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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
昭和の童謡 唱歌
今様  (越天楽今様  黒田節 )
 どじょっこ ふなっこ   まっててね
童謡・唱歌 事典 (編集中)




どじょっこ ふなっこ

秋田県鹿角南部藩地方民謡・わらべ唄
採録  豊口清志
補作詞・作曲 岡本敏明

池田小百合なっとく童謡・唱歌 (2014/1/13)


  “この歌の、何ともいえない味わいは、「こ」にあります。氷(すが)こ、どじょっこ、ふなっこ、童(わらし)こ、鬼こ、木(こ)の葉こ、舟こ、天井(てんじょ)こ・・・。文法の上では接尾語と呼ばれ、名詞などに付いて、小さいものの意を表したり、親愛の情を示したりします。”川崎洋著『心にしみる教科書の歌』(いそっぷ社)による。

 解説は、小原國芳編『教育日本』五月号(昭和十一年六月二十日発行)掲載、森稔著「東北公演旅行記 体操部 音楽部」を参考にしました。著者は引率の先生の一人。今までの資料の中で一番詳しい。一番信頼できる。全文を「pdfファイル」にしましたので、こちらから御覧下さい。

 【「どじょっこふなっこ」との出会い】
 昭和十一年(1936年)四月二十八日から五月七日の十日間、東京の玉川学園(創立者・小原國芳)の学生・生徒・引率の先生ら三十四名は、玉川学園の教育を地方で実際に見てもらうために秋田、山形、新潟方面へ公演旅行に出かけました。東北各地の小中女学校を巡回公演し、教育啓蒙が目的。
  (註)メンバー三十四名は、(男子)専門部十名、中学部三名。(女子) 女学部十名、高等部四名。(引率の先生)小原國芳先生、斎藤由理男先生、岡本敏明先生、森稔先生、矢部先生、小原先生のおばさま、白石のおばさまの七名。 『玉川学園五十年史』によると、矢部先生の氏名は矢部薫、白石のおばさまの氏名は白石嵯峨と記載されている。中学部三名のうち、小原とあるのは小原哲郎君(大正十年(1921年)生まれ)、小原國芳先生の息子で、後の玉川学園園長(現・小原芳明園長の父親)。
 ●森稔著「東北公演旅行記」には“メムバー三十五名”と書いてあるが、数えてみると(引率の先生)、(男子学生・生徒)、(女子学生・生徒)で合計三十四名。メンバーは三十四名が正しい。
 ●昭和十一年五月三日の西目小の学校日誌に書かれている「玉川学園生徒三十六名来校」や、西目小での写真「男学生九名、女学生十一名の計二十名、教師は四名」は間違いという事になります。

 五月一日、合唱とデンマーク体操のプログラムを持った公演旅行団の一行は、秋田の金足(かなあし)西尋常高等小学校(現・秋田市立金足西小学校)を訪れました。金足西小に寄ったのは、学園出身者の縁故があったからです。演奏会は、初めて聴く混声合唱の響きに驚き、拍手喝采。楽しい時間を過ごし盛況の内に終わりました。
 当日の夜の歓迎会で同校の中道松之助先生が、余興として「どじょっこ ふなっこ」の元唄を詩吟調で愉快に歌いました。その場に居合わせた合唱指導者・岡本敏明(玉川学園の音楽教師、当時二十九歳)は、大変興味を示し、詩をメモして即興で混声合唱に作曲。宴会が終わる頃までには曲ができあがり、混声三部合唱を披露して拍手をあびました。

 翌日、移動の車中(奥羽(おうう)本線追分(おいわけ)駅発~羽越(うえつ)本線羽後 本荘(うごほんじょう)駅着)にて練習し、次の訪問校である秋田県立本荘高等女学校 (現・秋田県立由利高等学校)で午前十時より混声四部合唱を発表(初演)しました。

