2013年7月18日 15:32:48

 以下の文章は、浄土真宗本願寺派安芸教区で発行されている「見真」の446〜464号に安芸門徒のタイトルで連載された記事をそのまま転記したものです。

 筆者は佐伯奥組善福寺住職 水原史雄さんで、1980年に中国新聞社から「安芸門徒」を刊行された方。当時資料収集のため当店にも足繁く立ち寄って戴いた記憶があります。

 今年は大瀛和上の200回忌に当たり、和上の生誕地筒賀村では盛大な法要が営まれました。三業惑乱、大瀛、安芸門徒などのことが話題に上る機会が一段と多くなったので、お役に立つのではないかと思い紹介させて戴きました。

 なお転記には充分注意しましたが誤りがあるやも知れません。お気づきの点をご教示戴けば幸いです。


安  芸  門  徒

民俗的風景(上) お寄り講 盆灯篭

「安芸門徒の信仰があまりにも純化され、民俗的なおもしろさに欠ける風土になった」−もう十数年前に広島県史編さんに携わっていた藤井昭さんがこう話したのを思い出す。

 江戸時代中期から明治の初期にかけての浄土真宗の学僧群の輩出についての話題に関してである。この学僧群は、今の安芸教区を中心にしており"芸轍(げいてつ)"と呼ばれた。

 芸轍のエース格の大瀛和尚らは、当時の宗門の学問上の最高権威者だった能化(今の龍谷大学学長に当たる)に対し、絶対他力の立場から宗学論争に全エネルギーを傾ける。

 一切の自力の排除。そうした信心が芸轍を支える門徒に波及することにより、祖霊信仰など土俗的観念は払拭されていく。田の神さん、地神さん、庚神さん、地蔵さんなど他地方では各地に見られる信仰対象が、安芸教区内では確かに乏しい。

 もっとも、浄土真宗一色とは言い難い。決して"弥陀一仏"でもない。神楽、大田植などの民俗芸能も根づいており、お宮での秋祭りもにぎわう。そのうえ、現世利益を求めての新しい宗教に走る人も多い。

 したがって、浄土真宗の信心の純化、おもしろさに欠ける風土と言っても、他地方と対比して、比較的―と捕えるほうが妥当なような気がする。

 それにもう一つ。浄土真宗の風景にも、民俗的な側面がある。お寄り講などはその最たるケース。核家族化による親族間に限らず、地域内での連帯も崩れやすい今、毎月一回、当屋で仏縁に会う伝統がまだ各地に残る意義は大きい。

 私事になり恐縮だが、二年前に中国新聞の記者を辞め、佐伯郡湯来町の自坊・善福寺に帰った。同寺から出向くお寄り講も数カ所あるが、そのうちの打尾谷地区に二カ所。ともに二年に一回程度で回ってくる当屋は、あらかじめ寺に日程を相談し、当日は仏壇を荘厳、お斎を準備する。

 たいがいは夕方からで、親類や近所の人が十〜二十人程度参る。僧侶とともに「正信偈」を読経、法話、御文章に耳を傾け、お斎につく。近年は仕出し屋からサシミなどのついたパックも増えてはいるが、まだ昔ながらの煮物の精進が主流。いずれも酒、ビールは必ず出て、雑談しながらのコミニュケーション。

 芸達者な人の多い集落だけに、場合によっては「飲めや歌えや」に。カラオケのある家も多く、私も時として袈裟を外してマイクを持つ。少しづつでも雑談から法談へ−と願っており、いずれは仏教音楽の導入も−ともくろんでいる。

 お寄り講は、蓮如上人によって提唱、全国的規模に広がった。しかし、こうした伝統の存続は難しいご時世。安芸教区では、芸轍の祖と目される慧雲が力を入れ、根強く浸透しただけに、今も続く地域が多い。

 安芸教区ならではの民俗的な側面としては、お盆の紙灯ろうを抜きにはできない。細竹の先端を割った芯に紙を張り、紙飾りをつける。初盆に限って白と金色、通常は色紙を使う。六角の中にろうそくを立てるが、今は火災防止のため火をともさなくなりつつある。

 わが家の墓所だけでなく他家の墓所にも紙灯ろうを持参しての"仁義参り"の定着で、お盆になれば山間地も急に華やぐ。

 紙灯ろうのルーツは今一つ不明確。俗説では、江戸時代に広島城下の紙屋の娘が死んだのを悲しんだ父親が、娘をしのんで作り、供えたのが起こりという。美しくも悲しい民俗的な産物である

(見真 446号 1991-9-1)

民俗的風景(中)能美島の常朝事

 一般的に市民権は得ていないが、浄土真宗の僧俗の間でよく使われる言葉に"土徳"がある。文字通り、徳が染み込んだ土地柄。広島県西部一帯の安芸教区は、他地区の人から「さすがに真宗王国。土徳がある」としばしば見られる。

 はたして、その通りか。後で考えたいが、少なくとも、ここで紹介する広島湾の島しょ部ではそんな風景がのぞかれる。

 佐伯沖組―というより"能美法中"として知られる能美島の寺々。隣りの江田島も含めて、十一ヵ寺と門信徒との間で、実に一世紀以上も"常朝事"が続けられている。

 朝事とは、正式には晨朝(じんじよう)勤行後の法話だがさり気ない言い回しに親しみが感じられる。この習慣が毎朝となれば"常朝事"。

 もう二十年近い前になる。私の師のもの書きが、安芸門徒の取材目的で来広した時のことだ。この伝統を教えたところ、目を輝やかせて取材に臨み「生きた遺産」と驚嘆した。私はむしろ、その驚嘆ぶりに驚き、灯台下暗しを感じたのを思い出す。

 取材協力をしてもらったのは、佐伯郡沖美町岡大王の専念寺。明治十七年生まれの先先代住職・寺尾晃宣さんは、当時はまだお元気で「朝事の起源は不明だが、常朝事は文久三年(一八六三年)九月一日に、まずうちの寺から始まった」と説明を受けた。七間四面の今の本堂が再建された記念からだったようだが、それまでは偶数日だけだったという。

 朝日とともに目覚める島民の習慣で、夏季は六時、冬季は七時ごろから開始となる。本堂の階段下に、二十〜三十足の履物が整然と並ぶと、打鐘、勤行。勤行は「正信偈」で、読経しない者はいない。そして住職の法話。十分前後の法話だが、毎朝となると話す方も、聞く方も大変。

 驚いたことに、法話の前には満堂。島民の働き手は定期船で約一時間の広島港に向かうので、平日はお年寄りと婦人が主だが、日曜祝日には家族ぐるみもあって百人以上。どの表情も見るからに自然であり、どことなく温かみが漂う。

 戦時中も一日の休みもなかった。軍都広島・軍港の町の呉、海軍兵学校で知られる江田島に取り囲まれ、敵機の空襲も相ついだ。法話の最中に境内の防空ごうに避難することもしばしばだったが、翌朝には必ず参拝者があった。

 今は故人だが、若いころから百七歳で死ぬ日まで欠かさず参った人もいる。段々畑沿いの険路を約半時間、来る日も来る日も通ったその人の名は、今も語り伝えられる。

 "常朝事"は西本願寺広島別院や、呉市周辺にも見られる。だが、島ぐるみといい、その息の長さといい、能美島の場合は別格であろう。一説によると、朝事自体は専念寺と同じ町内の三高の徳正寺道命、是長の長徳寺見真が始めたと言われ、筋金入りとも思える。

 勢い、島民らは日常会話の中で「お陰さまで」「もったいない」の言葉がぽんぽんと飛び出す。安芸教区全域でもよく聞かれはするが、言葉に血の通いを感じるのはやはり能美島。まさしく"土徳"の地である。

 合理的思考が濃く、打算的傾向の強い今日、浄土真宗の教義は浸透しにくい。欲も得もまるごと念仏の中に吸い取られる世界は見い出しにくいのが現状。それだけに"常朝事"の島・能美島はひときわ希少価値がある。

   (見真 447号1991-10-1)

民俗的風景(下)報恩講

「先住さんは汗が出るころ参りんさった」と笑うご門徒がいた。報恩講参りである。笑いのなかには、かくあるべきではないーとの見解とともに、ようこそ−との受け入れの姿勢が同居している。

 報恩講―親鸞聖人をしのんで営む法要で、浄土真宗にとっては、最も大切な仏事とされている。俗に「お取りこし」とも呼ばれるのは、聖人のご命日の一月十六日には、そもそも僧侶、門徒とも本山に参拝するのがならわしで、末寺や門徒の家では、それに先だって営むためだ。

 ここでは、門徒の家での報恩講。壇那寺の僧侶は、秋の農繁期が一段落すると、門徒の家を一軒ごとに回る。原則として、一月十六日までには全部の門徒の家に出向く。もっとも、家によっては年内に済ますものと思い込んでいる場合もあり、僧侶はお参りのやりくりに頭を悩ます。

