2002年 6月の雑記
 
 
2002. 6/5(水) 
ワールドカップは、試合中にメモを取りながら観戦。昨日なんかは、ノートPCに直接書き込みながら観ていた。今のところ、開幕戦のフランスを除いて、ほぼ思っていた通りの結果。今日で全てのチームが登場し終えることになるが、ようやく僕の応援するポルトガルが出てくる。なのに、地上波での中継はなし。

 ワールドカップ観戦には熱が入るが、急に暑くなったのにやられたのか、何となくバテ気味の日々。これからさらに暑くなるのかと思うと、気が滅入る。


 
2002. 6/10(月) 
ばんざーいっ。ようやっとポルトガル、1勝!
 全く、あの初戦は何だったのだ。今日はポーランド相手に4−0での圧勝である。ただ、絶好調で言うことなしかというとそんなことはない。それが一戦目での不甲斐なさにも通じているのだろう。とにかくルイ・コスタが入るまでは歯がゆい攻防だった。フィーゴも全く冴えず、ジョアン・ピントがいくら頑張っても限度はある。ディフェンス陣、とくにキーパーのヴィトール・バイアの調子が良かったせいで、無失点に抑え、勝つことができた。

 と、せっかくワールドカップのコーナーがあるのになんでここに書いているのか、というと……。どうもあそこで書いている観戦記、もともとやりたかったことと違ってきているのだ。試合を観た上で自分が感じたこと思ったことを綴るという、2000年ヨーロッパ選手権の観戦記みたいなのにするつもりだった。それが今回、より詳細にとテレビで観ながらメモを取り、あげくの果てに観戦しながら直接PCに打ち込む、ということを始めてから、あらぬ方向に迷い入ってしまった。
 ここ数日、何か違うとは思っていた。あれじゃ、読んでもなんにも面白いことはない。ただ経過をだらだらと連ねているに過ぎない。
 やり方を変えよう。明日から、観戦中のメモはやめて、あとから思いつくままに書いてみることにする。


 
2002. 6/11(火) 
急に沸き上がったフクロウ飼いたい熱は、ひととおりの小康状態を迎えた。4/25の雑記に書いたように、餌の問題は置いたとして何より引っかかるのは、部屋を空けられなくなるということだ。旅行に出かけたり実家に帰省したりすることさえままならなくなる。これは大きな障害だ。近場で預かってもらえる所を探すのは難しいだろう。毎日欠かさずに面倒をみるというのも、僕にはあまり自信がない。むかし猫を飼っていた時、餌やりぐらいは簡単なことだったが、トイレの砂替えなど面倒なことは日によってかなりいい加減に済ませてしまうこともあった。

 フクロウを飼いたいと思いはじめてから、インターネットで情報を探して回った。飼っている方々の生(なま)の体験談や、とくに飼い始める時のいきさつなどを知りたいと思った。
 たくさんのサイトを見た。やはり飼う際に一番ネックになるのは餌の問題らしかった。そしてフクロウには、種による分類の他に、人にどれぐらい慣らされているのかを示す分類方法があることを知った。これは、「WC(Wild Caught=野生種)」「CB(Captive Breed=飼育種)」「HR(Hand Rared=給餌種)」の三つに分かれる。CBやHRは「プリント個体」と呼ばれることもある。もとよりフクロウを飼う場合、犬や猫のように飼い主にべったりになるようなことは期待できないが、それでもプリント個体なら手に乗せて餌をやったり、近づいても威嚇しない程度に慣らすことは可能だそうだ。これがWCになると飼ったあとにどれほど訓練しても無理らしく、飼うなら絶対HRの方がよい、と多くのサイトで言及されていた。
 フクロウを探しながら、他の動物についてもいくつか調べてみた。この前ペットショップでみかけたプレーリードッグにもちょっと惹かれていて、探すとフクロウよりも多くのサイトが見つかった。ペットを飼う楽しさ・喜び、ペットを亡くした時の悲しみなどがそこには詰まっていた。

