高松悟峰和上の御法話

山本正念編 高松和上御法話・御示談集の内 第1篇法話編を転記転記にあたり

振り仮名(ルビ)は削除した
かなの一部を漢字表記とした
繰り返しの記号は都合で文字に入れ替えた

和上特有の言い回しは其のままとし原文の趣を維持した


目 次

甘露の法雨

黄金の味

照育の光明

信ある人は尊い

他力の称名

四つの流れ

浄土の相状

罪業深重

他力本願

浄土は私のもの

絵像よりは名号

煩悩のままに

 

 

 

甘露の法雨

  夏になると、日でりで百姓が大喧嘩をする。じゃがその時雲が出て、

雨がさっと降ってくると、今まで怒っておった百姓が皆にこにこ笑うて

かえる。何じゃ彼じゃと云うのは南無阿弥陀仏のお慈悲の雨がわからぬ

からであります。いろいろさまざまのせんぎしていても、雨がふり出す

と、理窟は一つも用事はない、我々の胸の中の煩悩や悪業を相手に、あ

あじゃこうじゃ、こうなってはいけぬ、ああなってはいけぬ。こういう

ているのは、お慈悲の雨がわからぬからである。雨がさあっと降ってき

て見れば、私の手許には何の用事もない。

 

 

黄金の味

七高僧や御開山が命がけの御教化であります。よく味あわせていただ

けば、一口一口の御教化がこがねの味わいであります。蓮如上人の御文

も、うっかり聞いては何ともないようなが、よく味わえば実にありがた

い、先年私は、ある若い方の病気の枕もとで「末代無智の御文章」をよ

んでくだされとおっしゃる。明日の命もわからぬという大病人でありま

す。だんだん読んでゆきますうちに、「たとい罪業は深重なりとも、か

ならず弥陀如来はすくいましますべし」ここ一寸まって下さい、ああ

有難い、こう病人は申します。半生は何ともなしにいただいておりま

したが、今死なねばならぬ時、罪業が重いからお前は助けられぬといわ

れたら動きはとれませぬが、どんなに罪は重くともとおっしゃる。平生

は何度もききながら、ここに気がつかなかった、健康でいてさえどうも

ならぬのに、臨終になった段に、おまえの罪が重いから助けられぬと

いわれたら、おおごと、それにただ今の御文章をいただいて見れば、

何というありがたい事でございましょう、と大変にこの若い人が喜びま

した。

 

 

照育の光明

私らは無始以米、しぶとい根性をさげている、そこで如来様が光明を

もっておてらし下されて、その根性をやわらげて下さる。即ちこれが照

育の光明、お育ての光明であります。冥助と申して、私の方からは、如

来様の光明は拝まれぬけれども、如来様の方ではお光明で私をてらして、

じわりじわり法の方へ引きつけて下されます。丁度ぬれたものをほすよ

うに、ぬれた衣服を日光にほすと、じわりじわりかわく、一ぺんには、

ぬれようがひどいからかわかぬが、じわりじわりとかわく。私を光明で、

じわりじわりかわかせて下さる、寺へもまいらぬものが、いつの間にや

らまいるようになる。無常を知らぬものが、無常というものがわかるよ

うになる。後生の事を思わぬものが、後生を思うようになる。とうとう

しまいには、お寺まいりせずにはおられぬようになる。ああじゃこうじゃ

小言をいうていたが、光明でじわりじわり心の中のうたがいをといて下

さる。

初めは仏教をうたがう、そのうたがいが始めは中々ひどい、ところが、

きく中にじわりじわり心のうたがいがとける。とうとうおんずまりは、

大悲の如来の願力に、さようなればとおまかせできるようになる。じわ

りじわりと私の根性のうたがいをといて下さる、これが光明のおそだて

であります。お了解を得たら、一足もあとえは戻れませぬが、お了解の

得られぬ間は、何やらきれいに乾きそうなら、又急に雨がふる。夕立が

ふる。夕立位ならよいが、五欲の境界では、場合によれば大雨がつづく、

よほど気をつけぬと、乾きそうなら雨が降る。後もどりする、御法義を

聴聞する身になれば、二河白道のたとえの如く、後へ向くなよわきへ向

くなよ。三千界のあらゆる凡夫が、如何なることを云おうとも、外へ心

を寄すなよ、私の後生の大事は、教え手は釈迦如来、よんで下さるは阿

弥陀如来、この度の後生は凡夫でないぞ、仏のおうけあいぞ、あの味わ

いをよくいただく事が肝要であります。

 

