歴 史 散 歩 (4) 2004年4月 歴史散歩目次へ戻る

西 行 と 桜

西行(1118-1190)は平安末期の歌人。俗名は佐藤義清(のりきよ)。北家藤原氏の末裔で、将門の乱の鎮圧に大功を立てた関東の豪族藤原(俵藤太)秀郷の子孫。奥州藤原氏とも近い系譜をもつ。紀州紀ノ川のほとりに広大な領地を有する武門の家系である。若くして、鳥羽法皇の御所に仕える北面の武士となり文武両道に活躍したが、23歳の若さで故あって妻子を捨て出家した。法名は円位、西行と号し、諸国を行脚しながら多数の名歌を残した。特に桜の花を愛でた歌は有名でその多くは『山家集』に収められている。なお、西行は出家後も俗界と交わりを絶ったわけでなく、その経歴、出自から当時の政界上層部(白河法皇、主家筋に当たる徳大寺家などの上級公家、北面の武士時代に培った平清盛ら有力武士との交わり、親戚筋にあたる奥州藤原氏など)に知古が多く、源平争乱の世に情報僧として政治の動きに一定の役割を果たしたといわれている。

法金剛院 西行出家 2004.4.7

法金剛院は洛西JR花園駅の向かいにある律宗の寺院である。それほど有名ではないが、優雅な平安時代の廻遊式庭園を持ち、四季の花に恵まれている。

西行とのかかわりは、出家の理由と関係があり、この寺を現在の形に再興し、御所として使用していた鳥羽天皇の中宮、待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)を通じてである。

待賢門院璋子は藤原氏北家の名流に属す正二位権大納言藤原公実(きんざね)の娘で、その美貌により、幼少の頃より白河法皇に寵愛され、長じて鳥羽天皇の中宮となった。西行はその職務上近くに侍ることが多く、彼女に叶わぬ恋心をいだき、世をはかなんだのが出家の遠因であると言われている。この地にもたびたび訪れ、すでにその頃からあった桜を見て多くの歌を詠んだという。西行は、この御所に仕える多くの女官たちとも知り合いで、百人一首に収められている『ながからむ心もしらず黒髪のみだれてけさはものをこそおもえ』(下に歌碑の写真有り)という歌を残した才女待賢門院堀川とも懇意であったという。

法金剛院点描

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正 門

本堂と待賢門院桜
後ろに見えるのは雙ケ丘

百人一首歌碑

枝垂れ桜

紅枝垂れ桜

法金剛院の近くには、すぐ側に臨済宗妙心寺派総本山があり、また少し北に御室仁和寺がある。左の写真は、すぐ西側に二つ並んだ小高い丘、雙ケ丘の頂上から撮った仁和寺の全景である。遅咲き桜の名所であるがすでにかなり咲いているのが判る。西行法師もこの寺には何度か足を運んだであろう。また、この丘の下には兼好法師の庵跡もある。

花の寺(勝持寺) 西行出家得度の寺 2004.4.5 秋の風景はこちら

京都市西京区大原野の山麓にある、天台宗勝持寺は役の行者が天武天皇の勅により創建した古刹(680年)であるが、今は西行法師が出家得度した寺として有名。
庭園には西行法師が手植えし吟愛したといわれる桜の子孫があり、花の寺として季節には多くの人が訪れる。
花見んとむれつつ人のくるのみぞあたら桜のとがにはありける(花を見ようとたくさんの人が群れ来るのは桜の罪であろうか?)の歌のごとく、この日も晴天で平日にもかかわらず多くの人が花見に訪れていた。この写真中心左寄りの桜は西行桜と呼ばれている枝垂れ桜である。

花の寺点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


仁王門

南門参道

阿弥陀堂

西行桜案内板

西行桜

西行桜

桜ケ丘

吉野 2004.4.12 

奈良県南部にある吉野山は修験道で有名な大峯山の麓にあり、白鳳時代、役の行者が創建した金峯山寺を始め数多くの寺院・神社があり山岳宗教のメッカである。役の行者がこの寺の本尊である金剛蔵王権現像を桜材で彫刻して以来、この地で桜は神木とされ、以来数多くの桜が植えられ、下千本、中千本、上千本、奥千本と山上に至るまで数万本の山桜が咲き乱れる。

西行も、修行の一環としてこの地を度々訪れ、壮年期に約3年間、奥千本の山あいに庵を結び隠棲したといわれている。その地には、当時の面影を偲ぶ小庵があり芭蕉を始め、西行を慕う数多くの人が訪れている。この地で詠んだ代表作『吉野山やがて出でじと思う身を花散りなばと人やまつらむ(山家集)


この写真は中千本吉水神社から上千本付近を見渡したものである。西行庵はさらに奥、ここから約4kmほど登った所にある。

吉野山点描  下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


奥千本の
西行庵

西行庵の中の
西行像

西行庵の前の小さい台地

奥千本西行庵近くの桜

上千本より金峯山寺蔵王堂付近を望む

金峯山寺蔵王堂
大仏殿に次ぐ巨大木造建築

たまたま蔵王堂前で行なわれていた花供会式

吉水神社書院
後醍醐天皇が南朝仮御所を置いた所
義経が身を隠した所でもある。

金竜寺 名も無き山寺跡 2004.4.8

山腹に山桜が見え隠れする何の変哲も無い山。実は私の家から東の方角に見える山で、中腹に金龍寺という山寺の跡がある。つい最近まで無住寺として本堂が残っていたが不審火により焼失し今は石垣などを残すのみである。

創建は1200年前と古く、平安時代には百人一首でも知られている能因法師や西行がこの地を訪れ桜花を愛で歌を詠んだたという記録がある。

ちなみに、能因法師の隠棲地・墓はこの山の下、高槻市小曽部にあり、また同じく平安朝の女流歌人伊勢姫の隠棲した所も、私の住む町内に伊勢寺として残っている。また、この山の南端山麓で発見された安満宮山古墳から青龍三年の銘の入った魏鏡が出土し卑弥呼の邪馬台国との関係が取りざたされている。

金龍寺周辺点描  下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります 


金龍寺跡
石段や石垣が残っているのみ

金龍寺跡の広場
右手に見える道は太閤道と呼ばれ秀吉が天王山の戦いに挑む時通ったといわれている。

金龍寺跡に残る山桜

参道脇にある座禅石
西行も座禅を組んだ?

弘川寺 西行終焉の地 2004.4.6

『願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ

あまりにも有名なこの歌。その願い通り文治六年(1190)二月十六日(旧暦)、この地、大阪府の南東、南河内葛城山麓にあるこの寺で73歳の生涯を閉じた。

勝持寺と同じく役の行者によって開創された古刹である。この写真は本堂(右)と護摩堂(左)この左手少し下がった所に本坊、庭園、西行記念館がある。 また、裏山には西行が営んだ草庵の跡、江戸時代西行を慕ってこの地に来た似雲法師が建てた西行堂、似雲が見つけたといわれる西行の古墳、西行法師八百年遠忌を記念して桜千本を植えた西行桜山などがある。

弘川寺点描 下のサムネイル(小さい絵)をクリックすると大きくなります


西行墓

西行歌碑

西行堂

桜山

桜山より
富田林方面を望む

本坊

西行記念館
庭園 海棠桜
紅八重桜