山形市の北に位置し現在は温泉と将棋の町として知られる天童市、市の中心部からやや南にある舞鶴山に天童城はあります。桜の名所でもあり、その頃には甲冑を身にまとった人間が実際に駒となる「人間将棋」が開催されることでも有名です。
八幡山古戦場跡からの天童城
初期の天童城には謎が多く、築城者も明確には分かっていません。一説によれば南北朝時代鎮守府将軍として多賀城に下向した北畠顕家(あるいはその弟である顕信)の末裔である北畠天童丸が最初の城主と言われていますが、未だ伝説の域を出ません。標高242m(比高133m)で周囲が4kmと山形県内では最大規模の山城です。歴代の城主であった天童氏はもともと最上家の一族で、出羽に入部した斯波兼頼の孫である頼直が祖となります。したがって最上家の分家となるのですが、やがて山形の宗家にも匹敵するほどの力を持つようになり、幕府からは宗家と同等の扱いを受けるまでになります。宗家の家督を継いだ義光にとっても最大の脅威であり、当時の城主天童頼澄も義光の使者である志村伊豆に対しての、我が城の険峻さを誇り平城である山形城を見下した言葉が『奥羽永慶軍記』に記されており、これが義光に天童氏討伐を決意させたといわれています。力で攻めても落とせないと悟った義光は得意の謀略を発揮し、その狙いを天童氏家臣団の柱石であった剛将延沢満延に絞ります。満延の嫡男に自分の娘を嫁がせる約束をし、自身の陣営に引き込むことに成功。その後天童氏では家臣の離反が相次ぎ、この大規模な城を守るだけの兵数を維持することができなくなり、結局妻の実家である宮城の国分氏をたよって落ち延びることとなったのです。以後天童氏は伊達家家臣として代を重ねていくことになります。
本丸跡とそこに残る櫓台
落城後、天童城は廃城となり二度とよみがえることはありませんでした。あまりに険峻な要害であったことが義光に敬遠させる結果を招いたのかも知れません。現在の天童城にはかなりの数の郭跡があるものの、他の遺構としては堀切跡と思われるところが一ヶ所あるぐらいで土塁などは見当たりません。もしかすると義光が縄張りを徹底的に破壊したのかもしれません。