 ただ……それらを見ていて、僕にはどうしても引っかかって仕方のない部分があった。これらのサイトのほとんど全てで見られる、「ペットは、正しく、責任を持って飼おう」「人も動物も、命の重さは同じだ」などという理念が、僕にはどうしても我慢ならなかったのだ。
 だいたい、正しい飼い方などというものが存在するのだろうか。動物たちにとって最も自然なのは、野生のままでいることのはずだ。それを、首輪をつけたりカゴに入れたりして人間の飼育下に置いていることだけで、すなわちペットを「飼う」という時点で、十分に非道な行いをしていると言えるのではないか。部屋の中で放し飼いにしているといったところで、野生の状態に比べれば僅かなスペースに過ぎない。首輪やカゴで縛り付けていないからペットに優しい、などというのは傲慢でしかない。
 部屋の中で犬を飼う場合など、人間との上下関係をはっきりさせることが大切、ということをよく聞く。自分が人と同等であると思いこんだ犬たちは言うことを聞かなくなり、平気で部屋を散らかしたりする。人が上だとしつけることで従順になり、穏やかな共存関係を結べるのだという。要するにこれは、人間様にとって大切なこと、なのである。
 外で猫を飼う場合には必ず避妊・去勢手術を行いましょう、やたらに子供を増やすのはよくありません、というのもある。それは一面では正しいことに思える。しかし言葉を変えれば、野生では自然に行われていることを、人の手でむりやり機能停止させていることに他ならない。雌猫から子供を産む機能を、雄猫から自分の子孫を残す機能を永久に剥奪しているのだ。しかも、本人の意志とは全く関係なく、人の勝手なる介入によって。これが、「正しいこと」だとして推奨されている。

 最近、ペットを惨殺した男のニュースを聞いた。その男は、ただ目立ちたかったというだけの理由でたくさんの犬や猫を殺した。また、ネット上で自分が猫を殺している映像を流し続けた男もいる。彼は、とにかくペットが嫌いだというコメントと共に、その犯行を行った。
 酷い、許せない、と思った。そんな奴らなら、お前らのほうが死んでしまえと、心の底から憎しみが湧きあがった。僕は犬や猫が大好きだからだ。しかし待てよ、と思う。彼らのやったのは、異常な行いなのか?人として許せない行為なのか?
 動物愛護などの運動についていつも思うことだが、愛護される動物はいつも、人間が見て可愛いと思う種類に限られている。現に、ゴキブリやハエや蚊を救おうという運動など、聞いたことがない。それでもこういう生物にだって、命はある。そして普段言われる理屈に照らし合わせてみると、命の重さはみな同じであるはずだ。なのに、ゴキブリやハエや蚊は救わない。それどころか、皆こぞって殺そうとし、しかも何ら問題にされない。問題にしようという意識さえ働いていない。同じように命ある生物を殺しているのに、その種類によって、かたやひどいことだと言われ、かたや何も言われない。これは何なんだろう。
 たとえば、台所にいたゴキブリを見た妻が悲鳴をあげ、とんできた夫がそのゴキブリを殺したとする。よくある光景だ。ゴキブリを好きな人がそれを見て、「なんというひどいことをするのだ!」と騒いだとしたらどうだろう。おそらくほとんどの人は、「何を言っているの、この変人は」と思うに違いない。しかしこれは、先に書いた、猫を殺した人と猫好きな人という構図と全く同じなのだ。猫がゴキブリに変わっただけで、見方が逆転してしまう。この身勝手さはどうだろう。
 ゴキブリが好きな人などいない、と反論する人がいるだろうか。でも僕は、ムカデは美しい、大好きだと言って、たくさんの写真を載せているサイトを見たことがある。犬はかわいいよ猫もかわいいよというサイトと次元は同じだ。世の中にはいろんな人がいるのだ。

 虫を殺す殺さないという話だけではない。我々が毎日口にしている食べ物だってそうだ。間接的にせよ、たくさんの動物の命を奪うことで我々の命が維持されている。食物連鎖だからそれは仕方ない、と反論されれば僕はこう答える。結局その程度の基準なのですね、と。この肉を食べないことにはもう生きていく術がないという緊急時なら、わからなくもない。食べたいから殺すと言っても、我慢できないような状況でもあるまい。ベジタリアンになれば動物を殺さずに生きていけるはずなのに、肉を食べたい魚を食べたいと欲し、動物たちを殺す。別のところでは倫理観を振りかざして殺すな殺すなと保護される動物たちを、我慢すれば済むような理由で殺していく。食物連鎖だから仕方がない、とは聞いて呆れる。