 

信ある人は尊い

きたないおやじが、みのかさをつけて、何処から眺めても綺麗なとこ

ろは無いが、綺麗な花を売って歩く、その姿が何となく風流で面白いと

いうので人が歌にも詩にも読みます。貧乏をして、しようなしに花を売

って歩く、そのおやじにねうちがあるのではないが、かついでいる花に

ねうちがあるので人が賞美する。

我々は十悪の罪人、五障の女人、何のねうちもありませんが、しかる

に大悲のおや様の御廻向の信心、これは、持っておる、担いでおるとい

う位の事でない。心の中に尊い如来様のお慈悲がある。それが口にあら

われ、身にあらわれて、心なき外の人から見ても、何となく尊いのであ

ります。

先年田舎に行きましてこういう話をききました。学校の先生で、仏法

の事を聞いたことの無い、何にも法を知らない人であるが、その人が生

徒に向って、大変にほめてござる事があった。というのは、雪のふる朝、

一里ばかりの道を学校へ通う途中で、大変の雪の降る中を、一人のおや

じが、ああもったいない、ああありがたいというて、喜び喜びゆく。

その姿を先生が見て何の事やら分らぬ。こっちは雪の中を、難義でかな

わぬに、おやじはしきりにありがたいという。何とのうその姿を見るこ

ちらの先生が、尊い感にうたれる。そこで、何の意味やらわからぬが、

その先生は、生徒に向って「おまえたちは寒いなどいうてはならぬ」と

生徒を教訓したという事であります。何ういう意味かわからぬが、ただ

その老人の尊い姿にうたれて、生徒を教訓しました。その老人は如何な

る人かというに、これは元は非常に乱暴な人であったが、今はまことに

ありがたい信者となっている人との事であります。その老人の姿を、仏

法の何たるかをしらぬ先生が見て、何との尊いのにうたれる。人に見ら

れるためでない。雪のふる中にも、寒い中にも、大悲のおやの御大恩を

おもいうかべて.ありがたやありがたや その姿を他から眺めると、様

子を知っている人だけでない。様子を知らぬ人達も尊い業と思わせられ

るのであります。

 

 

他力の称名

ある日、蓮如上人が、のれんをあげてお出ましになり、南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏とお念仏を称えられ、そして、法敬坊におたずねになり、