 <移動の車中について>
  五月二日、追分(おいわけ)駅から、午前七時五十八分発の奥羽(おうう)本線に乗車。追分駅は明治三十五年(1902年)十月二十一日国鉄の駅として南秋田郡金足村に開業(現・秋田県秋田市金足追分字海老穴57-4)。
 秋田駅で羽越(うえつ)本線に乗り換える。羽後本荘(うごほんじょう)駅九時八分着、下車。午前十時より秋田県立本荘高等女学校で公演。森稔著「東北公演旅行記」には「本荘着」「本荘発」と書いてあるが、「羽後本荘駅」が正しい。
 羽後本荘駅から午後一時半発の横荘(おうしょう)鉄道西線に乗車。森稔著「東北公演旅行記」には豆汽車と書いてある(詳細は「pdfファイル」の26・27ページ参照)。羽後本荘駅→薬師堂駅停留所(薬師堂は私鉄当時は停留所、国鉄になって駅に昇格した)→子吉(こよし)駅下車。午後二時からは子吉尋常高等小学校で公演。横荘鉄道西線は昭和十二年国鉄に移管し矢島線となり、昭和六十年に国鉄から現在の由利(ゆり)高原鉄道鳥海山(ちょうかいさん)ろく線に移管された。

  【金足西小に寄った理由】
 地方公演旅行は、デンマーク留学の経験がある体操教師、斎藤由理男先生の発案といわれ、玉川学園の体操と音楽の成果を地方へ伝えて行こうという趣旨で、小原國芳先生の教育講演と共に全国を回る事になった。最初の公演は昭和十一年の四月から五月にかけて東北地方を回ることで実現した。
 ●上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版)には“東京の玉川学園の小学部の音楽教師だった岡本敏明は、その年の夏、学校宣伝のため秋田県下を講演旅行した”と書いてあるが、「小学部の音楽教師」は「小学部・中学部・高等部兼任の音楽教師」が正しい。「秋田県下」は「秋田、山形、新潟方面」が正しい。この文だと、岡本敏明だけが学校宣伝のため講演旅行をしたように読める。東北地方公演旅行は、玉川学園の学生・生徒・引率の先生、三十四名。岡本敏明先生は合唱の指導者として参加、小原國芳先生が教育講演をした。
  ●上記、上笙一郎編『日本童謡事典』は、岡本敏明著『実践的音楽教育論』(一九六六年・カワイ楽譜)が文献になっている。『実践的音楽教育論』には、岡本敏明先生が書き残した「どじょっこ ふなっこ」についての文がある。これは、記憶違い。30年も昔の事だからです。では、正してみましょう。

  「“どじょっこ ふなっこ”を作ったのは、たしか昭和10年(註1)ですから、30年の昔の事です。 玉川学園の中学生の芸能隊(註2)をひきつれて、秋田県の農村に巡回演奏に参りました時、金足村の小学校(註3)で先生方が私の歓迎会(註4)をしてくれました。 そのとき「こんな歌もありますよ」と、一人の先生(註5)が詩吟の調子できかせてくださったのが、この“どじょっこ ふなっこ”の歌なのです。 「これはいける!」と直感して、ノートに歌詞をかきとめて、帰りの車中でたわむれに作曲(註6)したものが玉川学園の愛唱歌になりました」。
 (註1)正しくは、昭和11年。
 (註2)中学生の芸能隊は、玉川学園の学生・生徒・引率の先生、三十四名。岡本敏明先生は引率の先生の一人。体操と音楽の公演旅行団。
 (註3)金足西尋常高等小学校(現・秋田市立金足西小学校)
 (註4)私の歓迎会は、岡本先生の歓迎会のように読める。玉川学園の公演旅行団一行の歓迎会。
 (註5)中道松之助先生。
 (註6)歓迎会が終わる頃までには曲ができあがり、混声三部合唱を披露して拍手をあびました。翌日、移動の車中にて練習し、次の訪問校である秋田県立本荘高等女学校(現・秋田県立由利高等学校)で午前十時より、混声四部合唱を発表(初演)しました。以来、全国で愛唱されています。