 ベジタリアンを例には出したが、あれも結局は同じことだ。動物保護のため野菜だけを食べる。仏教徒はなまぐさ物を食べない、というのもある。仏教では殺生は最も罪が重く、地獄への一本道となる。
 動物を殺さないと言いながらも、例えば人が歩けば、目に見えないダニや微生物などが踏まれて死ぬだろう。病気になれば細菌やウイルスを殺すため薬を飲むだろう。学問上での分類は知らないが、微生物やウイルスだって牛や馬と同じ生き物であり、命をランク付けしていいはずはない。そもそも、ばい菌・害虫・害獣など様々な言葉があるが、どれも人間から見た場合の害悪であって、彼ら自身には何の罪もない。また、それを言うなら、地球全体から見た場合、最も害獣なのはどう考えたって人間だ。
 それに、動物は食べてはいけないが、植物ならよい、というのもどうだろう。動物の命と植物の命を比べてどちらが上などと決められるのだろうか。
 結局、人一人が生きている以上、そのために多くの命を犠牲にせざるを得ない。それをごまかすため、目に見える大きな動物は殺してはいけないが小さい動物はOK、動物は食べてはいけないが植物はOK、と勝手にルールづけしている。

 僕は思う。結局、人というのはいつも手前勝手で、好きなようにしか生きていないのだと。そこにいかなる道徳も倫理も存在しないのだと。良いとか悪いとか、全ての価値観は自分に都合良く定義づけられている。動物への対処の仕方だって、養護されるものと排除されるもの、やっていいこと悪いことを勝手に選り分けているに過ぎない。だから本当は、猫を惨殺した奴のことを、誰も責めることなどできない。

 ペットを飼うなとか、動物保護などやめろと言っているわけではない。各人がそれぞれ思うようにすればいい。僕だってこれからペットを飼うこともあるだろうし、自分の好きなペンギンやアザラシの保護活動に参加するかもしれない。ただ、それを偉いことだとか尊いことだと考えたり、あまつさえそれを他人に押しつけたりするようなことはおかしいと思うのだ。単純に自分が好きだからそうしているだけで、誇れるようなことは何もない。もちろんこれは謙遜などではなく。
 命の重さは、決して同じではない。誰もが自分の好みで、また自分との関係性において、いろんな生き物の命の重さをランク付けしている。人間の命だってそう。自分の親と、会ったこともない地球の裏側に住む外国人とを比べれば、前者の命の方が明らかに上だ。僕はそれを否定しない。そしてこれからもそうやって自分に都合良く人や生き物の命をランク付けし、それに基づいて可愛がったり殺したりして自分が生きていくのだと思う。批判したい人はすればいい。ただ、そういう人には、あなたも結局おなじようにしか生きていないんじゃないですかとだけは言っておきたい。


 
2002. 6/13(木) 
山形県庁では、明日の日本戦のテレビ観戦禁止という通達が出たそうだ。事情は、こう。
 山形県知事が先週日曜日の日本−ロシア戦のあと、地元記者との話の中で、次のチュニジア戦は公務時間中ですがどうするんですかと聞かれた。知事は質問に対し、まあテレビにかじりついて観戦するわけにもいきませんわなあ、職員たちも同じだと思いますよ、などと答えた。それを聞いた県庁幹部連中が勝手に気を回し、知事の言うとおり当日はテレビ観戦は禁止とする公式の通達を出してしまった。

 このニュースを聞き、ふと会社勤めをしていた頃を思い出した。そうそう、本当にこういうことって多いんだよなあと朝のテレビの前で一人うなずいていた。
 当の知事本人からすれば、インタビューで公務中に観戦しますかと聞かれれば、仕事をほっぽり出して観ますとは言えるはずがない。軽い言葉のやりとり程度の認識で答えたに違いない。しかし県庁幹部にとって知事の言葉は絶対なので、実行しないわけにはいかない。当日はテレビ観戦禁止、ロビーのテレビは県民のためのものだから職員がたむろするのもままならぬ、果てはインターネットで情報を閲覧することさえ許しません、とエスカレートしてしまった。
 発言をした知事本人もおそらく事態にとまどっているだろうが、いまさら意味を是正するわけにもいかず、知事が言い出さなければもちろん通達が撤回されるはずもない。命令を下す立場の人間とそれを実行する人々、その間に中間的に誰かが存在することによって命令の意味合いがねじ曲げられていくような経験は、僕も昔、イヤというほど味わったものだ。