おまえは今、わがとなえた念仏の心持を知っているか、法敬坊は何やら

分らぬ。私には分りませぬと申しあげた、上人が仰せられる。外ではな

い、往生大悲のおや様にお助けにあずかる事のうれしさに、私は喜ぶば

かりじゃ。のれんをくぐって出たのに用はない。それについて、法然聖

人のおことばに、春の野で菜をつむ、又水をくんでおる子供、又くさを

苅っておる子供、いろいろある。源空がとなえる念仏も、なつみ、水く

み、くさかるわらべの念仏もことなることなし。この源空は戒行をたも

ち、袈裟をかけて念仏をとなえる。一方は魚をくい、戒もなく行もなく、

世のなりわいをしつつ、その中から念仏をとなえる。しかし、どの念仏

もねうちは同じ事で、かわりはないと仰せられる。ただ、今蓮如上人が、

のれんをくぐって外へ出るなり、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、何ものれ

んをくぐったことにわけはない。この蓮如がとなえる念仏も、一切の人

達がとなえる念仏も同じ事である。ふと何げのうのれんをくぐってとな

える念仏も御礼御報謝である。どんな所作でとなえようが、人間のする

所作にはいろいろあるが、それにかかわりはない、皆念仏のねうちは一

つ事、蜂をころすのを見てとなえる念仏もある、戸をあけてふととなえ

る念仏もある。こたつの中で身体のきもちがよくてとなえる念仏もある。

花を眺めて申す念仏もある。月を見てとなえる念仏もある。となえる姿

はいろいろあるが、何れの念仏も、皆如来様の御大恩を喜ぶほかはない。

念仏のねうちにかわりはない。自力の念仏は所作で念仏がかわる、人間

によって念仏のねうちがかわる。思いようでかわる、高い人のとなえた

念仏も、ひくい人のとなえた念仏も、人間によって、所作によって念仏

のねうちがかわる。この他力の念仏はそうしたことでねうちがかわらぬ。

立ってとなえた念仏も、すわってとなえた念仏も、すべて御恩報謝であ

る。何うして念仏のねうちにかわりがないか、それは元来出てくる念仏

の源が一つだからである。何れも、もろうた御廻向の御信心、もろうた

源がちがわぬから、尊いものがとなえても御礼御報謝、いかなるひとが

となえても御礼御報謝、所作はどんな姿でとなえても御廻向の御信心に、

かわりがないから念仏のねうちにかわりがない。

浄土真宗の肝要は、御廻向の南無阿弥陀仏をいただく事である。あり

のままにいただく事である。私の智慧でない、はからいでない、御廻向

の南無阿弥陀仏じゃで、御信心に上等や下等のある筈はない、同じ南無

阿弥陀仏から流れ出る御了解のお念仏ゆえ、皆同じ念仏である。どんな

に立派に造っても一般人のこしらえたものはにせ金である。何百万円つ

んでおっても三文のねうちもない。政府から下されたあの札は、あれは

いかなるものがもっておっても、特殊な人が持っておっても、百円のか

ねは減りもせぬ、増しもせぬ。ぼろをきて使っても百円は百円、立派な

きものをきて使うても百円は百円、姿形にはよらぬ。政府から出たかね

じやからねうちにちがいはないのである。

自分の手ごしらえの念仏は、我々の所作でねうちが変る。ことに今日

の私らのように、おろかなもののはかろうたのでは何にもならぬ。然る

に、大悲の親様から貰うた念仏は、もろうた人間はぼろを着ているもの

もある。立派な着物をきたものもあるが、御廻向の南無阿弥陀仏に変り

がないから、未来はおたすけにあずかるのであります。

 

 

四つの流れ

今日の科学を研究する人達も、後生の事は気にかからぬでもない。然

し、科学を研究して行くと追々に、人間でもとうとう死なぬようになる。

又、この世界も思い通りの極楽のような世界がつくれる。こういう想像

をもっている人もあります、然し、それもどれ位の時を経たら、その目

途がつくか、それはさっぱり分りません、そうでは無い、世界のことは、

このように外へばかり調べて行っても、結局は、分らぬという事になり

ます。大切な魂の問題を忘れたら後生のことは万劫かかっても分らぬの

であります。

善導人師が仰せられます。横超断四流、この四流とは四つの大きな流

れということであります。四つの流れとは、慾暴流、有暴流、見暴流、

無明暴流この四つの流れで、つまりは四つの我々の心の中の煩悩の事を

いわれたのであります。この三毒五欲の大きな流れが、私共の心の中を

どんどんと流れて居ります。そこで、たとえ私が今日一日だけはどうか

して慾を止めようとしても、中々止められませぬ。止めようとするその

心の下から、すぐ慾が起ります。今日一日癇癪を出すまいとしてもすぐ

瞋恚が起ります。小さい流れなら踏み止められますが、三毒万欲の煩悩

の大流れには踏み耐えられずして、押し流されるのであります、この大

流れの中に我々は漂うているのであります。少々の善根をつとめても、

踏み止められぬ、小さな蟻が、大川に流されるようなものであります。

又、私の学問で、何か研究して見る。これも小さな蟻が、法界の道理を

見極めようとするようなものであります。この大流れに対して私の力は

何うすることも出来ぬのであります。

如来様のお説きなされた八万四千の法門は、証を開く事が説いてあり

ます。しかし、今日では、真言でも足の踏み止りは出来ませぬ。天台で

も踏み止りはむつかしい、末代の悪業煩悩の大流れの中では、小さな善

根功徳はとてもとても役に立たぬのであります。

この度、この大流れの中に漂い流されている処へ、極楽浄土から弘誓

の船を横着けにして下されて、弥陀が連れに来たぞよと声をかけて下る

のであります。「弥陀観音大勢至、大願の船に乗じてぞ、生死の海に浮

びつつ、有情をよぽおてのせたまう、」さあ乗れ乗れとお誘い下さる。

私としていかにもがいても、この大流れが泳ぎきれるものでない、はや、

何のはからうところもない。さようならばと、この御催促のお呼び声に、

一念皈命する端的に、間髪をいれず、往生の一大事は、こっとりと事済

みにさせて下さるのであります。それが即ち如来のお心を頂戴する。お

心とは仏智であります。信の一念に、仏智を私の心にいただきますから、

私はおかげで参らせていただくことが出来るのであります。

 