 勢い、かなり早目に始めたくなり、私が二年半前から住持する寺の先代住職も、九月ころに参ったケースもある。門徒としては、参ってもらわねば−の義務感はあるが、頃合いが合わない気分になるらしい。

 そうした心情は、門徒にとって、大きな節目の年中行事としての定着の度合いの濃さをうかがえる。産業構造の変動で、山間地の人口が都市部に流出、残っていても兼職によりサラリーマン化するなかで、昔ながらの年中行事は廃れる一方。その傾向のなかで報恩講だけは根強く、これを終えると「ほっとした」とのご門徒の声をよく聞く。

 もっとも、その意味合いの理解度となると話は違う。それに、伝統的な形態も徐々に崩れつつある。 シーズンに入ると、寺側は世話係に数軒分を訪れる日時と回る順を告げる。家々では仏壇に供物を供え、飾りつけをして僧侶を待つ。かつてはどの家も精進料理を作り、親類や隣り近所の人も招き、ともに仏縁にあった。

 精進料理は大根、里芋、豆腐、油あげ、カボチャなどの煮込みのおひら、みそ汁や新米のご飯の椀などをのせたお膳として用意されるが、今は一部の家が僧侶と家族分だけを準備する程度。とも働き家庭が多く、なかには「留守しとるが、参つとってつかあさい」と、飾りつけとお布施だけを用意してあるのも。

 仏縁にあうーというより、先祖供養の感覚で受けとめている人も多い。「報恩講のお経の後で、先祖のためのお経を」と依頼する人は、報恩講は親鸞聖人―と、分けて考える人だろうが、浄土真宗の僧侶としては複雑な思いにさせられる。

 報恩講の勤行は「正信偈」に決まっている。続いて、法話か「御文章」を拝読。もとより、家の人も読経中は焼香をする。

 他に勤めを持つ私は、土曜と日曜を除くと、夕方から夜にかけて参る家が多い。そうすると、家族全員にもなりやすい。努めて、報恩講の意味を話すが、力不足でどこまで先祖供養を超える仏縁の確かさが伝わっているかはなはだ心もとない。

 この心もとなさと、今の安芸門徒の民俗的風景とが二重写しになる。立派な仏壇の中央に、時として位はいが置かれ、お膳が供えられる。友引き、三月越しの迷信も絶えない。「御霊前」「草場の影」「安らかにお眠り下さい」も相変らず聞かれる。まさしく祖霊信仰であり、浄土真宗とは距離を感じる。

 教義が浸透することによって、こうした民俗的側面は消えていく。だが、民俗性を否定しているのではない。浄土真宗にとって、教養がはぐくむ民俗性を大切にしたい。それは本来の報恩講であり、お寄り講であり、常朝事などの風景である

(見真 448号1991-11-1)

足跡に学ぶ(1) 石山合戦

 「顕如上人というのはどんな方ですか」−。今年の四月から五月にかけて、盛大に繰り広げられた西本願寺の大法要の主人公について、こんな問いをあちこちで耳にした。私の住持する寺を含む"佐伯奥組"も五月下旬に貸し切りバスを連ねて出向いたが、現地でも数人からこう尋ねられた。

 確かに開祖の親鸞聖人、中興の蓮如上人と比べると、なじみが薄いのは当然。仏壇の中に絵像はなく、著作の紹介もされない。顕如上人を抜きには語れない石山合戦にまつわる説教もすっかり影を潜めている。

 ネームバリューこそ、あまりないものの、教団の歴代宗主の中での"ご苦労度"からいえば、間違いなく五本指に入る宗主。そればかりか、安芸門徒の歴史とのかかわりとなると、一、二を争う存在といえよう。

 安芸門徒の歴史には、三つの大きなクライマックスがある。ここでは、その一つの石山合戦をテーマにする。

 戦国後期、全国制覇をめざす織田信長と、今の大阪城付近の石山に本拠を持つ本願寺との間の戦闘。石山に坊舎を建てたのは八代目の蓮如上人だが、坊舎を本願寺としたのは孫の十代目証如上人.その子である十一代目顕如上人こそ、石山合戦当時の宗主。

 デルタの中の石山本願寺はこの時代きっての要害堅固の地であり、戦いはその攻防戦に。石山にたてこもり、しばしば敵勢を撃退したのは紀伊(和歌山県)の雑賀鉄砲衆だが、包囲綱を突き破って多量の兵糧を送り込んだのは毛利氏側の水軍と一体化していた安芸門徒。その活躍があればこそ、石山は十一年間も持ちこたえた。

 兵糧送り込みのある記録では、兵糧船六百余隻、警護船三百余隻。石山の水路口近くで待ちぶせる織田水軍の二百余隻と海戦を交え、安芸門徒の僧俗にも多くの戦死者を出した。その前後、各地での海戦でも死者は数多いが、詳しく記すスペースがない。

 最終的には、砲設置の巨船七隻を大坂港に浮かべた織田水軍により、兵糧送り込みのルートも閉ざされる。一世紀に渡って本願寺の領国だった加賀(石川県)なども信長に平定され、石山はついに明け渡しになる。

 だが「進者往生極楽、退者無間地獄」の黄旗をはためかせて、命がけで"法城"を守った安芸門徒の気概は、教団史のみならず、日本史に多大の影響を与えた。

 信長が全国制覇を前に京都の本能寺で明智光秀に急襲されて自刃―という結果も、豊臣秀吉が顕如上人に寺地を次次とあてがったり、徳川家康が東西本願寺分離にかかわる−との政策も、真宗教義からかもし出されるエネルギーと無縁ではなかった。

「抜き難し、南無六字の城」と、後世に頼山陽をして詠嘆させた"護法大事"のエネルギー、その根底の価値観。今の安芸門徒にそれが身近かな現実の中で受け継がれているかどうか。とかく、僧までも"人気"に走りがちなご時世といえる。

 真宗教義は真の意味で自己への厳しい問いを常にもたらす。確かに、仏教各宗派の宗祖クラスの中で、親鸞聖人ほど自らに対して厳しい方はおられないかも。ただ、だからといって、外に対しては逆に甘いわけではない。外―とりわけ、世俗的権力への厳しい言動という点でも、あるいはナンバーワン。その厳しさを保つためにも、内面的な厳しさを要す。

 主著「教行信証」の「主上臣下、背法違義、成念結怨」の部分は、まさに聖人の示された来たるべき石山合戦のプロローグとも思える。石山合戦を単に歴史の中にとどめては、あまりにももったいない。現今の教訓として生かしていきたいものだ。

(見真 446号 1991-12-1)

足跡に学ぶ(2) 三業惑乱

「寄らぱ大樹の陰」「長いものにはまかれよ」のことわざがある。大樹、長いものとは世俗的権威や時流を指す。だが、それらに乗らない立場こそ浄土真宗の信心で、信心をよりどころにした活動が安芸門徒史のクライマックスといえよう。

 前回は権力志向の代表的人物である織田信長の野望に立ちはだかった安芸門徒の気概に触れた。今回は徳川封建体制下にありながら、当時の中央の教学にクレームをつけた在野の学僧に目を向ける。

 在野教学―それは、あくまでも表層的な表現。本質的には「信心即仏心」の浄土真宗の眼目を踏まえた主張。たまたま当時の京都の学林(龍谷大学の前身)の代表者が"三業帰命説"という自力めいた信心を提唱し、「仏心」サイドから是正を求めたのが安芸など在野側の僧俗だった。

 しかし、在野から中央へのクレームは、当時の状況の中では「出る杭」であり「打たれ」がち。相当の覚悟を要す行為には違いなかった。論争はやがて、それぞれの支援者の間で全国的な暴動にエスカレート。幕府はついに裁判に乗り出す。決着までの約十年間の一連の様相は"三業惑乱"と呼ばれる。

 反論の先頭に立ったのが大瀛(だいえい)をリーダーとする安芸の学僧ら。安芸には筋金入りの学僧として知られる慧雲(えうん)がいたが、大瀛はその弟子。他にも僧叡(そうえい)ら名だたる弟子が輩出し、これらを"芸轍"(げいてつ)という。

 教学研讃ブームの背景には幕府の文治政策がある。とりわけ、世俗的権威に乗じない浄土真宗の民衆的エネルギーが外に向かうと、幕府にとっては不都合だけに、内に向かわせたとも考えられる。"芸轍"により、教学は深まった。だが、信心は決して学問ではない。日常生活の中で、かかわり合ってこそ意義がある。場合によっては、日常的な世俗的価値との相克も生じる。"三業惑乱"での大瀛らの命がけの姿勢には、当時の世俗的権威を乗り超えていく信心優位の底力がうかがえる。

