娘たちに贈る前書き 池田小百合
私は、ひとりっ子である。
ひとりっ子には、あまり良いイメージがない。
たとえば、わがままである、じゅうぶん自立していない、他人とうまくつきあっていくことができないなどなど。これらはみんな私に、あてはまっているような気がする。
両親が晩婚だったため、私ひとりを産むのがやっとだったのである。
さらに、私は身長が小さい。一四五センチしかない。
小さいこともマイナス・イメージである。なにをするにも余裕がない。高いところには届かないし、力はない。力仕事で役に立つことはほとんどないのである。チビ、役立たず、なにをさせてもまともにできないと批難されながら育った。
そして、女である。これもマイナスである。
現在は女子の社会進出が評価されるようになり、男女別姓論も強いが、私が勤務していたK女子高校には出産休暇も育児休暇も無かった。結婚して出産を向えた女子教員は自動的に退職しなければならなかったのである。
ひとりっ子の女子となれば、結婚に当っては婿養子をとることが第一である。
そうしなければ、家名が断絶してしまう。私の母も婿養子を取っていた。
ところが、様々な事情から、私は嫁に行くことになってしまった。嫁に行くといっても、私の場合は夫の実家に行くわけではなく、夫が私の実家に来るので、姓が変わるだけのことだった。ひとつの家にふたつの表札、それは当時は珍しかった。
私の両親は一応の理解を示してくれたのだが、全面的に肯定してくれているわけではないことは分った。それが私の心の重荷になった。
さらに、冷たい世間の目というものがある。親戚でもないのに、「あらっ、お嫁に行かれたの」などと驚いた顔をされると、相手は正直な感想なのだろうが、私は落ち込むのである。わざわざ「お宅もこれでおしまいね」などと言う人もいて、私は近所を歩けなくなった。
出産予定で退職すると、私は家から外へあまり出なくなった。
姓を無くし、仕事を無くし、世間体を無くして、私は生れてくる子供に期待を賭けたのである。男の子だったら、世間の目も変わるだろうとさえ、思った。
ところが、臨月になってもその子は生れて来なかった。体が小さいことがいけないのだろうか。おなかの中で大きく育ちすぎたのだろうか。元気に腹を蹴っているのに、どうして出て来ないのだろう。初産は遅れる傾向がある、という本の説明を見て,自分を納得させていたが不安はつのるばかりであった。
とうとう予定日を十日過ぎたところで、夫の薦めもあり、医師に強く言って、出産を促進してもらうことにした。陣痛促進剤を注射してもらい、なんとか分娩できたその子は泣き声をあげなかった。女の子だった。
ヘソの緒が首に巻きついていて、下がれなかったということが分った。分娩のときに、下がってくる勢いで、子どもは首を吊って、死んでしまった。生れるための努力をしたことが、死因になってしまったのだ。
私は泣いた。この子だけは絶対に産みたかった。
こんなこともあった。妊娠の途中で診察のA医師に貧血予防の薬について「薬を飲んでも子供に悪影響はありませんか」と質問したところ、A医師は突然怒り出したのだ。「オレが信用できないのか!」と大声で怒鳴られた。弱い立場の患者を、そんなふうに怒鳴りつける医師は最低である。私はA医師のいるその病院に行くのを止めた。夫も「あなたの判断が正しい」と言ってくれた。そして、B医師のいる病院に変えたのであった。そのB医師でも、私の子どもを救えなかったのである。
本当の悲しみはそれから始まった。
出産の日は、ショックのため、何がなんだかわからなかった。
翌日、私は深い喪失感に襲われた。死産した母にとって、産科病棟はつらいところだった。となりの母親は乳飲み子に母乳をあげているのに、私には母乳をあげる子どもがいない。出産したので、母乳はどんどん出てくる。それをしぼって、ただ捨てなければならない。なぜ、あの娘は死んでしまったのか。どうすれば助けることができたのか。妊娠中に胎児が元気だから腹を蹴ったと思っていたのだが、ほんとうは苦しくて蹴っていたのではなかったか。なぜ子どもの気持ちが私にわからなかったのだろう。
悔やんでも悔みきれないのである。
退院してから、慰めてくれる他人の言葉が、私にはどれも残酷に響いた。
「悲しいことは早く忘れなさい」「若いんだから、また産めばいいのよ」「助かっても、脳に障害が残ったかもしれない」などなど。
この子どものことは、忘れたくない。子どもの死をそう簡単に忘れられるものではない。せっかく元気に生れようと、あの日まで努力していた子どもに対して、私はなにもしてやれなかったのだ。
結局、有効な慰めの言葉は無かった。ただ耐えるだけだった。