 

浄土の相状

私ら凡夫の考えでは、いかにも仏様の境界といえば、何やら寂しい所

へ行くような心持ちになります。然し如来の境界といえば、一方に限ら

れたものではありませぬ。迷いの境界は畜生でいえば、犬は生涯犬であ

って猫にはなれませぬ、獅子に生れたら象にはなれませぬ。象に生れた

ら獅子にはなれませぬ。生れた通りそれっきり姿形が動かない。心も動

かれぬ。人間に生れたら、猫や犬の姿にはなれぬし天人の姿にもなれぬ。

また同じ人間のうちでも背の高いものは低くなれぬし低いものは高くな

れぬ。人間に生れた私らの境遇は、丁度判を押したようであって、大き

くもなれませぬ、小さくもなれませぬ。ちゃんと前生に極められた果報

の通りに通る外はありませぬ。衣類や化粧では色々に化かす事もできま

すが生れた姿はかえられませぬ、これが迷いの境遇の有様であります。

如来様の境界は、いかにもちゃんと仏の姿になって、大きくもなれぬ、

小さくもなれぬ、ちゃんと淋しい境界にじっとしていられるようであり

ますが、実はそうではありませぬ。如来様の境界は、あらゆることに自

由が利くのが如来様の境界であります。智慧も法界第一、位も法界第一、

何から申しても一等である上に、その一等がいつも一等になりきりで、

向うえもいかれぬ、後ろえも戻られぬ、それでは真実の一等ではない―

いよいよの一等になれば、三界六道の迷いの衆生の姿、衆生済度の用事

があれば、餓鬼の姿であろうが、何の姿にも自由になれる、天人にでも、

菩薩にでも、羅漢にでもなれる、千変万化思いのままになれる。これが

仏様の境界であります。仏じゃから一歩も後へ引かれぬとありましては、

仏の価値は無いことになります。

 

 

罪業深重

蓮如上人のおことばに、「たれのともがらも、われはわるきと思うも

の一人としてあるべからず、これしかしながら、聖人のおんばつをかう

ぶりたる姿なり。これによって、一人づつも、心中をひるがえさずぱ、

ながき世、?梨にふかくしずむべきものなり。これというも、何ごとぞ

なれば、真実の仏法のそこをしらざる故なり」とのお言葉があります。

自分の、罪業深重と心得ながら、やはり自分はかしこいように思うて

います。人間同志の間は、それでもよろしくありますが、如来善知識に

向うても、やはり自分がかしこいように思うて、向うを下眼に見ます、

それが、真実に仏法の底を知らぬ故であります。何べん聞いても、自分

のいろいろの考えを出すから、仰せが分らぬようになる。お聖教でも自

分の考えを出して読むと、初から終まで、少しも面白いことはありませ

ぬ。そこで、私ら人間の智慧は、これを如来様のお智慧にくらべますと、

何の位のものであるかという事を思わせて貰わねばなりませぬ。これは

先ず、私らは下のものと比べて見ても、少しは様子か分ります。犬、猫、

猿、これら畜生の分斉を考えますと、それはまことに憐れなものであり

ます。更に下になって、顕微鏡で見ねば分らぬような小さな虫になりま

すと、一滴の人間の涙ほどの水の中を広い世界のようにこころえてあっ

ちに飛び、こっちに飛んでいます。このありさまも憐れでありますが、

まだ、仏様から見られる人間の憐れさは、何れだけ憐れであるか分りま

せぬ。この我身の愚かな事をよくよく得心させて貰うて、御教化のまん

まを、その通りにいただきますと、読めば読むほどその味わいが分るの

であります。「無明長夜の灯炬なり、智眼くらしと悲しむな、生死大海

の船筏なり、罪障重しとなげかざれ」小言をいわず、まかすばかり、す

がるばかりであります。こうなればお聖教も文々句々皆ありがたい。私

の我慢邪見を基にして読みますと、有難味はありませぬ。御開山が書か

れたのである。御開山の書かれたのは、そのまま大悲のおや様の御教化

であると、ただその仰せのまんまを頂くのであります。

 