 たとえば僕が平社員で、上司が係長、その上に課長がいたとする。(ちなみに僕が勤めていた会社には、こういう役職はない。)僕はふだん課長と直接話すことはなく係長の指示に従って動くのだが、その係長からある仕事の要求をされた。しかしこれは、どう考えてもおかしい、理に叶わない提案だった。係長に異議を唱えるが、いやこれは課長の言ったことだからやってくれなくちゃ困る、との一点張り。迷った挙げ句、僕は直接課長に相談する。すると課長は「いやあれはほんの思いつきで言ったことだから気にすることはないんだよ、僕も無理だとは思っていたんだよねえ、あっはっは」と軽く答える。これを係長に伝えると、係長は一度課長のもとに出向いて話をしたあと帰ってきて、「課長と相談したんだが、あれ、やらなくていいから」などと言われる。

 とまあ、こんなことは何度もあった。この例のように真意が判明する場合はまだいいのだが、そうはならずに、誰も望んでいない理念が一人歩きすることは、とくに日本のサラリーマン社会においては珍しいことではないだろう。
 普段は優しい人が、仕事のことになると人が変わったように怒り出したりするのも、大抵がこうした理由によるものだ。部下に対し、必要以上にどなりつけたり、無理な要求をしたりする。それは、自分の上司から怒られることを事前に予測し、それを防ごうとしているためだ。優しくて気の弱い人ほどそうなる可能性が強いように思う。

 明日の日本−チュニジア戦が行われる午後3時過ぎ、山形県庁では、テレビ観戦で人も訪れない閑散としたオフィスの中で、交わす言葉もなく不機嫌でなげやりな顔をした職員たちが、することもなくただ机に向かっていることだろう。哀れだがつい笑ってしまう。それを目当てに県庁を訪れる野次馬さえ出るかもしれない。


 
2002. 6/14(金) 
終わった。僕のワールドカップはこれでおしまい。残りの試合は、ただ惰性のように観戦記を書きなぐるだけ。
 ポルトガル敗退。オランダの出ない大会で力が入り切らないうえ、その中で最も応援していたチームが決勝トーナメントを待たずに敗れてしまっては、もう見る情熱も失せたに等しい。応援する第2候補、しかも誰もが優勝候補筆頭に推すアルゼンチンさえ、まさかの予選リーグ敗退。個人的に今大会は、これまでになく冴えない大会となった。


 
2002. 6/16(日) 
金曜日、ポルトガルが敗れた時にはもうワールドカップを見る気が半分以上失せていた。が、しかし!今日の2試合を見て、気力復活。二つともものすごい試合で、サッカーの楽しみを十二分に味わわせてくれた。こんなに面白いんだ、ワールドカップって。セネガルースウェーデン戦がこれほど盛り上がるなんて。試合を見た多くの人がそう思っただろう。それに、スペイン。今大会随一とも言えるパス回しと攻撃力。こういうチームが勝ち進んで欲しい。残ったチームの中では、このスペインを応援することにした。

 
2002. 6/19(水) 
ワールドカップ切れ目の日。読み物コーナーに「Sea Lion Island from Paris」を追加。以前にパリ滞在記として紹介していたが、リニューアル時にいったんサイトから引き上げていた。少しだけ手を加え、再掲載。したがって、文の内容はまったく同じだ。なお、パリの動画については、近日中に改めて動画のコーナーに載せるつもり。

