松岡由香子氏

 松岡由香子氏(花園大学講師、花園大学国際禅学研究所研究員)は、坐禅は仏教ではない、という立場で研究しておられる。大学内に設置された禅学研究所では、坐禅を外道と考える研究がなされて、その立場で学生に教えられる。曹洞宗も臨済宗も坐禅を重視するが、それが否定されている。両教団の否定である。

初期の道元は誤った=初期の道元禅は外道

 松岡氏は、道元が初期と晩期とで、全く異なる思想を持つという。道元は間違いと犯した小さい人物と決め付ける。

 「最後の道元は、仏に至りてさらに仏を見る覚者ではなく、いつの世にかに成仏を期待する菩薩だったのである。
 十二巻本の道元は、七十五巻本前期の目を見張る思想より大きく後退しており、加えて経論のそのままの解説に過ぎず、道元の独自性はほとんど窺えず、とても道元思想の真髄とはいえない。そうではあるのだけれども、どこかわたしは、仏である道元よりも、菩薩である道元の方が好きである。」(1)

 「だが、このように理解し、修証してきた道元は、衆生接化に失敗した。外道に自ら落ちたのだ。
 なにが間違ったのか? どこで間違ったのか?」(2)

坐禅は因果を否定するので外道

 松岡氏は、坐禅は、仏教ではないという。関東地区の大学の批判宗学の学者も、仏教は十二支縁起説を思惟することのみが、正しい仏教であるというが、坐禅は仏教ではない、という主張では、類似する説である。(大田:だが、批判宗学者も松岡氏も誤解していると思う)  沢木興道氏、酒井得元氏は、道元前期の正法眼蔵により、坐禅のみを主張したが、次の見解は、そういう坐禅観の否定であるから、松岡氏によれば、沢木氏も酒井氏も外道である。繰り返し主張される「坐禅は因果を超越するので外道」という解釈である。  松岡氏は、キリスト者である。 (注)
(大田評)
 東京の仏教系の大学では、仏教は縁起説の思惟のみである、坐禅は外道である、と主張する研究者がいる。
 臨済宗の宗門の学徒が多く進学するという花園大学でも、坐禅は外道であるという立場で、研究がなされ、学生に講義がされる。それを聞く学生は、その時、禅に失望し、大学では禅学を真剣に学ばず、僧堂に入っても、坐禅を真剣にはできないだろう。臨床心理学などで心理的抑圧の影響は大きいことが解明されてきている。ただ、資格取得のために、僧堂にいるということになるだろう。
 同じように、実践を否定する講義を、他の学部の学生も聴講する。将来、何か苦悩しても禅には決して向かうまい。キリスト教か、カルト宗教か、臨床心理士のもとへいくのであろう。仏教や禅が衰退していくのは当然である。おそらく、文字の研究者(しかも仏教に帰依していない学者)が、実践を否定する「仏教」を説き、僧侶と人々に失望させて実践仏教を滅亡させてゆく。インドの部派仏教の時代よりも、ひどい状況が起きていることになる。
 坐禅を否定する学説を唱導する研究が喜ばれている。研究者は坐禅せず、悟りもせず、むしろ、嫌悪するからではないか(その心理学も探求課題である)。仏教や禅が文字の研究だけでわかり、坐禅が外道だというのであれば、僧侶は不要となる。文字ばかり研究して、本を書く学者と大学だけあればすむ。教団も僧侶も仏教の布教には不要ということになる。坐禅を外道だという説は、宗教としての教団の自らの首をしめ、教団の滅亡につながるのに、教団の近くで坐禅を否定する研究が喜ばれるというのは、どうも不可解なことである。
 こういう学説の妥当性を批判していかねば実践仏教は滅亡して、知識(縁起思想のみ)の仏教概論だけになってしまうであろう。学者だけ(大学で雇用される)が残り、教団が衰亡していくのをみるしかない。しかし、坐禅によって、心の病気、種々の悩みが解決していく人を実際見ているので、苦の四聖諦の実現である「坐禅」は、広く社会の人に知ってもらいたいと思う。
 両宗門も、大学でも、禅を含めて実践を否定する研究を奨励するのであれば、宗門や大学の外のどこかでか、禅、仏教の実践が伝えられ、それを支持する研究が行われることを切に願う。