Welcome to My Web Page
03.10.19.更新
あなたは 人目の訪問者です
ホームページへようこそ。赤とんぼの姿も徐々に見えなくなりそうな秋も深まろうとしてゆく時期にページを更新します。夕暮れ時になると我が家の周りにも沢山の赤とんぼが飛び、暗闇が深まり始めるとコウモリが現れてくる光景を部屋の中から何度も眼にすることが出来ます。朝にも夕方にも、当然の事ながらカラスも眼に出来ますが、季節を感じさせてくれるのはやはり赤とんぼと言うところでしょうか。
今年は夏の最中にもかなりの数の赤とんぼが眼に出来ました。このページを書いているのは十月も中旬ですが、十一月ともなれば昆虫たちもほとんどいなくなり、鳥たちも木々も冬支度を始める頃となります。十月中旬にはモンシロチョウをたまに眼には出来ても、蝶も消耗気味で羽は薄汚れて摩耗してしまっています。
写真の白く見える三つの点は木にとまっている白鷺です。平塚にはかつて沢山の白鷺がいたとのことです。昭和十三年(1938年すなわち太平洋戦争開始の三年前)に茅ヶ崎に上陸したと言われる台風によって大量に死んだり戦時中には食糧難のために白鷺を捕まえて食用にしたらしく、旧海軍火薬廠内の旧海軍火薬廠病院、現在の共済病院敷地内には白鷺塚などが平塚にはあります。白鷺塚やその横にある北原白秋の歌碑などは戦後に建てられたようです。このページの最後には白鷺を歌った北原白秋の歌碑の写真も載せていますが、その歌は白秋が昭和四年(1929年すなわちアメリカで大恐慌が起きた年)に作ったものだそうです。従って白秋がこの歌を作った9年後に白鷺が大量死したという事になります。 昭和七年(1932年)には昭和の大恐慌が日本で起き、これはその後軍部が政治に対する発言権を強めるきっかけとなった二・二・六事件の起きた昭和十一年(1936年)の 4年前で白鷺が大量死したのは二・二・六事件の7年前のことになります。当時一世を風靡していた北原白秋は実際に平塚の地を訪れたとのことです。多分多くの白鷺を白秋自身が眼にしたことでもあるでしょう。人々の飢えを幾分か救ってくれたのだったら白鷺に感謝しなければならないかも知れませんし、死んだ白鷺の冥福は祈らざるを得ないかも知れません。平塚の旧海軍火薬廠には沢山の白鷺がいたと言われます。しかし現在ではそこで白鷺を見ることはほとんど出来ません。上の写真の白鷺は花水川でのものです。
同じく花水川にいる鴨です。何羽もの鴨が川面にいました。鴨も食べればおいしい鳥ではありますが、生きて泳いだり休んで身繕いをしている姿などを見てしまうと、何となく食べるのも気後れしかねないほどの姿を見せてくれます。
鴨たちが泳いでいるところを一羽の黒い鳥が飛んできました。私には鵜のようにも見えたのですが、野鳥に詳しくない私にはよくわからない鳥でした。カラスではないことだけは確かです。ただ、飛んでいる姿が上手く写真に収まってくれたという感じです。
身近にある川で結構野鳥が眼に出来ると言うことは、その川にはある程度の小魚もいることの証拠かも知れません。植物プランクトンや藻が増えて海水や川の水が豊かになり、小魚たちが増えればこれらの野鳥の数もそれによって増えてくれることでしょう。そして野鳥たちは私たち人間の眼を楽しませてもくれることでしょう。
秋も深まり行く平塚のちょっとしたスナップでした。白鷺などは飛んでいるときの首をちょっとしなわせた姿など、大変に美しいものです。しかしその姿を写真に収めるにはもっと時間をかけなければお見せすることが出来ないもので残念です。
では、今回のこのページはこれで終わります。次回は冬になってしまっているかも知れません。今年の冬は寒いでしょうか?寒がりの私には気になるところです。
All rights reserved.
Tel/Fax: 0463(32)4971
ホームページ作成はでした。
では中学生・高校生の英語・数学の個人・個別指導を承っています。対象地域は平塚市・大磯町・伊勢原市・二宮町などです。ご希望の方は上記の電話かメールでお問い合わせください。そして
では英文翻訳も承っています。英文の日本語訳あるいは日本文の英語訳などご希望の方も上と同様の方法でお問い合わせください。
は中学生や高校生の方などで自分のホームページを作ってみたい人のお手伝いもします。ホームページ作りを一緒にやってみませんか。ご希望の方はご連絡ください。場所はここです。
共済病院敷地内の白鷺塚と北原白秋の歌碑です