 大瀛は宝暦九年(一七五九年)正月二日、今の広島県山県郡筒賀村の医師森養哲の三男として生まれた。十一歳で得度し、翌年、慧雲の私塾・甘露社(広島城下寺町)に入門、宗学や詩文を修める。京都の学林でも学ぶが、一年後に帰郷、各地の寺を転々とした後、今の広島市の楠木町に私塾・@園社(せいえんしや)を開き、多くの人材を養成する。"三業惑乱"での大瀛の役割は、理論武装と裁判での論戦。著書「横超直道金剛D」は、在野側の代表的教学となり、論戦でも学林側を押しまくる。この間、患っていた結核は悪化し、裁判の途中でついに病死。白骨が江戸から郷里に帰って一年後、在野側の勝訴となった。

 大瀛の生家跡は、今は筒賀村役場の駐車場。そのすぐ裏山に墓所がある。今秋、私は独り暮らし老人の会のメンバーを案内して、数年ぶりに訪れた。「へえ−、偉い人ですのう」「今時、これだけの信念の人はなかなか」―お年寄りは、口々にこう言いながら手を合わせていた。

 墓所に、大瀛が母親にしたためた「かたみの文」を刻んだ石標も。穏やかな内容である。「あるいは」と思った。大瀛は権威を笠に着る人には譲らないこともあるタイプだが、飾り気のない一般の民衆には穏やかな人柄に見えたのでは…。

 現今では、その逆の人が目立つ。それが得策であり、常識にもなっている。だが、浄土真宗の教義は、限りなく常識を乗り超える。頭や口先でなく、身をもってそれを乗り超える。"芸轍"はそういう集団だったと思える。

(見真 450号 1992-1-1)

足跡に学ぶ(3) 崇徳教社と闡教部の結成

 一個人の場合もそうだが、団体もまた、真価を問われるのは、逆境を迎えた時といえる。とかく多いのは動転型と逃避型。その点、神道国教化政策とともに、排仏棄釈の嵐の吹き乱れた近代の幕明け期の安芸門徒は、おおむね冷静に対処をしていった。

 具体的には、崇徳教社と闡(せん)教部の結成。これによって、安芸門徒としての方向性を打ち出し、信仰基盤の.勢力回復につなげる。安芸門徒史の三つのクライマックスの一つに位置づけるゆえんである。

 三つのクライマックスに共通するのは"護法第一"。だが、それへの参加層、投げ出すものは微妙に異なる。

 石山合戦では僧俗が兵糧と身命を、三業惑乱では学僧が智力を、そしてこの教社結成ではどちらかと言えば門徒衆が財力、さらには労力を投げ出した。

 西本願寺派の関係学校として知られる広島市西区の崇徳学園。デルタ広島を形成する太田川に面し、高校と中学校を設けている。高校の校長室の壁に掲げられていた「進徳教校用地造成・砂持の図」を見て、感動を覚えたのは十数年前である。

 その当時、私は中国新聞に連載をした安芸門徒関係の記事を中心に、本にする準備を進めていた。「これこそ、ネライ通りのイメージだ」と、この砂持の図を表紙絵に使わせてもらった。

 進徳教校とは、崇徳学園の前身であり、もっとルーツを求めれば明治八年(一八七五年)開校の仏学場。それから四年後(当時は進徳教校)に経営不振の打開策として、バックに教社を設けるべく、副監の福島大順が相談した篤信家の沢原為網(安芸郡長)がまず旗を振る。沢田七右衛門(向洋戸長)児玉有成(医師)らも動き、募金活動が始まる。

 三年後には五十万人から計二十一万六千余円の募財が集まった。その陰には、喜捨のためにカヤを売り、カヤなしで夏を越したり、ただ一枚の晴れ着を金に換えたというエピソードも残る。

 結成された教社は、教校の校舎の新築に取りかかる。新校地はそれまで、太田川の河原だったが、安芸門徒の労力奉仕で造成。重機もない時代だけに大工事だが、延べ四万五千百八人が各地から繰り出した。砂持の図には、ほうかむりでモッコを担ぐ門徒衆やのぼり旗が描かれている。

 明治十六年(一八八三年)の教校開校式に参列した明如(大谷光尊)宗主は、教社名として「崇徳」を授け、その後、同教社は教団の近代的教化活動のモデルとなる。孤児のための育児院、釈放者のために保護院・非行少年のために感化院を設けるなどの社会活動も展開した。

 近代に入り、安芸門徒のエネルギーを見せつけたもう一つの成果は闡教部の結成。広島藩内で吹き乱れた"武一騒動"の起きた明治四年(一八七一年)、今の広島市中区猫屋町の明教寺で大高十郎ら十人の信徒が法話を聞くためにつくった十名講が起こり。

 聞法は社会的実践活動に波及し、活動資金を得るため、生業を終えてはカサの骨づくり、ナワないをした。その金で被災地へ慰問品を贈り、巡回布教も。講員は雪だるま式に増え、講名も何度か改名をし、「大無量寿経」の一節の「光闡道教」から闡教部に。明治十二年(一八七九年)には光道館(後の光道小学校)も建てた。

 闡教部、崇徳教社とも、戦後の活動はかつてほどではないが、今も真宗王国の"土徳"を支える存在。それにしても近代の安芸門徒の気概は逆境をバネとしたように見える。

 今の僧俗もまた、こうした伝統を受け継ぐ営みがないではない。だが、門徒の喜捨は死語になりかねないし、僧も追従姿勢に陥りがち。互いに反省したい。

(見真 451号 1992-2-1)

広島別院(1) 仏護寺 滅後の巡教地

 原爆投下の目印にされたという相生橋から川上を望むと一目でわかる。西本願寺広島別院。手前の寺々の屋根が小さく見えるほど、ひときわ偉容を誇る。

 鉄筋コンクリートの合掌造りの本堂は、銅板ぶき屋根で高さが約二十五m・渡り廊下伝いに鉄筋コンクリート四階建ての別院会館もある。 なにしろ"真宗王国"と呼ばれる安芸門徒の総元締め。つまり、安芸教区の教務所でもある。早朝からの常朝事に始まり、各種法要、法座、研修会、会合などで僧侶の出入りは絶えない。ただ、コンクリートの建物ばかりで、味わいには欠ける。歴史的な重みが感じられず、どことなく落ちつかない。

 それだけに、広島別院の母胎である仏護寺を思い浮かべる工夫が欲しい。それがなければ"根なし草"のような気がする。

 ここでは、紙面のうえで、仏護寺を再現しよう。もう十数年も訪れたことはないが、その旧寺地があった広島市安佐南区の武田山の東麓に位置する龍原。かつて、土地の古老の案内で旧寺地と思える段々畑を歩いた。「龍石」と呼ばれる岩が横たわり、近くに空家が一軒あった。

 風が吹けば、サワサワと草が音を発す静寂の中で、当時の仏護寺を推察した。推察の資料は「芸藩通史」や「知新集」。それによると、開基は天台宗の僧正信。正信は甲斐(山梨県)の武田氏の一族で、俗名を原田政信といい、甲斐の山中の仏護庵で天台念仏を修めていたが、安芸の守護武田治信の長子義信が甲斐を訪れた時に知り合い、その縁で安芸に来た−という。

 当初は今の広島市東区中山町に仏護庵をむすぶが、長禄三年(一四五九年)に義信から受けた龍原の地に仏護寺を開創。門前左側に甲斐六坊、右側に地六坊の計十二坊の頭塔があったといわれる。

 この龍原の地は、武田氏が武田山に築いていた銀山城の前戦基地としての任務があったかもしれない。もっとも、長禄三年当時の城主は信賢。治信、義信父子などという名は歴代城主の中にもない。

 ところが、根も葉もないハナシではなさそう。江戸時代の安芸の学僧の一人理円の著した「芸州佐伯郡草津浦三箇寺由緒記」に「仏護寺、十二坊ハ甲斐ニテハ時宗ナリケルヲ、信賢コレヲ引キテ来タリヌ」とある。「知新集」より一世紀近く前の古文書だし、むしろ、こちらのほうが信憑性が感じられる。

 仏護寺を真宗に転宗したのは二世円誓。円誓は俗名を武田徹康といい、正信のおい。転宗のいきさつに関するハナシが面白い。根拠は広島別院蔵の「天台宗仏護寺、真宗帰依の縁由」。

 それによると、明応五年(一四九六年)四月八日、円誓が読経中に黒衣の老僧が現れて説法し、記念に交換した念珠を残して消える。後日、円誓は京都の蓮蔵院の親鸞聖人の木像が、自分の念珠を手にしているのを発見し、その不思議から転宗する。広島別院には今も親鸞聖人のものと伝えられる二連念珠が残る。そんなわけで、龍原は親鸞聖人の"滅後の巡教地"といわれている。

 転宗当時の本願寺宗主は蓮如上人。加賀(石川県〉は一向一揆が制圧、各地の守護大名、戦国大名とも、本願寺の動向に気を使う時代だけに、武田氏保護下の円誓が蓮如上人に帰依したのもうなずけよう。

