2003年7月末、約一週間、ローマを中心に旅行したときの記録です。ここでは、古代ローマに関係した事物のみを取り上げています。バチカンを中心としたもう一つの魅力であるルネッサンスのローマについては触れていません。
超簡単ローマ史、ローマ時代の遺跡、美術館・博物館、アッピア街道、チボリ、ポンペイ
ローマは紀元前8世紀頃から、パラチーノの丘を中心とする、七つの丘にラテン語を話す人々が住みつき都市国家を作ったのを起源とする。伝統的に、貴族階級をメンバーとする元老院と、市民の選挙により為政者を選ぶ民主政が絶妙のバランスを保つ政治システムの下、周辺国家エトルリアの優れた土木技術をフルに活用し、大いに発展し、地中海世界、南部ヨーロッパを含む大帝国を作り。約1000年の間繁栄をほしいままにした。その歴史は、為政者の選び方の違いにより大きく3つの時代に区分される。
王政時代(BC8世紀−BC509)初期の頃は、現在の市街地である低地は湿地帯で居住には適さなかった。王による灌漑工事が進み、低地にも住めるようになり、政治の中心は現在も残るフォロ・ロマーノに移った。周辺の土地の先住民と抗争を繰り返し、徐々に版図を広げ、王政末期には、イタリア半島の有力な国家の一つに発展した。このとき、征服地の住民にもローマ市民権を与え差別をしなかったのもローマ発展の一因といわれている。ただ、略奪を目的とする異民族の襲撃から町を守るため6代目の王セルヴィウスが七つの丘を取り囲む城壁を作った。この城壁は、シーザーによって取り壊され、現在はテルミニ駅の前にわずかに残っている。
共和政時代(BC509−BC27)7代目の王タルクニウスがあまりに専横だったため、追放され、共和政が発足した。ここでは、市民の選挙と、元老院の承認により選ばれる1年任期2名並立の執政官(コンスル)が政務を取り仕切ることになる。戦時には、市民が軍務につき、執政官がこれを指揮する。ただし、軍事力による政治支配が起こらないよう軍の編成・解散は必ずローマ市外で行なわれねばならなかった。執政官は、平民からも選ばれたが、解任後は元老院議員の資格が与えられ、政治の実権は元老院の有力者が握っていた。そのため、平民の権利を守るため執政官に対し拒否権をもつ護民官制度が設けられた。また、非常時には執政官の1人に6ヶ月を期限とする独裁官権限が与えられることもあった。
この様な政治体制の下、周辺のエトルリア人、山地民族、海岸に都市国家を作っているギリシャ人、時々襲来するケルト人などと戦い、共和政中期には版図を南イタリア全域に拡大し、さらに、共和政末期にはカルタゴとの3次に渉るポエニ戦争を勝ち抜き、地中海の制海権を獲得し、その版図は一挙にギリシャ、シリア、北アフリカなどの地中海世界、南フランス(ガリア)に広がった。そして、最後にシーザーにより、ライン以西のガリア(フランス全土とドイツの一部)、イギリス南部も版図に加えられた。これらの地方はローマの属州とされ、執政官経験者による属州総督により統治された。
この様に大功を収めたシーザーは広大な版図を支配するには従来の共和政では無理と考えて制度の改革を考えていたが元老院に容れられず、従来の掟を破り、軍を引き連れルビコン川を渡りローマ市内に凱旋し、軍事的圧力の下、終身独裁官の権利を得た。市民には絶大な人気のあった彼は事実上の皇帝となったが、その直後ブルータス等の旧守派に暗殺された。(BC44年)
帝政時代(BC27−AD476 西ローマ帝国滅亡)その政治的才能をシーザーに見込まれ、養子に指名されていた姉方の甥のオクタヴィアヌスはシーザー亡き後、混乱期の政争と内戦を勝ち抜き、元老院から終身の全軍指揮権と護民官特権、アウグストス(尊厳者)、プリンケプス(市民の第一人者)、インペラトール(軍人の第一人者)という称号を与えられ事実上の皇帝が誕生した。以後の皇帝は全てこれらの権限と称号を与えられた人物のことで、皇帝という位があった訳ではない。これらの権限は終身のもので、皇帝を退位させる合法的な手段はなく、暗愚で暴虐な皇帝は暗殺か自殺により除くしかなかった。また、皇帝位の継承は、原則的には執政官と同じく市民の選挙と元老院の承認によるが、実際は、皇帝の実子、養子などが生前に要職を占めることにより実績を積み、次期皇帝に選ばれることが多かった。従って、五賢帝時代のように、有能な養子が皇帝となった場合は政治は安定し国勢は発展したが、実子や血統を重んじ、若くして皇帝になった場合(ネロ[オクタヴィアヌスの子孫・クラウディウス帝の子]、コモドス[マルクス・アウレリウス帝の実子]など)悪政となりがちで、暗殺や自殺に追い込まれる羽目になることが多かった。
