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 近年上映されたステイーブン・スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」と言う映画をご存じの方も大勢いらっしゃると思います。第二次大戦の激戦地であったノルマンジー上陸作戦の中での出来事を描いた映画です。ノルマンジー上陸作戦を描いた映画としては、「007ボンドシリーズ」で名を馳せたショーン・コネリーがまだ端役としてしか登場していなかった「史上最大の作戦(The Longest Day)」という六十年代の映画もあります。こちらの方はどちらかというと娯楽性が強い映画でしたが、「プライベート・ライアン」の方は戦闘場面が非常にリアルでしかも長時間戦闘場面が続く映画であるにもかかわらず見終わった後はすごく心に響くものがある映画でした。

 この「プラーベート・ライアン」の試写会に招かれた当時の兵隊すなわち現在のアメリカの退役軍人の一人は「商業ベースで採算をとりながら作らなければならない制約のある中で、よくぞここまで現実の戦争に近い映画を作ってくれた。ス ピルバーグにこれをお礼として渡してくれ」と言って当時の自分の軍票をテレビのキャスターに手渡す人が衛星放送で写されていました。衛星放送では、アメリカ政府は第二次大戦に従軍した兵士たちから戦争の模様を聞き取り調査して当時の様子についての多くの資料が政府の手によって残されているとのことでした。

 日本も世界全体では五千五百万人が戦死したと言われる第二次大戦を戦い四十万人の死亡者を出したアメリカとの太平洋戦争に突入しはしましたが、日本政府による遺骨収集は行われたと言っても戦後になって日本の元兵士たちからの聞き取り調査のような資料収集が日本政府の手によっては行われてきていないと思います。すなわち二百万人に上るといわれる戦地での戦没者の方達の物言わぬ遺骨は集められても、生き延びて帰還した兵隊達の体験談はそれほど多くはないのです。アジア諸国に侵攻していった日本軍の行動についての当時の記録の大半は欧米諸国によって収集されたものであり、 当時の日本の大本営発表や日本のマスコミの報道記録は戦意高揚のためだけに作られていてその信憑性がきわめて低いものでしかありませんでした。アジア諸国に侵攻していった日本兵たちが現地でどのような行動をとっていたのか、実際の戦闘はどのようなものであったのか、そして兵隊たちは戦地(外地)でどのような行為を行い何を思っていたのかなどは公式記録としてはあまり日本には残っていないはずです。少なくとも、負傷しながらでも死なずに日本に生きて帰還することのできた旧日本軍の兵隊達全員の聞き取り調査を政府が行っていた痕跡はないはずです。なぜ日本の国としても非常に大きな出来事であったかつての戦争についての記録が日本側にはかくも乏しいのでしょうか。

 アメリカ軍による日本本土の空爆の模様や戦艦大和撃沈の瞬間の写真あるいは沖縄の陸戦の模様そして広島・長崎への原爆投下の瞬間の映像などは全てアメリカ軍の手によって記録として残されました。沖縄などは現在も日本の国土面積の0.6%でしかない土地に日本に駐留している米軍の75%が集中している地域ともなっています。そしてそれらの映像や写真を後の人々が見てそれらの是非を語るにしても、またそれをアメリカ人が語るにせよ日本人が語るにせよ少なくとも語るための膨大な手がかりを残していたのは欧米諸国でした。東京都知事の石原慎太郎氏も都議会で「[東京の下町を空襲したり原爆を投下したアメリカが日本を裁けるのだろうか]と東京裁判の冒頭で発言したアメリカ人がいた。この発言は記録から削除されたがこれは重要なことだ」と述べています。 確かに千九百四十五年三月十日の東京大空襲は大規模なもので十万人の人々が死んだと言われます。また私の母は「その夜に東京方面に飛んでゆく飛行機の音が聞こえそして平塚からも東京の空が 明るくなっているのが見えた」と言うほどすさまじいものでもあったでしょう。しかしそのことを自らに認めるほどの良識派のアメリカ人が存在していたと言うだけでなく、アメリカは当時の自国軍の攻撃の模様を全て記録にとどめていたのです。 また、日本は空襲で全国で四十万人が死亡したとも言われますし広島への原爆投下では十万人以上が死亡したとされますが、ではなぜそれほどの犠牲者が 出てしまうまで日本は戦争での敗北を認めることが遅れたのかです。多くの日本人は負けるとは思っていなかったと言うことでしょうし、そう思い込まされていたと言うことでもあるでしょう。 なぜなら当時の日本は「神国」でありアジア地域に展開していた日本軍が劣勢になって敗色が濃くなっても大本営は「勝った勝った」と発表していたからです。

 翻って日本を考えたとき日中戦争や韓国の植民地政策、あるいはアジア諸国民への日本のとった対応など、それら戦争に至るまでと戦争状態の時の状況などを日本側が自らの記録としてどれだけの資料を残していたかというと、それはその出来事の大きさに比べて非常に微々たるものだったのではないでしょうか。すなわちかつての戦争に関しては日本は自前の資料は非常に貧弱なのです。 また貧弱な資料しか持ち合わせていないので事後的にはどんなことでも言い出し始めると言うことにもなります。 確かに、歴史的な事実をどう解釈するかは事実それ自体は一つであっても解釈は色々存在し得ると言えるでしょう。しかし日本の過去の戦争においては解釈する上での事実認定そのものが十分出来ないということなのです。石原慎太郎都知事も、アメリカによる日本本土の空襲については発言しても日本が真珠湾を奇襲攻撃して太平洋戦争の発端を自ら開いたことの方には触れていないようです。確かに東京の空襲は激しかったでしょう。 先のように私の母の話では東京が空襲の時(昭和二十年三月十日だということですが)には「平塚からも炎上する東京の炎の明かりが見えた」とのことですからかなりの 程度の空襲であったことは十分に推測が出来るものです。なぜなら平塚は当時は今より遙かに家が少く建て込んではいなかったとはいえ東京からは六十キロも離れているからです。しかし日本が当時の記録を豊富に残していたなら、後の日本人が自ら自国の行動の是非を判断する手がかりになります。しかし日本の記録に残っている日本軍の行動はほんのわずかでしかありません。中国を初めとするアジア諸国の口から言われるまでもなく日本自らがある程度客観的で戦争の実態を伝える記録を残していたのであれば、日本人としてもその日本軍の行動を現在の目から見たとき日本人としてもとうてい肯定し得ない部分が多々あっただろうと思うのです。しかし記録に残されているのは日本人の残虐さが覆い隠されて抹消された部分とアメリカの圧倒的な物量の前に叩きのめされて行くアメリカ軍が記録した日本の姿の部分です。石原都知事が引き合いに出したその発言が削除されたアメリカの良識派知識人の口調をまねて言えば「当時の日本軍の行動に対するアジア諸国の抗議に対して、当時の自国軍の行動に対するろくな記録も残していない日本はまともな返答ができるだろうか」と言うことになります。 二千二年十二月には外交文書が公開されて戦時中に日本軍の捕虜となって強制労働させられ死亡した中国人の数は六千人以上と発表されました。これらは五十年以上経ってから我々日本人に知らされてくる事実です。ですから上のような私の言葉は日本の政府にとってもあるいは石原都知事にとっても削除したいものでもあろうと思います。しかしそれは事実なのです。

 二千一年二月には日本の実習船えひめ丸とアメリカ海軍の潜水艦の衝突事故起きました。きしくもその日は日米開戦の記念日であり、しかも事故現場は日本が奇襲攻撃をしたハワイの真珠湾沖での出来事でした。事故それ自体は不幸な出来事でありアメリカ側の過失によるものであると思いますが、戦後の日本人にとっては真珠湾がアメリカ海軍の重要な軍事拠点であったことを忘れていた部分があるのかもしれないとも思います。真珠湾の奇襲攻撃に対してアメリカ人は「リメンバー・パールハーバー」といっていたのですが、日本人の方は忘れていたのです。日本人の海外旅行が自由化されたのは千九百六十四年四月以降であり、自由化された最初の海外とはハワイだったそうです。そのころの初任給は四〜五万円でハワイ旅行の当時の費用は三十六万四千円だったという海外旅行の格安チケットを特集したテレビ番組での情報があります。現在のように若い身空でハワイへ行くことなど当時のほとんどの若いサラリーマン達にとってはとうてい叶わぬ夢だったといえます。これは飛行機での海外旅行なので船旅だったとしたらもっとその費用は高くつくはずのものです。戦後間もない頃に「ああ〜憧れのハワイ航路〜」という歌が生まれるのもうなずけるというものですが、戦後の日本人にとってのハワイはただの観光地としてしか受け取られていなかったのではないのでしょうか。そのため日本がかつて真珠湾攻撃を仕掛けたことなど忘れ去られてしまっていたというわけです。しかしなぜかつて日本軍が真珠湾を奇襲攻撃したのかを考えてみれば,そこがアメリカの重要な軍事拠点だったからという理由に思い至るわけですが、戦後平和主義をとった日本の国民としては、冷戦のアメリカとソ連の軍事バランスの下で経済だけを主眼として生きてきてしまい、戦後も変わることなく真珠湾が軍事拠点であり続けていたことを忘れ去っていたために、その地域が危険な海域であるということに注意を払うことを怠ってしまっていたと言うこともあるのではないかと思います。これは私が日本人だから言えることであって、アメリカ人が口にしたらそれこそ日本の多くの国民は腹立たしく思うことでしょう。かつての韓国や朝鮮に対する日本の植民地政策に対して「植民地にされた方にも問題があるのだ」と述べた日本政府の要人(奥野文部大臣:この発言の責任を取らされて文部大臣を辞任)も存在しますが、しかしこの海難事故でアメリカ政府は陳謝や謝罪の念を示しさえしても「日本側にも注意すべき点があったはずだ」などとは全く述べていません。自己の行動で相手に被害を与えてしまったことについて相手側を責めるようなことはアメリカはしなかったわけです。その辺の対応のしかたはアメリカが一枚も二枚も上で日本は非常に下手だと思います。

 そして雑誌『正論』の二千年六月号には『ゴーマニズム』で有名な小林よしのり氏が「歴史を歪める学者・知識人へのわが一撃」と題して「南京虐殺を取り上げて述べている知識人達はその資料の信憑性と確実性が確たるものでないところで語っている」との批判文を載せています。批判するのはよいのですが、知識人を批判するだけでは事足りないのではないかというのが私の意見です。なぜなら「では、日本政府は積極的に当時の事実の記録収集につとめてきていたのか」と言う疑問があるからです。日本政府としては自国に都合の悪い事実も多数存在していると予想される当時の記録はなるたけ収集せずに歴史の闇の中へ葬りたかったのではないのでしょうか。「使用している資料が一次資料でない」という理由で日本の知識人や学者を撃つなら、一次資料となりうる当時の軍人達の証言を収集しようとしなかった日本政府の怠慢をも小林よしのり氏は同時に撃つべきだろうと思うのです。戦後の日本の政治に於いて政権政党の座にあった党はほとんどの期間が自民党でした。ではなぜ歴代の自民党政権は当時の資料の収集を行おうとしなかったのでしょうか。それは、なぜ日本の知識人や学者達は当時の戦争というものについて豊富な資料を与えられていなかったかの重要な理由でもあるからです。すなわち、なぜ乏しい資料の中で自らの研究や執筆活動を進めざるを得ないのかということの重大な理由なのです。そのような資料があるなら小林よしのり氏自身にとっても当時の日本軍の軍人だった人達から「これは当時の我々が戦場で経験してきた日々の姿そのものだ」と言われるようなリアリテイのある漫画が描けることでしょう。当然のことながらそれはアジア諸国の当時を知っている人々からも「これは 当時のありのままの真実の姿だ」という評価をもらえることでしょう。しかしそのようなことを可能にする資料が日本側にはないのです。 むしろ戦争に従軍させられ激戦地で左腕を失いながら、日本に帰還後右手一本で漫画を書いて『ゲゲゲの鬼太郎』で不動の地位を勝ち得た二千四年に八十二才になられている水木しげるさんの従軍体験の漫画の方が本当の戦場と当時の時代を描いているとも言えるでしょう。小林よしのり氏は「資料を批判的に読むことの重要性」を結論として述べていますが、私は当時の資料が十分には残されていないこと、また当時の資料を政府が積極的に収集しようとしてこなかった事実を日本人は、ことに戦後世代の人間はどのように解釈するのか、すなわちその戦争に関する資料がないという事実をどう読むのかを問題にしたいのです。私とても鉄は言うに及ばず紙さえも大幅に不足していた戦後のどさくさのさなかにそのような資料収集を日本政府は行うべきであったなどと無理を言うつもりはありません。戦後すぐの頃には新聞の紙面も紙不足のためにページ数が少なかった (たったの2頁ほど)と言われますし、ソニーの井深大氏がテープレコーダーを開発するに際しても、磁気のテープを作るための鉄粉をまぶせる紙を調達することもままならず、井深氏と二人三脚でソニーを育て上げた 盛田昭夫氏の親戚に紙問屋の人がいるからとかで紙をかろうじて入手できた話などが後日談として『我が友本田宗一郎』の中で井深大氏から語られているような時代だったはずです。日本の百年の歴史を示す『データで見る日本の百年』というデータ集においてすら、敗戦直後の時点での経済データは欠落しているのが事実です。また平成12年版(2000年度版)の『経済白書』142頁には[一人あたり実質国民所得の推移]のグラフが掲載されていますが、千八百八十五年から千九百九十八年にかけてのそのグラフにおいても、千九百四十五年の所はグラフの線がとぎれています。このグラフでは九十八年にそれまで戦後と言われる時代にほぼ一貫して上昇してきた一人あたり実質国民所得が下降に転じた様子も描かれていますが、バブル経済崩壊後の落ち込みなどとは比べものにならないほどの社会変動が四十五年には起きていたことが明らかです。日本政府にもまた民間にもデータなどを収集している余裕などどこにもなかったはずです。窮乏した国民の生活をどう立て直して行くかだけでも手一杯なはずだったからです。