 仏護寺は天文十年(一五四一年)に銀山落城とともに焼失。三世超順は発祥地の中山に退転し、十二坊も各地に離散する。龍原における仏護寺は八十二年間で幕を閉じたのだった。

(見真 452 1992-3-1)

広島別院(2)不死鳥

 「毛利氏にとっての石山本願寺は、信長に対する盾であり、その限りでは芸備門徒は利用された。もっとも、利用されるだけの力量を持っており、利用されることによって"護法"の目的を果たす−そういうしたたかな展開を示す」

 私が十二年前に著した「安芸門徒」の「はじめに」の中で、石山合戦に関してこう書いている。したたかさ−それは、中世だけでなく、近世、近代、現代を通じての安芸門徒の特徴のような気もする。そして広島別院は、その象徴的な存在といえるのでは。

 不死鳥―という鳥はあり得ない。広島別院もまた、諸行無常の中にあり、だからこそ水に浮かぶ水鳥が、常に水かきをするように、じっとしてはおれなかった。

 広島別院がその名の示すように、西本願寺の直属に変身したのもそうした営み。だが明治三十五年(一九○二年)のことであり、その前身の仏護寺当時について、今しばらくお付きあいいただこう。

 仏護寺の三世超順が、スポンサーであった安芸国守護武田氏の居城・銀山城落城とともに旧寺地の武田山東麓(広島市安佐南区祇園町)の龍原を去るところまでは既に記述した。

 しかし、超順は十二年後の天文二十二年(一五五三年)に、再び龍原に帰住。寺領は以前にも増し、焼失した堂宇も見事に復興していた。そのころのスポンサ−は、数年後に中国地方の覇権を握る毛利元就。

 ところが、なぜかこだわりを感じさせる。超順にとっての元就は、そもそも血縁も恩顧もある武田氏を滅亡させた相手。いわば「きのうの敵は今日の味方」の風景。節操に欠ける気がする。もっとも、その価値感は後世のもので、乱世のならいと納得すべきだろうか。

 もっと積極的な弁護もできる。つまり、大切なのは"護法"。その価値感からすれば血縁はもとより、義理人情は世俗的レベル−との見解。ただ、こうしたレベルに捕らわれずにはおれない心情を飛び越しての浄土真宗は成り立たない。かといって、そこに安住するスタイルも信心にはなじまない。

 角度を変えて、もう少し遠周りをしよう。十一年間に及んだ石山合戦終結後。仏護寺の四世唯順は既に討ち死にをし、その見舞いとして、毛利輝元から周防(山口県)の富田の地をもらった五世康順のころ。

 輝元は、あれほど蜜月を重ねた本願寺に対して、次第に冷淡になっているように見える。あえて、蜜月の延長線上の行為をあげれば、姉の夫である近江(滋賀県)の慈教寺五世証智、その子教智の頼みを受けて、太田川河内(今の広島市)に一寺を建てる。教智は本願寺中興の蓮如宗主の血を引くとともに、輝元のいとこにも当たる。

 この寺の隠居寺である明信院は、後に東本願寺派広島別院となる。いわば、安芸門徒と因縁深い毛利氏の置き土産のような存在といえる。一方の仏護寺も、輝元が吉田(広島県高田郡)から広島に城を移した天正十九年(一五九一年)一月以後、城下に移転をさせている。だが、その後、両者の関係で歴史的なかかわりは薄れるばかり。

 ここにもやはり、乱世のならいがうかがわれる。ただ、毛利氏においては、世俗的分野の現象として、うなづくことができよう。

 気にかかるのは、その分野だけに置けない仏護寺三世超順の場合。いささかオ−バ−かもしれないが、気掛かりを解消してくれる最後のとりでは"護法"の論理。これこそ安芸門徒史の"いのち"としなければ、決してしたたかさと感銘するにあたいしなくなる。超順は安芸門徒にナゾのかたちで重い課題を残してくれている。

(見真 453号 1992-4-1)

広島別院(3)戦国の世を泳ぎ抜く

「子亀こけたら孫亀がこげた」―ふっと、そんな言い回しが思い浮かんだ。もっとも毛利氏が子亀で、仏護寺が孫亀ではなかった。西本願寺広島別院の前身・仏護寺は、戦国の世をたくましく泳ぎ抜いた。地力はついた。しかも戦国大名も持ち合わさない"護法"の力強い価値感がある。

 にもかかわらず「こけた」との感は、関ヶ原の合戦を境に、毛利氏も仏護寺もそろって迫力に欠けてくることにある。

 毛利輝元。天下を取りそこねた織田信長、ほぼ握った豊臣秀吉、完全にものにした徳川家康のすべてにかかわり合った。関ヶ原では、それこそいきがかり上で西軍の総大将に置かれ、戦わずして東軍の総大将・家康に敗れた。広島城を東軍側の福島正則にあけ渡し、防長二国(山口県)に移封された。

 仏護寺五世康順。石山合戦で戦死した唯順の後継者。本願寺の顕如宗主と教如、准如の悲劇的関係者の三人にかかわり合った。いわば、本願寺が東西分離をする前段の動乱期を生きた。併せて、仏護寺も広島城下の小河内に移し、六年後の慶長四年(一五九九年)に死ぬ。関ヶ原の合戦の前年である。

 仏護寺六世宗順。広島藩の正則の強力な寺院統制時代の住職。今の広島市中区寺町へ仏護寺をはじめ、有力な真宗寺院は集中化させられた。仏護寺と、いわゆる十二坊であり、十二坊の中には旧寺地を離れなかった寺もニヵ寺。

 後に集中化させられた十二坊を藩が仏護寺の院内寺院扱いにしようとしたことから、十二坊側に不服が生じ、紛議も起こる。この紛議で、円龍寺など三ヵ寺の住職は投獄、他の十二坊も閉門に遭うが、最終的には十二坊側の主張が認められる。

 こうした動きは、仏護寺七世堅順の次の八世正順、九世霊順のころ。特に霊順は十二坊を支援する安芸門徒に疎外され、経済的にも困窮。泣きつかれた藩主浅野氏がついにはスポンサー役に。敗北のかたちになった藩と仏護寺が傷をなめ合う風景だが、安芸門徒史という広い視野からは悲感することもない。

 それにしても、霊順はつらい役割を演じた住職だった。石山合戦で戦死した唯順、本願寺動乱期の康順は、少なくとも精神的な張り合いがあったと思える。だが、正順、霊順の場合は、世俗的権威と密着する立場で、身内ともいえる十二坊と対立をするはめに陥ったわけ。

 歴史と、歴史上の人物とは切っても切れない。そのどちらが、もう一方を動かしたのかは、たとえ充分な裏付け資料があっても断定は難しい。ただ、当の本人が問題点の責任を感じることであり、他者が決めつけるのはあまりにもおこがましい。

 しかし、ともすれば、世の中は逆になりがち。事が成功したり、高く評価されれば、己の手柄にする。失敗し、批判を受けると、だれかの責任に。場合によっては、諸状況や立場、さらには時代のせいにして逃げの一手。

 読者の中で、思い当たる人は素直に手を挙げていただきたい。もしも、親鸞聖人もその一人なら、真っ先に手を挙げられるかもしれない。聖人ほど己への視線の厳しい方はおられまい。だから、実は全く逆に手柄意識には遠く、責任感の強いご生涯だが、それを誇る風情も見られない。

 仏護寺の歴史はあくまでも社会科学の領域。ことに、徳川封建体制下では、世俗的権威におもねる姿勢も見える。だが、そういう俗性の中で持続させたおみのりは人文科学の領域。ここでは、あえてその違いを認識しておきたい。むしろ、俗性を離れ得ない立場にこそ、普遍的な真実が顕われると考えたい。だからこそ、歴史への厳しい問いかけもまた重要視するわけである。

(見真 454号 1992-5-1)

広島別院(4)雨降って地、固まる

「此ノ国ハー向宗(真宗)盛ニシテ郡中村々一向門徒ニアラザルハナシ。元来ハ村々二寺アルコトナシ。多クハ仏護寺十二坊ノ門徒ナリ」―広島藩の学問所で古学を講じた香川南浜(なんぴん)は、その箸「秋長夜話」にこう述べている。

 江戸時代。安芸の国の宗教地図は、既に浄土真宗一色に染まっていた。同じく"真宗王国"視された北陸門徒の寺寺の場合、門徒の中から出た毛坊主(半僧半俗者)を中心にした道場がやがて昇格する形態が主。ところが、安芸門徒の寺々は、禅宗など他宗から転宗したケースが多い。

 うがった見方をすれば、時流への便乗。私の住持する広島県佐伯郡湯来町大字多田の善福寺も例外でない。本願寺が東西両派に分派後の慶長十六年(一六一一年)に禅宗から転宗し、山から里の現在地に移転している。

