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池田小百合 なっとく童謡・唱歌 |
湯山昭作曲の童謡 |
あめふり くまのこ おはなが わらった おはなしゆびさん げんこつ山のたぬきさん |
香山美子の略歴 鶴見正夫の略歴 保富康午の略歴 湯山昭の略歴 |
童謡・唱歌 事典 (編集中) |
【香山美子と武井照子との出会い】 元・NHKチーフディレクター武井照子によると、出会いは次のようです(季刊『どうよう』(チャイルド本社)10号より抜粋)。 “私が香山美子(こうやまよしこ)さんと出会ったのは昭和三十五年(1960年)ごろでしょうか。童話を書くというので、まず台本を書いてもらったのです。ところが、台本としては物足りません。そこで、「直してほしい」と言うと、「この次から直します」とにべもない返事です。こんなおかしな出会いでしたが、その頑固さと、キラリと光るコトバに心をひかれました。 湯山さんの方は、おそらく芸大を卒業してまもない頃だったのでしょう、作曲家としては、まだ未知数でしたが、育ちのよさと、感性の豊かさが感じられ、とても好感がもてました。” <「おはなしゆびさん」の誕生> “私が、この二人のコンビで「あそびましょう」というラジオの番組を始めたのは、翌年の昭和三十六年(1961年)四月の事です。私はこの番組で楽しい「遊び歌」を作りたいと思っていました。というのは、その頃、いい歌はたくさんありましたが、手や体を動かして遊ぶ歌が少なく、あってもちょっと古かったり、音楽として物足りなかったりしました(『指の歌』の事)。 そこで私は、これに代わる歌が欲しいと思い、香山美子さんに頼みました。「ええ、作りましょう!」香山さんは、いとも簡単に、しかも自信ありげに言ったものです。そして間もなく出来てきたのが「おはなしゆびさん」でした。この詩は簡単で新しい上に、暖かみが感じられました。これに湯山さんの曲がついて、私が望んだとおりの新しい指遊びの歌が生まれたのです。”(季刊『どうよう』10号より) ●開始時の番組名は<みんなであそびましょう>で、後に「あそびましょう」と改称された。 <歌われ続けている理由> “あれからもう三十年近く経つのですが、今でもこの歌をよく耳にします。こんなに長い間子どもたちの中で歌われ続けているということは、コトバも曲も、幼児の生活にぴったりだったからだと言えるでしょう”(季刊『どうよう』10号より)。 【香山美子と湯山昭との出会い】 香山美子について湯山昭は次のように語っています。 “NHKの武井照子ディレクターが、作曲は私に決めて、それから台本作家として香山さんを決めたんです。そこで初めて会って仕事を始めたわけです。香山さんは児童文学者で、非常に言葉の感覚に優れた人ですね” 【湯山昭“「おはなしゆびさん」のねらい”】 “この歌のねらい”について湯山昭は次のように語っています。 “当時「指の歌」という「わたしのとうさま えらいかた・・・という有名な歌があったんですよ。それを武井ディレクターが嫌がって、「父様は偉いかもしれないけれどね、戦後の民主主義の中でこれは合わない」とね。「いかにも古く封建的でしょう。新しい指の歌を作りましょう。」というわけで。それで香山さんの詩で、「このゆびパパ ふとっちょパパ・・・」となったわけですよ”。 <「指の歌」について> 作者不明。NHKラジオ『幼児の時間』で放送され、ひろく知られるようになりました。幼稚園や保育園での遊び歌として親しまれていた。 時代にフィットする子どもの歌として「おはなしゆびさん」が大ヒットしたので「指の歌」は歌われなくなりました。
【香山美子“「おはなしゆびさん」のねらい”】 “この歌のねらい”について香山美子は次のように語っています。 “いろいろと考えている中で、一番最初に、ちいさい指を『ぼく』とするのはよそうと思ったんです。子どもは、自分は小さいと思っている筈ないから、と。次にそれぞれの社会性があるということが浮かびまして、お父さんはお父さんの社会性があると。それぞれの社会性を活して、それぞれ一人一人が独立して集まっているのが家族だと。そのように考えましたら、割合に簡単にできましてね”(『日本児童文学』(1999年9-10月号/日本児童文学者協会編集・発行)の<子どもの歌をふりかえって>の座談会にて)。 【歌詞について】
笑い声が楽しい歌です。「ハ」行で笑います。パパは「ワ」から始まる「ハハハハハハ」です。ママは「オ」から始まる「ホホホホホホ」、兄さんは「エ」から始まる「へへへへへへ」、姉さんは「ウ」から始まる「フフフフフフ」です。赤ちゃんは「ヒヒヒヒ」ではありません。赤ちゃんが「ヒヒヒヒ」と笑ったら不気味です。赤ちゃんは「ア」から始まる「ブブブブブブ」です。かわいいです。 各連は「おはなしする」でまとめてあります。「おはなし」は笑い声による「お話」です。笑い声のある家庭が最も幸せでしょう。 【作曲について】 NHKラジオのリズム遊び番組「あそびましょう」のために、昭和三十七年(1962年)二月に作曲、湯山昭二十九歳の作品(CD湯山昭・子どもの歌全集2『おはなしゆびさん 山のワルツ』解説による)。放送は三月でしょうか。 <新しいリズムとメロディー> 読売新聞文化部編『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)の「おはなしゆびさん」で、湯山昭は次のように語っています。 「当時の幼児教育で教材にする音楽は、音程の狭い、極端に言えばド、レ、ミの三度くらいで作曲してほしいと保母さんたちには求められた。でも、歌はあくまで詞が基本だから、言葉が内包している旋律なら子どもも十分理解する、というのが持論だった。だから『おはなしゆびさん』にも、一小節目に九度、最後の二小節に七度の跳躍がある」。 ●「一小節目に九度の跳躍」は、間違い。一小節目の「パパ」は四度の跳躍が正しい。 三小節目に八度の跳躍がある。「やあ」は一オクターブ下がる。これは驚きの跳躍。今までの子どもの歌にはない。しかし、子どもたちは難なく歌う。湯山は、「あめふり くまのこ」でも二小節目の「あーめが」で六度下がる跳躍で落ちる雨を表現し、成功しています。