  しかし、戦後の千九百五十年代になって政府は当時軍人だった人たちに対する軍人恩給の手続きを採らせました。そのため少なくとも六十年代には当時の戦争において誰が軍人として徴用されていたのかをかなり正確に政府は把握できていたはずです。したがってその後においてその当時の軍人達の証言を集めようと言う気さえあれば日本政府にそれができないと言うはずのものでもなかったのです。その時点では日本はすでに独立国家として国際舞台に復帰していて証言集を編纂する上でもアメリカの干渉を受けることなく行えたはずなのです。アメリカの占領政策は終わっていたからです。したがって日本が世界第二位の経済大国になって大阪万博を開くほどの経済力の付いた七十年以降においてさえ日本政府が当時の戦争体験者の証言を収集しようとしてこなかったことは問題であろうと私は思うのです。戦争当時軍人であった、あるいはまた自分が上官であった人であればあるほど、戦後はそのことをなるたけ人に知られたくないと思っていた軍人達も多かったはずです。また自分は生き残ってしまって死んでいった戦友達に申し訳が立たないと考える (このように考えることを英語ではサバイバル・ギルテイと呼ぶそうです。生き残ってしまったことが罪深いと言う感覚に陥ることですが、二千五年四月に起きたJR西日本の尼崎事故では、奇跡的に生き残ってしまった人も自分をそのように感じてしまう人がいたと、以上のような英語名の症状をテレビが報じていました)軍人達も大勢いたはずです。そのような条件の中では資料を収集しようにも正直な話が聞けなかったかもしれません。しかし資料収集を行わないよりも行った方がよかったと思います。確かにそのような作業を行うには多大な労力が必要とされるであろう事は私にも推測はできます。私は学生時代に三大新聞の一つで世論調査のアルバイトを三年ほどしていましたが、そこでの経験でも四千通ほどの調査票を封筒に詰め封に糊付けをして切手を貼る作業だけでも一人でその仕事を完了させるためには二ヶ月間という日数が割り当てられていました。戦地からの引揚者は六百六十万人にも上る(この数字は当時の日本の人口の一割、また戦争間近の頃の東京都の人口は六百万人と言われます。また六百六十万人の引き揚げ者のうちで軍人が半数民間人が半数と言われます。)ので、たとえ料金後納でアンケートの封書を出すにしても、今のようにコンピューターが普及していない時点で行うには、住所と宛名書きやらなにやらで相当の月日と人員が必要とされたことでしょう。たとえコンピューターでデータベースを作るにしても、その作業は六十年代末の国会図書館の全書籍の蔵書目録すなわち四百万冊に上る蔵書目録を作るのに近いくらいの作業量になったことでしょう。 近年ではパソコンが普及して年賀状などの宛名書きを自分で行う人も多いので、年賀状作成ソフトで六百四十万人分の住所録作成と宛名書きをするには膨大な労力と時間がかかるであろう事を想像できる人も多いのではないでしょうか。したがってアンケート調査を完了し証言集を完成させるまでに必要とされるスタッフの人数は何百人掛かりで何年間にも渡る作業になったかも知れません。私も学生時代にゼミの教授の出版の手伝いをしましたが、何人かの(十人には満たない)先生たちに論文を書いてもらってつくる一冊の論文集の出版にも何回もの打ち合わせの会合が持たれました。神奈川県傷痍軍人会は『傷痍軍人の戦争体験記』という本を平成十三年一月一日に出版しています。そこには三十六人の傷痍軍人の方々と九人の傷痍軍人の妻の手記が載っていますが、その本のページ数は発刊の言葉とあとがきを含めて三百四十三ページです。 六百四十万人の人たちが一人当たり五頁を書いたとしても、全体では三千二百万頁にもなります。本の版の大きさは『経済白書』などと同じ大きさのA5版の本です。そして『経済白書 』とて四百頁そこそこのものです(『経済財政白書』になってから本の版はA4版に拡大されて、三百二十頁ほどのものに変更されましたが、私が例に挙げているのはそれ以前の『経済白書』の時代のものです。誤解のないように付け加えさせていただきます)。この数字からかつての引揚者の数を勘案して考えれば、どれほど膨大な資料を残すことができていたかは明らかなことでしょう。この『経済白書』にしてかれこれ十万冊分に近い資料は残せたはずだからです。兵隊一人一人に十分な紙幅を与えて 思い残さず体験談を書きたいだけ書いてもらったらその量はもっと多くなったかも知れません。 そしてこの私のこの言い分が間違いだというのであれば、国会図書館なりなんなりにそれだけの分量の資料が保管されているところがあることを示して頂ければいいわけです。

 二千二年に売り出された五木寛之氏の朝鮮で敗戦を迎えてから日本に引き揚げてくるまでの体験談が『運命の足音』の中に載っていますが、A5版のその本で十一ページから三十七ページがその部分、すなわち小学生が見た外地での敗戦体験と引き上げという事実に対する体験談だけでも二十七ページくらいのものは書けるというわけです。先の『傷痍軍人の戦争体験記』においても、もっともページ数が多い手記でも二十八ページです。多くの手記は三ページくらいのものがほとんどです。したがって戦地へ行っていた当時の引揚者全員がなにがしかの記憶を思い残らず書いたとしたらその資料の分量は、後世の研究者達があちこち探し回ってやっとの思いで見つけ出したなどと言うことからはほど遠い膨大な量であることは明らかです。また一人の物書きが一生を費やして書き続けたとしても到底太刀打ちできる分量でもありません。夏目漱石も川端康成も三島由紀夫もそして司馬遼太郎も十万冊もの作品群は残し得ていないのです。またどれほど優れた小説家といえども数百万人もの名前がある登場人物の小説を書き上げることは不可能なことでしょう。世界の小説の中で最も登場人物の数が多いのはトーマス・マンの『魔の山』だそうですが、それですら数百万人もの登場人物ではないはずです。しかし一つの国が行う戦争とはそういうものになるのです。二千二年八月時点での国会図書館の所蔵点数は概数で七百五十万冊です。国会図書館の所蔵点数はここ三十年ほどで三百五十万冊ほどの増加と言うことになります。これには書籍だけでなく雑誌や週刊誌そして漫画本、VHSのビデオ テープなど全てが含まれます。しかもこの数字は現在では音楽CDやパソコンのCD−ROM、DVDなどの電子媒体をも含めた数字です。そして二千年度における所蔵増加数は年間で十八万三千八百七十一点だそうです。音楽CDやパソコンのCD−ROM、VHSビデオテープ、DVDなどを含めての数字ですから書籍はそれよりも少ないことになります。以上は私が国会図書館に電話して確認した数字ですが、十万冊という数字は書籍や雑誌などの出版活動がかつてより遙かに多くなっている現在に於いても年間の出版数の半分を優に上回る数字であることはおわかりいただけることでしょう。ちなみに岩波書店の年間の新刊点数は七百点、講談社の年間の新刊点数は千八百点、角川書店の場合は単行本で六百〜八百点、『新しい歴史教科書』の出版元の扶桑社の場合は二百点ほどとのことです。(私の問い合わせに協力してお答えいただいた出版社の方にはお礼を申し上げます)。当然の事ながらそれだけの分量の資料を残すには費用もそれだけかかるのですが、しかしそれは日本の国としてやっておくべき事だったのではないでしょうか。そして世論調査の場合などは標本調査で行う場合が多いですが、このような資料の収集は当然のことながら国税調査のような全数調査すなわち当時の軍人すべに対する調査であるべきです。そのような条件の下で軍人恩給支給対象者全員に調査ないしは経験談の書面を送って書き込んでもらうことはできたはずです。それとも軍人というものは国家のために軍人にされた人々やその遺族の人々にとっての生活の保障ではなく当時のことをそれらの人々が余り語ることがないようにと言う意味での国によるそれらの人々への口止め料だったのでしょうか。

 そしてもしこのような資料の編集を日本の民間機関や民間企業が政府の肩代わりで行えたというのであれば、政府でなくてもそれを行ってほしかったと私は思います。しかし現実には日本の企業とて戦時中に捕虜となって日本企業の中で半ば奴隷のように強制労働させられた欧米人の捕虜達に対する賠償さえまともに行えていないのが実状です。第二次大戦の時点で日本と同盟国であったナチス・ドイツ以後のドイツの企業は、やはりドイツの捕虜となり強制労働をさせたアメリカ兵などに多額の賠償金を支払っているにも関わらずです。アメリカは戦時中強制収容した日系人に対してクリントン政権は謝罪し賠償をしてもいます。 そのような中で日本の側には自国の手持ちの行動記録がほとんど残されていないという知識人や学者にとっての条件を日本政府自らが作っておいて、当時の状況を研究したり当時のことを分析しようとしている知識人や学者だけをその資料性の根拠を問題にして批判するのはアンフェアーだと私は考えます。そして二千年時点でそのような資料を日本政府が収集しようとしても、かつて軍人であった人たちは高齢であり(三島由紀夫は昭和元年の生まれで四十五歳すなわち昭和四十五年に市ヶ谷の自衛隊本部で自決しましたが、当時の戦争で戦地に赴く準備として遺書をしたためていました。しかし出兵間近で終戦となり、その遺書についての自己評を後に書いたりしています。したがって当時軍人となって外地への出兵経験がある人々の多くは二千年時点では七十五歳以上になっていると考えてもそれほど大きくは間違っていないでしょう)病人であったりすでに死去されている方たちも多く、十分な資料を整えることが不可能であろうと思えます。すなわち手遅れなのです。そのことは軍人恩給支給対象者の年度毎の人数を政府が発表してくれればはっきりとわかることでしょう。高齢のために死去された方たちが増えれば恩給支給対象者の人数はその分減って行くからです。そのようなデータは年金の支給などの手続きをする現況届けの提出先である社会保険庁かあるいは恩給局が掌握しています。 平塚市の傷痍軍人会も二千六年四月には会員の高齢化のために会を継続することができなくなり解散したりしています。このように日本政府が当時の事実をある程度客観的に見ることのできる資料を残そうとはしなかったことは、それは政府が「なにもしない」と言うことで「日本の歴史を歪める」だけの効果はあったはずです。知識人や学者が根拠のはっきりしない資料に基ずいて意見を述べることで日本の歴史を歪めていると言うのであれば、日本政府の方もちゃんと自分の意向に沿った形で日本の歴史を歪める方策を選んでいたわけです。すなわち戦闘行動やどのような行為を軍人達が戦地で採っていたのかの実態を示す事実に基づく正確な記録を後世の人々には残さないと言う方法によってです。

 そのような日本政府のこれまでの方法はある意味では日本にとって都合が良かったかも知れませんしうまくやったつもりなのかも知れませんが、逆に「南京虐殺があった、なかった」の議論やあるいは「従軍慰安婦は強制連行であった、なかった」の議論が始まったとき、他の戦闘行動や日本軍の行為に関する膨大な記録が存在するなら、「そのような膨大な記録をつぶさに調べてみても南京虐殺を伺わせる記述は見あたらない」また「従軍慰安婦問題は強制連行であるという事実は見あたらない」と弁明もできるでしょうが、そもそも戦地での日本軍のその他の軍事行動や軍人達の行為の記録もほとんど残っていないところで「南京虐殺の関連資料はない」「従軍慰安婦は強制連行ではない」と言ってみたところで誰も信用はしないことでしょう。 日本側にとって不都合な情報は記録収集していない、そのためそのような記録資料は存在していない、従って記録がないのであるからそのような事実は存在しなかった、と言う論法で誤魔化しになるのです。すなわち日本側の言葉の説得力はゼロに等しいものになってしまうわけです。 また慰安婦を現地調達などせずに日本人女性を日本国内から連れて行っていたなら慰安婦問題は国際問題にはならなかったのです。南京虐殺だけに話を限定しても南京虐殺の事実が存在したと言う事の論証よりも南京虐殺はなかったことを論証することの方が遙かに論拠が乏しいのです。たとえ他の戦闘行為や戦地での日本軍の行為に関する多数の資料が存在し南京虐殺の資料だけがなかった場合であっても、「日本は意図的に南京虐殺の資料を抹消したのではないのか」と疑われることすら考えられるのです。ですから南京虐殺の存在を指摘している学者の論拠を崩してみたところで、南京虐殺が存在しなかったと論証するまでには遙かに遠い道のりがあるというわけですし多分その道は行き止まりだろうと思います。またそのような条件の下であえてそのように国際舞台で主張しようと日本側が考えるなら相手国の反感や被害を受けた人々の肉親関係者の反論を買うか反感を通り越して失笑を買うだけのことでしょう。それとも「日本側には他の戦闘行為や日本の軍人による陵辱行為の記録も一切無いので、そのような行動や行為は当時の戦争においては全く存在しなかった」と誤魔化そうとでも言うのでしょうか。しかし巷では帰還した軍人達は個人的レベルではこれまで種々の行為について日本国内で語っていたのです。それらが記録としては残されてきていなかっただけです。

