされている。それは思想の論理の理解ではなく、戯論寂滅の体験である。その体験の重要であることは、言葉でいう。それが経典であり、道元の「道得」である。体験がないのではない。体験と他者を同じ体験に導く言葉がある。体験と言葉がある。基礎医学の書物と、臨床医学の現場の医療行為の両方がある。
第二に、悟りは、因果を否定しない。初期仏教の十二支縁起説でさえ、逆観は、縁起(支)が滅するという(1)。それと同じような意味を禅者もいうことがあるだろう。因果や縁起の全般を否定するわけではなく、悟る者は、苦や迷いの縁(たとえば、何かの文字を見て偏見の思考に落とさない)を起こさないというのである。
第三に、利他であるが、利他のノウハウ、資格がないと他者を救済できない。だから、まず、人間の苦悩と治癒の方法を学ぶ時期があるのは当然である。自分が苦の解消の医術のようなものを習得しないと、他者の苦を救えない。まず、医者の資格をとれ、というごときことである。仏教は、苦を四苦八苦に分類したが、現代人の苦悩もすべて、四苦八苦におさまる。悟りを否定する者の仏教では、四苦八苦、たとえば、うつ病や自殺しようという人の苦を救えないだろう(救える論理と治癒法がないから)。「坐禅の中において、衆生を忘れず」とは、坐禅して自己の苦悩の正体を知り解決し、苦の総合的な解決策を悟り、他者の広汎な個別の苦を知り、早く衆生を現実に救済できるようになりたいと願い、そのために修行を怠るな、ゆるめるな、ということである。いつまでも、医学校の中で自利の学習だけで学校にとどまらず、社会に出て実際に治療せよ、というのである。如浄も道元も学者のいうような、口先だけのきれいごとを言っているのではない。
袴谷氏や石井氏は、釈尊や道元の悟りを誤解している。このような学問によって、僧侶の師弟が大学で学び、社会人がその仏教書を読む。学問が日本の仏教をだめにしたことはあきらかであろう。
なお、道元は、悟道(さとり)を重視しているが、この悟道は、白隠がいう「見性体験」と同じであると思う。すなわち、『六祖壇経』の「見性」は論理的な理解であるが、白隠の「見性」は、体験である。それは、釈尊の解脱・成道、大乗仏教の無生法忍、大乗唯識説の真見道(無分別智の発得)と同じであると思う。この学問的解明には、多くの時間(今の学問の現状では百年以上かかるであろう)を要するであろう。だが、体験者には、すでに自明のことであろう。現実の問題を実践的に解決したい人は、体験者の指導を受ければ、数年で證得できるものであろう。
(注)
- (1)龍樹の『中論』でも「十二因縁の生滅を観ずる智を修習するが故に、是の事滅す。是の事滅するが故に、乃至生・老死・憂悲の大苦陰は皆如実に正しく滅す。正しく滅するとは、畢竟して滅するなり。」(26章)という。言うはやすい、行うは難し。このような苦や迷いの実際に縁を断てるようになるには、知性での理解だけでは済まない。「修習」が必要であった。初期仏教は、八正道によって修習した。大乗仏教は、六波羅蜜や唯識観によった。道元は只管打坐によった。その修習の動機づけ、修習の方法を伝達するために、多くの言葉を費やした。
(文字はあっても、理解だけでは他者依存であり、救済の能力がない)
こういう文字を理解する方法がある。しかし、最終的には、言葉で示した事を身につけ、実現し、言葉から離れなければならない。たとえば、ゴルフの初心者には、ゴルフの手引書が必要であるが、ゴルフのプロは、その書物が不要になる。
仏教も最終的には、因果という言葉も思想も意識から消えて、他者救済のために働きつづける。慈悲の行為のまさにその時には、正しい仏教も、因果も思想もなく、それを知る人もない。ただ、慈悲の行為あるのみである。初期仏教経典や道元(「八大人覚」など)は「戯論寂滅」という。『中論』では「空性の法の中には人無法無し。まさに邪見・正見を生ずべからず。」(27章)という。
仏教者は、結局、仏教思想さえもなくなるのだから、最初から何もしなくていいのか。そうではない。現実に苦しむ人、現実に他者を苦しめる人がいるのだから、そのような苦を感じる他者のために働く必要がある。他者に言葉で説く必要がある。そうでないと、仏道を学んでも、次の理由で、自利だけになる。
- 仏典も『正法眼蔵』も、文字の教説は戯論として最後には、否定され、捨てられている。それを理解するだけでは、否定され、捨てられるものであり、究極ではない。
- 仏典や『正法眼蔵』を理解できても、文字の教説が正しいかどうか確信が持てない。仏典や『正法眼蔵』への依存心が生まれる。
- それゆえに、苦悩する他者を救済できるというカウンセリングの自信が生まれない。だから、理解した教説を説くのみであり、現実の臨床的カウンセリングに相当する慈悲行の実践をしない。ということは、文字の理解の自利に終る。それが世界宗教になるような宗教か?確固たる実践があって、確固たる真実を会得した者がいたから、新しい各種の大乗仏典や『正法眼蔵』の文字が生まれて、実践的に体得することが継承された。
- 悟りがないわけではないが、そこを通りすぎて、慈悲に働く者の「今」には、悟りはない。かつての悟りがなかったら、今の慈悲はない。
仏教は宗教であり、他者の種々の苦を救うものである。だから、慈悲を生み出す悟り、文字を離れた悟りを実践的に会得する、戯論寂滅の実相を悟ることが強調された。
(7/04/2003、大田)