 早目に里人とのつながりを持った寺ほど門徒数は多い。また、門徒の分布状況が変則的なのは、転宗や移転の時期の相違も起因している。もとより、昔の道路網との関連も考えられる。

 いずれにしても、安芸の国の寺々の頂点に立っていたのは、早くから浄土真宗に転宗して守護大名の武田氏、さらには戦国大名の毛利氏と結託してきた仏護寺。つまり、今の西本願寺広島別院の前身である。

 これまで、仏護寺九世霊順までは述べてきた。つらい役割を演じた住職だった。本来は身内の十二坊の寺々との紛争に巻き込まれた。心を同じくした石山合戦は遠い昔となり、それを支援した毛利氏は防長二国(山口県)に移封されていた。

 巡り合わせであろうか。だから歴史は面白い−と、思わずにおれないのは、仏護寺十三世因順の登場。九世霊順が死んで約半世紀後の明和七年(一七七○年)十二月に十二世天順が死亡。その後継をした因順は、毛利氏の守備範囲の徳山藩主の弟。祖先をたどれば毛利輝元に至るわけで、十二坊側とて一目置いたに違いない。

 しかも、なかなかの宗学者。当時、仏護寺の近隣に位置する十二坊の一つ、報専坊の住職は、全国に名の知れた慧雲。寺内に開いた宗学の教育道場「甘露社」(かんろしゃ)には、後世まで名の通る大瀛(だいえい)、僧叡、履善らも入門し「徳星、芸に集まる」と言われた。

 宗学研讃の熱気に包まれた時代であり、場所柄だった。やがて、西本願寺の宗学上のメッカともいうべき京都の学林の能化(宗学の最高権威職)の唱えた"三業帰命説"をめぐって、大瀛を中心とする安芸の国の学僧集団が反論するなどの"三業惑乱"に転開。そのポスト上からも影響力のある因順の出番も到来した。享和元年(一八○一年)五月に大瀛が著したアンチ三業帰命説の決定版「横超直道金剛D」(おうちょうじきどうこんごうへい)の草稿は因順の勧め。序文も二年前に書くなど、積極的な支援ぶりがうかがえる。

 仏護寺住職という立場にありながら、よくも"お上"に抵抗する姿勢を示せたものである。スケールの大きさに、十二坊の寺々の住職も感服したと推定される。

 断っておきたい。権威に対して、抵抗するのを讃えているのではない。真実を貫くためには、権威といえども立ち向かう姿勢に頭が下がるだけである。それが"信仰優位"の価値と思える。

 こうした人物によって、十二坊の寺々と仏護寺との関係も平穏化した。無論、因順の人物を理解できた十二坊側にも人物が多かったと考えられる。"三業惑乱"は宗学上からも、安芸門徒史からも「雨降って地、固まる」だった。

(見真 455号 1992-6-1)

広島別院(5)西本願寺広島別院に変身

「便りのないのは良い知らせ」との解釈がある。だが、それは、あくまでも解釈。逆の場合が多い。西本願寺広島別院の前身・仏護寺の歴史をたどっていると、十三代住職因順までの史料はそこそこ冗舌だが、十四代住職明順以後はすっかり寡黙になる。影が薄くなっていくのだ。

 無理もない。時代は幕末から明治の動乱期。幕藩体制の中で、巨視的にはぬるま湯に浸っていた側。広島藩同様に時勢に遅れ、なす術を失っていたかのような気がする。

 もっとも、それまで"真宗王国"を築き、支えてきた安芸門徒は時勢を見極め、素早い対応もうかがえる。神道国教化、キリスト教進出に危機感を覚え、勢力回復に躍起になった結果、崇徳教社や闡教部を結成した。

 明治十年代には、ともに広島における急成長株の教育機関を有し、福祉面でも先駆的役割を演じた。だが、広島別院にとってはかかわりは少なく、既に紹介済みなので、ここでは素通りしよう。

 仏護寺の住職は十六代広順まで「順」の一文字を継承し続けた。僧も姓を名乗ることを義務づけられた十七代以後は龍原広弘・藤井玄珠、近松尊定が後継をした。目まぐるしく別姓の僧が住職として赴任していることに見られるように、仏護寺は次第に本山の出張所的な性格に向けて走り始めていた。

 明治三十五年(一九○二年)十一月、本山は仏護寺を広島別院に定める。それに先だつ四月、安芸教区内の寺院有志四十九人と、門徒有志三十人からの請願があった。その理由として@仏護寺の門徒が少ないため、維持が困難A広島県内に本山の別院がない−ということだったらしい。

 近世を通じて、安芸門徒の中心的存在として、安芸を初め、石見、周防にかけての三百五十六ヵ寺の頂点に立った仏護寺。その斜陽化は、ピラミット構成の本未組織の解体にあった。つまり真宗寺院は本山を除いて、ことごとくその直接の末寺として一列に並び替えられ、仏護寺は末寺を一挙に失った格好。

 こうした改革は、西本願寺派と新政府のパイプ役を果たした大洲鉄然、島地黙雷、赤松連城ら山口県の政僧の力による。教団近代化・末寺平等化の嵐の中で、仏護寺は広島別院仏護寺―別格別院仏護寺を経て、明治四十一年(一九〇八年)十月、西本願寺広島別院に変身する。

 その六年間、輪番は五人が次々に変わっている。別院の場合、住職はあくまでも門主であり、その代務者的な役割を任じるのが輪番職。原爆後の別院復興期の三十四代の小笠原彰真輪番の九年五カ月間の任期を例外として、多くは二、三年以内には交代をしている。

 初代は鹿児島県出身の野崎流天輪番。荒廃していた別院の修築を発案し、五代目の伊藤祐覚輪番の時に起工、完工をした。明治四十年(一九〇七年)十月の三日間の法要には、延べ二十三万人にのぼったという。

 広島別院の本堂は、今でこそ明治の大修築以前と同様に南向き。だが、この修築では南向きを西向きに向け替えている。したがって、背中には広島城。幕藩体制下では考えられない図柄だが、藩籍奉還後で既に城主は不在。時代の移り変わりをしのばせて興味深い。

 原爆被害後、その城も鉄筋コンクリート造りとなり、高層アパート群で遮る今、広島別院は寺町の東側の寺々と歩調を合わせて南向き。世俗的権威になびくことのない"信仰優位"の風景には遠いが、これもまた、厳しい歴史を泳いできた名残りとして受け取められよう。

(見真 456号 1992-7-1)

広島別院(6)焼け跡に仮本堂

 軍都広島が閃光に包まれたその一瞬、西本願寺広島別院もまた地獄絵さながらの廃虚の一部に化していた。それより三百五十四年前、毛利輝元が築城した広島城の天守閣も跡形はなく、広島の近世は吹き飛んだかっこう。

 ヒロシマ。廃虚の中の死者数は発表によっては七万人から三十万人。その大きな誤差が物語る悲惨な状況は、単に戦争の次元で済まされる出来事ではない。また、ヒロシマは広島にとどまらず、日本、さらに世界の大きな転換のスタート台でもあった。

 ヒロシマ別院"の境内には、五人の死者がいた。被爆直前のその朝、槙藤哲蔵輪番をはじめ、職員は五人、雇員一人、参拝者二人を数えられたが、助かったのは三人の職員だけ。

 後に同じ寺町の品龍寺住職になった猪原俊成さんもその一人。建物の下敷きになって気絶し、気づいてみると本堂はなかったーという。輪番所の姿も消え、三日後に京都から帰広した高倉了要副輪番が槙藤輪番の遺体を発見したようだ。

 それから十日後、別院の仮事務所を広島県安芸郡坂町の西林寺に置き、四ヵ月後の十二月末に、広島市西区己斐の善法寺に移した。翌年五月には、焼け跡に以前の十五分の一の規模の仮本堂を建て、同二十一日に勝如(大谷光照)門主を迎えて落慶法要を営んだ。仮本堂建設資金は二十万円だったが、この資金の懇志には、おかず代を節約して報謝したバラック住まいの老女の十円なども含まれている。

 別院の復興。それは、平穏な状況下ならいざ知らず、終戦後の困窮期だけに、容易な事業ではなかった。まして、見渡す限りの廃虚の中。にもかかわらず、寄せられた懇志には、やはり根強い信仰の灯を感じさせられる。二十二年には、県北の公民館を買い取り、仮本堂は三百三十平方メートルに増築された。

 しかし、本格的な復興までには、その後、約十八年間の歳月を要した。二十九年三月になり、ようやく旧本堂跡地に「別院復興勧進」の立て札が立つ。三十一年、教団一の事業通―といわれた小笠原彰真輪番が就任し、三十四年に二葉会を中心とする地元財界に呼びかけて「広島別院復興会」(田中好一委員長)も結成した。