 そして戦後「教え子を戦場に送るな」をスローガンに発足した日教組の教育を偏向教育と呼ぶのであれば、上のようなスタンスを採っていた日本政府の下で文部省の検定を受けて発行された歴史教科書というものも、政府の意向(文部科学省指導要領)に添う形でのその当時の部分に関しては偏向させられた教育内容であったのではないのでしょうか。 政府自身の立場が偏向したものであったが為に戦時中に対する十分な資料収集が行われてこなかったのだとも言えます。 小林よしのり氏は、政府が資料収集して来なかったことを偏向であると非難する立場に果たして与する人なのでしょうか?戦争世代以後の日本人が当時の戦争を語る場合においては、我々日本人は上のような不十分な知識しか与えられていない条件の中でしか当時の戦争を語り得ないのだと言うことだけは心しておくべきでしょう。すなわち戦争の実態とその全貌がどんなものであったのかを正確に知った上で発言できると言うことではないのです。そのような意味では戦後世代の日本人は当時のことについて「無知」ではありますが、自分たちはそのことに対しては無知なのだということを 自分自身で自覚することはできます。ソクラテスの「無知の知」といったところです。すなわち「私は自分が何も知らないということを自分自身で知っている」ということです。「わたしは知らないということを知っている」といってもそれはしらばっくれることではなく、知らないからこそアジア諸国からの日本への批判の声には最大限耳を傾けるべきだということです。当時の戦争から年数がすぎればすぎるほど当時を知る人も少なくなり記憶も薄れ、後の世代の人々には以前の時代を知ることが困難になってゆくのは当然ですが、記録さえも残されてはいないということはそのことを決定的なものにしてしまったと思います。戦後の日本人が当時のことを語ろうとする場合には当時の出来事に対する事実認定のすべが無いので自分の主観しか頼りにできず、主観はその時々の時代の雰囲気に左右されてしまうものなので、時代状況次第で揺れ動いてしまい一定の評価を自らの国の出来事や自らの行動に対して下すことができないのです。そのような日本の国内状況は日本人同士の中ではあまり問題にしなくてもすむのかも知れませんが、日本人が一歩日本の外へ出ていったとき、当時の問題を諸外国から指摘された時にはしどろもどろの対応しかできないと思うのです。なぜなら日本人自身があまりにも知らなすぎる、あるいは知らされていなさすぎるからです。すなわち知ろうとしても知るすべを奪われているからです。そして人を殴った人は自分が殴ったことを忘れても、殴られた人は殴られたことをいつまでも覚えているものです。

  日本の左翼運動や新左翼運動が退潮してゆき冷戦構造の崩壊でソ連邦が消滅して行く課程で、マルクス主義の歴史観を打破できそうな状況が日本国内に生まれたからと言っても、そのことによって日本の帝国主義時代に日本軍がアジア諸国で行った行為をもみ消したり誤魔化したりすることはできないはずのものですし、国際社会の中でそれらを正当化できる条件が生まれ出たと言うことにもならないと思います。 マルクス主義的歴史観が退潮したからといって日本の皇国史観が世界の思想潮流になりえるわけでもないからです。なぜなら冷戦構造の時代に世界を覆っていたマルクスの考えに依拠した社会主義ないしは共産主義に対峙していたのは日本の皇国思想ではなく自由主義と資本主義だったからです。すなわち冷戦時代に社会主義あるいは共産主義の対極に位置して世界を二分していた思想は日本国内ではいざ知らず世界に於いては日本の皇国史観ではなかったのです。もしそのように考えたとしたら、その発想はあまりにも短絡的で、自由主義圏の盟主ともいえるアメリカとて従軍慰安婦の問題などでは人権侵害として日本を非難する側に回ることであろうと思います。少なくともアメリカだからといっても日本の過去の行為を全面的に肯定するとはとうてい思えないからです。

 そして石原慎太郎東京都知事は「都内で第三国人による凶悪犯罪が増えている。東京に大きな災害が起これば第三国人がきっと暴動を起こす」と言う理由で二千年の九月三日には陸・海・空の自衛隊員七千百人を動員する都の防災訓練を行うとマスコミで伝えられていますが、第三国人と言う言葉がどの範囲の人々を指しているのかがはっきりしないことだけではなく、第三国人の凶悪犯罪と言っても、第二次大戦において日本軍がアジア諸国でしでかしていたことからすれば、採るに足らないことだとも言われることでしょう。防災訓練に名を借りた治安出動の準備とも思えてしまいます。しかし阪神大震災の折りにも第三国人がアジア系の人々を指しているなら、第三国人達は暴動などは起こしていなかったにもかかわらず日本人の危機意識だけをいたずらに煽る行為といえます。それよりも第三国人といわれる人たちと日本人との間であまりにも大きな貧富の差が生まれたり、あるいは法律や制度の面で大きな格差が付けられたりして、そのことが原因の日々の不満が爆発して暴動という結果にならないように日本の政治や行政が心がけるべきだと思います。私は第三国人の犯罪が犯罪ではないといっているのではありません。ただ、日本がかつて行った軍国主義時代の自国軍の行動や行為によってアジア諸国が受けた被害は被害として認めそして謝罪した後に、日本国内でのそれら第三国人の犯罪は日本人が引き起こす同様な犯罪と同じものとして取り締まればいいだけのことだといいたいのです。第三国人の犯罪といってもその裏で日本人が手引きして引き起こされている犯罪も数多くあるようです。日本国内では不利な条件にある第三国人が日本の暴力団に利用された場合などです。かつて関東大震災の時には、「韓国・朝鮮人が井戸に毒を入れる」というデマによって、日本在住の韓国・朝鮮人の人たちが日本人からひどい目に遭わされたという事実があります。なぜそのようなデマが当時の日本人にそっくりそのまま信じられてしまったのかと言えば、日本人自身に在日の韓国・朝鮮人の人たちから恨まれても仕方がない扱いを彼らにしているということがわかっていたからであろうと思います。そうでなければ、日本人自身の心の中に「なんで?」という疑問が生まれてもおかしくないからです。そして二千年の九月三日頃は三宅島の噴火による全島民の避難が行われている時期であり、これは訓練ではなく本番の災害だと言うことです。都の防災訓練の費用は三億円と伝えられていますが、三宅島などの実際の自然災害を受けた人々にも十分な予算を割いてもらいたいと思います。私は東京に大きな災害が起こらないことを祈ります。ですが万が一起こってしまったとしても、そのときには第三国人と呼ばれる人たちからも感謝されるような行動を自衛隊が採ってくれることを切に望む者です。すなわち「重傷の人から優先的に搬送する」というような判断はしても、負傷者が「日本人だから、第三国人だから」というような区別はすべきではないと思うのです。

 このような欧米側からのものばかりに偏った過去の資料だけを見せられた日本人は、何かしら被害妄想に近い心理状態になるのではないでしょうか。日本は別に悪いことをしていなかったにも関わらずアメリカによって大打撃を被ったという心理状態です。自らの行動の部分で記録として残されているところが欠落しているが為にこのようなことにもなろうかと思います。私の父も中国大陸からニューギニア戦線(「ジャワの極楽ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と唄われた戦地です。)へと従軍し激戦地で輸送船が撃沈され三日三晩漂流の末に救助されて傷痍軍人となった一人です。 撃沈された船は当時多数あったわけですから、遺骨収集しようにもそれは困難を極めるはずです。戦争の話は私は父からさんざん聞かされたとはいえ、父は「内地にいた人間は戦時中大変な思いをしたと言うが、俺たちが経験したことなどは内地にいた人間に話したってわかりはしない」ともよく言っていました。先の軍人恩給の支給手続きをする際には「おれは国のために戦ったんだ。国から金をもらおうなんておもわない。おまえらは欲どしい」といって母をてこずらせもしました。そして手続きをするにも激戦地であったため上官も戦友もその多くが戦死してしまっていて自分が部隊に所属していたことを証明してくれる人を捜すのに苦労したようです。 父は輸送船が爆撃を食らって撃沈され漂流した後で救助されたのですが、同僚の兵隊達は漂流中を救助される間際までは生きていたのに助け上げられたと同時に緊張が解けてしまって息を引き取った人がかなりいたようです。「上官が生きていて証明してくれたら、負傷の度合いから考えてお父さんの恩給はもっと多かったはずだったんだよ」と母はいいます。このようないきさつのある我が家にとっての軍人恩給ですが、現在は年老いた大正生まれの両親にとって大切な生活の糧になっていることは事実です。 (軍人恩給を長年もらっているとは言っても、それで戦争で受けた父の体の当時の大腿部の大きな切り傷や背中の弾痕が消えるわけでもありません。 その傷は父が死ぬまで消えずに残るものです。中国や韓国をはじめとするアジア諸国には日本は戦後、戦争の賠償という名目ではなく政府開発援助 と言う形で過去の迷惑料の支払いとも言えるものを長年行ってきました。しかしそれでも過去の戦争の傷は消えてなくなるわけでもないでしょう。中国や韓国が二十一世紀になっても日本を非難するのは、その古傷に再びふれようなことはしないでくれという抗議に私には思えてきます。) そして私の祖父母は戦争のためにそれまで作り上げていた資産(貸し家三軒)の 全てを焼失し(平塚が空襲に見舞われる頃には軍も鉄が極端に不足していたようで、焼けた貸し家のトタン屋根をやはり空襲の被害を受けた近所の人が譲ってくれないかと祖母に頼んだそうなのですが、 焼けトタンを移動することも憲兵がうるさくて移動できなかったとのことです)、老齢年金制度もなかった頃なので竹細工などの内職をしながら(私もその手伝いを幼少期[小学生になる以前]にしながら過ごしましたが)生活の資を得なければならなかった電気技師だった明治生まれの私の祖父や祖母の晩年の姿よりも遙かに恵まれた老後であると私には思えます。 祖父は平塚に当時あった紡績工場の電気技師長などをしていたようですが、空襲のために逃げ遅れた女工さん達を助けようとしたり、また不運にも多くの女工さんが亡くなってしまったようです。女工さんの多くは東北地方から平塚に来ている人たちだったとも母から聞きます。

 そんな私の家族そして両親ですが少なくとも団塊の世代と言われる人たちの父親たちの多くは戦争にかり出された世代でした。私の家族ばかりでなく団塊の世代と呼ばれる人たちが育った多くの家庭にも私の家族が経験したようなことに類することは大なり小なりあっただろうと思います。それらの徴兵された団塊の世代の父親達は一銭五厘の価格でしかなかった赤紙(当時の召集令状とされたはがき)一枚を受け取ることによって強制的に兵隊にさせられたわけです。 当時の日本は現在とは違って徴兵制の国だったからです。日本の一般の兵隊は家畜並の扱いしか当時はされいませんでした。家畜を運搬する貨車で兵隊達は戦地へ輸送された事実もあるからです。極端な場合には一頭の軍馬の方が一人の兵隊よりも大切にもされました。なぜなら兵隊は一銭五厘で集めることができますが、軍馬の方はそうもいかず貴重だったからです。 私の父は若い頃馬を一頭買って持っていたそうですが、それも軍に徴用されたそうです。「気性の荒い馬だったので乗る人は大変だったろうが、多分戦地で死んだだろう」と言うことで 、戦後になっても馬は返還されることはなかったとのことです。また従軍慰安婦の制度は当時の日本の軍部が公式に認めた制度だったということは過去の資料が最近発見されてわかっていることですが、「従軍慰安婦が強制連行ではなかった」という言い分は、当時戦地にかり出されて行く日本の兵隊とてもが強制的に召集されており(徴兵を拒否すれば本人ばかりかその家族までもが非国民とされ憲兵に徹底的にマークされ たり近隣社会からつまはじきされて生活は惨憺たる目に遭わされていたからです)、強制的に入隊させられた初年兵達は「精神を鍛える」との名目で鍛錬棒で殴られたりしていたのですから、現時点から現在の風俗嬢を語るような感覚では全く語り得ないものであったろうと思います。そして当時中学生や高校生の学齢期にあった若者達は勤労動員で軍需工場などで働かされ、食事などは現在のグルメ時代からすれば非常に質素だったではあろうにしても当時としては上等な食事(白米のご飯で肉がおかずに付く)がとれた軍人達(将校)や学生を引率していった教員達(将校と同じ待遇)よりも遙かに粗末なもの(一般の兵隊と同じで肉など口にすることはできない。ご飯は代用食の大豆で白米ではない)でしかなかったということも事実です。私の母も 駆け出しの教員で当時自分の教え子の学生達を連れて軍需工場へ勤労動員に連れていったそうですが、「腹が立って学生達と一緒に食事をとった」そうです。私の母が教員になろうとしたきっかけは、母が子供の頃学校で、 運動会の時などにお菓子を沢山持ってくることのできる裕福な家庭の子供とお菓子などもってこれずにいる貧しい家庭の子供が一緒にいて、学校の先生が裕福な子供に「その お菓子少しくれ」といってとったのだそうです。母はてっきりその先生が食べてしまうのだろうと思ったそうですが、先生はそのお菓子を貧しい子供に与えたということでした。そのことに「先生という職業はいい」と感動して教師という職業にあこがれと夢を抱いて母は教員の道を選んだということです。そして戦時中から戦後へと日本の教育が激変する中で、母もそれまでの教育が否定され教員をやめようかと悩んだ時期もあったようです。母は自分が進学を控える頃には学校の教員から「おまえは師範へゆける能力はあるが、親戚筋に自由主義者がいるからそれはできない」といわれて教員養成所へ行く道を選んだということです。この時代はすべてが戦争と絡んで多くの人たちの運命が変えられてしまう時代だったともいえます。

 そして上のように当時の社会は階級制がはっきりしており階級による待遇の違いが明確だったようです。またそれまで労働などした経験がなく強制的に急に兵役に就かされて労働させられた兵隊は働きぶりが悪いと監視している上官に殴られることは日常茶飯事のことだったようです。「上官の命令は朕(天皇)の命令である」とされた時代だったからです。自分の上官には絶対服従の時代でした。職業軍人達にとっては我が世の春だったのかもしれませんが、そうではなく急に国家の命令でかき集められた一般の兵隊にとってはろくな目には遭わない時代だったといえるでしょう。そしてろくな目には会えなかった人の数の方が多かった時代だったともいえるでしょう。また大学生であった世代の人々は戦況が厳しくなった時点では学徒動員で出陣させられ多くの優秀な(当時の日本で大学生になっていた人の割合は今よりも遙かに少なかったからです)人材が戦争で失われもしました。優秀な人材である人ほど特攻隊として玉砕もしました。そのような戦に命を懸けている人たちが大勢いた戦争が終わる終戦の日には、平塚市内で空襲の被害を受けた学生達のための支援のお金が各学校で集められていて母は各学校から届けられてきたお金を一括して預かっていたそうですが、空襲で本校社が焼けてしまって仮校舎で終戦の玉音放送を聞くために学校の階下の部屋へ皆と一緒に行った折りうっかりそのお金を二階の部屋に置いたままにして盗まれてしまったそうです。当時のお金にして七千六百円だったとのことです。当時としては大金(物資不足の日本においての当時でも、それだけのお金ならハーレーダビッドソンクラスのオートバイとそれにひかせる荷車が優に一台ずつ買える金額)ですが母はそれを個人で (母はまだ教員として永年勤めたという年齢でもなかったので祖母に泣きついて工面してもらったのかもしれませんが・・)弁済したということです。母としては盗まれたお金の額が大きかったということよりもこんな時にまで盗みをする人がいるということの方がショックだったとのことです。どんな時代状況の中に於いても私欲だけで行動する人は存在するというわけです。終戦の日であろうが空襲のさなかであろうが、戦争で命を亡くして行く人間がいた一方で盗みを犯す日本人は存在しうるということなのです。

