連載小説 カンパニー・1985 第11回
タヒチへ
気まずい日々が過ぎていった。円ドルレートは急激に円高ドル安に推移し、決定したばかりのチリ・メタノールプラントの採算はどんどん悪化していた。せっかく取れたプルードー湾の熱交換モジュールも、下手をすれば赤字受注になるかもしれないという恐れがでてきた。藤原さんの眉間には、いつもより深いしわが刻み込まれているように見えた。
ところがそんなことよりも、僕の脳裏を占めていたのは別の事柄だった。僕は自分の感情を何度も確かめようとした。そしてそのたびに同じ答えが出た。そうとなれば、あとはどうやって行動に移すかである。僕はこっそりと何度も日本交通公社に通った。いろいろ研究した結果、これなら、という線が浮かび上がってきた。あとは資金面が問題になった。入社1年目の僕は、あまりにもお金がなかったのである。最後は和歌山の親父に金の無心までした。ともあれ、準備は整った。このあと必要になるのは、少しばかりの勇気だけだった。
ついにその夜がやってきた。残業を終えて、いつものように寿司屋に寄ろうかということになったとき、僕は「今日は寿司兆に行きたいんだけど」と切り出した。「あそこ、高いんじゃない?」というデコさんをなだめて、僕は値段の書いてない寿司屋に足を運びいれた。
「適当にやってください」
と店の人に伝えたら、いきなり松茸の土瓶蒸しが出てきた。僕の1ヶ月分の昼飯代が吹っ飛びそうだった。しかしそんなことにひるんではいられない。僕は何度も予習をした会話を切り出した。
「こないだ、初めてパスポートを作ったんだ」
「えーっ、竹下さんて、まだ持ってなかったの?」
これは彼女の反応の方が正しいと思う。
「まあ、そろそろ出張も近いと思うし」
「そうよね。取りあえずロスの遠藤さんのところへ行かなきゃね」
「でもね、あんまり寒い季節だと嫌でしょ。だってアラスカにも寄らなきゃならないし」
違う。そういう話をしたいのではない。
「竹下さんて、外国に行ったことがなかったんだ。商社マンなのに」
「だってそんな機会がなかったんだもの」
「まあまあ、海外なんてこれからいくらでも出て行く機会があるわよ」
「出張はともかく、来年のお正月に外国に行ってこようと思うんだ」
ようやく本題が始まった。
「へえ、どこに行くつもりなの?」
「タヒチ」
「それは良さそうね。でも、どうして最初の外国がタヒチなの?」
「来年になったら、ハレー彗星が来るんだって。76年に1度の快挙」
乾坤一滴の勝負が始まった。僕の頭の中で、当時流行っていたハウンドドッグの『フォルテシモ』という曲が鳴り響き始めた。
「日本にいると見られない。南半球でないと。それでタヒチ」
「へえ、竹下さんてそういう人だったの。なんていうか、ロマンチストなんだ」
「一緒に行かない?」
「え?」
この会話がどういう結末になったか、それは彼女が今では僕の妻となっていることで想像願うしかない。