Gilpin, Robert. The Political Economy of Internatinal Relations. Princeton: Princeton University Press, 1987.

読後メモ(執筆時1996年)

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(2001.8.29-)

 

(目次)

I.市場・国家・相互作用

II.市場・相互作用をとらえる枠組み

III.現代の位置

IV.感想および、いくつかの論点

 

 本書の課題は、世界の二つの組織原理である市場(経済)と国家(政治)の相互作用を解明することにある。そのために、著者Gilpinは、過去の経済学・政治学の知的伝統を振り返った上で、それらをできるだけ統合した政治経済学の構築を試みている。

 三つのポイントに着目して、本書を整理する。

 その第一は、Gilpinは「市場」「国家」を、どのようにとらえられているのか、そして、「市場」「国家」の間の相互作用のいかなる側面を政治学の問題としてとりあげているのか。

 第二は、この相互作用をとらえた過去の知的伝統を、ギルピンはどのように整理し、そして、この相互作用をとらえるためにいかなる枠組みを提示しているのか。

 そして、第三は、その枠組みの中で、現代はどのように位置づけられるのか。

I.市場・国家・相互作用

 ギルピンは、近代以降の世界には、人間の諸活動を規制・組織化する二つのメカニズムがあったという。その第一は、「国家」である。(組織原理としての)「国家」は、領域性・忠誠・排他性という概念を中心に人間活動を組織化し、その領域内での暴力の独占・国際社会における自律性を獲得してきた。第二のメカニズムは「市場」である。この(組織原理としての)「市場」は、価格メカニズム・競争・効率を人間活動の中心的原理とするメカニズムである。この二つのメカニズムの間の決定的な差は、(組織原理としての)「国家」は、世界を領域上の境界で区切ることでその内部での自律性を保とうとする組織原理であるのに対して、(組織原理としての)「市場」は領域上の境界も含めた様々な障害を乗り越えて、価格メカニズムを広げていこうとする組織原理であるという点である。

 従って、本書の問題とする(組織原理としての)「国家」と(組織原理としての)「市場」の相互作用とは、一言でいえば、地域的に区切られた領域的な活動と、脱領域的な価格メカニズムに基づく活動との緊張関係ということになる。

 世界大の市場経済が成立しうるのは、国家間の関係がどのような状況に置かれている ―例えば、覇権国の存在の有無― 場合においてであるのか、世界大の市場経済は、それが作動した結果として、各国にいかなる利害をもたらし、そして、国家間の紛争・調和・パワーの配分といった関係の諸相に、いかなる影響を与えるのか、さらに、国家は、そのような市場メカニズムの作動に対し、いかなる反作用(種種の経済への国家介入)を行うのか。これらが、ギルピンによって本書で問題とされた、「国家」と「市場」の相互作用の諸相である。

II.市場・相互作用をとらえる枠組み

 まず、ギルピンは、この問題に関する検証不可能な伝統的イデオロギーを、リベラリズムナショナリズムマルクス主義の三つに整理する。このそれぞれ(にかんするギルピンの解釈)を、ごく簡単にまとめよう。

 リベラリズムは、政治(組織原理としての「国家」)と経済(組織原理としての「市場」)を互いに分離したものとしてとらえ、自由な経済活動・競争・個人の利益追求は、経済発展を促し、自由な国際貿易は世界平和を促すと考えるイデオロギーである。従って、リベラリズムでは、経済活動への政府介入は、害悪であり、最小限にとどめるべきだとする主張がなされる。ここには、古典派、新古典派、ケインジアン、マネタリスト等まで広範にわたる主流の経済理論が含まれている。

 ナショナリズムは、経済(組織原理としての「市場」)が政治(組織原理としての「国家」)に従属すると考えるイデオロギーである。ここでは、国家は、国益のために、自国に有利な国際分業関係を形成すべきであるし、またそのようなことは可能であると考えられている。従って、ナショナリズムは、国家による経済介入を重視し、無制約の国際貿易の拡大に否定的である。この流れには、重商主義・リスト等のドイツ歴史学派、保護主義が含まれる。