【最初はラジオで放送】 湯山昭によると次のようです。 “久我山への転居の翌年、1962年(昭和37年)当時、29歳の時の作品です。そのころNHKのラジオで<みんなであそびましょう>という全国の幼稚園、保育所向けの15分番組があったんです。その番組の最初の8分が、中村メイコさんの童話の時間で、残りの7分は私が台本に基づいて作った<リズム遊びの音楽>と<リズム遊びの歌>の時間だったんです。そして、その中の指遊びで「おはなしゆびさん」がでてきたわけですよ”(『親子で楽しむ童謡集』第2集 <「あめふり くまのこ」「おはなしゆびさん」の作曲者 湯山昭 特集>(にっけん教育出版社)座談会による)。 ●<みんなであそびましょう>。後に「あそびましょう」が正しい番組名。 <「あそびましょう」について> ・昭和二十五年(1950年)代の初め、中田喜直の曲と小林純一の台本で多くの歌を生み出したが、昭和二十九年(1954年)の終了後、お話を主にした番組に変わり、歌入りの再開が望まれていた。 ・昭和三十五年(1960年)、NHKラジオ番組『幼児の時間』を担当していた武井照子ディレクターから湯山昭に仕事の依頼があった。それは、全国の幼稚園や保育所向けの時間(朝十時台)に放送される十五分の番組で、前半の八分間は中村メイコが童話を子どもたちに語りかけるコーナー、後の七分間がリズム遊びのコーナーになっていて、その後半で湯山が台本にもとづいて音楽を作るということでした。このテスト放送は二月頃、千代田区内幸町のNHKの一階にあった第二スタジオから生放送された。湯山は、一回のテストで能力が認められた。 ・定時番組名「みんなたのしく」昭和三十五年四月から一年間。第二、第四月曜日に放送された。出演・中村メイコ、台本作家・香山美子、音楽・湯山昭。 ・番組名変更「みんなであそびましょう」昭和三十六年(1961年)四月から毎週火曜日の朝九時台になった。 ・番組名変更「あそびましょう」昭和三十七年(1962年)から三年間。これが一番定着した番組名。 ・昭和四十年(1965年)からは、出演者が中村メイコから香椎(かしい)くに子に代わって、昭和四十一年(1966年)の三月まで続いた。 (参考) 湯山昭著『人生は輪舞』(全音楽譜出版社)による。 【テレビでも放送】 「おはなしゆびさん」がラジオで放送されると、アンコールが殺到、大ヒットとなった。昭和三十六年(1961年)四月三日(月)、午前八時三十分からスタートしたNHK総合テレビ『うたのえほん』でも盛んに取り上げられました。 ●読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)の“作曲された前年の六一年八月からテレビで始まった「うたのえほん」”の“八月”は間違い。“四月”が正しい。『うたのえほん』参照。 湯山昭によると次のようです。 “ラジオからテレビに移る時代で、この歌はテレビで放送されて、普及度が増したわけですよ。ラジオで聞いた歌が、今度はテレビで具体的に指遊びをやってるわけですから、視聴者が全国的になってきてね。 ラジオの時は中村メイコさんだったと思います。その後にテレビになってから眞理ヨシコさんが歌ってくださいました”。 (『親子で楽しむ童謡集』第2集 <「あめふり くまのこ」「おはなしゆびさん」の作曲者 湯山昭 特集>(にっけん教育出版社)座談会による)。 “昭和三十六年からスタートしたNHKテレビ「うたのえほん」で、ラジオでヒットした「おはなしゆびさん」を、眞理ヨシコさんが指人形を使いながら歌ったものだから、またまた大ヒットになっちゃった。やはりテレビは視覚的にも具体性をもって訴えかけられるから、ラジオのように耳から入ってくるだけというのとは全然違いました”(湯山昭著『人生は輪舞』(全音楽譜出版社)による)。 <指遊び> 歌に合わせて遊びましょう。 ・二人組になります。二人の親指を向い合せて遊びます。 いろいろな表情を作ってみましょう。最初は親指「♪このゆび パパ」。
【香山美子の略歴】児童文学作家 童謡詩人。 ・昭和三年(1928年)十月十日、東京生まれ。 ・旧制金城女子専門学校(現・金城学院大学)国文学科(昭和二十四年)卒業。日本児童文学者協会の設立当初より会員。 ・昭和三十三年頃からラジオ・テレビの幼児番組の台本を書くようになり、そこから童謡を書くようになった。それだけに詩的な情感よりも生きた幼児の心をリズミカルにうたう作品が多い。童謡の作詩では代表作に「おはなしゆびさん」「山のワルツ」「げんこつやまのたぬきさん」「いとまきのうた」などあわせて二百五十篇ほどの作品がある。 ・昭和二十八年、いぬいとみこらと同人誌「麦」を創刊。 ・昭和三十八年、童話「あり子の記」で第三回日本児童文学者協会賞、第一回NHK児童文学奨励賞。 ・昭和五十年、「げんこつやまのたぬきさん」でコロムビアレコード・ゴールドディスク賞。 ・昭和六十三年、「だれかさんてだあれ」で、第二十七回高橋五山賞。 童謡だけでなく童話や小説などの作品も多い。幼年童話作家としても知られる。 【詩の収録】 国土社の詩の本 <全二十巻> ・山のワルツ「NHKおねえさんといっしょ」湯山昭曲。 ●初出「NHKおねえさんといっしょ」は間違い。NHKラジオの幼稚園・保育園むけリズム遊び番組「あそびましょう」で発表。昭和三十七年(1962年)八月に湯山昭が作曲。 ・おはなしゆびさん「NHKおねえさんといっしょ」小森昭宏曲。 ●「NHKおねえさんといっしょ」、小森昭宏曲は間違い。この間違いは、『日本児童文学別冊 少年詩・童謡への招待』(偕成社)の「おはなしゆびさん」の解説(西本鶏介著)で使われてしまっている。「あそびましょう」のために、昭和三十七年(1962年)二月に湯山昭が作曲。詩の「アハハハハハハ」「ホホホホホホホ」「へへへへへへへ」も間違い。