 では日本人にとってもこんな時代が現在の目から見て理想的な時代といえるのでしょうか。しかも戦時中には兵器を製造するための原料にするために一般家庭の貴金属や蚊帳の釣り手に至るまでが供出させられました。 寺の鐘楼の鐘も供出されました。東京では空襲を受けたときに家屋の延焼を防ぐための防火帯を作るために強制的に取り壊される民家もありました。右翼団体の人がいかに戦時中を美化したいとしても、では「機動隊の装甲車に転用するから」という名目で自分たちの街宣車を有無をいわさず没収されたら現在の右翼団体は抗議の声を上げるのではないのでしょうか。しかし戦時中においてはそれが当たり前のことだったのです。そうすることが国のために尽くすことだとされていたのです。そして小林よしのり氏は「従軍慰安婦は強制連行ではなかった」と当時を正当化するような『台湾論』を出版しそれが何部売れて売れ行きは好調であるというような話を週刊誌誌上でしていますが、ではその著作権や印税をすべて国家に強制的に没収されてもいいのでしょうか。当時を正当化するなら当時の国民が強いられていた状況に自分の身を置いてみる経験も必要なのではないのかと私などは思ってしまいます。右翼団体の人たちにとってもまた小林よしのり氏にとっても、現在の日本の法体系の下では国家といえども個人の財産を理由もなく没収する権限はない訳なので戦時中のような憂き目にあう心配はない状態だということを十分承知した上で当時の時代を賛美したり正当化したりしているだけだと思います。資本主義社会は私有財産性を根底に据えている社会だからです。しかし戦時中の日本は戦時統制が行き届いた統制経済で、現在のように私有財産が基本的に保証されてはいなかった側面が存在していたので当時の時代状況に幾分かでも自分を近づけるために自分がこれまでに形成してきた全財産や資産の五割〜六割くらいを所得税を払うのとは別に特定の政治家や政党にではなく国家に寄付してみればその時代の人々の気持ちが分かってよいのです。それでも当時の時代はすばらしいものだとか当時の日本の軍部の施策は正当なものだったといえるかどうかを考えてもらうためにもです。「公と私」をも問題にしている小林よしのり氏であるなら国家の財政が危機的な状態にある二千一年時点で私的財産を公に寄付すれば私も小林よしのり氏の行動を評価することでしょう。しかも思想信条の自由や表現・出版の自由などが極端に制限されていた戦時中であったことを無視して、それらが十分に保証されている現在の法制度の下で非常に成功してその制度の恩恵を最大限に享受している人が表現の自由が大きく制限されていた戦時中を賛美したり正当化しようというのは自己矛盾があると思いますし、ましてや中国から教科書問題でクレームを付けられたとき「日本は中国や韓国のような国定教科書ではなく表現の自由が保障されている国だから中国や韓国の言い分は不当だ」という言い分もますます自己矛盾を深めるものだといえるのではないのでしょうか。

 小林よしのり氏は台湾で売られた自分の本が焼かれた事に対し「言論の自由はないのか」と述べていますが、出版差し止めを台湾の人が求めたわけではないので小林よしのり氏の言論の自由を封じようとしているわけでもな く、抗議の意思表示として自分たちが購入した本を焼いて見せたということであり、彼らにも抗議の意思表示をする自由は認められてもいいはずです。自由は何も小林よしのり氏の独占物や専有物ではないはずです。だからこそ全ての人々にとって自由とは大切なものであるわけです。それに比べ戦時中の日本を正当化する小林よしのり氏などの意見は 「言論の自由がなかった時代を正当化するのも言論の自由のうちに含まれる」というねじ曲がった馬鹿馬鹿しい話しになってしまうのです。 小林よしのり氏は韓国や中国からの教科書へのクレームについて「内政干渉だ」と述べていますが、内政干渉と呼ぶ以上のことをかつての日本はアジア諸国に対して行ってしまったことは認めるべきだと思います。そして日本人にとってさえ戦時中には三木清などの思想家は当局の検閲を逃れるために字句を伏せ字を使って表現しなければなりませんでした。戦時中には国家や政府を批判することは命がけの行為だったのです。 三木清は獄中死をしてもいます。そのような批判を行った人は「国賊」と呼ばれ特高からマークされてその人本人だけでなく家族や親戚の人間までもが日本の社会の中では孤立させられるような時代でもありました。そして「新しい歴史教科書」の執筆者の一人である東京大学の教授は多くの批判がある中で雑誌に「思想弾圧だ」との文章を掲載していますが、戦時中のような時代に於いてはそのことを「思想弾圧だ!」などとして抗議の声を上げることすらできなかったのです。抗議する前に弾圧され投獄されてなにもできないまでにされてしまっているからです。自分がその役職を追放されるわけでもなく投獄されることもないところでのほほんと雑誌に「思想弾圧をされている」といった記事などを書いて多くの人々に自分の声を伝えることができるような悠長な時代では戦時中の日本はなかったように私には思われます。私の祖父の部下の息子で戦時中に共産主義者とされ警察に逮捕された教員に面会に行った祖父は、その人の顔が青く膨れてゴムボールのように腫れ上がっていたのを見て帰ってきたということです。拷問を受けていたことは明らかです。そしてその教員は満州送りとなり再び日本に戻ってはこなかったとのことです。 当時満州送りにされた人々は「弾(たま)よけ」と呼ばれていたそうです。相手の銃弾に身をさらす可能性が最も高い地域に配属されるかあるいは満州開拓団として最も過酷な農作業をさせられたのです。「きっと中国大陸で死んでしまったんだろう」と母はいっていますが、祖父の話も私は母から聞かされたものです。思想弾圧というのはまさにこのようなものを呼ぶと考えた方がよいと思います。

 当時はそんな時代でしたが現在では思想表現において伏せ字を使うようなことは日本国内の出版や自己表現では必要のないことであり、「新しい歴史教科書を作る会」のメンバーの人たちにとっても戦後の日本の方が戦時中よりもましなのではないのでしょうか。「新しい歴教科書を作る会」のメンバーの一人でその代表である電気通信大学教授の西尾幹二氏は『諸君』の二千年十二月号で「汝ら、奸賊(かんぞく:悪人という意味です)の徒なるや」と教科書検定の政府を批判する文章を載せていますが、戦時中にこのような軍部批判の文章を公にすればどのような目に自分たちが遭わされるのかは、現在の日本とは大違いだったわけです。それは即座に死を意味するものでした。国定教科書の中国や韓国の批判に配慮する日本政府を悪人の手先と呼んでおきながら、国定教科書であった戦時中の日本を正当化しようとするのもおかしな話です。国定教科書である国が表現の自由が保証されている国で出される教科書を批判することが悪であるというのなら、国定教科書でしかなかった戦時中の日本も現在から見れば悪であるといってもよいはずのものです。そのような自己矛盾を解消するためにも日本の歴史の汚点は汚点として認めた上で戦後的な価値をもっと積極的に評価すればよいと思うのです。全国校長会などは「自虐的な歴史観を排除すべき」と述べていますが、自国の過ちを認めることと自虐的になることとは全く違うと思います。過ちは過ちであったことを堂々と認めることと自虐的であることとは異なるのです。 また自虐的でなくなることが他虐的になることでもないと思います。小林よしのり氏の本の売れ行きがよいというような話を聞くと、「現代のような商業主義化が進んだ社会ではそれに比べて真実や事実などを書いた本などはあまり売れないものだな」と私などは思ってしまいます。 また「商業的な採算がとれないから事実や現実の話は収集しようともしないのかもしれない」とも思います。まあ、事実やデータなど自体は思想性の表現ではないので著作権の対象にはならないとされるようですが、それらの事実やデータはその時代の思想によって動かされた結果です。 過去の戦争を肯定するのも一つの思想になり著作権の対象になるわけですが、戦争に従軍した人たちの体験談などの事実には著作権がないと言うことにもなりかねません。だからこそ 都合の悪い事実は抜きにして思想性だけを強調した『歴史教科書』と言うことになるのでしょうか?私は商業主義化の進んだ現代社会で成功している小林よしのり氏の能力 などは認めています。ただ、小林氏が語っている時代は条件的な時代背景が全く異なるので、現代のような商業主義の社会を生きている小林氏はどう振る舞うのかに注目しているのです。戦後の私的利益のみを求めて多くの人々が生きて行く姿に対する批判的な対極として公のために殉ずる人々が大勢いた戦時中のことをいろいろ語りながら実際には商業化された社会の中にどっぷり浸かって私的利益をむさぼっているだけなのだろうかと思うのです。商業主義の社会にどっぷり浸かるというのは自分の時間のほとんどを自分の収入に結びつくものだけに割いているのではないのかということなのです。