 

他力の本願

御文に、人間の五十年が、四王天の一日一夜にあたり、四王天の五十

年が等活地獄の一日一夜にあたるとあります、これは正法念経に依られ

たものであります。この計算からいえば、等活地獄の一日一夜は、人間

世界の九十万年あまりになります。等活地獄は地獄の中でも最も寿命の

短い地獄でありますが、それでさえこのように長い間の苦しみを受けね

ばなりませぬ。まして況や無間地獄になりますと、仏は其寿命を説いて

居られぬ位長い寿命であります。

この無間地獄の苦みのありさまを、往生要集には、「人ありて、一日

の中に三百の矛を以て、その身体を鑽さるるとも、無間地獄の苦しみに

比ぶれば、そのわずか一念(極めて短かい時間)の苦みの、百千万分の

その一にも及ばぬとあります、私らの罪の重いことは、とても等活地獄

ぐらいではすみませぬ。必堕無間とも仰せられて、無間地獄に落ちるこ

とは必定であります。聞くだけでも恐ろしいことでありますに、事実に

この地獄の責苦を受けたら、いかに苦しい事でありましょう。

私らは若しこの地獄のことばかりお聞かせに預って、阿弥陀様の御本

願のおいわれを聞かなかったら、どんな気持ちがするでしょうか、今こ

こに他力の御本願に遇わせて戴いて、未来は極楽に参らせていただくこ

とは、人中の希有人とも仰せられてあります。

 

 

浄土は私のもの

如来様が、私のための願も行も悉く御成就、御円満下され、私が参ら

せて貰う極楽も、ちゃんと御成就であります。この広大なお浄土が、他

人のものでない。私の参るべきお浄土であります。然るに事実は私は、

今日尚三界六道に迷うている。私はかく迷うているが、お浄土の御身代

のいわれからは、私が、はや参っているおいわれがあるとの御文のお心

であります。

現在貧乏して、難義している、放蕩で、わが家へもかえらず難義して

いる。これが現在の姿であるが、親の手許より申せば その放蕩の子の

外には、ゆずり与えるもののない身代であるから、親の手許の身代から

いえば、その身代は誰のものでもない、その放蕩息子の身代である。親

の手許よりいえば、難義すべき筈はなく、かねもちの主人たるべきいわ

れが、ちゃんと出来ている。さりながら、本人は親のいう事をきかずし

て、流浪して苦労している、いま私らのまいるに必要な一切の願行も、

またまいるべき極楽浄土も、ちゃんと私のために出来ている。これは

智者や、聖人はお相伴、末世罪業の私らが正客、そうなれば、おや様の

お手許からいただけば、私は参っておるわけになっている、然るに、事

実はこうして迷っているのは何故か、それは、あなたの仰せを疑い、あ

なたの仰せにまかせぬからであります。そこで、おいわれから申しませ

ば、私らは、はやお浄土へ参っている、おいわれになっているのであり

ます。「安心決定小鈔」に「面々衆生の機毎に願行成就せし時、仏は正

覚を成じ、凡夫は往生せしなり」と仰せられてあります。

 

 