私はなおさら引きこもる生活になった。買い物に出て、乳児を見るのがつらい。生きていればあの子と同じ年頃だ、大きくなった、もうすぐ立つのになど、私のなかでは子どもはきちんと成長していくのである。なんという喪失感だろう。
二人目の子どもを妊娠しても、私の悲しみは消えなかった。前と同じくり返しが、かえって悲しみを深くした。そして、臨月が近づいてきたとき、私は言い難い不安を持った。今度の子も産まれて来ない、この子も死んでしまうという不安だった。理由などないが、それは確信に近いものだった。
前とちがう病院に行った。夫がC医師に相談し、C医師は帝王切開することで、私の不安を取り除いてくれることになった。予定日が来ても、陣痛は起こらず、私はパニックになった。胎児の首にヘソの緒が巻いているかどうか、当時は外からは診察することはできず、まったくわからなかったのだ。
帝王切開の結果、子どもが産ぶ声をあげた瞬間、私は泣いた。なぜ、泣いたのだろう。うれしいのか、悲しいのか、わからなかった。涙が後から後から流れてきて、とまらなかった。男の子だろうと、女の子だろうと、どちらでもよかった。
私の子育ては、ここから始まった。
二年後、再び三人目の女の子を帝王切開で無事出産した。
この本は私の子育ての記録である。 私はこの本を、生きようと努力することで命を落としてしまった最初の娘に捧げたい。感謝をこめて。
満点ママをめざした 母親より
目次
娘たちに贈る前書き/目次
五歳まで
姉妹の章
姉の章
妹の章
私の章
夫の章
あとがき
五歳まで 池田小百合
この本には娘が〇歳から五歳までのことをほとんど書いていない。五歳までは、子どもの世話にかかりっきりで、文章を書く気持ちの余裕がなかったからである。
せっかく元気に生まれてきた子どもを健康に育てよう、病気をさせないようにしようというのが、私の目標だった。
勤めを辞めた私は、子どもの世話に専念できた。赤ん坊には、しょっちゅう触れるようにしたし、抱いてあげたり、言葉をかけてみたりした。
赤ん坊の言葉そのものは理解できないが、その意味を理解することはできる。意味が理解できれば、話しかけることはできる。親には赤ん坊の言葉を理解する不思議な能力があると、自信を持つことが大切なのだ。
また、下痢を防ぐ意味で、冷たい生水は飲ませなかった。水を欲しがったら、必ず湯ざましを与えた。
歩けるようになってからは、そばに大人がついて、歩かせた。乳母車に乗せたこともあるが、動きが制約されるのがイヤなのか、子どもは乳母車の中で立ってしまい、結局二回しか使用しなかった。小さい頃は、車に乗せたことはない。チャイルド・シートは本末顛倒だと思う。本来、幼児を車に乗せるべきではない。
私の家は、三世代同居家族なので、子どもを外へ連れ出して遊ばせることは、私の父が毎日やってくれた。おかげで、夜はぐっすり眠り、夜泣きされて困ったという経験は一度もなかった。
特別な離乳食は作らず、大人の食べるものをいったん、よくかんでからスプーンに出して与えた。簡単に流動状になるし、人はだに暖まるし、唾液で消化されるし、手間はかからないし、いいことづくめである。昔の母親はみんなこうしていたのではないか。
おしめが取れるのは、早かった。紙オムツはまだ高価だったので、木綿のおしめを使っていたが、木綿のおしめは濡れると気持ちが悪い。子ども自身がイヤがって、早くこれを取りたがった。子どもは親の排尿・排便を見学したがり、真似したがって、アッという間にやり方を覚えてしまった。毎日何十枚というおしめの洗濯は大変だったが、大変な時期は短期間で終ってしまった。
夏は、可能なときは裸足、裸で遊ばせるように心がけた。冬は、肌着に気をつけた。暖かくて、汗で濡れても冷えないウールの肌着を着せようと思ったが、子ども用は販売していなかったので、汗をかいたら、すぐに取り替えるようにした。
周囲に自然が豊かなことはよかったと思う。池での水遊びや泥遊び、木上りが大好きだった。春は、隣家の裏が一面の菜の花畑になり、夏は牛の飼料用のトウモロコシ畑、秋は空き地になったので、毎日、遊ばせることができた。一歩、外に出て、まわりを見回すと、富士山や丹沢山地、足柄山や箱根連山が見えた。
保育園に行くまで、二人とも一度も病気をしたことがなかった。
*池田小百合著の第3作『満点ママ』(夢工房,1300円)発刊*
満点ママ 子育て奮戦記 池田小百合
『満点ママ』は自費出版ですが、『お話し大好き 家族の時間』(近代文芸社)は、近代文芸社配本で全国扱いになっています。
ただし、内容がほとんど同じで、文章の配列が一部、変わっています。
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