 同会の再建プランは、紫宸殿造りの本堂と、近代的な仏教文化センターの二本建て。センターは、戦後に教区立として開校した広島音楽高校の講堂も兼ね、三十七年三月に広島市中区中町に完工。約一億円を費した同センターは、親鸞聖人の大師号をとって見真講堂と名づけた。一方、本堂も左右に対面所と教務所を併設した形で、三十九年一月に完工。費用は一億二千五百万円。

 鉄筋コンクリートの合掌造り。銅板ぶき屋根の高さは約二十五メートル。四十四年の親鸞聖人生誕八百年記念事業として約一億円で完成した鉄筋四階建ての別院会館とも渡り廊下でつなぎ、安芸門徒のシンボルとしての体裁は、一応は整った。

 もっとも"ヒロシマ別院"の歴史は、ハード面の解決とともにピリオドが打たれるわけではない。なにしろ、ヒロシマの犠牲者の大半は安芸門徒。その法灯を、ヒロシマの理念の中に点火する作業はまだまだこれからだ。

 別院は再び南向きに建っている。前方約一キロメートル先に、ヒロシマのメッカ平和記念公園がある。中央の平和記念碑(原爆慰霊碑)は、四十七回目の8.6を前に、セミしぐれに包まれている。

 碑は墓ではない。もちろん「南無阿弥陀仏」と刻まれてもいない。にもかかわらず、人々の多くは合掌する。そのギャップは何だろうか。

(見真 457号 1992-8-1)

広島別院(7)主人公は一貫してお念仏

「なくてはならぬもの」ほど「当たり前」と見なし、見過ごしている。あるいは気付かず、見えないまま。魚にとっての水、子にとっての親、目にとっての光…と、際限がない。これらに気付かせ、人生に意義を与えてくれるものとの出遇いこそ、最も重要なことである。 それこそお念仏。

 西本願寺広島別院の歴史を辿ってくると、法灯を守り続けた多くの僧俗主役らを支えた無数の人々がいた。これらの人物は、自己と社会との密接な関連を踏まえ、自我に左右されない営みをなした。尽きるところは、主人公は一貫して、お念仏だった。それ以外は脇役を演じた感すらさせられる。

 そして今、この主人公はこの舞台にあって、どれだけ精彩を放っているだろうか。自我意識などの脇役が、主役の座に立ってはなるまい。その自問が続く限りは、主役の生命は保っていける。

 自問は感じられる。例えば広島別院を会場にしての諸行事や諸会合。信心からほとばしる社会の問題への積極的な提言があり、同時に内省が伴う場合も多い。特に平和問題や同和問題では、内省を抜きにした提言の空しさを感じている僧俗は増えつつある。

 昭和五十七年三月六日。四年前に法統継承したばかりの即如(大谷光真)門主が平和都市広島のメッカ平和記念公園の平和記念碑前で「平和を願う言葉」を述べられた。少なくとも十数万原爆死没者の大半は安芸門徒。にもかかわらず、式典参加者は数百人にとどまった。

 だが、門主を迎えた安芸教区としては、これが平和問題に取り組む記念すべき第一歩の足跡。当時、中国新聞社の記者だった私は、その前日、門主との記者会見の席であからさまな質問を矢のように投げかけた。随行の川野三暁総務の目配せも無視し「戦時下の教団の姿勢をどう思われますか」とも問いかけた。

 もの静かな口調で単々と答えられる門主だったが、「平和を願う言葉」には、教団としての反省も盛り込まれていた。これを受けたかたちで、安芸教区も翌年から「平和を願う念仏者の集い」と題するシンポジウムを毎年開催し続けている。

 また、従来から教団をあげて展開中の門信徒会運動・同朋運動も、六十一年から教団の基幹運動に位置づけられ、安芸教区も本腰を入れた。教区の特徴としては、やはり平和問題。これに関連し、教区内の住職らは植民地支配の犠牲者追悼のために平成二年八月には韓国を、同三年九月には中国を訪れもした。

 もっとも、こうした歴史的な社会の問題への対処は、教区や教区内の特定の住職らの取り組みという色彩が濃い。教区の本部である教務所と、別院とは同居とはいえ、活動面では別院は教区の影に埋没した感はぬぐい切れない。その是非はともかく、広島別院史からすればもの足りない。

 それに、活動が"僧俗同体の安芸門徒"に今一つ波及していない点も否めない。門徒は信心を生活の要にはたして位置づけているのか。仏事も単に慣習の域にとどまってはいまいか。それにも増して、僧もそれを是認し、世俗的権威に迎合したり、俗世間に没入してはいないのか。そうした自問をし続けたい。

 基調となるのはやはり日常生活であろう。兼職の僧も多い。それを教化の舞台の広がりと捕え、僧俗ともさまざまな分野でのいろんな生活・活動を通じ、体験を信心に生かす姿勢も欲しい。もとより、横の連係強化の方策も要す。そして、何よりも大切なのは、根底に信仰優位の価値感。そこには内輪意識は無縁。広島別院の重い歴史はそれを教示している。

(見真 458号 1992-9-1)

人国記(1)国内制覇には無頓着

「おのれが一分を守る風あり。これによって抜群なる人少なし」−戦国時代の「人国記」に、安芸の国の気質をこう述べられている。

 国際化、情報化時代といわれる今、広島県人気質でもあるまい。まして、県下西部の安芸の特質など…とも考えられる。だが、いろんな人柄があるように、さまざまな土地柄はある。

 土地柄は地理的、歴史的な影響によって培われる。逆に土地柄が歴史を刻む側面もある。歴史のなかでも、多大な役割を担うのは宗教。風土と最も密接な関係を持つ。

「真宗王国」と呼ばれてきた県下西部の安芸。「弥陀一仏」の浄土真宗は、ある意味では妥協性がない。純粋ともいえる。かといって"折伏"のような姿勢はない。まさしく「おのれが一分を守る風あり」。

 それに「弟子一人も持たず候う」と言い切られた親鸞聖人を宗祖と仰ぐ。いわば「御同行、御同朋」の法友同志。根っ子のところで「抜群なる人少なし」が当然である。

 戦国時代は、浄土真宗の教線が飛躍的に広がった。とりわけ、安芸の国はさしずめ西の横綱格。石山合戦でも、今の赤へル群団(広島カーブ)同様に、突出したリーダーこそいなかったが、確かな足跡を残した。

 近世から近代にかけても、安芸門徒は、この地方の気質を支え続けた。江戸時代の宗学論争で名をあげた大瀛(だいえい)らはいるが、立場はあくまでも「仏心」サイド。いささか趣を異にしていた僧叡(そうえい)は、大瀛の影になっていた。

「おのれが一分」の姿勢を如実に示したのは近代。島地黙雷ら山口県の政僧による教団近代化の嵐の中で、広島県の僧らは、おおむね手をこまねいていた。

 順応的、受動的な色彩が濃く、ひのき舞台に出て活動する者が少ない近代。例外的には憲法発布後の最初の国会議員になる金尾稜厳(一八五四〜一九二一年)秋田霊巌(一八五五〜一九一六年)もいる。だが、霊巌は能見円乗(一八三五〜一八九七年)菅瀬芳英(一八七二〜一九一七年)タイプの教育僧。

 学究的な僧や門徒は多い。数回に渡って代議士に当選した龍口了信(一八六七〜一九四四年)は東京の高輪中学校の創立者だし、大正新修大蔵経を編纂した高楠順次郎(一八六六〜一九四五年)、医学界の大家でありながら多くの真宗関係の著作をした富士川游(一八六五〜一九四○年)など枚挙にいとまない。

 この他、ユニークなケースでは、鏡如(大谷光端)宗主に従って西域探険に功積のある渡辺哲信(一八七四〜一九五七年)、「出家とその弟子」などで知られる作家の倉田百三(一八九一〜一九四三年)も安芸の生んだ人物。

 こうして、真宗を中心にした安芸の「近代人国記」をたどってみても、広島県の風土性とも合致する。近代から現代にかけて、広島県は「教育県」「移民県」の代名詞にもなりがち。

 教育。それは、本来的に宗教の根幹でもあり、江戸時代の教育は「寺小屋」に負うところが大きかった。真宗の学僧も私塾を開き、在家出身者も学僧に育っていった。南米などへの移民は広島県、和歌山県出身者が特に多いが、両県とも奇しくも真宗王国。平地が乏しい−などの理由もあるが、飛躍性を見てとれる。

 同じ真宗王国でも、安芸門徒は北陸門徒のように"国盗り"の気概には欠ける。北陸門徒は、加賀一国を一世紀にわたって「百姓の持ちたる国」にしたが、安芸門徒は国内制覇には無頓着。ただ、大義のもとではどこにでも飛躍する特質を持ち合わせている。

(見真 469号 1992-10-1)