絵像よりは名号

他流には、名号よりは絵像、絵像よりは、木像というなり。当流には、

木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり。(御一代聞書)この意は、

余門余宗では、観念ということを致します。心を澄して修行するのであ

ります。その便宣の上から名号よりは絵像、絵像よりは木像の方が、よ

いと申します。これは聖道自力の法門で、座禅や観念をするに、「印」

ということがありまして、一定の手の組み方、足のくみ方を致します。

そのくみ方に、仏様のお姿をお手本に致します。その御手本としては、

名号よりは絵像の方がよいし、絵像よりは木像の方がわかりいいという

のであります。

ところが浄土真宗に於きましては、座禅の用事はありませぬ、手の組

み方、足のくみ方を覚えねばならぬ用事はありませぬ。また、如来様の

お姿を、観念せねばならぬ必要もありませぬ。ただ如来様の、罪あり、

障りあるままを、そのまま参らすぞよの、あのお喚声が聞えたままで、

はや何もかも、往生の大事は、ととのうのであります。その上は何一つ

いらぬのであります。場合によりては、病気のために、重い枕に臥って

いましてもそれでよろしい、姿形のえらびがない、お聞かせにあずかる

南無阿弥陀仏が聞えたばかり、ただそれだけであります故、この味わい

を知らすために、当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号と仰せられ

たのであります。

 

 

煩悩のままに

高い山に登らなければ、天の高い事が分らず、深い渕にのぞまなけれ

ば地の厚い事が分りませぬ。富士の山でも、ほとりに行って見るとなる

ほど高い、ところが、登りかけて見ると、なるほど富士の山は高い、と

うとう山の上に登れば、山ではない、今度は天の高い事が分る。高い山

に登って見ぬと天の高いのが分らぬ。ふかい渕の底におりて見ぬと大地

の厚さが分らぬのであります。如来様の御本願が尊い、ありがたい、こ

れが聞けば聞くほど、何ういうけ高いことであろうかと分る。近よれば

近よるほど、いかにも尊さがしみじみと味われる。それは私ら凡夫だけ

ではない、羅漢でも仏の世界はずっと上にある。菩薩の位から眺めても、

まだ仏の地位はずっとずっと高い。私らはさとりをひらいて、上って見

ることは出来ぬが、御本願を聞いて見ると、きけば聞くほど高いのが分

る。

まことに私らは此度、広大な仕合せを得させて貰うのであります。法

然聖人は、自力の修行をする時は、聖道の修行のむつかしいのに嘆く、

それからいよいよ他力を貰うて見ると、今度はまたもやすいのにあきれ

ると、仰せられました。いよいよ御本願を聞いて見ますと、何たるもや

すい御本願であろうか、私らは生れた時から、真宗の教えを聞いて、た

だじゃただじゃと、ただを聞きなれていますから、反ってただに不足を

いいますが、聖道自力の教えに比べて見て、はじめて御本願の尊さのほ

ども分る事であります。

正行と雑行との分別を聞きわけて、他力のお助けが分ると、御文章に

もあるように、「うれしさを昔しはそでにつつみけり、こよいは身にも

あまりぬるかな」昔は正行雑行の分別を知らず、何やら有りがたいよう

なが、念仏をとなえたらまいれると、となえる念仏に力味を入れていた

間は、如来様のお慈悲というのも、それは袖につつんでおくほどのあり

がたさであったが、いよいよ他力のお味わいを貰うて見れば、これは善

人もいらず、悪人もいらず、男子もいらず、女人もいらず、煩悩罪業一

ぱいのこの私が、ただお蔭でお浄土へまいれるとは、喜びは、「今宵は

身にもあまりぬるかな」まことに有難いことであります。一体われわれ

凡夫は、この道理を聞かせて貰うて見れば、喜ばねばならぬのに、何う

も胸の中がさほどに喜んでくれませぬ。煩悩とはわけのわからぬもので

あります。

この境界は何一つ頼みにならぬに、境界のことというと、煩悩が僅か

の事でも喜びます。子供の時は金はほしくない。安いおもちゃでも貰う

と喜びます。大人になれば、境界の金もうけ位の事でもうれしく思いま

すが、極楽浄土の御身代を貰うことはさほどうれしく思いませぬ。煩悩

強盛とは云いながら、わが身のおろかさが、これでもよく分るでありま

しょう、然るに此度は信心一つで、うれしゅうてもお浄土へまいれる。

うれしゅうのうてもまいれる。喜んでもまいれる、喜ばぬでもまいれる。

往生ばかりはあなたのおかげでまいらせて貰うばかり、死にとうない、

嬉しゅうない、参りとうないと思い思い死んでも、それで信の行者は間

違いなく、極楽浄土の蓮台の上へ直らせてもらうのであります。

 

 
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2013年7月18日 15:37:17