 小林よしのり氏自身はマルクス主義的な歴史観を嫌う人間であったとしても、資本主義的生産の社会においてその富の生産に典型的に観察されるのは生産物が商品という形態をとって現れてくるという事実を見抜いていたマルクスは彼の資本主義社会の分析の著書『資本論』の冒頭である第一巻第一章を「商品について」と題して書き始めたわけです。資本主義崩壊必然論を展開したマルクスの考えはそのために資本主義圏では毛嫌いされ異端視もされてきていたといえます。それは共産主義圏で宗教が禁止されたりブルジュア文化が敵視されたのと対応しているともいえます。そしてその後の冷戦時代とソ連邦崩壊によって資本主義の崩壊よりも社会主義国の方が先に崩壊したという歴史的事実に直面したわけですが(だからといって資本主義は永遠不滅のものであることが保証されたというわけではないとも思います。それは地球上の生命を人類がすべて滅ぼして人類だけが生き残ったとしても人類はそのことで永久に滅びないことの証明ができたというわけではないからです)、またそのことによってマルクスは間違ったのではないかとも思われるかもしれませんが、少なくとも資本制的生産の富の形態が商品であるというマルクスの認識と好・不況を資本主義社会はなぜ繰り返すのか 、また時として大量の失業者を生み出し破滅的で壊滅的とも言えるような景気変動をなぜ資本主義社会は経験するのかというマルクスを資本主義社会の解明に向かわせた彼の問題意識そのものには間違いはなかったはずです。それは現在の日本の資本主義化された社会においても否定できない現実であるからです。その問題意識が正しかったからこそ資本主義が好・不況を繰り返す理由をマルクスが唱えた第一部門と第二部門との不均衡発展ではなくイノベーション(日本語では「技術革新 」と訳されますが、中国語では「創新」という訳語になっているそうです。必ずしも技術だけではない社会制度全般にも及ぶ広い意味合いを中国語訳では含めていると言うことです。 シュンペーターのイノベーションと言う言葉には、一つの画期的な技術が生まれ、そこに多くの投資の群れが生まれ、そしてその技術が多くの人々の生活様式を変え、法律を含めて社会全体の制度にも影響を与え刷新してしまうというような幅広い意味合いがあります。シュンぺーターの頭の中には経済という社会の下部構造が法や文化という社会の上部構造に影響を与えるというマルクスの下部構造・上部構造論があったかもしれません。そしてマルクスの唯物論とヘーゲルの観念論との対立はよく話題になる分野ですが、マルクスともシュンペーターとも違って観念は観念の内部にそれ独自の構造を持っていると言うことを示そうとしたのは吉本隆明の『共同幻想論』といえます。私は心理学は素人なのですがユングの『原型論』が『共同幻想論』に近いものかとも思います。また、創新という中国語での訳語があると言うことは、共産主義国の中国国内でもマルクスばかりでなく、それ以後の近代経済学の考えが紹介されていると言うことを意味します。)による創造的破壊に求め、そのことによってもシュンペーターは偉大な経済学者として経済史にその名をとどめもしたのです。 また現代では金融が経済に及ぼす影響力が非常に大きくなっているとは言っても資本主義社会の景気変動が起きてくる理由を説明するものとしてシュンペーターを超えた知見はまだ出てきてはいないといえるでしょう。創造的な破壊の一例を挙げるならば、二千十年に発売されたアップル社のiPadに代表される電子書籍端末はインターネットに接続されることでそれまでの紙媒体の書籍を電子書籍に置き換えるというだけでなく出版業界や印刷業界そして書店などの業態全体の有り様を一変させる可能性を持った技術的な産物といえます。これまでにもすでにアップルのiPodにインターネット上から音楽をダウンロードするスタイルの普及でCDショップが閉店に追い込まれたりもしています。シュンペーターはマルクスと同じ問題意識ながらその問題の在処を他の原因に求めたと言うことです。マルクスの残した言葉の中には「人間は自ら出した問いに自ら答える存在である」というものがありますが、マルクスが出した答えは違ってしまったにしてもマルクスが出した問いそのものは非常に重要な問いだったと言ってよいでしょう。マルクスの問題意識すなわち問いそのものが大した価値のないものであったなら何も後の経済学者がその答えを探ろうなどとする必要もなくその問題意識(問い)に答えを出してみたところでその答えも大して重要なものにはならなかったことでしょう。(日本のオフィス家具メーカーであるオカムラ製作所の中村社長は、会社の理念を「正しい解き方より正しい疑問」 とテレビで述べていました。マルクスは解き方は間違えましたが正しい疑問はもてたと言ってよいのでしょう。疑問が正しければいずれ正しい解き方を考え出す人が登場するでしょうが、間違った疑問の解き方をいくら考えても不毛な時間で終わってしまいます。)シュンペーター自身自著の『資本主義・社会主義・民主主義』の最終章を「教師マルクス」という一文で結びながらマルクスから多くのものを学んだことを認めてもいます。 日本ではマルクスは嫌いでもシュンペーターを高く評価し敬愛する人達は大勢いますが、そのシュンペーターが敬愛してやまなかった経済学者はマルクスだったというわけです。 「マルクスなんて・・」と言って政治がらみあるいは単なるイデオロギー絡みだけでただただマルクスを毛嫌いしているだけの人の中からはこれらの経済学的な考え方を生み出すことはできなかったことでしょう。評論家である宮崎哲弥氏も中学生時代にマルクスの『資本論』を読み通したと言われますが、読んだ後では「気違いじみている」という感想しか持たなかったと言われます。インターネット上などでよく使われるCoolという言葉には「かっこいい」という意味だけでなく「気違いじみた」すなわち「クレイジー」という意味合いもあるとのことなので実際に読んでみればマルクスの著作は日本の若い世代には案外Coolということでしょうか??中学生でマルクスを読んだというのはかなりの読書家で早熟とは言えますが、マルクスの著作を頭にインプットしてその頭からどんな考えがアウトプットされたのかはマルクスを読んでその後の経済学に大きな影響を与えるまでの発想を生み出したシュンペーターと評論家である宮崎哲弥氏とでは大きな違いがあったと言わざるを得ないでしょう。経済史にもその名を残すような偉大な経済学者と中学生を比べることは出来ないかも知れませんがそれは雲泥の差と言ってもいいかもしれません。また資本主義社会の内容が貧富の極端な二極化に結果すればマルクスが資本主義社会を搾取の体系として批判対象とした事実に人々の目が向くようになり、再びマルクスが見直されることにもなり得ます。そしてそのシュンペーターがハーバード大学で引き立て役を買った経済学者が旧ソ連出身のレオンチェフでした。彼は マルクスのような二部門 分割ではなくn部門分割で生産活動をとらえる産業連関表を発案しノーベル経済学賞を受賞しました。計量経済学という分野を切り開いたのです。 ハーバード大学で当時すでに教授だったシュンペーターと直に交流があった日本の経済学者の都留重人さんは二千六年二月五日に九十三歳でなくなったとマスコミで報じられましたが、都留さんはサミュエルソンやガルブレイスなどとも交流があったと言われます。サミュエルソンが蝶ネクタイを好むのと同じく都留氏も蝶ネクタイ姿で写真が撮られる場合が多く、サミュエルソンの『経済学』を日本語に訳したのも都留氏でした。サミュエルソンの『経済学』は東京大学で経済学の教科書としても使われていました。二千四年度のノーベル経済学賞受賞者であるフィン・クドランドとエドワード・ブレスコット両氏の業績も 先のシュンペーターの研究成果の上に築かれたものであるともいえるものです。そして好・不況を繰り返す資本主義社会の不況に対する処方箋を書いた経済学者ケインズはバーナード・ショウからマルクスを読むように薦められたといわれています。しかしケインズはマルクスの著作は読もうとしなかったのですが、近代経済学の父と呼ばれてもいます。少なくともマルクスはそれまでのアダム・スミスが描いて見せた「神の見えざる手」によって均衡が保たれる予定調和の静態的な経済社会ではない姿として資本主義社会をテーマにして見せたのです。アダム・スミスの描いた経済社会は一種完全競争状態の社会と言えますが、経済変動を描いたマルクスはその変動の旅に吸収合併などが繰り返されて企業が巨大化する、すなわち大企業が誕生することを予見もしたと言えるでしょう。そしてマルクスの述べた「必要なものを必要な人に必要なだけ」という原始共産制の理想社会は共産主義国にとっても理想だったかもしれません。しかし必要を満たすために社会が存在できるのは誰がどのようなものを提供でき誰がどのようなものを必要としているのかをお互いに熟知している条件の社会でないと実現が難しく、必要性を満たすために社会が存在していると思えるような社会はその社会を構成している人数が百六十〜百七十人以内の小さなコミュニティーでないと実現が不可能だとクリス・アンダーソン著の『FREE』にはあります。この程度の人数であるなら、そのコミュニティーでは生産物やサービスの価値をマルクスの主張する労働価値説で計ることも可能かも知れません。当然のことながらドネラ・メドウス教授が端緒となったとされる池田香代子さんによって日本語に訳された『世界がもし100人の村だったら』でも、その本の述べていることと内容は異なりますが表題通りの人数だけで考えるなら私がここで問題にしていることも可能だと言うことになることでしょう。しかし大きな社会の中では労働価値説では経済価値を計りきれなくなるとは堀江忠男教授の指摘です。またマルクスの『資本論』の体系に内部矛盾があることは堀江忠男教授の『マルクス経済学入門』(この本の題名は出版社が考えたものだそうです。マルクス批判では本が売れないので『マルクス経済学入門』になったそうですが、実際の内容はマルクス批判です。千九百六十年に出版されているので、千九百六十年には既にマルクスの間違いは指摘されていたと言うことです)などで指摘されています。またマルクスが資本論をかなり書き上げてしまった頃にはイギリスの労働者の生活水準が徐々に向上し始めていたといわれていてそのことを認めて本を書き直すにはマルクスにとっての人生の残り時間がなかったとも思えますが、これらいくつかのマルクスの問題点を認めたとしても資本主義社会を好・不況を繰り返し不況の時には大量の失業者と生活困窮者を生み出し時としては破局的な様相にも立ち至る社会として資本主義社会を動態的にとらえようとしたことはマルクスの最大の功績であったといってよいでしょう。 私はマルキストではありませんがその程度にはマルクスを評価している人間です。従って私は当然の事ながら国家主義者でもありません。.これまでともすれば資本主義国でマルクスを研究していた研究者達はソ連の回し者のように疑われる危険もありましたが、冷戦構造の崩壊はそのような研究者達にとっては自由にマルクスを研究できる条件を作りだしてくれたともいえます。そしてマルクスの著作物は存命中にそのすべてが発刊されたわけではなく、生前に出版された著作も売れたわけではなかったので (マルクスの死後にマルクスの『資本論』などはかなり売れました。ただ、世界のベストセラーにはなったが実際には読まれることがほとんどなかった本はマルクスの『資本論』とアインシュタインの『一般相対性理論』だとも言われています)彼自身は貧困のどん底の生活だったわけですが資本主義社会の富は商品の形をとって現れ、その社会は好況と不況を繰り返すという程度の認識は十九世紀を生き二十世紀を目にすることすらなかったマルクスにもすでにあったわけです。マルクスは商品に内在する価値として「(交換)価値」と「使用価値」として二つの価値を前提に上げて『資本論』を書き始めました。その二つの価値の対立から説き起こして労働者階級と資本家階級の階級対立と資本主義の終焉が必然だという彼の見通しが誤りだったとしても、コンピューター時代すなわちIT社会になくてはならない今日の重要な大衆向け商品であるパソコンも、マルクスは労働価値説を唱えていたので貨幣で価値を計ることには同意しないかも知れませんが、言ってみれば市販価格で表される「(交換)価値」としては同じであるパソコンやアプリケーション・ソフトであってもそれを使いこなせるかどうか、また使いこなせるのならどの程度の事がそれでできるのかという「使用価値」の面では人それぞれによって異なるわけです。 現代の言葉で言えばリテラシー(利用能力)と言うことにもなるものでしょう。私自身はパソコン操作に高度の技術を持っているという訳の人間でもありませんが、一般に販売されているパソコンやアプリケーションソフトの価格という「交換価値」とパソコンやそのソフトの性能をどこまで引き出せるのかかといういわゆるパソコンスキルの面に関係する「使用価値」という二つの側面はパソコンという商品にも内在しているといえると思うのです。そうでもなければパソコンを購入した消費者がパソコンの講習会に通ったりサラリーマンやOLがパソコンのスキルアップに心がけたりするはずもないことでした。すなわちこれらの行動はパソコンの使用価値を上げんがためのものだからです。パソコンなどは知る由もなかったマルクスのこの分析は、パソコン時代になって本当に多くの人たちが評価できるものになったのではないのでしょうか。パソコンはアメリカ資本主義の産物ですが、資本主義の権化のようなアメリカが生み出したものがマルクスの言い分にぴったり合うものだというのも皮肉なことです。そのことはスマートフォンの時代になっても同じ事とも言えるでしょう。パソコンばかりでなく一本のペンでさえも小林よしのり氏のように商品価値の出る漫画を描ける人もいるかと思えば悪筆な文字しか書けない人もいることでしょう。すなわち使用価値のレベルは人によって異なるわけです。また資本主義社会では労働力も商品ではありますが、自分の頭の使用価値を高めるためには勉強せざるを得ないと言うことでもあります。この場合は使用価値が高い頭脳は交換価値も高くなるということを一応の前提として学歴社会は形成されてきていたと言えるでしょう。実際に職業人になってから社会人大学院へ通ってMBA(経営学修士号)を取得しようというのもこのような理由からでもあることでしょう。そしてこれらに付け加えれば、資本主義社会を分析しようとして資本主義社会の問題点を指摘し資本主義社会が崩壊するのは必然との結論に至って資本主義の国イギリスにとっては不都合な部分もあったであろうはずの『資本論』を出版させた当時すなわち初期資本主義時代のイギリスは評価されてしかるべきであろうと思います。マルクスが夢見その後に生み出された共産圏のソ連においては体制の意向に反するものは弾圧され過酷な運命をたどった人が存在しています。二千十年時点の共産党一党支配の中国においてもノーベル平和賞を受賞した劉暁波氏は投獄されたままですし、家族は授賞式への出席もできずに軟禁状態にされています。それらのことに比べればイギリスでのマルクスの亡命生活がいかに貧困の中にあったとはいえ、言論の自由と自分の研究・執筆活動を進めるために自宅と大英図書館の間を毎日のように往復する行動の自由は確保できていたので、それだけはマルクスにも救われる部分があっただろうと思うのです。少なくともマルクスは資本主義社会の中にあっては異端とされて当然の『共産党宣言』の序文を書いても自分の言論が元でイギリス政府から政治的に身柄を拘束されたり投獄されたりの弾圧はされませんでした。この時点で中国国内で『民主化宣言』などを書いたらたちまち身柄を捉えられることでしょう。二千十一年二月末から三月にかけてチュニジアに端を発しエジプトやリビアなど北アフリカや中東地域で起きた民主化の要求デモに伴う独裁政権の崩壊などの一連の動きに中国は警戒心をあらわにしました。共産党独裁の中国にあっては反日デモには寛容でも民主化を唱えるデモに対しては当局は最大限の警戒をするということでしょう。多党制につながる民主化は中国の共産党一党独裁の政治体制と真っ向から対立する考えでもあるからです。

 そして小林よしのり氏もまた私もですが、このような二十一世紀の日本の社会や世界を目にできるところで生きているわけです。戦時中の日本は商品の生産よりも兵器の生産に国民を総動員しましたし言論の自由はほとんどありませんでした。軍部独裁の社会では国家神道に軍国主義と天皇崇拝以外の思想はすべて封じられていたわけです。日本には兵器を諸外国に売却する余裕などなくもっぱら自国軍で使用せざるを得なかったのです。しかし小林よしのり氏自身が書いた漫画の本が台湾でも何部売れたとかいう話は、資本主義化が進んだコマーシャリズム(商業主義)全盛の時代における話であることは認めてもらえることでしょう。すなわち小林よしのり氏はマルクスが指摘した資本主義を特徴付けている富である商品を生産して成功しているというわけです。また「新しい歴史教科書を作る会」が作成した中学生用の社会科の教科書も商品として販売され各学校や教育委員会へ教科書会社が売り込み攻勢をかけるというわけです。そればかりか現にこの歴史教科書の市販本が二千一年の六月には一般の書店の店頭に並べられています。「いいに付け悪いに付け人々の注目を集めた人に手記でも書かせればかなり売れる」と多くの出版社は考えるものです。アメリカ大統領だったクリントンの不倫相手だったモニカ・ルインスキーの手記が世界のベストセラーになったことはみなさんご存じのことです。また日本で十四億円の公金横領を行った人間から多額の金を貢がせて豪邸を建て、そのことで有名になったチリ人妻のアニータの本が売り出されると言うこともそうです。それは商業主義の社会に於いては当然の結果だからですが、この歴史教科書にも出版社のそのような考えが色濃く伺えます。 教科書が話題になって売り上げが伸びさえすればいいのです。その教科書を学ぶことでどんな人間が生み出せるのかということよりも、著者達の論理がどんなに自己矛盾していようとも話題性に乗って著者や出版社に金が入りさえすればよいというわけです。中国や韓国がこの教科書を非難すればするほど、またその批判の声をマスコミが取り上げてくれればくれるほど教科書の著者や出版社のもくろみはそれだけ成功したということになるわけです。すなわち今回の教科書問題を引き起こした人たちの手法は、教育をメインにしているというよりも売上高の方をメインにしているように思えてなりません。他の教科書は教科書を専門的に扱っている書店に注文でもしない限り、また自分が教育関係者であるといわない限り一般人が教科書を買うことは困難であるのが普通であるのに比べ、今回のこの歴史教科書は他の出版社の歴史教科書と異なり商業主義的色彩を前面に出した形で作成されているといえます。 しかしそのようなことで一出版社や何人かの著者が手にする金銭的利益と日韓関係や日中関係などの悪化やその関係の修復に伴う様々な労力と時間また日本という国に対する諸外国からのマイナスイメージなどの有形・無形の経済価値の損失を勘案したとき、どちらが日本にとって利益が大きいといえるのでしょうか。「日本は自分の過ちは過ちとして認めることができる立派な国だ」という評価を得ようとするわけではなく、日本の欠陥を認めずに日本をすばらしいものとしてだけ描こうとしたこと自体が日本の対外的なイメージを台無しにしたとするなら皮肉なことです。自分の欠点を自分で認めることができない人間がすばらしい人間であるわけはありませんが、それでも自分はすばらしいといって世間(世界)の注視の的となることでいくばくかの金が手にできたとしてもイメージダウンは避けられないと思います。