人国記(2)望月圭介 大原博夫

「政界と財界、それに官僚を加えた三者の関係はグー、チョキ、パーだ。財界は金は出すから政界に強い。政治家は官僚にいばる。しかし、財界は役人に弱いし−かつて、日本精工の社長が言った名言である。ロッキード、リクルート、さらに佐川急便。めまぐるしい金権、職権の乱用。果ては派閥内抗争の明け暮れ。いったい、そのどこに政治が見い出せようか。政治家でなく、政権屋ばかりが目立つ中で、真の政治家を求めれば、どうしても過去の人になりがち。ここに一人の政治家に登場していただく。望月圭介(一八六七〜一九四一年)。その政治的識見、手腕に関する資料は持ち合わせていない。ただ、代議士当選十三回、逓信大臣、内務大臣を経て政友会の重鎮元老となった存在。並みの政治家とはいえない。

 しかし、ここで登場してもらう理由は、まさしく安芸門徒の生んだ典型的な政治家としてのエピソードを持つからである。

 今の豊田郡東野町の出身。家の宗教は浄土真宗で、熱心な真宗信者。土徳が人柄にも浸み込み、人呼んで「人情大臣」。昭和十六年に七十五歳で死亡した。

 内務大臣のころの話。大阪城の天守閣の修理現場へ一人で視察に出向き、昼食中の労働者らと次のようなやり取りがあったという。

「毎日ご苦労さんですね。あなた方は毎日そうやって、一生懸命働いて下さるが、いったい何のために働いているのかね」「そりやあ、働かんと金をもらえまへん」「その金もらってどうするのかね」「米買うためですよ」「なんのために米を買うのかね」さすがに、労働者らはゲラゲラ笑い「そりゃあんた、食うためですがな」それでも真面目な顔で「なんのために食うのかね」笑いは一段と高くなり「食わなんだら、死にますがな」と、一人が答えた。それに対して「食うておったら死なんかね」と問いかえした。一同の人たちは驚いた。そして「食うておっても死ぬ」と口々につぶやいた。

 ここに、大きな問題提起がある。食べるために働き、働くために食べる−その繰り返しは、人間以外の動物でもやっている。その「忙しい」生の姿はまさに「心」を「亡ぼす」状態。その状態のままで死に到るとすれば、生はあまりにもむなしい。
 死と背中合わせのかけがえのない生。そこに思いを向ければ、生きている間にこそ生の意義を問いたい。あるいはその姿勢こそ、本当に生きていることでは。望月大臣は私たちにそう語りかけてくれたと思える。

 この普遍的な語りかけは、望月大臣の生死を超えて、今も生きている。職権を乱用して、汚職に走ったり、名が欲しくて地位に執着する自らを顧みない今の多くの政権屋には、この語りかけはなかなか通じまい。金も名も、真の拠り所にはなり得ない。生死を超えた拠り所は、真実の側からの願いとして届いた「南無阿弥陀仏」以外にない−との視座には金権政治の入り込む余地はなかろう。

 安芸門徒の生んだ政治家として、もう一人欠かせられないのは、広島県知事三期を務めた大原博夫(一八九五〜一九六六年)。賀茂郡河内町の医師だが、代議士候補の政党推薦が決した時、町内の寺の老僧の往診に出ていた。後に不服を言った党員に「私はご法義のほうが大切なのだ」と反論したという。信仰優位のあざやかな話である。

(見真 460号 1992-11-1)

人国記(3)安芸の妙好人

 一切善悪凡夫人

 間信如来弘誓願

 仏言広大勝解者

 是人名分陀利華

 安芸門徒にとって、最も大切な仏事である報恩講。寺々のみならず、各門徒宅でも晩秋から親鸞聖人の命日の一月十六日の間に、檀那寺の僧を招き、聖人のご苦労をしのんでの仏縁をいただく。必ず拝読されるのが「正信偈」。その中に、先述の四句がある。

 この四句は、念仏のいわれを聞いて、心から如来の本願を喜ばせていただく人を「分陀利華」と名づく−と示されている。分陀利華は白蓮華、妙好華ともいう。

 白蓮華は泥の中に咲く。いわば人里離れた修行の場や、善人集団との思いあがりの舞台でなく、罪悪深重の凡夫としての自覚の中で、自覚を促して下さる如来に抱きとられた生活者に相当する。こういう人を妙好人とも呼ぶ。

「悪人正機」の浄土真宗の教えの染み込む広島県西部には、数多くの妙好人が輩出している。ただ、妙好人は世俗的な地位や名誉のように表層的な手柄とは無縁。記録に残ることは極めて少ない。

 いくつかの「妙好人伝」はある。その元祖は、島根県の生んだ江戸時代の学僧、仰誓の撰述。仰誓の二十五回忌記念として、長子の履善と、門弟の克譲の手で出版された。その後、美濃の僧純が四編、松前の象王が一編を補ない、計百五十七人が登場する。このうち、安芸門徒は五人に過ぎない。

 初編上巻の第一に登場するのは今の山県郡豊平町戸谷の喜兵衛。

「伯楽(ばくろう)を渡世とする人なり。然るに深く本願を信じ、行住坐臥、称名絶ゆることなし。家内にも、他の同行にして親しき人なれば、夜、寝たるをば、ゆすり起して、其の人、目を醒して返事の声のみなれば「お留守、お留守」と言い、また起して、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称名すれば「目出度し目出度し、御内にござる」と言うて、自身も共に念仏せしとなり」

 解釈次第では、ユーモラスな話。また、見方によっては押しつけがましい。記述はさらに炉辺に両足を投げ出していた妻に「御仏飯の鍋をも掛けて焚く所なり」との思いから、その足を火箸でつまんで「薪か」とたしなめるくだりも。いささか、いやみな風情にも見える。

 だが、これほどまでの徹底ぶりにはやはり頭が下がる。同じ郡内の大朝町宮迫の市郎兵衛、千代田町壬生の五助にしても、法悦に徹した状況がうかがえる。

 市郎兵衛は自宅が全焼した時も、しょげかえる妻に「それにつけても有難いのは如来の御恩。もし大悲のおん助けにあづからぬならば、未来永劫に住むところもない身となるのは必定であるのに」と喜んでいる。

 五助は報恩講を自宅で勤める約束を泥酔しては三日三晩もほごにした檀那寺の住職に「私は何という幸せ者か。三晩までご開山聖人の御恩を喜ばしてもらえまする」と答えた。住職は痛く恥じ入り、その後の大酒はやめた−というところに、五助の言葉の純粋性を見てとれる。

「妙好人伝」から欠かせられないのは浄念。今の広島市安佐北区高陽町狩留賀の僧。出家するまでは源蔵という名の篤信の同行で、エピソードの一つに蛤事件がある。ある時、庭掃除中に蛤を見つけ、魚屋が落したと思い「わざわざ海に放ちに行けぬ。如来のお慈悲は洩らしはなさらぬし」と仏壇の中へ。後に長男が見つけ、売薬の貝殻とわかり、笑い出したが、父の生物に寄せる思いに念仏が出た。

 他にも妙好人は数多い。これらの生きざまは"土徳"から生まれ、"土徳"を育んでいった。

(見真 461号 1992-12-1)

門徒もの知らず 神棚おろしの報専坊

 軽侮されることが好ましい場合もある。する側の"ものさし"が曲がっておれば、それに合致していると、かえって情ない。むしろ、合わないほうが喜ばしい。

「門徒もの知らず」この言葉もその一つ。浄土真宗の門徒にとって、これほどの称賛はない。日の良し悪し、方角の吉凶などに気を使う者からすれば、そうした事柄に無頓着な門徒の姿は「もの知らず」に見え、軽侮の対象になった。だが、門徒側にしてみれば、これほど誇らしいことはない。

 いささか固くなるが、浄土真宗本願寺派の「教章」を紹介する。その中の「宗風」に「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷や、まじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない」とある。

 ところが、この宗風が今の安芸門徒の間に浸透しているかとなると、はなはだこころもとない。結婚式は"大安"を選び、葬式は"友引"を避ける。四十九日の法事も「三月(みつき)越しでは…」と早目にする。そんな風景がここかしこで見受けられる。

 こうした発想がいかに不合理かは、もともと"友引"は"共引"(引き分け)、"仏滅"は"物滅"(物を失う)という字で、中国のばくち打ちの占いだったのが、いつしか日本のカレンダーで当て字が使われたに過ぎない−ということでおわかりいただけると思う。"三月越し"も"始終苦が身につく"とのまことにユーモラスな解釈である。

 したがって、こうした不合理に動揺することなく、真実の教えにこそ耳を傾けてこそ真の門徒といえよう。

 浄土真宗は、開宗当初から仏教の純粋性を保ち続ける営みがあった。親鸞聖人は「正像末和讃」に

  かなしきかなや道俗の

  良時・吉日えらばしめ

  天神・地祇をあがめつつ

  卜占祭祀つとめとす

 こう述べておられる。他の諸宗は、ややもすれば為政者によって、仏教とは異なる民間信仰に迎合し、因果の道理を曲解したかたちを展開。そんな中で、浄土真宗の宗風はしばしば弾圧対象になった。