  玉川学園一行が地方公演で秋田にも来る事を知った金足西小の教員、石田玲水先生は、金足西小でも公演されるよう校長に提案し了承された。石田玲水先生(註7)は、玉川学園教育大学部の卒業生。
  (註7)森稔著『東北公演旅行記』には。“玲水さんといふのは教育大學部の卒業生で、金足西の公演をまとめてくれた人”と書いてある。玉川学園では昭和七年一月に教育大学講座を開設し、これを教育大学部と称した。
 小原國芳先生は、玉川学園を作り、詰め込み型の受験教育ではなく、宗教・芸術・道徳・哲学・労作教育を柱に「全人教育」を目指した。そうして自らも全国を教育行脚で講演した。健康教育のためにデンマークから体操の一行を招いたり、礼拝堂にアメリカのパイプオルガンを入れるなど、教育に資金をおしまなかった。
  昭和五年(一九三〇年)十月二十八日、小原先生夫妻、欧米へ教育視察旅行のため春洋丸にて横浜出帆。昭和六年六月三日、帰朝。夫婦はいつも一緒に行動していた。音楽や舞踊のチケットを買い、塾生を連れて観に行く時なども、小原先生のおばさまは、同行していた。小原先生の一番の理解者だった。
 体操の指導者、斎藤由理男先生は、大正十一年に秋田県師範を卒業、デンマークのニルスブックの柔軟体操を初めて日本に導入し、日本の体操界を一新した人物。
  “玉川学園の斎藤由理男氏(象潟町(きさかたまち)出身)がデンマークで学んだ新体操術を学生たちに公開演技させて全国を回る途中、斎藤氏の郷里、象潟町(現・にかほ市象潟町)に立ち寄ったもので、 合唱隊の指揮者として岡本敏明氏も同行していた”(『秋田さきがけ』昭和53年12月3日発行「秋田いしぶみ散歩」70による)。
 昭和五年六月二十五日、斎藤先生デンマークに体操研究留学のため出発。昭和六年帰朝。
  “音楽の指導者の岡本敏明先生は、玉川学園で塾生と共に生活し、早朝礼拝に讃美歌を指導し、共に学び、共に走り、労作に汗を流した。塾の音楽教育は岡本先生の指導によって生活に浸透し始め、輪唱に始まった合唱も、校歌の四部、君が代の四部と進歩し、体操歌や運動会の歌など作曲も数多くなって来た。
 昭和八年(註8)夏休みの前に十一月の合唱コンクールの出場を目標に混声合唱の猛特訓が始まった。初出場の結果は混声第一位綜合六位であった。昭和九年(註9)も混声一位となり、二連勝の自信は劇や体操と共に玉川学園祭の東京進出に発展し、さらに地方公演に繋がっていく”(岡本先生を偲ぶ会編『岡本先生と私たち―岡本敏明先生追悼文集―』指田太郎著「どじょっ子・鮒っ子」より)。

  <「競演合唱祭」の結果>
  国民音楽協会と東京市主催の「競演合唱祭」(現・全日本合唱コンクール。NHK主催のものではなく、全日本合唱連盟と朝日新聞社の共催のコンクールの前身)
  ・昭和八年(1933年)十一月十九日、(初出場)混声四部合唱第一位、総合第六位。 (註8)
 (註)総合第一位は関西学院グリークラブ。第二位はホワイト合唱団。第三位は成蹊高等学校合唱団。第四位は成城高等女学校音楽部。
  ・昭和九年(1934年)十一月二十五日、混声四部合唱第一位、総合第四位。(註9
  (註)総合第一位は関西学院グリークラブ。 第二位は東京リーダー・ターフェル・フェライン。第三位はホワイト合唱団。第四位は玉川学園混声合唱団。
  ・昭和十年(1935年)十一月二十四日、混声四部合唱第一位、総合第二位。
  (註)総合第一位は関西学院グリークラブ。第二位は玉川学園混声合唱団。第三位はE・Cクラブ。第四位は東京リーダー・ターフェル・フェライン。
  ・昭和十一年(1936年)十一月二十三日、総合第一位を獲得。第十回日比谷公会堂。
  ・昭和十二年(1937年)十一月二十三日、総合第一位を獲得。第十一回日比谷公会堂。
  ・昭和十三年(1938年)十一月二十三日、総合第一位を獲得。第十二回日比谷公会堂。
 三年連続総合第一位が続いたため、先輩校の関西学院[関西学院グリークラブ80年史資料]の先例にならって勇退。その後は「第九」の放送などに奉仕した。この事については、岡本敏明先生から「審査員から毎年同じ学校が優勝ではまずいので、辞退してほしいと言われた」と聞いた事がある。
  ●岡本敏明が目指した合唱は混声四部合唱。特に中学生の混声四部合唱は自慢だった。「斉唱」「女声三部合唱」「男声合唱」であるはずがない。
  ●コンクールの名称は「競演合唱祭」(現・全日本合唱コンクール)。「全国合唱コンクール」や「現・NHK全国学校音楽コンクール」は間違いという事になります。
  (註) 『玉川教育』(玉川大学、1963年版)には以下の三枚の写真が掲載されている(説明文のまま)。
  ・全国合唱コンクールに総合第四位、混声第一位を獲得(昭・10)。(昭・10)は間違い。(昭・9)が正しい。
  ・第二回体操・音楽公演旅行の一行(九州方面 昭・11)。 昭和十一年七月十二日、音楽・体操部、関西、九州各地で公演。
  ・全国合唱コンクール総合第一位を獲得。写真には「十週年記念 競演合唱祭 主催 東京市」と書いてある看板が写っている。
  ●看板は「週」になっていて間違いでしょう。