この間違いは、他の出版物でもみられる。 ・げんこつ山のたぬきさん「NETパンポロリン」昭48小森昭宏曲。 ●タイトルの「げんこつ山のたぬきさん」は間違い。「げんこつやまのたぬきさん」と全部平仮名が正しい。昭和四十八年(1973年)にNET(現・テレビ朝日)の子ども番組『とべとべパンポロリン』(のちの『とびだせ!パンポロリン』)で放送された。小森昭宏曲は、国土社の詩の本16 三十一篇収録中、十一曲と多い。 以上のように、香山美子著『おはなしゆびさん』(国土社)国土社の詩の本16■初出発表誌・年月・作曲者一覧は間違いだらけ。訂正をしないまま版を重ね、一九八〇年八月十五日五版発行になっている。 <「げんこつ山のたぬきさん」について> 原曲は、愛知県から新潟県の一部にかけて伝わるわらべうた。 わらべうたの「げんこつ山のたぬきさん」は、昭和四十五年(1970年)、NHKテレビ『おかあさんといっしょ』で遊びの動作をつけて放送され、子どもたちの人気を得ました(足羽章編『日本童謡唱歌全集』ドレミ楽譜出版社による)。
この、わらべうたをもとにして、香山美子が改めて詩を書き、小森昭宏が作曲して新しい「げんこつやまのたぬきさん」を作りました。ストーリー性のある遊び歌になっています。 昭和四十八年(1973年)にNET(現・テレビ朝日)の子ども番組『とべとべパンポロリン』(のちの『とびだせ!パンポロリン』)のなかで放送されると、たちまち子どもたちの人気の曲になりました。こちらのタイトルは「げんこつやまのたぬきさん」と全部平仮名になっています。
<「いとまきのうた」について> ・原曲はデンマークの曲。村山寿子の歌詞「ゆきの こぼうず」で知られている。 『おんがく1』(教育出版)昭和四十二年四月十日文部省検定済 小学校音楽科用対応の教師用指導書に参考補充曲として簡易伴奏譜と一番が掲載されている。
▲「ゆきの こぼうず」 楽譜と歌詞 ・作詞者不明で「いとまき」として幼稚園・保育園に普及した。
<手遊び> 歌に合わせて遊びましょう(基本的な動作)。
・「いとまき」を発展させた形で作られたのが、作詞・香山美子、作編曲・小森昭宏の創作わらべ歌「いとまきのうた」です。 COTC-3347『たのしいあそびうた』(1995製造・発売元:日本コロムビア)掲載による。 ▼「いとまきのうた」歌詞 ▼「いとまきのうた」振付
★「いとまきのうた」初出は調査中。 上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版)には、“一九八〇年代の半ば頃、テレビ朝日の幼児番組「とびだせパンポロリン」のなかで放送され、間もなくレコードとなり、家庭よりもむしろ幼稚園・保育園に普及した”と書いてある。 また、『日本のうた こころの歌』№50(デアゴスティーニ・ジャパン)には、“昭和五十八年に作られた新しい作品”と書いてある。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ ![]() |
【詩の誕生】 詩は、昭和三十六年(1961年)六月にできました。作詞をしたのは、児童文学作家で、詩人でもあった鶴見正夫です。『あめふり くまのこ』の詩の誕生には、次のようなエピソードがあります。 「二階の窓から外を眺めた。すると、狭い庭に、小学校に入って間もない息子が傘をさしたまましゃがみ込んでいる。庭にできた雨水の流れをのぞきこんでいる。その姿が、まるで「魚でもいないかな」と言っているように見える。その時、何気なくノートに書いたのが「あめふり くまのこ」であった。 それから一年近くも経って、NHK「うたのえほん」に、六月のうたを書くことになった。私は頭をひねり、コトバをこねくって、新作の詩を書いた。やっとのことでできあがり、番組担当の岡弘道さんにあてて郵送する時になって、ふと思いついた。ノートの「あめふり くまのこ」を原稿用紙に書き写し、「本命は、もちろん新作の詩だが、もしお使いいただけるようなら、そしてその機会があるなら、これもよろしく」という旨を書き添え、あつかましく同封した。 ところが間もなく、作曲の湯山昭さんと担当の岡さんが選んだのは、頭をひねって作った新作ではなく、なんと同封した「あめふり くまのこ」のほうであった。「あめふり くまのこ」は、こうして世に出た。NHK・TV「うたのえほん」の番組の初期の頃、昭和三十七年六月、“月のうた”として放送された。 いい童謡は、邪鬼のある作為からは生まれてこない。そこには偶然の心のひらめきと、それをもたらす背景に、表にはそれとあらわれない詩的?ドラマがあるように思う。「あめふり くまのこ」と一緒に送った新作の詩について、今ではコトバの片りんさえ忘れてしまっているのも、その証拠であろう」 (日本童謡協会・編集 季刊『どうよう』第五号(チャイルド本社)昭和六十一年四月一日発行による)。 この文章は、生前に鶴見正夫が書き残した貴重な証言です。短く書き直され、多くの出版物に掲載されていますが、使う時には出典を明らかにしたいものです。 【曲の誕生】 NHKテレビ「うたのえほん」の委嘱を受け、1962年5月に作曲=(『湯山昭 子どもの歌全集 3集』(日本コロムビア)解説・湯山昭による)。 昭和三十六年にスタートしたNHKテレビ“うたのえほん”は、真理ヨシコ・中野慶子というフレッシュな歌のおねえさんコンビで、全国の茶の間の人気番組になりました。積極的な新しい歌と音楽づくりも一緒に計画されました。二十代の若い作曲家が起用されて毎月の歌作りにはげんだことが、つい昨日のことのように思い出されます。「あめふり くまのこ」は、そうした新しい歌づくりのなかで生まれた歌で、昭和三十七年六月、“うたのえほん”の今月の歌として全国に放送されました。 (註)NHK「うたのえほん」は、昭和三十六年(1961年)に始まった、月曜日から金曜日まで毎朝八時半から十分間放映された番組で、企画は岡弘道ディレクター。東京芸大の声楽科出身なので、当然、音楽に大変詳しい。二十代の作曲家を起用しようと考えた。