 自転車で買い物に行った帰り、道路沿いのベンチの下に猫を発見する。この辺で見かける野良は人間にかなりの不信感を持っていて、立ち止まって見つめただけでするりと身を翻し、逃げてしまう。しかしこの猫は、逃げずにこちらを向き、ニャアと鳴き声をあげた。もしかして、触らせてくれるのか―。静かに自転車を降り、近づく。
 案の定、逃げない。ベンチの蔭から訴えかけるように大きな鳴き声をあげ、こちらが身をかがめ手を伸ばすと遂に出てきた。
 抱き上げる。毛の柔らかい、痩せた猫だ。僕はベンチに座り、隣に猫をおろして体を撫でてあげる。差し出した指に顔をこすりつけるのは、猫独特のマーキングの仕種だ。しばらく遊んでやるが、猫はなおも鳴きやまず、何かをせがんでいるのか膝の上にまで乗りかかってくる。背中から見ると、骨が剥き出しに見えるほど痩せている。きっと、食べ物がほしいのだろう。リュックを開け、さっき買い物をした中身を探ってみる。
 適当なものはない。猫は興味を示し、リュックの開いた口に顔を突っ込んでくる。少し遅い昼食用にと買った天津飯の弁当があった。カニかま入りだからこれなら食べるかも、と引っ張り出す。本来なら帰ってすぐに食べようと楽しみにしていたヤツだ。蓋を開け、足下に置く。おそるおそる口をつけるのを見ながら、あまり時間がないことに気付く。日本戦キックオフの時刻が近づいていた。自転車にまたがり、マンションに戻る。そう、これは昨日の話。

 日本は負けた。肩入れしたのは僅かなのでそれほどショックはないが、残念ではあった。試合後の脱力のなか、猫のことを思い出し、まだいたらいいなとベンチのところまで歩いて行ってみた。日は翳り、Tシャツ1枚ではすこし肌寒い。
 先客がいた。子供連れの若い主婦がしゃがみこんで、猫の腹を撫でていた。やむなく通り過ぎる後方で、「かわいいーっ」を連発する高い声が響いた。目的を失ったまま河原に出ると、いつもの散歩道をしばらく歩く。土手を降りた向こう側に敷かれたサイクリングロードである。さっきの主婦が飽きて帰路につく頃合いを計算し、来た道を戻る。今度は、僕と同世代ぐらいの男性がベンチに座り、猫を撫でていた。遠目にそれを確認し、諦めて通り過ぎる算段で近づくと、ふいに男性は立ち上がり、僕とすれ違って去っていく。
 ベンチには、猫だけが残された。男性と入れ替わるように座り、頭を撫でてやる。天津飯の空ケースが足下に転がり、離れたところに、固まって残されたご飯が見えた。腹が空いているわけではなかったのか。
 猫はすぐに膝の上に乗りかかり、ぺたんと腰を下ろしてしまった。ここまで警戒心のないのも珍しい。抱き上げたり足や尻尾をつかんだりしても、まるで抵抗するということがない。前は誰かに飼われていて、捨てられたのだろうか。
 夕涼みには都合がいいのだろう、道路は散歩する人で絶えない。猫に気付くと一瞬だけ表情を緩め、通り過ぎる。猫は僕の膝の上で涼しい風を浴びている。と、ある二人連れの年配の女性に急に興味を示し、鳴き声をあげはじめた。いぶかる暇もなく、猫は僕の膝から飛び出し、一直線に女性のもとに向かった。驚いたのは彼女らも同じで、どうしたのと猫に問いかけている。寂しい心持ちになるが、引き上げ時だ。腰を上げ、ベンチを後にする。猫は女性たちのそばで地面に転がり、何かをねだっているようだ。僕にはその何かを与えてやることはできなかったのだろう。


 
2002. 6/23(日) 
長渕剛が、夜の音楽番組で歌っていた。昨年のテロのあとに思った気持ちを、「静かなるアフガン」という曲に託して歌っていた。
 反戦歌だ。人が人と殺し合う無意味さ、戦場で泣く少女、広島と長崎が吠えている―。散文的に押し込まれた歌詞が、いつもの絞り出すような口元から流れ出る。僕は前に一度この曲を、本屋の店先で聴いた。そして、まだこんなことを歌っているのかと驚いた。去年の事件から時間が経ったという意味ではない。まだこんな理屈で歌を作っているのかこの人は、と思ったのだ。

 昔は僕も長渕剛を聴いていた。そのパワーに圧倒されひれ伏すようにその音楽に傾倒した。今はほとんど聴くことがない。あまりにも大衆的になり過ぎて、いつの間にか僕はそこから離れてしまった。
 戦争は愚かだ、悲惨な戦争を繰り返してはいけない、あの可哀想な子供たちを救え―。そんなメッセージを吐く人たちは、次の瞬間、自分たちが戦争を行う立場に入れ替わることに、気付いていない。
 戦争も殺人もいじめも、この世からなくなることはない。人間が、善い人と悪い人に分かれることは決してないからだ。ある時ある場所でいい人だった人間は、別のとき別の場所で、悪い人になる。そして同じようなことが繰り返される。