 自分を自分で美しいと信じ込んでしまう人間は端で眺めている人にとってはナルチストとしか思えないことも知っておくべきだと思います。 三島由紀夫氏は非常に優れた作家であると思いますが、個人としてはナルチストのところがあると私は思います。しかしこの教科書問題では集団ナルチズムが起きている ように思います。中国のケ小平総書記は存命中に「中国人がかつての問題を忘れる去るためにはあと八十年くらいが必要だろう」と述べていましたが、この歴史教科書は三十年あるいは五十年後には韓国や中国が再評価し直して認めるようになるほどの先駆性のある教科書の内容を備えているのでしょうか。ですがその頃にはひょっとすると日中の経済力は逆転していて現在のように声高に非難の声を上げる必要もなく中国は許しはしないが余裕を持ってこのような問題を一笑に付すだけなのかもしれません。なぜなら二千一年時点の中国の一人あたり所得は平均で日本円では一万二千円とされていますが、これは日本の高度成長期以前の所得水準だとしても中国人の一人あたりGDPが日本人の一人あたりGDPの十分の一になっただけでも、中国の人口は日本の十倍なので国単位のGDPの規模は日本と肩を並べる勘定になるからです。個々の日本人の生活水準と中国人の個々の生活水準を比較して、中国人の生活水準は我々日本人ほどではない」と言ってみても国家レベルでは日本と同等の経済力の国になるのです。中国人の一人あたりGDPが日本人の五分の一になったときには中国のGDPはアメリカに並ぶのです。例えこの教科書の市販本の売れ行きがよくても、それは戦時中に日本の戦況が悪くなり降伏やむなしという状況の中で皇居の上空で徹底抗戦のビラを捲いたかつての日本軍の若い兵士達の姿に似たものとして私にはこの教科書を作る会のメンバーが思えてきます。アジア諸国の非難の中でアジアに於いて孤立感を深め,アメリカも教科諸問題などで「日本が被害者意識を抱くのは問題だ」と指摘し始めている姿は、かつてアジアに侵攻していった日本がアジアで孤立感を深めアメリカからの石油輸出の禁止措置をアメリカが行ったことをアメリカの参戦準備のシグナルと読んで真珠湾への奇襲攻撃を仕掛けることでアメリカの参戦を決定的なものとし、結果的に惨憺たる敗北を喫したというかつての時代を平和裏のうちに再現し追体験させられているようにも私には思えます。教科書を作る会がテレビ朝日を目の敵にしているだけでは済まない問題になりつつあります。二千一年七月十九日にイタリアのジェノバで開かれたG8の外相会談で北朝鮮の問題を議題に日本が取り上げた際に、アメリカのパウエル国務長官は「北朝鮮の問題に日本・韓国・アメリカが共同して当たるためにも、教科諸問題を早期に解決しておくべきだ」と述べています。もしそれ らの国際情勢を自覚しないのなら、教科書を作る会のメンバーの人たちは戦時中から敗戦に至るまでの日本の現実の歴史からなにも学び取らなかった人たちだということになります。すなわち日本の敗戦による学習効果がなかったのです。そのようなかつての歴史からの学習効果が薄かった人たちが歴史教科書を作るというのも何か私にはやり切れな い思いがしてきます。 私は北朝鮮の金正日体制は好きではありません。それは北朝鮮が社会主義国であるからと言う理由などで右翼の人たちが嫌うのとは違う理由によってです。私が北朝鮮が好きではないのは、北朝鮮の体制が 軍国主義全盛の戦時中の日本と酷似しているからです。私は戦時中の日本が好ましい社会であったなどとは思っていない人間なので現在の北朝鮮を好きになれないのです。その点が右翼の人たちと私の大きな違いです。 右翼の人たちは戦時中を賛美したがりますが、私には戦時中の日本の社会が素晴らしいものであっただろうとは到底思えないからです。商業主義がはびこっているとはいえ戦後の日本の社会の方が私には遙かにましな社会に思えます。

 それに引き替え戦時中は日本人にとってさえそのような商業主義全盛の時代では全くなかったわけですし、しかも他のアジア諸国や日本に植民地にされていた国の人々は日本の国民や兵隊以下の存在という位置付けをされていたわけですから、日本の国家が日本の国民や兵隊を扱った以上の優遇した 丁重な扱いを従軍慰安婦の人々にしていたわけでもなく自分達以上の存在として日本の兵隊達が従軍慰安婦の人々を丁重に優遇していたなどとは当然いえないわけです。従軍慰安婦の人々にたいする扱いは日本の国が日本の兵隊を扱う扱い方以下であったというわけですから、 当時の日本の社会の造りと上から下への強い強制力と言う力学が存在した当時の社会から考えれば日本の植民地であった国の従軍慰安婦の人々は強制連行ではなかったという言い分そのものがかなりカモフラージュされてしまっているものに思えます。私が学生時代に東京の学生街の喫茶店の雇われマスターから聞いた話ですが、「連行した中国人女性を何日間にもわたって牢屋に閉じこめ風呂を使わせずに粗末な食事だけを与えておいた後で、牢屋から解放し風呂に入れ将校の部屋に連れていって将校と食事をとらせた。女性は緊張が一瞬でも緩むので将校と夜をともにさせるのにはこの方法がよいのだ」ということでした。これはいわゆる従軍慰安婦の問題には含まれてこないものですが、これらのような話はそれ以外にもいくつか私は耳にしてきました。このような仕打ちを受けた人たちが日本の軍人を恨むのは当然のことであり、そうそう簡単に日本の過去を許したり忘れたりしてくれるとは私には思えないのです。ましてや日本にとって不都合な事はなかったことにしてもらおうなどとはできない話です。過去の事実 を精算することによって未来へ進むことは可能かもしれませんが、過去を清算して未来へ進んだとしても過去の歴史がなかったことにはできようはずもないのです。日本人が同じ目に遭わされたら日本人とて許す気にはならないことだろうと思うからです。それは戦地では日本兵が横暴なことをしてもその事を現地の人間は非難もとがめ立てもできない状況でしたので、戦争が終結して戦地から内地に戻ってきた兵隊が外地にいたときと同じ行動を内地でも取れると思い日本人の民間の女性に手を出し、それを故郷の人たちにも知られてしまい、それが元で自分の郷里に帰ることさえ出来なくなった話なども聞いたことがあります。 内地では当然のごとく許されないとされる行為であっても、当時は外地でなら日本人は平気で行えたというわけです。当時の人を調べ上げ 取材するために訪ね歩いて話を聞こうとしたわけでもなく 、行き当たりばったりにでも戦後生まれの私が思い出話として聞くことができたものだけでこのような話は三つも四つもあるので、現在のようにマスメデイアや雑誌などがこれらの出来事を当時伝えていたら、それこそ連日話題には事欠かないくらいの話また伝えきれないほどの数の話の種があったように思えます。しかし当時はテレビもなくまたこのような出来事を報道機関は取り上げようという姿勢でもなかったのです。もしこれらを取り上げて連日記事にでもしようものなら、軍部の検閲に引っかかって軍部から即座に発行停止処分にされていたことでしょう。 当時の東京大学教授の一人は「日本の兵隊は天皇の御子であるが故に悪事はなさない」との記事を書いたりしていたのですが、それは実態とはかけ離れていたといってもいいほどです。戦後の日本は報道の自由によって多くのこれに類する社会的な事件すなわち「公務員が少女買春をして捕まった」などという話が人々に知らされてくるので嘆かわしい時代になったように人々が感じるようになっているのかもしれませんが、それ以上の嘆かわしい出来事が戦時中には日常的な出来事として起きていても「捕まる心配がなく捕まえる人もいなかった」あるいは「捕まえる側の立場の人が組織ぐるみでそのような行為をしていた」というだけで、しかもそれが多くの人々 には知らされていなかっただけだとも思います。

 これらのことから日本国内に存在した強制的に徴兵し兵役に就かされると言う支配の構造は日本軍が侵攻していったアジア各国に於いてもそこに侵攻していた日本軍によって展開されていたと考えた方が妥当だろうと私は思うところがあります。その支配の仕方は日本の軍部の中枢が日本の一般の兵隊を支配する仕方よりもさらに過酷な支配であったろうと考えるべきものでしょう。そのような支配の構造は従軍慰安婦の場合に於いても当然のことながら存在していただろうと言うことです。日本がアジア諸国を自分たちよりも下位なものであると見なすようになったのは、日本が明治維新によってアジアで最初に近代化を果たし、アジアで唯一の近代化された帝国主義の国になってからのことです。それまでの日本はアジアから多くの文物を取り入れなければならない立場にありました。それまでは中国や韓国をはじめとするアジア諸国を日本は「追いつけ追い越せ」でやってきていました。江戸時代の勤勉革命でそれまでアジアから輸入せざるを得なかった産物を自国内で自給できるようになりました。そして明治の近代化時代にはヨーロッパ諸国の後を「追い付け追い越せ」で帝国主義の時代に参入し日清・日露戦争には勝利した後で第二次大戦にまで至りました。戦後の日本は主にアメリカを目標に「追い付け追い越せ」でやってきていたわけです。そのような戦後の日本で生まれた私はさんざん父から戦争の話を聞かされて育ったのですが、幸いなことに「戦争を知らない子供達」の世代です。戦後民主主義の洗礼を最初に受けた我々世代以降の人々もすべてその中に含まれるわけです。その間の変化は大きなものであったといえます。はがき一枚の値段だけでも当時と二千年時点を比べてみれば三千三百三十三倍にもなっています。 先に記した私の母が盗まれたお金の額にこれだけの数字を掛けて計算すると二千五百三十三万円以上にもなります。それだけ日本経済も大きくなってきているわけですが、しかし戦争の爪痕は私が生まれ育ってくるときには私の身の回りのいたるところに存在していました。私の生まれ育った、また現在もそこで暮らしている平塚市は当時の戦争によってアメリカから空襲を受けました。市民一人あたりにして六発の焼夷弾が投下されたと以前ケーブルテレビの市民チャンネルで知りました。 そのときの焼夷弾の投下数は一夜で落とされた焼夷弾数としては八王子に次いで日本国内では二番目に多い数であったという記録をうち立てたそうです。現在の平塚市の人口は『広報ひらつか』の市制七十周年特集号によると二十五万五千百五十四人ですが、終戦の千九百四十五年での人口は三万九千百六十五人だったとなっています。また同じケーブルテレビの他の番組で吉野平塚市長が市内の自分の母校の小学校でした話しでは、投下されたものの数は四十四万七千六百十一発だそうです。私の家の敷地にも十三発の焼夷弾が落ち、私が住んでいた建て替える以前の家のトタン葺きの廊下の屋根の部分には焼夷弾が落下してあいた穴の跡がありました。 焼夷弾が落ちて床の間などが燃え始めたのでその消火のために砂をまいたらしいのですが、砂をまいたので消火するには手早くできて良かったが後でノミが沸いて困ったと母は言っています。 今でこそ日本人にとっては縁遠いものかも知れませんがノミ・シラミは戦時中や戦後すぐの頃の日本人にとっては身近なものだったと言えます。占領軍が頭にシラミが沸いている日本の小学生にDDT(環境ホルモンの成分が含まれていることが判明して現在ではDDTは生産や販売が禁止されています)をかけてシラミ退治をしている戦後すぐのフィルムをご覧になった方もいることでしょう。平塚に投下された焼夷弾の量は特集号では約一千二百トンとのことです。母の話では「空襲の夜には焼夷弾が落ちてくるときの音は雨が降っているようなシャーという音がした」とのことです。日本側も高射砲で応戦したようですが、平塚においては「一機も撃墜できた飛行機はなかったんじゃあないか」と母は話ています。火薬廠ばかりでなく当時の飛行機のプロペラを作っていた日国(にっこく)という工場(現在は日産車体になっています)や航空機の研究施設があったので 、また米軍が東京を制圧するために相模湾から上陸をする作戦も立てていたので、平塚と八王子は集中攻撃を受けたといわれます。私が小学校へ入学する以前には、現在の平塚駅からの火薬廠があった現在横浜ゴムが存在しているところまで火薬廠へ資材を運ぶための鉄道の引き込み線が入っており、そこを蒸気機関車が走っている光景は私自身が目にした記憶がはっきりとあります。しかし五十年以上後の現在ではそのような姿は消え去ってしまっていますが 、平塚の火薬廠跡地からは二千三年になって旧日本軍の残した毒ガスが発見されてテレビニュースで流れたりもします。 平塚の海軍火薬廠の関連施設があった寒川町からも平塚で毒ガスが発見される前に毒ガスが発見されてもいました。茨城県神栖町における旧日本軍の毒ガスの地下水汚染による砒素中毒で問題が知られるようになった毒ガスの問題も、平塚やその周辺の戦時中の歴史を知れば平塚のこの地から旧日本軍の残した毒ガスが発見されても別に不思議でも 驚くことでもない土地柄と言えます。 ただ、戦時中はその近くを歩くだけで一般人は捕まることもあった軍事施設だったことを考えれば、敗戦時のどさくさの中で軍施設内部で毒ガスがどのように処理されたかなどは戦前からの平塚の住人であっても部外者には知り得るすべもないことでした。