起用されて活躍した作曲家は、服部公一、佐藤真、林光、湯浅譲二、萩原英彦、溝上日出男(私、池田小百合は、国立音楽大学で、楽典・作曲を教えていただいた)、湯山昭。 <湯山昭が語る「あめふり くまのこ」裏話> 湯山昭によると、次のようです。 「NHKテレビ“うたのえほん”の三月の歌「おはなが わらった」が大ヒットしたものだから、今度は六月の月の歌を書いてくれと岡弘道ディレクターからたのまれました。それが「あめふり くまのこ」です。 岡さんから私に手渡された鶴見正夫さんの詩は別のタイトルがついていて、内容も「あめふり くまのこ」とは全く違った詩でした。六月は雨の季節なので、雨の歌なんです。私も鶴見さんも、その詩がなんだったか今覚えていないのが、とても残念なのですが、私は、その詩から自分の思うようなメロディーが、なかなか浮かんでこなくて困り果てていました。このころはまだ生放送の時代ですから、作曲の締切日が決まっているわけ。収録の10日ぐらい前なんです。それを守って作曲しないと、ピアノは小林道夫君だからすぐに弾けちゃうけれど、眞理さんはそれから歌の練習しなければいけない。そして、私の手元に鶴見さんの「ちっぷ、ちゃっぷ・雨・・・」で始まる雨の詩の原稿がきていたのです。 ところが、もらった詩を毎日何度も読むのだけれど、締切はだんだん近づいて来るのに、どう読んでみても一向にメロディーが湧いてこない。こりゃダメだと思って、それで10日ぐらい前だったと思いますが、作曲の〆切まぎわになって私は思い切ってNHKへ電話をかけ、岡さんに別の詩を鶴見さんから入手して欲しいと頼み込みました。放送が迫っていて担当ディレクターは電話の向こうで困ったような声でしたが、三日後だったか私の所に電話送りで新しい詩が届きました。その頃の私の住所はもう下井草ではなく、現在住んでいる杉並区の久我山に引っ越していましたね。当時はFAXなんてなかった。郵送したら時間がかかる。それで電話口で詩を読むから、書き取ってくれと言って、岡さんがゆっくり読んでくださり、私がこちらで書き取ったのです。 電話の向うから「おやまに あめが ふりました・・・」という鶴見さんの詩が流れてきました。と、どうでしょう、二番・三番と電話機のそばで詩を書き取っている私に『あめふり くまのこ』の詩の世界が、鮮やかなカラースライドを見るように見えてきて、その中の熊の子が、メロディーを付けて歌い始める、そんな光景が私の胸の中に浮んだのです。これは手応えというか、書いている最中にメロディーが浮かんで来たんです。五連から成る詩を全部書き取ったら、素晴らしい、絶対いい歌になると確信できましたね。曲を作る私の勘なんですが「これはいけるなあ」と思った。 そうだ、この印象を早速メロディーに書きつけよう、一刻をあらそわねばと思った私は、ピアノに向かって、あの8小節の前奏を弾き始めていました。この電話が来たのがちょうどお昼頃でしたが、昼御飯を食べないで、すぐにピアノの部屋に駆け込んで、ピアノに向かったら、まるで糸を手繰(たぐ)るように、どんどんメロディーができちゃった。というわけで、詩をもらってからピアノパートを含めた全曲を完成するまで、1時間半くらいでできたんです。 ここで私が言いたかったのは、自分が納得しないメロディーを、やみくもに書いてはいけないということかも知れません。最初の気にそぐわない詩に無理矢理曲をつけていたら、今の「あめふり くまのこ」は、永久に世の中に出てこなかったんですよ。ですから、危ない判断の一瞬でした。 どんな詩にも言葉にもメロディーは付けられます。でも、そのメロディーが詩や言葉を浸蝕してはいないだろうか、日本語の美しい語感やリズム感をそのメロディーが歪曲してはいないか。詩から生まれたメロディーですけれど、言葉をとり去った裸のメロディーが、聴く人々を納得させるだけの個性があるかどうか、そういったことを私はいつも歌づくりの時に考えています。名作と言われて長い間歌い継がれている歌は、詩+メロディー=3の世界に到達することができた歌だと、私はかねがね思っています。 こう書いたらヒットするかなとか、そんなことを考えるといいものはできません。この詩が要求する旋律はこれしかないんだということを言い切れるかどうか、作曲というのはそのことの連続の中で大勝負をしているんだと思います。 「あめふり くまのこ」は、その具体的な例で、後にも先にもない印象的な出来事でしたけれど、放送直前になって詩を拒絶して、新しい詩を求めて書いた曲が大ヒットに繋がったなんて、とても珍しいドラマと言えるでしょう」。 以上は、季刊『どうよう』第五号、『親子で楽しむ童謡集』第2集 湯山昭特集(にっけん教育出版社)の座談会、湯山昭著『人生は輪舞』(全音)による。 こうしてできた曲は、歌うと、かわいい子熊と出会えるような楽しい心温まる曲となりました。いかにも湯山昭らしいナイーブなロマン、夢みるような童謡です。私、池田小百合は「あめふり くまのこ」が大好きです。私が主宰する童謡の会では、いつも歌います。大人にも子どもにも大好評です。この童謡は、長く愛唱されると確信しています。 詩と楽譜は、湯山昭 作品集『赤い風船飛んだ』(東京書籍)平成元年発行や、『日本童謡唱歌大系』Ⅱ(東京書籍)で見る事ができます。 <最初の詩は「ちっぷ ちゃっぷ あめ」か> 詩集『まんもす』第三巻(骨の会発行)昭和三十七年(1962年)七月発行。発行人・宮沢章二の中の『あめのうた』に、鶴見正夫の詩が載っている。「あめのうた」「ちっぷ ちゃっぷ あめ」「あめふり くまのこ」の三篇。 湯山昭によると次のようです。 “私がディレクターから受け取った最初の詩は、「あめのうた」か「ちっぷ ちゃっぷ あめ」のどちらかなんですが、それがどっちだったか、私の記憶にないんだなあ。メロディーが湧いてこない詩だったから、きっと印象に残らなかったのかも知れない。「あめのうた」の方は、リズムもあって、歌にはしやすいし、子どもにも歌いやすいと思うので、問題の詩はもう一つの「ちっぷ ちゃっぷ あめ」ではなかったかなあ。” ちっぷ ちゃっぷ あめ (鶴見正夫) あめ あめ あめ ちっぷ ちゃっぷ あめ。 