 最後に、マルクス主義は政治(組織原理としての「国家」)が経済(組織原理としての「市場」)に従属するとみる。そして、各国間の経済の不均等発展、富の分配の不均衡が、政治紛争を引き起こすと考える。

 ギルピンは、これらのイデオロギーには一長一短があるとし、彼がそれぞれの長所と考える部分のみをとりあげ、経済(組織原理としての「市場」)と政治(組織原理としての「国家」)の関係をインターラクティヴな関係として新たにとらえ直すというかたちで、これらのイデオロギーの長所を綜合し、彼自身の議論をかたちづくっていく。

 ギルピンは、リベラリズムの流れを汲むアカデミックな理論としてdual economy理論を、ナショナリズムの流れを汲むアカデミックな理論として覇権安定論を、マルクス主義の流れを汲むアカデミックな理論として近代世界システム論をとりあげる。そして、ギルピンは、二重構造論から、市場とテクノロジーの進歩の重要性を、近代世界システム論から、国際分業のヒエラルヒー構造(core-semiperiphery-periphery)をとりいれ、国家間の政治関係から世界市場の組織と運営を説明する覇権安定論のもとに理論的に統合するのである。

 このようにして形成されたギルピンの枠組みをまとめてみよう。

 まず、政治的・軍事的・経済的に突出した覇権国があるとしよう。この覇権国は、その内部に成長する産業部門をもっている。このとき、このとき、覇権国は、その経済力・軍事力を用いて、自由で国際的な市場「構造」を形成する。なお、国際政治経済の「構造」とは世界的な経済の中で、長期間、相対的に安定的な部分・側面であり、社会制度・特定の市場組織・経済活動を管理するルール・規範・レジーム、貿易ネットワーク、国際分業、経済活動の分布を含む、と、曖昧に定義されている[Gilpin1987,p81,92] 。覇権国は、何よりも自国の利益の伸張を考えて、自由で国際的な市場「構造」を形成するのだが、この自由で国際的な「構造」は、それ以外の諸国を搾取するものであるどころか、むしろ、経済成長の機会(絶対的には利益)を与えるものである。しかし、皮肉なことに、この自由で国際的な市場「構造」によって引き起こされた非覇権国の経済成長が、「市場」のメカニズムを通じて、長期的には自由で国際的な市場「構造」自体を不安定化させることになる。その「市場」を通じた変化のメカニズムが不均等成長uneven growth の過程である。

 これは、地域間・産業部門間・時間という、三つの異なった次元での不均等な成長と衰退の過程の連動である。そして、これは技術革新が地域的・産業部門的・時間的に不均衡に発生する、すなわち、特定の地域、特定の産業部門で、ある特定の時期に集中的に発生することから起こる。まず、A1という特定地域で、A2という特定の分野の技術革新A0が時点tに起こるとしよう。このとき、この技術革新A0のために、A1という地点は、世界へ新製品を輸出し、世界の富と資源を集中させ(polarization effect)、急激な経済成長を果たす地域(core)となる(富と資源をcoreに吸引されていく地域がperipheryである)。また、この技術革新A0のおこった産業部門A2も、競争相手の少なさから急成長し、他の産業部門に成長の波及効果をもたらすいわゆるリーディング・セクターとなる。また、この時点tは、A1という他国を引き離して成長した地域と、A2という成長セクターに主導された、経済成長期となる。このときが、先に述べた、覇権国A1(=core)のリーダーシップ下で、自由で開かれた経済体制がつくられ、安定しているときである。リベラリズムのイデオロギー優勢の時代であるともいえる。ところが、しばらくたつと、技術革新A0のインパクトは衰えてくる。この時点をt'としよう。技術は、coreA1から、peripheryである他の国へ移転していく。賃金の安さを求め、新興地域へ直接投資が増すのも、その一形態である。こうして、富と資源は、coreからperipheryへと拡散していく。それに伴って、この新製品の製造は、coreA1だけでなくなり、競争の激化・供給過剰にいたり、産業部門A2は、成長が停滞していく。従って、時点t'は、低成長期となる。このときのA1が、衰退する覇権国である。