 私は中学生時代にはテニス部とサッカー部に所属してましたが、どちらも部室は海軍火薬廠本部の廃墟でした。 その建物は分厚いコンクリートでできたいくつもの小部屋に分かれたものでした。 アメリカが日本を占領統治していた時期にはアメリカ軍の詰め所としても使われていたようです。そのため部室をどんなに汚しても教師にしかられると言うことはありませんでした。現在の一般の学校のように建てたばかりの立派な校舎の中でぴかぴかの部室だったとしたら、ちょっとでも部室を汚せばたちまち顧問にしかられたりしたことでしょう。テニスのコートは地下壕の上にありました。これらはどちらも後に自衛隊が取り壊しに来ましたが、軍事施設であるために作りが頑丈で取り壊すのが大変だったようです。 空爆の直撃を受けない限り壊れないような作りだったのです。平塚の戦時中を特集した読売新聞の記事には、当時の勤労動員で千葉県から平塚の火薬廠へやってきて労働していた当時中学生だった七十歳代の人のインタビューが載っていました。その人の話では、冬、空腹をいやすために火薬廠の敷地に降り積もっている雪に爆薬の原料となるニトログリセリンを垂らして食べたそうです。私もその記事で初めてニトログリセリンには味があることを知ったのですが、ニトログリセリンは味のない雪に甘味を付けるためだったそうです。 これは戦時中の話ですが、終戦の千九百四十五年時点では「3月:決戦教育措置により4月1日より一年間授業停止、第二十回卒業式、戦闘帽・ゲートルで出席、翌日から再び工場へ戻り勤労動員継続、8月:学徒動員解除(文部次官通達)、9月:授業再開、10月:軍事教練禁止(文部次官通達)、11月:武道(剣道・柔道・弓道・薙刀)禁止、12月:食糧事情悪く、週四日は午前のみ授業、修身・国史・地理の授業停止」と言ったような状況が学校にはあったようです。この部分は二千六年五月に神奈川県立湘南高等学校創立八十五周年記念事業で作られた『湘高新聞:復刻版』の年譜の部分にある学校の歩みから引用させてもらいました。現在の日本の中学生はたとえ小林よしのり氏の漫画の熱心な愛読者であったとしても、とうていこのような境遇に自分がおかれることを望みはしないことでしょうし、またそのような条件に耐えてみようとも思いはしないことでしょう。そしてまた小林よしのり氏にもし同年齢のお子さんがおられるなら、その母親すなわち小林よそのり氏の奥さんは自分の子供にこのような境遇を味あわせたいとも望まないだろうと思います。小林よしのり氏は「歴史とは物語だ」と述べていますが、 時間の推移の中で様々な出来事が展開されてゆくものには物語性があるという見方からすれば、小説のようなフィクションでなくても事実の連鎖である歴史も物語ですし数学史 (人類が数を勘定しはじめた歴史は、人類が読んだり書いたりする歴史よりも古く三万年も前から行われていた痕跡があると言われています。 アルタミラ洞窟の壁画やラスコー洞窟の壁画が一万三千千五百年ほど前の旧石器時代の後期と言われますから、 旧石器時代後期には含まれますが二つの壁画よりも以前から人類は数を勘定し始めていたと言ってよいでしょう。 壁画を描いたのはクロマニヨン人とされますから少なくともクロマニヨン人かそれ以前の人類の時代です。日本最古の人骨といわれるものも二万年前のものでしかありません。人類最初の芸術が誕生したのが三万五千年前とされています。人類の文化と科学が産声を上げたのはこの時期といえますが、数を勘定すことは読んだり書いたりする以上に人間にとっては必要性が高い行為だったといえるのかも知れません。 世界最古の文字と言われるメソポタミヤ文明の楔形文字も五千年前に発明されたに過ぎないからです。漢字の起源かと思われる記号が生まれたのは六千年〜四千年前の新石器時代だそうですが、中国最古の文字とされる甲骨文字は三千四百年ほど前の発明のようです。 そして文字を使って書き表されることになった世界最古の法律であるハンムラビ法典ができたのは紀元前千七百六十年頃、すなわちまだ四千年は経っていないのです。ただ、人類が地球上に誕生したのは二百万年前のことと言われますから、その人類が数を勘定できるようになったのはたった三万年前のことでしかないとも言えるのかも知れません。)や自然科学史あるいは経済史や経済学説史または工業生産品の開発史も歴史であり 、企業には社史がありどんな家族にも家族史があり一人一人の個人には自分史が存在しそれらは皆物語ともなり得ます。 ただ、多くの家族や個人はそれを文字や活字の形としてこれまでは書き残していないだけです。ITの時代が始まってブログが一般化した今日では多くの人たちが自分の生活の身近なことを日々書き込んでアップするようになりました。とてもではない読み切れない程のブログが現在では存在しているといえます。クリス・アンダーソン著の『FREE』には「直近の調査では、コンスタントに更新されているブログは一千二百万もあり、そこでは個人やグループが少なくとも一週間に一回は書き込みをし、数十億語を生み出している。その中で、報酬をもらっている書き手は数千人しかいない。」とあります。これはひょっとしたら欧米圏のブログだけなのかもしれませんがそれらは日記風の、すなわち書き手の人たちの自分史や生活史の一部といってよいでしょう。当然のことですがブログが生まれて以降に誕生したフェイスブックなどにも同じことが言えます。これほど多くの人たちが自らの自分史や生活史を書き残し公開している時代は歴史上無かったことだと言えると思います。また、宇宙の始まりから現在に至るまでの宇宙の歴史は、人類誕生から現在に至るまでの時間的な長さを遙かに超えた、そして人類が暮らしている領域を遙かに超えた時空間的広さの壮大なドラマだといえます。 地球誕生の歴史は宇宙の歴史の中にあり、地球上の生命の誕生の歴史は人類誕生の歴史を含むもので人類誕生などは地球上の生命の歴史の中でつい最近のものにすぎません。宇宙の中での登場人物として自分が描かれるかどうかなどは、宇宙論などという希有壮大なものからすれば人類などはほんの付け足しにすぎないものです。宇宙物理学者のステイーブン・ホーキングも「もし神がいたとしても、宇宙の片隅にいる人間のことなど気にも掛けないだろう」と言っています。そのような宇宙に対する人間の認識の変遷も歴史性を持ちます。宇宙観は各時代時代において変わってきていたからです。 平面と考えられていた地球が球体であることの発見。 球体の地球の上には五つの大陸があると言うことを人類が知るまでの大航海時代を含む歴史。また五大陸の発見から世界地図が作成され大陸の海岸線がジグゾーパズルのように組み合わされていることと海岸線の地質の組成がそれぞれ似ていることから考え出された大陸移動説に始まり現在の地震発生のメカニズムを説明するプレートテクトニクス理論へと展開 していきました。伊能忠敬は日本地図は作りましたが五大陸がそろった世界地図を作ったのは残念ながら日本人ではありませんでした。日本のような地震の多い国では昔と言っても江戸時代頃までは、地下にいる大ナマズが暴れることで地震が起きると言われていたものが、現在ではプレートのひずみと活断層の存在で地震が起きると説明されるようにもなりました。大陸移動説を唱えたヴェーゲナーは存命中には大陸を移動させる駆動力が何かを説明できずにいたので当時の学会での主流派にはなれませんでしたが、現在ではプレートを動かすのはこれまでに地球内部に蓄積されてきた素粒子エネルギーだともされています。その素粒子の地球内部での分布の様子はニュートリノなどの研究が進めば解明できるとは二千七年九月二十日のNHK放送大学での小柴教授の話でした。 ニュートリノ天文学の話が地球物理にも絡んでくると言うことなのでしょうか?また大きな地震被害が起こればその地域の人々は色々な 運命に見舞われさまざまな経験をすることでしょうから時間が経てばそれらの人達にとっては物語れる話が沢山残されていることにもなるでしょう。一方地球と宇宙の関係では天動説から地動説へのコペルニクスによる転回。地動説を唱えたガリレオは宗教界から弾圧 を受けてましたが「それでも地球は動く」とも述べました (というのは一般に伝えられている話だそうで、実際にはガリレオは地動説を取り下げたそうです。宗教界による異端審問の圧力によるものでしょう)。そしてニュートンの万有引力の発見による近代物理学の誕生 (人間の意志が入り込む余地がないものとして宇宙の法則が存在していると言われたことで、キリスト教会には衝撃が走りました。 神を信ずる人間の意志の存在場所がなくなるからです。また、自然界に法則があるように社会にも人間の意志ではどうにもできない法則が存在するのではと、カールマルクスは『資本論』で、資本主義崩壊必然論を展開して見せました。 資本主義の崩壊は必然で人間の意志でそれを食い止めることはできない確固たる社会法則であることを論証しようとしたのです。マルクスは自然科学の影響を大きく受けていたともいえます。)、アインシュタインの相対性理論と量子力 との対立。その後のひも理論がその対立を解消して統一理論になるのではないかという可能性等々です。 ひも理論は百三十五億年前にビックバンで誕生したと言われる我々が住む地球を含む銀河系など様々な星雲などを含んだ宇宙のさらにその外側に存在している空間までもを想定し始めてもいます。 また、後十億年もすれば地球は人類が生息できる環境の星ではなくなるであろうことも宇宙物理学の分野の人は認め始めています。これらには宗教や自然科学の進歩などが絡んでくる問題です。 日食が太陽と月と地球の位置関係で起きることを最初に解き明かした人が誰であるか (月食が地球が投ずる影であることを最初に指摘したのはアナクサゴラスだとは『零の発見』にあります。) を私は知りませんが、天の岩戸の話にしても現在なら皆既日食が起きたのだろうとは小中学生でも推測できるのではないのでしょうか。一方、人間が描く人間の世界といった小さな範囲のなかだとはいっても物語の登場人物になりたくて時代を生きている人間などどんな社会においてもそう多くはないでしょうし、登場人物になろうとしてもそう計算通りになれるわけでもありません 。ましてや後の時代に漫画に描いてもらえるからという理由で戦場で生きたり死んだりしてきた兵隊などいないわけで、それほど一人の人間存在は軽いものでもないだろうと私は思います。戦時中を生き子供を産み育ててきた世代の人々は自分たちが経験したようなことは自分の子供だけにはさせたくないと思いながら働き生きてきていた人たちが大勢いたのです。そのような人たちが戦後の日本経済の立ち上げの大きな原動力になったのです。「国を思う人間はそのくらいのことに耐えて当然だ」とされた当時の学生のこのような境遇は現在から考えれば哀れなものですし、中学生をそうまでさせなければ戦争遂行が可能でなかった当時の日本は対外的にいくら強がって見せてはいても(零戦の飛行速度が当時のアメリカの戦闘機をしのぐものであっても、また戦艦大和が当時の世界最大の戦艦であったとしても)その内実は惨めな国だったと思います。 日本はそれまで戦闘機は数多く作った経験はあったものの旅客機は戦後になってYS11が作られるまで全く作ってきていませんでした。客船の方も豪華客船の飛鳥などが作られ たのは戦後もずいぶん経ってからのことでそれまではむしろ大型タンカーの造船技術が日本の名を世界に馳せる分野といえます。そして戦時中当時の日本人は自虐的でもなく惨めだとも感じていなかったかもしれません。「鬼畜米英」の考えによって好戦的な気分に国民が教育されてしまっていたからです。それはバブル経済のさなかの日本人が、同じ値段ならば遙かに広大な敷地の家に住めるというアメリカやオーストラリアの状況を知らず自国の土地の値段がいかに高いかだけを誇りとして自分自身の住宅事情をみじめだとも思っていなかったことと同じだともいえます。しかし二十一世紀を迎えた日本人の目から見て当時の日本人の中学生の境遇は惨めであり哀れではないのでしょうか。それは北朝鮮のミサイルの射程距離がどんなに長いものであるとしても狂牛病のおそれがあるという理由で処分されるはずの牛肉を自国にもらい受けたいとヨーロッパ諸国へ申し出ざるを得ない惨めな国内の食糧事情の北朝鮮の姿にも似ています。そして北朝鮮のミサイル発射に最大限の非難の声を上げたのは皮肉なことに北朝鮮の国内事情によく似た経験を日本がしていた戦時中を賛美している右翼団体や国家意識の強い日本の政治家でした。北朝鮮のミサイル発射が日本の国民の生活を脅かすものであるということで抗議するのは当然であるとするなら、国民の生活を大きく犠牲にして行ったかつての戦争を日本の国民としてどのように位置付けるのかも重要だと思うのです。二千十二年四月十三日には北朝鮮は人工衛星打ち上げと称してロケット(事実上の弾道ミサイルと国際社会は考える)を打ち上げましたが、韓国政府によるとロケットや発射台の建設費などは八億五千万ドル(約六百八十億円)で、トウモロコシ二百五十万トンを購入できる額だそうです。これは北朝鮮の人の一年分の配給量とのことで、国民を飢えさせてまで軍事優先の道を北朝鮮は辿っていると批判が出ています。それと同じようなことが軍国主義時代の戦時中の日本には起きていたとも言えるのです。結局現在の北朝鮮を語ることは戦時中の日本を語ることに通じる部分が大ありだと言うことです。