やねでも みちでも どこでも はねて、 なにが そんなに うれしいの、 そらから えんそくよ って はねてるの。 “という詩だから、これは子どもの歌としてはちょっと書きにくいし、子どもも歌いにくいと思うから、こちらだと思う。「ちっぷ ちゃっぷ あめ」が容疑濃厚ですね”。 作詩をした鶴見正夫が次のように言った事に注目してみましょう。“NHK「うたのえほん」に、六月のうたを書くことになった。私は頭をひねり、コトバをこねくって、新作の詩を書いた”。 この「ちっぷ ちゃっぷ あめ」が、<頭をひねって作った新作>だったのでしょうか。湯山昭が最初に受け取った詩だったのでしょうか。 湯山昭:“鶴見さんに生前、「最初に私が入手した詩はどういう詩ですか?」と訊ねたことがあるのですが、鶴見さんはとぼけられたのかどうか、「わからない」とおっしゃった”。(湯山昭著『人生は輪舞』(全音)による)。 鶴見正夫は知っていてとぼけたのでしょう。ボツになった詩を世間に公表したい詩人はいないでしょう。 以下は、季刊『どうよう』第五号掲載の〔ワンポイント作詩作曲講座〕「あめふり くまのこ」のひみつ 湯山昭著によるものです。多くの書物には<「あめふり くまのこ」の誕生>は書かれていますが、楽譜についての解説はありません。私、池田小百合は、湯山昭が語る楽譜の秘密に感動しました。歌うと納得できます。それで、ここに紹介する事にしました。
<メロディーの新しさの ひみつⅠ> 譜例(1)のメロディーラインで特徴があるのは、2小節から3小節にかけてのところでしょう。“あめ”の言葉に詩の想いがかかっているので、それを強調して“あ”から“め”への旋律に大胆な音程の落差を与えたのですが、さらに音程が“め”から“ふりました”の“ふ”へ下がっている所に注目していただきたいと思います。 この“め”の音は二長調の導音です。導音というのは、一般の音楽理論書をごらんになるとわかりますが、主音(ド)を導く音(シ)で、必ず、導音→主音と進むように書いてあります。ところが、ここでは導音なのに主音(ド)へ上がらず、逆に下がっています。この「あめふり くまのこ」の主要テーマは、のっけからそういった音楽の一般常識に立ち向かっていて、つまりこのことがメロディーの新しさになっているのだと思います。 なぜ、導音→主音というきまりを破っているのに耳に気持ちよく響くのか、その秘密はハーモニーにあります。1小節目から2小節目はⅢの和音(ミソシ)を聴覚に感じさせます。これが、そこはかとない哀愁を与える効果をもつとともにメロディーを自然にさせているのです。また“ふりました”の“た”の和音がⅤの和音(シレソ (註)これは間違い。ソシレが正しい)ではなくⅡの和音(レファラ)となっていますが、ここも印象的なチャームポイントになったと、私は思っています。 <もう一つの ひみつⅡ> 「あめふり くまのこ」のメロディーには、もうひとつ秘密があります。譜例のように完全四度、完全五度の音程が六回も出てくることです。この二つの音程は似た響きがあり、これらがもつ日本的な性格が、どちらかというと洋風スタイルの歌い出しにもかかわらず、歌全体としては、日本の雰囲気を表現できたのではないかと私は思っています。 詩も曲も、その創作の源泉は、作り手の心に存在するナイーヴなロマンです。子どもの歌がもつ純粋性は、そこから生まれると私は固く信じています。 【バラードの童謡】 「あめふり くまのこ」は、詩の分類でいうと物語の詩の中に入ります。 湯山:「あめふり くまのこ」は、5番までの小さな物語です。日本にはバラードの童謡、つまり物語の童謡は非常に少ないんです。その物語性も、この歌のひとつの特色なんですね(『親子で楽しむ童謡集』第2集 湯山昭特集(にっけん教育出版社)の座談会による)。 (註)日本には「日本昔話」が沢山ある。「昔話の歌」は昔から沢山ある。たとえば「浦島太郎」「一寸法師」「金太郎」「牛若丸」「桃太郎」ほか。これらはバラード(物語)の童謡です。 【放送初演】一九六二(昭和三十七)年六月NHKテレビ「うたのえほん」、初代うたのおねえさんとなった真理ヨシコの歌で、6月の月の歌として放送初演された。=(『湯山昭 子どもの歌全集 3集』(日本コロムビア)解説・湯山昭による)。 |
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【幼児番組『うたのえほん』について】 以下の記述は、岡弘道の「うたのえほん」の素顔(1)~(4)(季刊『どうよう』チャイルド本社、25号~28号)を参考にした。 ・NHK総合テレビ『おかあさんといっしょ』は、昭和34年(1959年)10月発足。 昭和35年(1960年)5月当時は週1回月曜日の午後1時台の番組だった。 昭和37年(1962年)の番組時刻表では、週6回、毎朝10時台の番組として定着。 (月)(火)は「ブーフーウー」、(水)「おはなしのもり」、(木)「こんな絵もらった」、(金)「なかよしおばさん」、(土)「いいものつくろ」と、バラエティーに富んだ内容。 ・NHK総合テレビ『うたのえほん』は、昭和36年(1961年)4月3日(月)、午前8時30分のスタート。『おかあさんといっしょ』とは発想の根を異にし、別の角度から、子どものうたの一面を切り開こうと始まった。 放送時間 午前8時30分~8時40分(月曜から土曜まで) 総合テレビ 対象 学令前の幼児と母親 出演者 ・真理ヨシコ 東京都立駒場高校芸術科卒、東京芸術大学声楽科在学中。本名は佐藤美子。 昭和13年生まれ ・中野慶子 長野県立松本深志高校卒、学習院大学卒。 昭和12年生まれ。 ピアニスト 小林道夫 三浦洋一 小島満里 ほか ○昭和36年4月3日(月)歌 真理ヨシコ/体操 砂川啓一 「ぼうやがうまれて」「おすもう」「むすんでひらいて」「かわいいかくれんぼ」が歌われた。 「おすもう」佐藤義美・作詞 磯部俶・作曲は、のちに「おすもうくまちゃん」と改題。 ○昭和36年4月10日(月)歌 中野慶子/体操 砂川啓一 「ひらいたひらいた」「ふたこぶらくだ」「ぼうやがうまれて」「チューリップ」 真理ヨシコと中野慶子が一週間交替で出演。