 しかし、真宗の教義がかなり浸透した江戸時代の広島県西部では、純粋な信仰が生きていた。

 頼杏坪著の「芸藩通史」の巻四の風俗の項に「他邦と同じく、民家には各神棚を置き酒を供し、灯を献ず。親鸞宗を信じる者は此事なし」ともある。また、喪の項に「親鸞宗を信じる者は多く火化(火葬)を用い、その残骨を収むるのみにて、或は墓碑を建てず、位牌をも設けざるものなり」と報告している。

 日の吉凶のみならず、神棚や墓碑、位牌さえ目を向けていない当時の門徒。こうした様相は、宗学が徹底化しつつあった広島県西部ならではの信仰風景であろう。

 国家神道が台頭し、伊勢神宮の大麻の頒布が実施された際に、全国的に学僧として知られる広島城下の報専坊慧雲の残したエピソードがある。門徒に対し「神棚あるべからず、伊勢大麻を受くる必要なし」と説いて回り「神棚おろしの報専坊」と呼ばれるに致った。

 今、広島県西部は「家の宗教」こそ浄土真宗―という人が六割以上。だが、真宗の教義を心の支えにしての日常生活になっているかどうか。単に習慣として、世間的発想からの仏事にとどまりがちな者が多いのでは。

「門徒もの知らず」浄土真宗の門徒にとって、この誇るべきレッテルも今は死語になりつつある。科学万能を標傍し、合理的志向に走りがちな若者さえ、非科学的で不合理な迷信も持ち、矛盾も感じないご時世。安芸門徒の役割は大きい。           

(見真 462号 1993-1-1)

他力本願 浄土真宗の根幹

「無理が通れば道理が引っ込む」という諺(ことわざ)がある。悲しいことに、古今東西、繰り返されている。だが、これだけは是認できない−と、広島の真宗僧侶が中心になって抗議の構えを見せ続けたことに「他力本願」の異訳に基づく乱用がある。

「他力本願」は、「悪人正機」「浄土往生」とともに、浄土真宗の根幹。そのどれを欠いても、教義は成り立たない。まして、それを曲解しては、教義は異教になる。真宗教団のみならず、正しい教義を依り所にする僧侶にとっては"一大事"。

 そもそも「他力本願」ほど自らに厳しい内容を持ち合わた言葉は、他に見当たりにくい。自らを「小慈小悲もなき身」と気付く時、気付くのも自らの力からでなく、如来の側からの働きかけによる−との立場は、自らに甘い姿勢からは出て来ようがない。しかも、その働きかけの根源としての「衆生済度」の本願は、衆生の側にとっては他力以外にはない。

 これほど自らに厳しい内容にかかわらず、とかく、その逆の意味合いに使う人が時として出る。いわゆる"主体性のなさ" "他人まかせ"との誤解。厄介にも、この誤解が「国語辞典」や「広辞苑」などにも記述され、まるで誤解が市民権を得ているような情景。

 その結果、例えば野球の解説者らは「もう自力優勝は絶望。他力本願に頼るしかないですね」などとしばしば口にする。場合によっては、新聞の見出しにもなる。

 私がかつて記者をしていた中国新聞でも、紙面掲載前にそんな見出しを見つけ、事前に表現を変えてもらったことが二、三度はある。

 それも、昭和四十三年二月に、西本願寺広島別院が当時の倉石忠雄農林大臣の「他力本願」用語乱用に抗議、真宗十派連合でも問題視し、同大臣が謝状提出をするに至った事件の後のことである。よくよく「他力本願」の本来の意味合いは一般的に軽んぜられやすいのだろうか。

 「他力本願」に限らず「往生」「四苦八苦」など、仏教用語の意味のはき違えの乱用は数え切れない。形がい化は用語だけではなく、仏事にも多い。仏壇は死者をまつる−との認識は意外に強く、死者がなければ仏壇は不要―との考え方も支配的。

 仏教用語、真宗用語の曲解と乱用は、教義の浸透の不十分さを示している。乱用のたびに当事者に本来の意味を示すのも教化には違いない。だが、そのつどの真宗僧侶の側の反省を抜きにすれば、単なるクレームに終わる。

 あわせて、お聖教を大切にした過去の安芸門徒の行動にも目を向けたい。その象徴的存在は広島真宗学寮で薫陶を受けた津田喜次郎さん。津田ポンプの創立者として知られるが、それ以上に信仰優位の価値感を持った。

 昭和十四年六月、文部省が龍谷大学の真宗学の教科書の「真宗要義」巻下に、不敬の用語がある−と、厳重注意をしたのを機に、本山では聖教の一部を削除する動きを見せた。いわゆる親鸞聖人の主著「教行信証」の「化身土」の巻の末尾の「主上・臣下、法に背き、義に遠し、念を成し、怨を結ぶ」の部分。

 時流へ順応する姿勢に、心ある僧俗は反対した。なかでも、広島県西部は江戸時代以来、宗学を重んじる風土。同十五年九月、門信徒の代表として、津田さんらは反対の陳情書を手に上京、当局と厳しくやり合っだ。

 結果的には、教団は最大級の汚点を残したが、そうした歴史を反省されている今、津田さんらの行動は輝く。道理を守る−それは、安芸門徒史の中で、どこかで受け継がれている。

(見真 463号 1993-2-1)

倶会一処 会う相手とはだれなのか

「真宗王国」とまで呼ばれるこの「安芸門徒」の土地柄を立証する代表的な風景であろう。「倶会一処」と表面に刻まれた墓。「くえいっしょ」と読む。それが、耕やして天に登る島の段々畑でも、山間地の民家の裏山でも見受けられる。町の寺の墓所、新興団地に近い共同墓地にも点在する。字面からの単純な解釈では「ともに一つところに会う」との意味で、このところのブームである合祀墓にはぴったりの文句。

 しかし、数十年前までの主流である単独墓でも、広島県西部ではこの四字が目についていた。他にだれの遺骨もない新墓に遺骨を入れるのに、会う相手とはだれなのか。もっとも、会う主体者側も骨か霊か、それとも…。

 ここはやはり、この四字の出所からうかがうことが先決となる。「舎利弗。衆生聞者。応答発願。願生彼国。所以者何。得与如是。諸上善人。倶会一処」

 浄土真宗の所依の経典の一つ「仏説阿弥陀経」の中に登場する。広島県高田郡吉田町の寺に生まれた本願寺派司教の霊山勝海さんが、広島別院の機関紙「見真」に示した意訳を借用する。「舎利弗よ、このように尊い浄土のありさまを聞くものは、ぜひともかの国に生まれたいと願うがよい。そのわけは、かような多くのすぐれた聖者たちと、共に一処に会うことができるからである」

 つまり、会う相手は「既に浄土に往生している聖者たちでありまして、この世においての親族や親しくしていた友人のことではありません」と霊山さん。この解説に対して「倶会一処」の墓を建てる遺族の中には、拍子抜けする者がいるかもしれない。

 もっとも、それでは「倶会一処」の四字が泣く。霊山さんによると、聖者たちは浄土に往生した諸仏たち。さらに親鸞聖人の言葉を借用すれば「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれもこの順次生に仏になりてたすけさふらうべきなり」(歎異抄)

 いささか難解。しかも、真宗教義よりも祖霊信仰に走っている人には、戸惑いを招きかねまい。けれども、究極的な救いは、苦しみ抜けやらない現世の論理を超えてこそ成り立つ。そこにこそ、一如の世界、いわば真実の出会いがある。

 そうすると、諸仏と出会う主体者側もまた仏であり、阿弥陀如来の願力にゆだねきらせてもらえて往生できる個々である。だから、肉体と分離した霊、あるいは肉体の抜け殻のような骨のようなものと諸仏との出会いではない。

 いささか「仏法の林に迷う」といわれる状況になりそうだが、それは私のこと。安芸門徒のただお念仏を喜ばれる多くの先輩方は如来のリードで「南無阿弥陀仏」を申されるばかり。

「南無阿弥陀仏」

 こう刻まれた墓も多い。まさに、真宗門徒にとってのスタートであり、ゴールはここにある。併せて、礼拝対象そのもの(名号)。「倶会一処」の場合は、あくまでも墓への名文で、参拝時には墓前に名号などの礼拝対象を据えるのが望ましくなる。だが「南無阿弥陀仏」だと、その必要さえなくなる。

 安芸門徒の間でも、近年は急速に「南無阿弥陀仏」の墓のほうが増え始めた。「倶会一処」が開花したようにも見える。併せて、墓を取りまく日柄や方角などの迷信も消えつつある。やはり「倶会一処」の風土が培った土徳といえよう。

 水原史雄先生の「安芸門徒」は、今月号をもって終了させて頂きます                                         (見真 464号 1993-3-1)

最初のページへ