 
2002. 6/24(月) 
また固め打ちだ。最近のミュージシャンの宣伝方法はというと、一週間程度の短いスパンをぶっ通しで音楽番組に出演し続け、とにかく印象づける、というのが目立つ。サザンや松浦亜弥、宇多田ヒカルなどがそうだ。先週はそれが、RAGFAIRだった。

 アカペラのグループである。ゴスペラーズなどと決定的に違うのは、ボイパ(ボイスパーカッション)という、リズム演奏を担当するメンバーが入っていることだ。
 もしやと思うことがあり調べてみると、やはりその通りだった。ネプチューンの番組「力の限りゴーゴゴー」の『ハモネプ』というコーナーでは既に有名人である。僕はこの番組はほとんど見たことがなく、RAGFAIRのことももちろん知らなかった。

 最初に月曜日の「HEY!HEY!HEY!」を見た。曲を聞いて、たまげた。とても人間の声だけで構成しているとは思えないほど厚みのある音だったからだ。核をなすのは、ボイパを担当する「おっくん」の驚異的な巧さである。数種類のドラムの音やその他のパーカッションの音を、忠実に声で再現する。ボイパというものを聞いたのは初めてではないが、これほど感心したことはない。
 オリジナル曲も、ありがちなメロディーながら悪くない。ボイパの巧さが強調され、さらにDまで出せるハイテナーの高音も生きる曲だ。

 続けて、木曜日の「うたばん」を見る。トークもなかなか達者で、自分たちのキャラクターを売り込むのがうまい。短いジングルなども、ただストレートなだけのハーモニーではなくユーモアも踏まえた作りで小憎らしい。
 翌日は「ミュージック・ステーション」。これまでで一番中途半端な出番に終わったが、それでも初めて聞く人に衝撃を与えるには十分だったろう。

 売れる。必ず売れる。そう思っていたら、YAHOO!MUSICのデイリーランキングでいきなり1位2位を独占していた。


 
2002. 6/26(水) 
二十一世紀歌舞伎組の「西遊記」を、最終日に駆け込みで観てきた。二カ月ほど前に告知で知り、行こうかなと思いつつそのままになっていた。
 日曜日にいつも巡回しているサイトの日記に観劇の感想が書いてあり、そうだと思いだして、電話でチケットを確認した。講演はあと二日しかなかったが、席は空いていた。近くのデパートの旅行代理店で発券を扱っていて、すぐに自転車で走った。

 スーパー歌舞伎は観たことがあったが、それに比べると「西遊記」は本来の古典歌舞伎に近い。スーパー歌舞伎では役者のしゃべり方が現代式で馴染みやすいのに対し、今回は歌舞伎式の、あの間の長い聞き取りづらいものである。そこが心配だったが、よく知られている題材なので聞き取れない言葉があっても問題はなかった。
 出演者の中では、女形の市川笑也さんのファンである。八犬伝で初めて声を聞いた時、女人禁制の歌舞伎も声だけは吹き替えできるんだと、本気で思った。他の女形の役者さんは男が声を作っているとわかるが、この人だけは全く違う。八犬伝では、母性豊かな伏姫役を見事に演じ切っていた。
 今回の笑也さんの役は、三蔵法師。ちなみに右近さんが孫悟空、猿弥さんが猪八戒と、知っている人なら絶対こう予想するだろうという通りの配役だ。三蔵法師は男だが、笑也さんはこのほか、法師の妹や母親などの役も兼ねるので、女形の演技も充分に楽しむことができる。
 二役につきものの早変わりもふんだんに取り入れてある。予想していないところでやられると、本当にびっくりしてしまう。さらに、キントウンに乗って悟空・沙悟浄・八戒が一緒に宙乗りをするなど、サービスも満載だ。
 全体に派手でエンターテインメント精神にあふれる楽しい舞台だった。なのに会場は七分程度の入りだったのが残念。