【『うたのえほん』その後】 8年後、昭和44年(1969年)4月の番組時刻表では、10時台の『おかあさんといっしょ』の中に含まれている。 8時台の朝番組としての位置づけは終わり、やがて『うたのえほん』という呼称も消滅した。 1976年(昭和51年)に『おかあさんといっしょ』に改編された。 (註)NHKテレビ番組『おかあさんといっしょ』は、 1959年(昭和34年)10月5日に開始し、現在に至る長寿テレビ番組。1966年(昭和41年)3月より同局の幼児番組『うたのえほん』が同番組の歌および体操のコーナーとして併合されたが、1976年(昭和51年)に同コーナーが終了したことに伴い、1976年4月に放送内容を改変した。 ・「おもちゃのチャチャチャ」でレコード大賞童謡賞受賞の真理ヨシコさんは、昭和37年9月まで、一年半の間、うたのおねえさんとしての名声を高め、竹前文子さんに交替した。 ・厳格なオーディションによって選ばれた竹前さんは、その後、ジュリアード音楽院で研鑚を重ね、帰国後は自費で小ホールを開設し、今日までユニークなイベントを企画・開催、その間に中島健蔵賞を受賞した。 ・中野慶子さんは作曲家・宮崎尚志夫人となり、現在も音楽活動を盛んに続けている。
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【日本童謡賞を受賞】一九七三(昭和四十八)年六月、『あめふり くまのこ』を収録した曲集、『現代子どもの歌秀作選 湯山昭選集』(カワイ出版)が、第三回日本童謡賞を受賞。 【歌唱の注意】「はっぱ」の歌い方は、八分休符を入れて歌います。話し言葉のように一度口を閉じて歌います。 ・大正十五年(1926年)三月十九日、新潟県岩船郡村上町(現・村上市)で生まれました。 ・昭和二十三年(1948年)、早稲田大学政経学部卒業。大学時代から童謡を作り始め、のち童話、児童文学も手がける。 ・小学館、国会図書館勤務を経て、昭和三十五年(1960年)から文筆に専念。 ・昭和三十八年(1963年)から十一年間阪田寛夫らと「6の会」を結成。「あめふり くまのこ」「おうむ」などを生み出す。 ・昭和五十一年(1976年)に赤い鳥文学賞を受賞。 『鮭のくる川』(国土社)など子供たちに人気の多数の著書を遺しました。 ・平成七年(1995年)九月七日、肺癌のため六十九歳で亡くなりました。=(『児童文化人名辞典』(日外アソシエーツ)1996年発行による)。 【詩の収録】 『ああめふり くまのこ』鶴見正夫/詩 ■鈴木康司/絵(装画) 国土社の詩の本15 昭和五十年(1975年)十二月二十五日初版発行 「このはなひとつ」以下四十一篇。 「あめふり くまのこ」「あかいかさ」(「キンダーブック」昭47.6 中田喜直作曲)も収録されています。 「あかいかさ」は、阪田寛夫が好きだと言った詩です。どこを探しても楽譜がないので、作曲者の中田喜直氏に問い合せました。『最新こどものうた名曲選』(音楽之友社)を紹介していただきました。
【作曲者・湯山昭の略歴】 ・昭和七年(1932年)九月九日、神奈川県平塚市に生まれる。一人っ子で、海軍軍人の父は一歳半の時に他界。母は小学校教員をしていました。ピアノを習わせる事を思いついたのは母でした。しかし、家にピアノがなかったため、学校や知人に借りてレッスンに励みました。 平塚第四尋常小学校(現・富士見小学校)から県立湘南高校を経て、昭和二十六年(1951年)四月、東京藝術大学音楽学部作曲科に入学。芸大の三年生の頃に、平塚の家を抵当に入れて、やっとピアノを手に入れました。それからは、一日に一曲の速さで作曲に取り組みました。 ・昭和三十年(1955年)三月、芸大を卒業すると本格的な作曲活動に入り、幅広いジャンルで数多くの作品を発表。 ・昭和五十一年(1976年)六月、ビクターレコードからリリースされた四つの児童合唱団による「湯山昭の音楽」が再び第六回日本童謡賞を受賞。その他、数え切れないほどの賞を受賞。また、茅ヶ崎市立鶴嶺中学の校歌を手始めに、作曲した校歌は百曲を超えています。文部省検定の音楽教科書にも、たくさんの曲が採用され、全国の子供たちに愛唱されています。 現在、日本作曲家協議会理事、日本音楽著作権協会評議員会議長、日本童謡協会会長などを務め、日本音楽界の地位向上のために貢献しています。 鶴見、湯山については、阪田寛夫・著『童謡でてこい』(河出文庫)1990年発行で見る事ができます。また、湯山昭の最新著書に『人生は輪舞』(全音)2005年10月発行があります。湯山昭についての情報が満載で、湯山昭が『あめふり くまのこ』の前に受け取った詩の事も書いてあります。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ ![]() |
【保富康午が作詞】 湯山昭作曲の「おはなが わらった」の作詞を手がけたのは、保富康午です。名前の読み方を質問されることがあります。“ほとみこうご”と読みます。大ヒット曲「大きな古時計」「ゆかいに歩けば」なども保富の作品です。しかし、保富自身については、あまり知られていません。 【保富康午の略歴】 ・昭和五年(1930年)三月二日、和歌山県西牟婁郡(にしむろぐん)周参見町(現・すさみ町)で生まれました。 ●東京都出身となっている出版物は間違い。 保富康午の本名は庚午。保富の生年、昭和五年の庚午(かのえうま)年に因んで名づけられたと推測。本名は親族のブログ等でも庚午としている。康午は筆名として使用。 ただしJASRACには両方登録あることなどから明確に使い分けていたかは不詳。 ・幼少から青年期まで大阪府吹田市で過ごす。 ・昭和十七年、吹田市千里第二国民学校卒業。 ・京都の同志社大学卒業後、上京しました。作詞者、放送作家、構成作家としても活躍。 ・昭和五十九年(1984年)九月十九日、五十四歳で亡くなりました。 湯山昭とのコンビでは、童謡「おはなが わらった」、歌曲「風の中の風の歌」「愛の主題による三章」、混声合唱とピアノのためのカンタータ「人間の女の歌」などがある。 【母の言葉がヒント】 足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版)に次のように書いてあります。 “作詞者の保富康午氏の話によれば、氏の母が家の庭に咲くたくさんの花を見て「ああ、花が笑っている・・・」とつぶやいたのが印象に残り、そのイメージをまとめたとのことです。おなじ言葉のくりかえしが、簡単な旋律で美しくまとめられています。” 庭に咲く花は、本当に笑っているように見えます。花が好きな、やさしいお母さんだったのでしょう。うららかな日和、平和な家庭がうかがえます。お母さんのつぶやきを受け止め、「みんな わらった」「いちどに わらった」と、まとめた才能に感動です。 【湯山昭が作曲】 曲は覚えやすく、この詩にぴったりです。四回たたみかける「おはなが わらった」の後の「みーんな わらった」が心あたたまる旋律です。さらに「いちどに わらった」の、まとめ方も見事です。湯山の才能もいかんなく発揮されています。楽譜の冒頭には(たのしく、きれいに)と書いてあります。 <保富康午との出会い> 湯山昭によると次のようです。 “私の芸大時代の一年下に、保良徹(ほらとおる)という作曲家がいたんですが、その親友が保富さんだったので、保良君から紹介されたんです。詩の才能がすごくあって、この人は絶対よい詩が書ける人だからと、私がNHKのディレクターに紹介して起用してもらったんです。私が作曲するという条件もついているので、彼も一生懸命考えて作ったんでしょう。ああいう単純な詩だけれど、逆に単純な詩はパワーを持ちますよね。 「おはなが わらった・・・」を4回繰り返して、最後の一行だけが、「いちどにわらった」、「げんきにわらった」と違うだけですから。ああいう詩は珍しいですよね”『親子で楽しむ童謡集』第2集<「あめふり くまのこ」「おはなしゆびさん」の作曲者 湯山昭 特集>(にっけん教育出版社)の座談会による。 <ひらめいた旋律> “あれを作ったときは、詩をみた瞬間に、こういう何回も繰り返すような曲は、器楽的にリズムを作った方がいいなと思ったんです。ですから全く同じリズムの繰り返しで、非常に整理された旋律になっているでしょ。それが成功したんですよ。そしたら、ぴったりと当てはまったんです。それで、「えいっ!」と書いたんです。 子どもの歌はそういう感性的なことがすごく重要ですね。考えに考え抜いて書いたってだめですよ。ピンと出てくるんです。ビリビリっとくるんです”。 【作曲と放送について】 CD湯山昭・子どもの歌全集4『おはなが わらった 夏の日』湯山昭解説には次のように書いてあります。 “NHKテレビ「うたのえほん」のために、1962年2月に作曲。芸大を卒業したばかりの新星・真理ヨシコさんによって、その年の4月の歌として連日放送され、またたく間に全国に広まった”。 ●“4月の歌として連日放送され”は記憶違い。4月の歌は、宮沢章二作詞、萩原英彦作曲の「めっめっめっ」です。『うたのえほん』を参照してください。 “3月の歌として”が正しい。この間違いは、多くの出版物で使われています。 『親子で楽しむ童謡集』第2集<「あめふり くまのこ」「おはなしゆびさん」の作曲者 湯山昭 特集>(にっけん教育出版社)の座談会には次のように書いてあります。 湯山:“1962年は私にとってラッキーな年でね、2月が「おはなしゆびさん」、4月は「おはなが わらった」、6月は「あめふり くまのこ」を書いて、その3曲が全部ヒットしたんですよ”。 この対談の中で司会役の小野忠男が、“「おはなが わらった」は、先ほど4月の歌とおっしゃっていましたが。”と確かめている。しかし、湯山は、“そうです。4月の歌でした。月火水木金と毎日歌うんですから、テレビを見ている人は覚えてくれますよね。10分間の番組で4、5曲歌うんですが、1曲は必ず「おはなが わらった」になるんですよ。毎日「おはなが わらった」が登場するんです。ですからヒットするのにいいチャンスだったんですね”と話している。 ●“4月は「おはなが わらった」”、“4月の歌でした”は、湯山の記憶違い。 湯山昭著『人生は輪舞』(全音楽譜出版社)を読んでいると、次のような文を発見しました。 “「うたのえほん」という番組には、『月の歌』というのがあって、その月の間、毎月その歌が眞理ヨシコさんと中野慶子さんによって歌われるのですが、番組が始まった翌年の一九六一年(昭和三十七年)の三月に「おはなが わらった」が、そして六月には「あめふり くまのこ」が、それぞれ月の歌として歌われて、両方とも大ヒットしたんです。だから、「おはなしゆびさん」、「おはなが わらった」、そして「あめふり くまのこ」の三曲が、私の子どもの歌の分野での三大ヒット曲というわけです”。 <作曲年月と発表まとめ> ・「おはなしゆびさん」1962年2月作曲。 中村メイコの歌でNHKラジオ「あそびましょう」放送初演(3月放送か?)。 ・「おはなが わらった」1962年2月作曲。 真理ヨシコの歌で3月の歌としてNHKテレビ「うたのえほん」放送初演。 ・「あめふり くまのこ」1962年5月作曲。 真理ヨシコの歌で6月の歌としてNHKテレビ「うたのえほん」放送初演。 【反復の技法】 昔から慣用句に「花笑い鳥歌う」とある。西條八十の童謡『肩たたき』にも「眞赤(まっか)な罌粟(けし)が笑ってる」と歌われている。「おはなが わらった」という歌詞は、めあたらしいものではない。 歌は、「おはなが わらった」が何度も反復されている。この反復技法も、新しいものではない。明治、大正を生きた詩人、山村慕鳥(やまむらぼちょう)の「風景」という作品にみられる。「いちめんのなのはな」が何度も反復されている。文字の形(配列)、視覚でとらえた効果を強調した詩です。菜の花の美しさに感動です。 ▼「いちめんのなのはな」山村慕鳥