一方、得意の土木建築技術は大いに発展し、軍隊を迅速に運ぶためのローマ街道、それに付属する橋梁、市民に水を供給する上水道などのインフラが整備され(これらはいずれも共和政時代から建設されていた)、また、ローマ市民の楽しみである、入浴、観劇、闘技のための大浴場、野外劇場、闘技場などが、市民の人気取り政策の一面を持ちながら皇帝たちによって建設された。これらの施設は属州の主要都市にも建設された。
ローマ帝国の最盛期は五賢帝(ネルバ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス)の時代(AD96−160)でトラヤヌス帝のときにその版図が最大となった。また、ローマ市の人口は100万人を数え当時世界最大の都市となった。
ディオクレティアヌス帝(284-305 在位期間 以下同じ)のとき帝国は東西に二分され皇帝もそれぞれ正副計4名が立った。また、元老院を廃止し専制国家となった。また、コンスタンチヌス帝(306-337)の時キリスト教が公認され首都がコンスタンチノープルに移転した。
476年ゲルマン人傭兵隊長オドアケルの襲撃に破れ西ローマ帝国は長い歴史を閉じた。
その後、ローマ市は荒廃し、特に上水道が破壊され居住困難になり、盛時100万を数えた人口がわずか数万になり、法王庁をを中心とする小都市となった。しかし、ルネッサンス期になって野心家の法王が輩出し、ミケランジェロなどの偉大な芸術家の協力を得て上水道の復活を始め多くの建造物を作り現在のローマ市の基を築いた。ローマの街角のあちこちにある噴水はこの時の上水道の端末に作られたものである。
カピトリーノの丘からながめた フォロ・ロマーノ
パラチーノの丘とカピトリーノの丘にはさまれた低地に造られた古代ローマの政治の中心地。
左から(教会は除く)、セヴェルスの凱旋門、元老院会議場(後ろの建物、復元されたもの)、サトルヌスの神殿跡(手前の列柱)、フォカス帝の記念柱(一本の石柱)、アントニヌス・ピウス帝の神殿(後方の列柱)、聖なる道と広場、ヴェスタ神殿(遠方三本の列柱)、手前の規則正しい基石はユリウス会堂跡、一番右の丘はパラチーノの丘。
チルコ・マッシモ
(大戦車競技場)
馬に引かせる戦車がローマ軍の主力兵器であった。そのため、訓練もかねて、戦車競技が盛んに行なわれた。全長600mに及ぶ巨大な競技場である。
右手奥の高台はパラティーノの丘。
パラティーノの丘は最初にローマ人が定住した丘であり、貴族たちの邸宅のあった場所である。
ローマ市内の遺跡点描(ほぼ時代順) 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります
![]() 王政時代に七つの丘を取り囲む城壁が作られた。その遺跡。 |
![]() 正面に見えるのは元老院会議場 その後ろはカピトリーノの丘 |
![]() テベレ川にかかる最古の石橋 BC2世紀建造 |
![]() シーザーが作らせた円形劇場 現在も集合住宅として使われている。 |
カピトリーノ広場とカピトリーノ美術館
カピトリーノの丘は小さいながらローマ時代にはジュピター神殿などがおかれた神聖な丘であった。現在はその面影はなく、15世紀にミケランジェロが設計した広場を中心に宮殿が作られ、現在は美術館(カピトリーノ美術館左側)、市庁舎(元老院宮殿 右側)として使われている。
中央にあるのはマルクス・アウレリウス帝の騎馬像の複製(台座はミケランジェロ作の本物)
本物の騎馬像(ローマ時代のブロンズ像)は腐食を避けるため美術館のカラスケースに収めてある。
収蔵品など 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります
ディオクレティアヌス帝浴場跡の国立博物館中庭
