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雨やどり

<プロローグ>

あれはまだ私が神様を信じなかった頃……



「ち…やっぱり降り出したか。傘持ってきて正解だな」
 店先で空を見上げたサンジの目に、黒い大きな塊が映る。今にも降り出しそうな空に、出かける間際
『傘を持っていけ』
『いらねぇよ、そこまでだぜ?』
 という押し問答をしていたが、結局押しつけられる形で持ってきていた傘が役に立つようだ。それはそれで気に入らない様子で、買い物したビニールの袋を肘にかけ傘を開こうとした時、店先に学生服を着た男がずぶ濡れで飛び込んで来た。
「ちっ…ツイてねぇ…」
 背はサンジと変わらないくらいで、肩には剣道具一式をさげていた。よほど濡れたらしく、学生服の袖口からは水滴が滴り落ち、短く刈り上げた緑の髪も額に貼り付いていて、額から流れた雨粒が高い鼻梁を伝いポタポタと雫を垂らしていた。
 高校生であろうその学生を、サンジは観察するように眺めてしまった。

−−イイ体してんなぁ…。剣道…か?





「う、わっ」
「あっ、悪ィ」
 雫を払うように振られた頭から飛んだ水滴が、サンジの頬にかかってしまい、思わず声を出してしまった。その声でようやく隣に人がいた事に気が付いた学生は振り向き謝罪の言葉を伝えた。
 振り向いてサンジを見た、その緑色の髪より深い翠の目がとても印象的だと、思った。でも咄嗟にサンジの口から吐かれた言葉は、いつもの罵声。
「バッカ野郎、テメェ回り見てからしろよっ!クソっ濡れちまったじゃねぇか」
 黄金色の髪と蒼い瞳。片方の瞳は長い前髪に隠されていたが、サラサラと揺れる髪の隙間から覗く瞳は影を含み藍色に見えた。
 白い肌と細身の体躯。バランスの取れた身体。
「聞いてんのか、オイ、高校生」
 ジロジロと見ているだけの学生に、手のひらを眼前でヒラヒラと振る。
「あ…。いや」
「いや、じゃねぇだろ。…ったく」
「悪い…」
 濡れた頭をガシガシと掻く姿が子供っぽくて、サンジは笑みを漏らした。
 その笑顔が刻まれた顔を見て、学生は目を見開いて食い入るように見つめていたが、サンジはそのことに気づくでもなくゴソゴソとポケットを探っていた。目的のモノが見つかったのか、ポケットから取り出すと学生の顔めがけてそれを投げつけ、
「貸してやるよ、ソレ。じゃあな、水も滴るいい男」
 そう言って手を振りながら店先を飛び出した。

 ポンと咲いた黄色の傘が鮮やかで、暫くその後ろ姿を見送っていた。

 手に渡されたのは、小さなハンカチ。
「こんな小せぇモンで拭けるかよ…」
 ハンカチで顔に付いた水滴を拭うと、それだけでびしょ濡れになってしまった。
「どうせなら、駅まで傘に入れてってくれりゃいいのによ」
 濡れてしまったハンカチをポケットにねじ込むと、苦笑混じりに漏らす。
「『高校生』って…自分も高校生だろうがよ。まさか中学生か?にしても年下のクセに偉そうな口聞いて、こんな物渡すってどうだよ」
 少し小降りになった雨の中へ飛び出し、駅へと向かう。その間思うことは、さっきの金髪の彼のこと。
 自分で自覚する以上に気になっていることに、まだ気づいていない。
「…貸してやるって…どうやって返すんだ…?」
 呟いた自分の言葉に笑いが込み上げてきて、走りながら思わず笑ってしまった。



−−ああ、傘の方を貸してやれば良かったのか…

 小走りにレストラン兼自宅へと向かうサンジはふと思った。店から自宅はすぐ近くだったのだと、気が付いたのは既に門の前に着いた時だった。
 思わずあんなハンカチを貸してしまったが……

−−ありゃ…オレのじゃなかったなぁ…。ヤベェ…ナミさんに新しいハンカチ買ってやらなきゃ

 咄嗟に渡したハンカチはバイト仲間のナミの物だったのだ。忘れ物だったのを次に会った時に渡そうと思いポケットに入れておいたそれを、何処の誰とも分からない奴に貸してしまったのは、サンジの滅多にない失態である。
 褐色の肌と逞しい体躯。サンジが思わず羨望の眼差しで見つめてしまうくらいの。ダークグリーンの瞳が印象的で、また会えたらいいな、と思っていることにサンジ自身も気づいていない。


 お互いの名前も知らない。

 そんな九月の雨の日。

2002/3/30UP