しかし、「おはなが わらった」は、ただの繰り返しではない。一面の花の美しさが素直に表現されている。湯山昭の曲を得て子どもの大好きな歌になった。これほど詩と曲がピッタリ合っている歌はない。覚えやすく歌いやすい。現代版の “わらべうた”になっている。歌って遊べる楽しい歌です。 【「おはなが わらった」誕生秘話】 湯山昭著『人生は輪舞』(全音楽譜出版社)には、次のように書いてあります。 “「おはなが わらった」は、「うたのえほん」から生まれた私の大ヒット作。東京芸大四年在学中の眞理ヨシコさんが歌のお姉さんに抜擢された。普通在学中だと出演できないのに、芸大が認めた珍しいケースです。 私は三月の月の歌を頼まれ、岡弘道ディレクターから渡された詩が、保富康午(ほとみこうご)が書いた「おはなが わらった」でした。保富さんは、私が初めて鶴嶺(つるみね)中学の校歌を作曲した時、詩を書いた詩人です。 (註)神奈川県茅ケ崎市立鶴嶺中学校校歌を作曲。昭和二十八年(1953年)東京芸大の作曲科三年、湯山昭二十一歳の作品。 三番の歌詞がすばらしい。 あさひさし ゆうひさす 光の中に ゆめはわたる つるみねのさと 歴史のみち わかいわれら ちからにみちて 今日を生きよう ああ腕をくんで みんななかよく 日本のために 世界のために (保富康午) 「おはなが わらった」は、あまりにも単純なものだから、岡ディレクターが、「これで委嘱料を払わなければいけないんですかね」なんて、本気とも冗談とも取れるようなことを言っていましたね。 私は、この詩は同じ言葉の繰り返しだから、余計こちらが仕掛けないといい歌にならないなと思ったのです。フランスの子どもの歌によくあるように、形式もメロディーも終止の仕方も器楽的に書いたのです。それが成功しましたね。月の歌は毎日歌われるから、嫌でも日本中に知られるんです。だから瞬く間にこの歌が広まっていきました。 この詩をもらった時、もう一つ思ったことがありました。この詩には何か原型があるなということです。そしてすぐにある詩を思い出したのです。それは、創元文庫から出ていた日本詩人全集の第四巻「大正編」(二)に載っている、山村暮鳥(やまむらぼちょう)が書いた「風景」という詩で、「純銀もざいく」という副題が付いています。「聖三稜玻璃」という第二詩集で発表されたものです。 (註)山村暮鳥のこの時期の作品の多くは、受洗し牧師となって伝道までしたキリスト教に関係している。 「おはなが わらった」の詩を読んだときに、この山村暮鳥の詩を思い出したんです。これはもう絶対あの詩が下敷きになっているなっていう感じがして、作詩者の保富康午氏に「僕、山村暮鳥の詩を思い出したんだけど」って言ったら、「ああそう」って言っただけで、彼はそれを認めようとはしなかった。でも、絶対にあれはそうだと思うな。小学校の音楽の教科書に載って、非常に有名になったんです。 (註・平成21年発行の『あたらしいおんがく1』(東京書籍)には1、2番が掲載されている)。 三月の歌が大ヒットしたものだから、今度は六月の月の歌を書いてくれと岡ディレクターから頼まれました。それが「あめふり くまのこ」です。” 【詩の収録】 国土社の詩の本<全二十巻> 国土社編集部『きりとおとうさん』 戦後名作選Ⅱ(国土社)国土社の詩の本20 小林与志/絵(装画) 昭和五十一年(1976年)四月五日初版発行。三十七篇収録。 ■荘司武「とまと」大中恩曲。 ■田中ナナ「おかあさん」中田喜直曲。 ■小池タミ子「ふうせん」中田喜直曲。 ■保富康午「おはなが わらった」湯山昭曲。 ■峯陽「ぼくらの町は川っぷち」林光曲。 ■中川李枝子「てをつなごう」諸井誠曲。ほか。 【故郷に歌碑】 和歌山県西牟婁郡すさみ町にある「日本童謡の園」には、花を抱いた少女の像と詩碑があります。
【「おはなが わらった」で遊ぼう】 私、池田小百合は「おはなが わらった」が大好きです。幼稚園で、保育園で、小学校で、子供たちに大人気の歌です。子供と大人が一緒に歌える新しい童謡です。長く歌い継がれることを願っています。
文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』には選ばれていません。残念です。 選考委員・湯山昭、伊藤京子、由紀さおり、安田祥子、坪能由紀子(日本音楽教育学会会長)、坂東文昭(東京都板橋区立常盤台小学校長)ほか。 【著者より引用及び著作権についてお願い】 ≪著者・池田小百合≫ ![]() |
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<国土社の詩の本> 全二十巻 A5変型 各80頁 1 赤ちゃんのお耳 都築益世/詩 駒宮録郎/絵 2 とんとんともだち サトウハチロー/詩 こさかしげる/絵 3 いぬのおまわりさん 佐藤義美/詩 司 修/絵 4 ぼくがかいたまんが 與田凖一/詩 山高 登/絵 5 地球の病気 藤田圭雄/詩 渡辺三郎/絵 6 かまきりおばさん 柴野民三/詩 阿部 肇/絵 7 ぞうさん まど・みちお/詩 東 貞美/絵 8 みつばちぶんぶん 小林純一/詩 鈴木義治/絵 9 あまのじゃく 清水たみ子/詩 深沢邦朗/絵 10 かあさんかあさん 三越左千夫/詩 石田武雄/絵 11 知らない子 宮澤章二/詩 駒宮録郎/絵 12 大きなけやき 神沢利子/詩 白根美代子/絵 13 サッちゃん 阪田寛夫/詩 和田 誠/絵 14 おつかいありさん 関根栄一/詩 丸木俊/絵 15 あめふり くまのこ 鶴見正夫/詩 鈴木康司/絵 16 おはなしゆびさん 香山美子/詩 杉浦範茂/絵 17 こわれたおもちゃ 武鹿悦子/詩 中谷千代子/絵 18 誰もしらない 谷川俊太郎/詩 杉浦範茂/絵 19 とんぼのめがね 戦後名作選 I 小林与志/絵 20 きりとおとうさん 戦後名作選 II 小林与志/絵 |
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