 この状態は、新たな技術革新B0が発生する時点t''まで続く。しかし、時点t'で、B0がどの特定の地域、どの特定の産業部門で起こるかは、分からない。もしも、技術革新B0が、時点tにおける覇権国(coreA1)で再びおこれば、その国は、覇権の上昇に再び転ずるが、その他の国で起これば、覇権衰退は激化し、次なる別の覇権国=coreの登場の可能性がでてくる。

 さて、このような市場の不均等成長メカニズムは、組織原理としての「国家」の側の反応を生む。時点t'および、かつてのcore以外に新しいcoreが生じつつあるケースでの時点t''では、衰退する覇権国=coreなどの諸国家が、自らのために最大の利益をもたらすそれまでの国際政治経済「構造」を維持しようとし、覇権国に追いつきつつあるその他の諸国は、自らの利益になるような新たな国際政治経済「構造」に変更しようとする。このように、「市場」の側のメカニズムから、そのメカニズム自体を支えていた国際政治経済「構造」、そして、それを支持していた諸国家の利害は、浸食される。そして、国際政治経済構造をめぐる国家間の紛争状態に至るのである。そこでは、ナショナリズムのイデオロギーが優勢となり、保護主義、貿易摩擦が顕著となる。このとき、国際政治経済「構造」の変化は、次のいづれかのパターンでもたらされる。実力行使によって対立が解消され、新たな政治・経済力の分布、国益の分布を反映した全く新しい構造が構築されるか、諸国家間の平和的調整によって、新たな政治・経済力、国益の分布を反映した構造に変革されるかである。もっとも、衰退する覇権国間で、新たな技術革新が起こり、成長産業が登場すれば、覇権と、その指導下にある国際政治経済構造は更新されることになる。ただし、このような調整は、諸集団の利害によって難しいとされている。

 ギルピンのこの議論は、

組織原理としての「国家」(覇権の有無)→(公共財供給の有無)→「市場」の成長安定

という覇権安定論を、

「市場」のプロダクト・サイクル論的メカニズム→(国際分業)→組織原理としての「国家」(覇権の有無)

という逆の作用を組み込むことで動態化した理論であるといえよう。つまり、「市場」「国家」間の相互作用によって、景気循環、覇権サイクル・政治的安定のサイクル・景気循環が自己完結的に説明されるわけである。

III.現代の位置

 ギルピンがどのように史実を理論に位置づけているのかは、明らかである。第一次大戦まではイギリスによる覇権安定期、戦間期は覇権不在の不安定期、第二次大戦後は、アメリカによる覇権安定期である。そして、この本が書かれた時点での「現在」、すざわち、70年代から80年代は、衰退する米国の覇権の下での不安定期である。アメリカでの技術革新のインパクトは衰え、多国籍企業の海外への進出その他から、技術と富は流出する。国際分業という観点から見れば、アメリカは衰退するcoreであり、peripheryは、アメリカに追いつき、供給過剰から、世界経済は低成長期に入る。この状況は、本書の四章以下で、通貨体制においてはブレトンウッズ体制の崩壊、貿易部門においては、無差別・多国間主義原則に基づき自由貿易が推進されたGATT体制から、差別待遇・二国間主義(「条件付き相互主義」)、新しい保護主義(戦略貿易政策、非関税障壁、産業部門別の管理貿易(例えば、シェアに関する協定))といった方向への変化、国際金融にいては債務問題と覇権国アメリカの衰退下で国際金融を安定化させるためのLLR等の必要な措置がとれるのかという不安、といったこの時代の諸問題がとりあげられ、現在の国際政治経済体制の方向性が悲観的な論調で語られていくことになる。そして、現在はあらたな国際政治経済構造への不安定な移行期であり、国際協調による平和的移行は困難であるとする悲観的な展望とともに、平和的移行に希望をたくす見解を著者は本書の随所にちりばめている。