 <「競演合唱祭」について>
 昭和二年十一月、関東合唱連盟の前身である「国民音楽協会」を設立。設立と同時に昭和二年十一月二十八日、国民音楽協会主催 第一回「合唱音楽祭」が日本青年館(東京)で開催。参加資格は「素人専門家を問わず本邦人より成る合唱団」。
 優勝旗は「合唱大音楽祭」となっている。
 (註)第一回プログラムでは「合唱音楽祭」となっているが、小松耕輔のプログラム巻頭の言葉には「合唱大音楽祭」と記載されている。
 第六回から「競演合唱祭」、第十一回から「合唱競演会」、昭和十四年から女子中等学校合唱競演会(昭和十七年まで)を分離独立開催したため、昭和十四年の 第十三回から最後の昭和十七年の第十六回まで「大日本合唱競演会」と称した。名称の変更は社会情勢の変化と関係がありそうです。
 ●全日本合唱連盟HPは間違いという事になります。

  第1回 昭和2年11月28日、国民音楽協会主催、東京市後援、日本青年館。
  第2回 昭和3年11月18日、国民音楽協会主催、文部省・東京市後援、日本青年館。
  第3回 昭和4年11月15日、国民音楽協会主催、文部省・東京市後援、日本青年館。
  第4回 昭和5年11月*日、国民音楽協会主催、文部省・東京市後援、国民音楽協会、日比谷公会堂。 
  第5回 昭和6年11月29日、東京市主催、文部省後援、国民音楽協会協賛、日比谷公会堂。
  第6回 昭和7年11月20日、東京市主催、文部省後援、国民音楽協会・東京音楽協会協賛、12月4日にラジオ放送。 
  第7回 昭和8年11月19日、東京市主催、文部省後援、国民音楽協会・東京音楽協会協賛、日比谷公会堂、11月27日にラジオ放送。
  第8回 昭和9年11月25日、東京市主催、文部省後援、国民音楽協会・東京音楽協会協賛、日比谷公会堂、12月9日にラジオ放送。
  第9回 昭和10年11月24日、東京市主催、文部省後援、国民音楽協会・東京音楽協会協賛、日比谷公会堂、12月3日にラジオ放送。
  第10回 昭和11年11月23日、東京市主催、文部省後援、国民音楽協会・東京音楽協会協賛、日比谷公会堂、12月2日にラジオ放送。
  第11回 昭和12年11月23日、国民音楽協会・文部省主催、東京市・大日本音楽協会後援、日比谷公会堂。12月11日にラジオ放送。
  第12回 昭和13年11月23日、国民音楽協会・文部省主催、東京市・大日本音楽協会後援、日比谷公会堂。12月11日にラジオ放送。
  第13回 昭和14年11月23日、国民音楽協会・文部省主催、東京市後援、日比谷公会堂。12月18日にラジオ放送。
  第14回 昭和15年11月23日、国民音楽協会主催、文部省・東京市後援、日比谷公会堂。
  第15回 昭和16年11月23日、国民音楽協会主催、文部省・情報局・東京市・日本文化中央聯盟後援、日比谷公会堂。
  第16回 昭和17年11月23日、国民音楽協会主催、文部省・情報局・東京府・東京市後援、日本文化中央聯盟・日本音楽文化協会協賛、日比谷公会堂。
  *第11回12回の文部省が主催か後援かは資料により異なる。
   「競演合唱祭」については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。(2015年7月17日)