テルミニ駅前に2つの国立博物館がある。これは、ディオクレティアヌス帝浴場跡を利用した博物館でどちらかというと収蔵品の置き場という感じ。
美術的価値のあるものは、駅に向かって右手にある黄色い建物マッシモ宮のほうに収められている。
下の写真はいずれもこちら。
収蔵品(皇帝像) 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります
アッピア街道
全ての道はローマに通ずるといわれるように、戦線に素早く軍隊が送れるように石畳で舗装された道が四方八方に張り巡らされた。
アッピア街道は最も古い街道でBC315年執政官アッピウス・クラディウスにより、ローマからカプアまで約200kmの道が造られた。
写真はまだ市内に近い部分で、舗装は石畳のままだが、車が頻繁に通り、歩行者にとってはかなり危険な道である。
この付近は古代ローマ人の墓地で、道の両側に多くの廟や墓がある。
また、初期キリスト教徒が隠れ住んだところで、彼等の墓であるカタコンブがあちこちにある。
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![]() 4世紀頃のローマの兵士出身聖セバスチアンにちなんで建てられた。地下には巨大なカタコンベや地下礼拝堂がある。一時期、ここに聖ペテロ、パウロも葬られていたという。 |
![]() 共和政時代3頭政治を行なったクラックスの嫁の墓 |
![]() 1万人収容できる大競技場 |
ヴィラ・アドリアーナ
(ハドリアヌス帝の別荘)
ハドリアヌス帝はその生涯の殆んどの時間を国境の視察と整備に費やしたが(例えばイギリス北部のハドリアヌスの長城を造った)晩年は体調優れずローマ郊外の保養地チボリに広大な別荘を建てた。その中に、スポーツ競技場や属州各地の風物を模した庭園を造った。
左の写真は、ギリシャ風庭園の巨大な競技用プール
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ヴィラ・デステ(エステ荘) ルネッサンス時代
チボリの町にあるルネッサンス時代の枢機卿イッポリート・デステが建てた宮殿。 豊富な水を利用して斜面に無数の噴水が作られている。
リストが巡礼の年『エステ荘の噴水(ここをクリックすると音楽が聴けます)』を作曲したことで有名
エステ家は北イタリア フェラーラの小領主だが、この時代ボルジア家、フランス王家と婚姻関係を結び、枢機卿の地位を得、羽振りがよかった。
枢機卿イッポリートの母は絶世の美女といわれたルクレッチア・ボルジア、祖父は悪名高いボルジア家出身の法王アレキサンドロ六世
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ポンペイはナポリの南郊にあるローマ時代の町である。
当時人口2万人位の都市で裕福な商人達が住んでいた。西暦79年ヴェスヴィオ火山(左後方に見える山)の大噴火で一瞬にして火山灰に埋もれ18世紀になって地下に眠っている遺跡が発見されるまでほぼ当時の姿を保って眠り続けていた。
現在は、ほぼ全域が発掘されており、当時の生活の様子が生々しく再現され、極めて印象深い遺跡である。
左の写真は、市の政治の中心フォロ(広場)で神殿、集会所、演壇などが周囲を取り囲んでいる。
フォロの近くに、選挙管理事務所と見られる建物があり、また、街角の所々に選挙ポスターらしき絵が描かれており、実際に選挙が行なわれていたことがわかる。
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ローマ市内の観光は地下鉄・市バス共通の1週間通用券(12.39ユーロ 自動販売機でも買えるがテルミニ駅内のタバコショップで買うのが便利)を利用するのがよい。バスの路線図は、テルミニ駅前のバス乗り場にあるインフォメーションで無料でくれる。あとは足でかせぐ。 なお、この券を利用する場合、最初に使うときに地下鉄なら改札にある刻印機で必ず日付の刻印をすること。あとは、自動改札機を通らなくても自由に地下鉄・バスに乗れる。時々検札があるので注意。
郊外の観光にはローマから出るガイド付きバスツァーを利用するのが便利。ポンペイやチボリへは日本語ガイドツァーもある。