IV.感想および、いくつかの論点

 感想及び、本書のなかで議論を呼ぶと思われる点のいくつかを簡単にしるす。

1.本書は、長期的な歴史を、政治理論・経済理論によって、説明しようとする壮大なこころみであり、市場と国家の相互作用という視点の提示は示唆に富み、この点で評価できる。しかしながら、その膨大な内容のために、議論は錯綜し、何によって何を説明したのかが追えなくあるところがあるように感じられる。このような感想を持つのは、私だけであろうか。また、概念の定義も曖昧な箇所があり、整理されていない点も多い。どこからどこまでが「国家」の範疇に入り、「市場」の範疇にはいるのか。例えば、「国際政治経済の構造」は、あまりにも広範な事象を含むように定義されていて曖昧で、「国家」と「市場」の「相互作用」という枠組みの中で、どのような位置にあるのか。彼がこの概念に含める事象のうち、国際分業は「市場」から「国家」への作用、レジーム等は「国家」から「市場」への作用と、異質な事象が含まれているような気がするが、どうだろうか。

2.本書におさめられた議論はすべて整合的な論理にまとめられるものなのか、それとも、本書は単に様々な議論と論争点を紹介するものにすぎないのか。もし、ギルピンの執筆意図が新たな理論を打ち出すことにあるのならば、前者のように読まなければならないし、もし、ギルピンの執筆意図が標準的な教科書を書くことにあるならば、後者のように読まなければならないだろう。しかし、私には、どちらの読みかたが妥当なのかよくわからない。両者が結局混合されたのがおそらく本書なのだろう。しかし、それならば、どこからどこまでが単一の整合的な論理にまとめられ、どこからどこまでが議論と争点の紹介なのかがはっきり示されなければ、学習者としては困る。また、議論と争点の紹介を行っている箇所については、もっと、位置づけを明確にし、整理されればと思う。あるいは、ギルピンは、読者がここで紹介された主要な論文を読んだ上で、もう一度、本書に戻っり、議論に参加する、というような本書の読まれ方を願っているのだろうか。

4.70年代以降の世界をどうとらえるかについても、議論の起こる点である。たとえば、貿易について、ギルピンは、新保護主義の時代であり、これは、アメリカの覇権衰退から説明されるというが、逆に、70年代以降の世界を自由主義の時代と考える研究者も多い。たとえば、Hellen Milnerは、逆に、なぜ、20年代と違って、70年代に保護貿易に世界が陥らなかったのかと問うて、企業活動の国際化に答えを求めている[ Milner, Hellen. "Trading places:Industries for Free Trade." World Politics 40.3 (1988): 350-376.] 。これらの議論の間には、理論レベル以前に、現在が保護主義の時代なのか、それとも、自由貿易が持続している時代なのか、という、事実評価に関する、大きな相違があることは明らかである。どちらであるのかは、どうすれば、多くの人が納得するかたちで検証できるのか。それとも、「自由貿易」「保護貿易」という概念で現実をとらえることそのものに、問題があるのだろうか。

5.「国家」→「市場」、「市場」→「国家」の相互作用が、覇権安定論、国際分業の不均等発展に焦点をあてて強調される一方で、「市場」に反応して行われる国家間の政治・経済政策を形成する国内の政治をとらえる枠組みがそれほど明確に打ち出されていない。そこでは、交渉はどのように行われるのか、その勝敗の決め手はなんなのか、どういったアクターが、どういった制約を受け、どのような動機から行動し、どのような影響力を持つのか。