  <玉川学園一行を出迎えた渡部景一先生の驚き>
  「当時、私(渡部景一)は新卒まもない教員(註10)で最末輩であったが、一里余を歩いて追分駅で出迎えた。一行はホームに降りて駅前に出ると突然軽快な合唱(註11)をはじめて私を驚かせた。
 その日(註12)、一行は、一里の道を歩いて現在の金足西小学校に着き、全校児童や父兄の前で倒立や転回などの連続した体操を披露し、それが終わると、ステージの上で合唱を発表した。体操も合唱も、これまで見た事も聞いた事もない新感覚のものであった。私は、ずっと後にオリンピックの体操を見て、これだなと思うようになった。
 その晩、一行は学校に泊まった(註13)。引率者は、団長の小原國芳校長(註14)、それに斎藤由理男先生、岡本敏明先生、その他一、二名いたかもしれない(註15)」。

  (註10) 金足西尋常高等小学校(現・秋田市立金足西小学校)
  (註11)「歓迎の歌」アメリカ唱歌 岡本敏明作詞・編曲を歌ったのでしょう。
  (註12)昭和十一年五月一日。
  (註13)学校の作法室と柔道室に泊まった。
  (註14『たまがわ』No,102玉川学園同窓会会報(平成七年四月一日発行)の<「どじょっこふなっこ」の新歌碑 秋田県に建立>には、“小原國芳先生引率の”と書いてある。
  (註15)ここでもわかるように、渡部景一の記憶にはあいまいな点が多い。

  【旅行の日程】 昭和十一年
  (1日目)四月二十八日、上野発 午後十時。車中一泊。
  (2日目)四月二十九日、大曲着 午前十時四十一分。
  実演:午後一時より会場は大曲尋常高等小学校(現・大仙市立大曲小学校)講堂。秋田県立大曲高等女学校(現・秋田県立大曲高等学校)の女学生、小学生、付近の先生方、一般人などが集まった。大曲・佐々木旅館宿泊。
  (3日目)四月三十日、大曲発 午前九時四十九分。十文字着 十時四十三分。 実演:午後二時より増田尋常高等小学校(現・横手市立増田小学校) 増田・旅館宿泊。
  (4日目)五月一日、十文字発 午前七時二十六分。追分着 十時十四分。
  金足西尋常高等小学校(現・秋田市立金足西小学校)で午後二時より公演。「どじょっこふなっこ」の採譜・混声三部合唱に作曲は、五月一日の晩、金足西小にてが正しい。
  金足西小に宿泊。作法室と柔道室に寝た。
  (5日目)五月二日、追分発 午前七時五十八分。本荘着 九時八分。
  ・午前十時より秋田県立本荘高等女学校(現・秋田県立由利高等学校)講堂で公演。講堂には女学生と附近の先生方だけ五〇〇人ばかり。昨夜の民謡「どじょっこ」を岡本先生が曲をつけて汽車の中で練習したのを早速、余興として発表。「どじょっこ ふなっこ」の混声四部合唱初演。体操部揃って記念撮影をした。記念撮影は、しばしば行われたが、メンバー全員で写すという決まりはなく、その時々で写っている人数はさまざま。
  ・午後二時より子吉尋常高等小学校(現・由利本荘市立子吉小学校)で公演。本荘・旅館宿泊。
  以下は森稔が記録した歌詞「東北公演旅行記」より。

     1 春になれば すがこもとけて  
       どじよつこだの ふなつこだの  

       夜が明けたと 思ふべな

     2 夏になれば 泳ぎ子だきて  
       どじよつこだの ふなつこだの  
       鬼こきただと 思ふべな

     3 秋になれば 木の葉こ落つて
       どじよつこだの ふなつこだの
       舟こきただと 思ふべな

     4 冬になれば すがこもはつて  
       どじよつこだの ふなつこだの
       天井こはつたと思ふべな

  (6日目)五月三日、本荘発 午後一時二十四分。西目着 一時三十四分。 実演:午後二時半より西目尋常小学校(現・由利本荘市立西目小学校)講堂で公演。小原先生のお話 体操 音楽。六時に終わる。一行は圓通寺に宿泊。本堂に寝る。
  ●日程に書かれている五月三日、実演:午後六時より(西目小学校)。泊まり(西目・小学校)。この記録は間違いということになります。