 
2002. 6/28(金) 
猫と二人

 6月19日に書いた猫はまだ同じベンチの近くにいて、通りがかかると2回に1回ぐらいの割合で遭遇する。たいがいはベンチの上に人形のように座っており、誰がそばを通っても逃げる様子はない。近づくとにゃおんと鳴いて立ち上がる。僕が隣に座るとすぐに膝の上に乗りかかり、ぺたんと腰を下ろしてしまう。
 夕方にそうして猫と二人、道路際のベンチに腰掛けていると、学校帰りの小学生達が目の前を通り過ぎる。大抵はちらっとこちらに目をやるだけだが、ある女の子が、「タマ、ばいばーい」と言うのを聞いた。そうか、こいつの名前はタマか。とはいってもどうせ友達のあいだで適当に付けた名前に違いない。本当の飼い主はどうしたのだろう。この人なつこさは野生ではあり得ないが、首輪をしていた痕はない。

 あいかわらずやせっぽちなので、スーパーの買い物ついでにキャットフードを仕込んで会いに行くと、いつものようにぽつんとベンチに座っている。袋をあけ、餌を地面に置いてやると、思った通りガツガツと食べ、すぐに地面には黒いシミだけが残された。食べ終わるとまたベンチに登り、僕の膝の上で横になる。もっとくれとも言わないので、そのまま眠るにまかせる。
 近くには小さな工場があって、同じ制服を着た作業員たちが行き過ぎる。猫に気付くと、訳知り顔で小さく笑う人もいる。同じようにこうして猫を抱く猫好きは多いのかもしれない。タマはあの工場にも遊びに行くのだろうか。

 薄曇りの夕べ。
 猫と二人、ベンチで過ごす。


 
2002. 6/29(土) 
アロマ本屋の嘘

 極度の寝付きの悪さを克服すべく、手を出したのはアロマテラピー。ヴィレッジ・バンガードという、漫画に強い本屋があり、そこには本以外にも雑貨類が置いてあって、アロマ関連の商品もずらりと揃えてある。オイルを使うものは専用のオイルポットなどが必要なため、簡単にできるお香に目をつけた。
 スティックタイプの長いものと、コーンタイプの小さな三角すいのものとがある。種類は実に多岐に渡り、とても一人では選べないため、店員さんに話を聞いてみた。形により効能に差はないそうなので、コーンタイプを選ぶ。こちらの方がなんとなく見た目もよく、スティックは立てて置くのがやりづらそうだった。小指の先ほどの大きさで、これで数時間は保つのかと聞くと、「20分ぐらいですよ」と店員さんが言う。なんと儚い命だろう。
 コーンタイプだけでもたくさんの種類があるが、一つ一つ匂いを嗅ぎ、ジャスミンとレモンライムなど5種類ほどと、下に敷くための小さな灰受けもついでに購入した。家に帰り、ワクワクしながら火を付けてみる。しかし、期待は外れた。
 直接嗅いだ匂いは良いのだが、火を付けてみると、そのままの匂いではなく、煙と共に出される匂いになる。要するに、ケムいのだ。他の種類も試してみたが、大差はない。失望。

 今度はオイルに挑戦してみようかと思い立った頃、知り合いから偶然オイルポットとオイルのセットを頂いた。早速これを試してみると、部屋は実にいい感じのジャスミンの香りに包まれた。当然ながら煙の匂いはなく、蒸気に乗った芳香がゆらめくように立ちこめている。これこれ、これを期待していたのだよ、とこの前買ったお香は引き出しにしまった。入眠効果はそれほど劇的ではないが、いい気分になるのは確かだ。

 頂いたオイルはジャスミンだけだったので、他の香りも試してみようと、例の本屋に向かう。オイルの蓋を一つ一つ開けて匂いを確認し、「MORNINGFOREST]と「FRESH PEACH」という2種類を買ってきた。しかし後に調べてみると、買ったのはフレグランスオイルという合成オイルなのでアロマテラピーに使ってはいけない、本物の植物などから精製したオイルを使わないといけない、ということを知る。ただしこれは純粋な治療目的のアロマテラピーの話で、僕のようにただ香りを楽しみたいという程度の人間に当てはまるのかどうかはわからない。フレグランスだと1本600円ほどで手に入るが、精製オイルだとそうはいかない。それにしても、あの本屋では堂々とオイルポットと並んで売ってあったが。

 

雑記帳TOPへ ホームへ