 このような食べることすらままならず多くの国民が国家意識で縛られていた戦時中や戦争直後の経験の反動で、現在はいかにグルメであるかをこれ見よがしに流している日本のテレビ番組の多さには私もいささか食傷気味になっていますが、食べることができるような社会になったというのなら食べること以外のことも考えておくべきだったのではないのかというのが私の偽らざる感想です。戦時中の日本軍兵士達の戦地での体験談などを収集しておくことなどもその一つです。そのことを行ってこなかったことは非常に惜しまれるのです。六十九年頃の全共闘運動という学生運動を批判した司馬遼太郎さんの講演では「こんなに食える時代はない。それは思想(ここで思想とされるものはマルクス主義あるいは左翼思想を指したものと思われる)があったからではなく日本人が働いたからだ」という内容が示されました。私からいわせてもらえば、「では、中学生までもが勤労動員をかけられてお国のためまた天皇のために働いていた戦時中であったのに(すなわち国民のほとんどがお国のためそして天皇のために働かざるを得なかったにもかかわらず)、なぜ戦時中の日本人は食うことすらままならず多くの国民がひもじい思いをしなければならなかったのか」ということになります。大きな資産があるというわけではないなら働かなければ食べてゆけなくなるというのは戦後の多くの日本人にとっても当然と考えられるでしょうが、そのときの社会の作りや国の方針によって働いてもまともに食べることもできない状況というものは生まれ出るのです。マルクスが資本主義社会における労働者階級からの搾取を問題にしたのは、初期資本主義社会においては労働者が働いても生活が窮乏化するような状況があったからでした。生きて行くだけで精一杯の賃金しか労働者がもらえないことを「生存費賃金説」とも呼びました。初期資本主義の時代にはイギリスでも中学生くらいの年齢の少年達が炭坑などで働いていたようです。しかし満足な生活が望める訳のものでもなかったことでしょう。そのような意味では、少なくとも戦後は働きさえすれば食べることにはそれほど不自由しない時代が日本に到来していたということです。 そしてバブル経済の時点では飽食とかグルメとかいわれる時代にまでになりました。そこには戦時中と戦後との間で価値観の転換すなわち思想の転換が行われたことは明らかです。国家主義・軍国主義一辺倒の時代から民主主義と自由主義の社会へと日本は思想を変えたのです。産業界にとってはそれまで規格通りの軍需物資しか生産できなかった条件から個々の企業が自分の作りたいものを自分たちの創意工夫で生産できる民需中心の産業社会へと軍民転換が起きました。戦時中の厳しい統制が解けてその反動で自由や民主主義を日本人がはき違えた部分もあることは確かでしょう。 それはかつての戦争が日本人が自らの自由と民主主義を勝ち取るために戦った戦争でもなく、日本の自由と民主主義を守るために戦った戦争でもなく、自由も民主主義も封じられた軍部独裁の体制が敗北したが故に自由と民主主義の国に日本がなったところがあるからだと思います。 すなわち与えられた自由主義と民主主義だったのです。そのような意味合いでは、軍政の時代から大きな犠牲を払いながら自国を民主化していった韓国の国民の方が民主化が日本よりもあとになって実現したと は言っても自由と民主主義が大切な価値観であることが日本人より骨身にしみてわかっているのかもしれません。

 しかしそれら戦後の日本の社会の問題点を認めた上でも、戦時中よりも戦後の日本の方がまだましな社会であろうと私は思います。そして七十年に大阪で開かれた万国博覧会のパビリオンは「耐久性はあるが取り壊しやすい建物を」と言うコンセプトで建築家の黒川紀章さんが パビリオンを造ったりしましたが、軍事施設はそのようなコンセプトとは百八十度異なる考え方で作られているのです。バブル経済の時点では土地の値段の上昇を吸収するためにビルは高層化しました。そして阪神大震災以降の建物は耐震性が非常に重視されるようになっているのではないのでしょうか。そしてこれからの建物は情報・通信機能を組み入れたものになって行くのでしょう。日本の初期のマンションには駐車場さえなかったのですが、現在のマンションは駐車場が完備されているのが当たり前になっています。それと同じようにこれからのマンションやオフィスビルは設計段階の時点で情報・通信機能を組み込んだものになるだろうということです。しかし軍事施設の建物はこれらと全く同じ考えで造られているというものではなかったのです。

 こんな中から育ってきた私ですが、私は戦争を憎んでもアメリカを恨んではいませんし私はアメリカという国が好きな人間です。私の父も「アメリカに負けてから日本はいいご時世になった」と言っています。多くの日本人にとっても戦時中の日本より戦後の日本の方が問題はありながらも遙かにましな社会であると認めてもらえることでしょう。しかし私が気がかりなのは、バブル経済崩壊によって意気消沈してしまった日本人が再びアメリカに対して被害妄想に近い心理状態になりそうに見えることです。それはオウム真理教がサリン事件を起こす際に「アメリカから毒ガス攻撃を受けている」という作り話を持ち出しているところなどから気に掛かるのです。日本が教育の中で第二次大戦時に自らが行った行為がどんなものでありその結果どのような状況に立ち至ったのかの資料を若い世代に示して自分たちで判断してもらう教育ができていたとするなら、ただいたずらに被害妄想にばかり陥っていられないことが明らかなはずなのですが、その具体的な資料が日本の手元には残されてはいなかったというわけです。できることなら私はこのような私の考えに対する感想を奥野元文部大臣あたりから聞かせてもらいたいくらいです。教育の場面で戦争と平和を若い世代に考えてもらうための手がかりは与えようとすればできたはずだと私は思うからです。 それは二千二年九月に小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問して得られた日本人拉致問題の被害者の消息とそのことに関する家族の心情にもつながる問題でもあります。北朝鮮側の「死亡」「生存」という発表をただそのままでは信じることはできないと言う被害者家族の心情はもっともなものです。「死亡したというのが事実なら、いつ、どこで、どんな風にして死んだのかが分からない限り、死んだことを納得できない」ということは私にも良く理解できます。かつての戦争の時には、遺骨の入っていない戒名だけが 書かれた白木の箱が送られてきて「戦死されました」との報告がされただけというケースもあったと聞きます。負傷しながらでも日本に帰還した元日本兵の証言集があったなら、戦死した人の遺族や恋人は、その所属部隊が分かるのであれば、生き残りの兵隊の証言集を読むことで自分の恋人や家族がどんな状況の中で死んでいったのかを幾分なりとも知ることができたはずです。しかし政府はそれをしようとしなかっただけです。日本人が自分がまずく行き始めると被害妄想的になるのは多くのアジア諸国に対しては日本は加害者であったという事実の豊富な資料がないまま敗戦に至る過程のアメリカ側が収集した圧倒的な軍事力によって制圧されて行く日本の姿だけが強調されてしまうからです。それとも当時の旧日本軍のとった行動記録は大将・中将・少将あるいは将校などの各階級の軍人から一平卒に至るまでその膨大な証言集が国会図書館に眠っているとでも言うのでしょうか。 湾岸戦争の有様を目の当たりにした中国は兵器の近代化に力を入れています。その兵器をなんのために使うのかについては日本も注意を払わなければならないでしょうし、その軍事力の行使に対しては最大限の自制を中国に求めてもいいでしょう。しかし中国にそのように求めるためにも日本はかつて日本の軍事力で中国をはじめとするアジア諸国になにをしたのかについてはきちっと認めておくべきだろうと思います。

 バブル経済崩壊による落ち込みの前のバブル全盛の時には日本人自身がアメリカの不動産を買いあさりアメリカの自意識をも刺激しかねないアメリカを象徴する企業の買収などを行っていたことを忘れ、そのような過程の中で必死に巻き返し策を考えそのために努力していたアメリカ人を評価することなく、自らの経済運営の失敗とアメリカの復活並びに欧米企業による日本企業の買収と言う事実の前で多くの日本人が被害妄想に陥ると言うことには、私は共感しかねるのです。被害妄想に陥る前に日本人はバブル経済のさなかに自分たちは何をしていたのかを思い起こすべきだと思うからです。それは第二次大戦の時に自らの軍事行動の記録を自ら収集しようとしなかった日本の姿にも似ていると思えます。因果応報・自業自得の部分も日本側にかなりあったはずだというのが私の意見です。日本には第二次大戦で「精神ではアメリカに勝っていたが物量で敗れた」と言っている人たちも数多く存在していました。しかし戦後世界の日本は物量ではアメリカと肩を並べるまでになったのかもしれません。戦後のアメリカによる占領政策のために神奈川県の厚木基地に降り立ったマッカーサーは「日本人は十五歳」といいました。当時アメリカと日本とではこの精神面での年齢差以上の経済面での格差が存在していたといえます。しかし二十世紀の間にその格差は縮まり一人あたりGDPでは日本はアメリカをしのぐまでになっています。そして故福田赳夫首相は「日本人はモノで栄え心で滅びる」と指摘したと言われます。経済面で日本は成功したとしても、精神的な発達はその経済の発達に見合ったものであったといえるでしょうか。日本は滅びはしないまでもアメリカに「心」で敗れたのではないのでしょうか。戦後社会の問題点が数多く噴出しているのではないかと思えるような事件などが生まれ出てはいますが、そのことによって精神が戦前世界や戦時中の世界に戻れば解決できるというような事でもないと思います。現状が苦境の中にあるときには観念は先祖帰りをすることがよくあることですが、それで問題が解決できるとも思えません。戦時中から敗戦の時期までは日本では兵隊さんが一番偉かった時代でしたが、 また当時の日本の社会システムでは兵隊さんになることが自分の出世にとってはもっとも早道だったのですが、戦後バブル経済の時期まではサラリーマンが一番偉いと思われる時代になりました。 そのため戦時中は日本の誰もが男性は兵隊さんになりたがり、戦後は女性を含めてサラリーマンやOLになりたがりました。 戦時中の成人男性のほとんどは兵隊でしたし、戦後に於いては二千年時点近辺では勤労者の八十二パーセントが給与所得者になりました。なぜなら戦時中最も偉く、戦後は日本の象徴になった天皇には天皇家に生まれたわけではない日本国民としては誰 一人としてなれるはずがなかったからです。そしてバブル経済が崩壊すると「ベンチャーだ」「自営業だ」という声も聞かれるようになってきています。これからの日本がどんな時代を迎えるにしろ、自分が花形だと思っているときが後々の自分自身にとって最も危険な時期であるのかもしれないということは意識しておいた方がよいようにも思えます。冷戦構造が崩壊してバブル経済も崩壊した以後の日本人は自分が不幸になったと思っているのかもしれません。しかし失業率を見てもこれまで世界の先進各国は二千一年時点で深刻さを加えている日本の失業率よりもさらに高い失業率を経験してきていました。 日本はやっと失業率の面でも先進国の水準に追いついたのだともいえます。 その背景にはオイルショックによって輸出を急増させたことが激しい非難を受け、自動車生産をアメリカに現地化したり、急激な二度の円高によってアジア地域に生産の場を移すなど、日本経済の競争力が強く輸出圧力が高かったが故に企業の多国籍化が進み国内産業が空洞化していったという事情があります。国内産業の空洞化も他の先進国と同じ悩みを抱えることができる水準にまで日本経済は到達し得ました。そして二千年代はじめには、アジアに大きな市場が生まれ始めたので、今度はアジアにビジネスチャンスを求めて日本企業が進出しようとしています。 すでにアジアにはモノ作りの体制が完備し、日本国内の製品より優れた品質や生産高を記録する分野がいくつも出来始めています。少なくともバブル経済の時期までは日本の失業率は先進七カ国中最低の水準にありました。したがって私は日本人が不幸になってしまったとは思っていません。戦後あるいは冷戦時代の日本人があまりに幸せすぎていただけだと思っているのです。自分が幸せすぎる境遇にあることを日本人自身があまり意識してきていなかっただけだと思います。自分の幸せすぎた境遇が終わりにさしかかってしまったとしても、そのことで被害妄想に陥る必要はないと思うのです。世界のこれまでの先進各国並の幸せの水準になったからといって嘆く必要もまた他の諸外国を恨む必要もないと思うからです。また同時にこれから経済的にも伸びてくる可能性のあるアジア諸国を見くびったり見下したりすべきでもないと思います。私はこれまで多くの日本人には気に入らないこと、あるいはできることなら触れてもらいたくないことを書いてきたかもしれません。しかしそれは、それら過去の事実を事実として認めることでもっとましな社会に日本がなってほしいと思うからです。二度とそのような時代を日本人が経験せずに済ませてほしいからでもあります。人間は間違う者です。ですが間違った事実を認めることで、その間違いを修正することは可能です。間違いを間違いと認識できなければ同じような間違いを何度でも繰り返してしまうことでしょう。自分たちがましな者になるためにも、自分たちの欠点や間違いは自覚してもよいのではないのだろうかと思うのです。間違ったが故に思わしくない事態になったからといって、闇雲にただ「国を思う心」を強調してみても問題の解決にはならないでしょう。それよりもなぜ間違ったのか、間違いの原因はなんだったのかを冷静に考えることの方が将来の利益になると思います。過去の重大な過ちは過ちとはっきり認めた上で、これから始まる中国を筆頭とするアジア諸国をも含めた世界との本格的な経済レースに日本は本気で立ち向かう準備をすべき時期のように私には思えます。教科書問題にしても小泉純一郎氏の靖国参拝問題にしても、先に仕掛けたのは日本側であることは日本人自身が自覚しておくべき事だと思います。 『新しい歴史教科書』の執筆者達の考え方の根底にあるのは、「日本は常にその時代時代の世界の先進国と呼ばれる国々に引けを取らない水準の国であった」ということなのかも知れませんが、以上に述べたごとく、かつての戦争のその後の処理と対応の仕方という点に於いては日本はアメリカに比べて非常に立ち後れ見劣りのするものだったといわざるを得ないと思います。また戦争によって生み出されてしまった遺族の人々の心情に応えるのが、必ずしも国会議員や国の官僚達が靖国神社を参拝してみせる事が唯一の方法だともいえないと思います。戦地からの引揚者の証言集を集めることによって、遺族となられた人たちが自分の夫や家族そして恋人がどのような状況の中で死んでいったのかを幾分かでも推測する手だてを残しておくことも、遺族や関係者の心情に応える道の一つではあっただろうと私は思うからです。 現実を知ることがつらいことだったとしても事実を知りたいと思う遺族は皆無だったはずだということにはならないと思うからです。靖国神社へは国会議員ならずとも、また首相ならずとも参拝に行くことはできます。しかし国会議員でしかできない事はあるはずです。また国の官僚でしかできないこともあるはずです。ならば、誰でもができることをしているだけではなく、自分たちにしかできないこと、自分たちだからこそできることに力を注ぐべきであると思います。形式的なことだけで事済めりと言うことではないと思うからです。

 

 

 

 

 

 

 


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