  (7日目)五月四日
  ・西目発 午前七時三十一分。酒田着 九時七分。
   実演:午前 山形県立酒田高等女学校(現・山形県立酒田西高等学校)では小原先生のお話と音楽。 体操には少し狭いというので自動車で小学校の体操場に移動。体操場は大きく日本一とか。小学校は遠足で見物は女学生と附近の先生方。小学校は琢成尋常高等小学校(現・酒田市立琢成小学校)の可能性が大きい。
  ・酒田発 午後〇時三十三分。鶴岡着 一時十三分。
  実演:午後二時より山形県立鶴岡高等女学校(現・山形県立鶴岡北高等学校) 五時頃終了。
  鶴岡発 午後六時三十三分。坂町着 八時五十三分。大矢弦司君の家に泊まる。家は旧家らしく旅館のような二階建ての大きな家。大矢君は旅行中、徴兵検査を受け甲種合格だった。大矢君のような地方からの学生・生徒のために玉川学園では宿舎があり、それを塾、そこで生活する者を塾生と呼んでいた。塾生は北海道から沖縄、外国からの留学生もいた。大矢君はその後どうなったか。 『玉川学園五十年史』の「玉川学園卒業生戦没者」に大矢弦司氏の氏名と写真があり、昭和十三年江西省戦死と記載されています。残念です。

  (8日目)五月五日
  ・午前、予定を変更して大矢君の卒業した保内(ほうない)村尋常高等小学校(現・村上市立保内小学校)で公演。小原先生のお話、体操、音楽。十二時に終了。
  ・午後二時 新発田着。そのまま新発田尋常高等小学校(現・新発田市立外ヶ輪(とがわ)小学校)に行き実演。
  新発田発 午後六時五十七分。新潟着 八時二十分。泊まりは新潟・旅館。

  (9日目)五月六日
  ・実演:午前九時より新潟市二葉高等小学校(市立二葉中を経て、現・新潟市立柳都中学校)。
  最後の公演。生徒が千八百人、職員が五十人、他の人たちも合わせて二千人以上の観衆。十二時半終了。食後、本場のおけさを聞かせてもらう。北原白秋の「砂山」をみんなで歌った。
  ・予定外の公演が午後からあった。小原先生の恩師が新潟県新潟師範学校(現・新潟大学教育学部)の校長だったので、頼まれて師範の講堂でも短時間実演した体操・音楽。その後、新潟農園のチューリップ見学をした。夕食後、新潟で一番大きなイタリヤ軒で最後のお別れの会を催した。新潟発 午後九時三十分。

  (10日目)五月七日 車中一泊。上野着 午前六時三十四分。

  <なぜ、間違いの5月2日が出版物に書かれ続けたか>
  ●井上隆明著『秋田のうたと音楽家』(秋田文化出版社)には、(岡本敏明が昭和11年5月2日秋田市金足小学校で採譜作曲)と書いてある。このうち「2日」と「金足小学校」は間違い。
 5月2日と間違えて書いたのには理由があります。渡部景一が『秋田さきがけ新聞』昭和49年11月18日付け文化欄に投稿した「どじょっこの歌」には“金足西小での作曲は、昭和十一年五月二日の晩ということになる”と書いているからです。
 しかし、平成6年10月29日、金足西小学校創立120周年記念祝賀会がJA追分生活センター(現・レゼール追分二階)で開催された時、渡部景一は自分の文章、文化欄投稿文に加筆訂正を加えた資料を会場内に配った。資料の“金足西小での作曲は、昭和十一年五月二日の晩ということになる”の脇に傍線が引かれ、これは誤りと書かれている。さらに“一行は五月一日、学校に泊まっているから、この歌の作曲は、五月一日の晩、金足西小にてということになる”と書き直している。井上隆明はじめ多くの研究者は、この訂正を見ていないことになる。

  【「石田玲水と中道松之助の対談」テープ】
 玉川学園には「石田玲水と中道松之助の対談」が収められたテープが残っていた(1977年)。両先生が「翌日(五月二日)玉川の一行は羽越線に乗った。そして「どじょっこ ふなっこ」を本荘高等女学校で初演」と言っているのは正しい。

  (司会)「岡本敏明先生が聞かれたのは、中道先生のうたをきかれて、それをヒントにして作られたというのは、これは確かですかね。あれは、場所はどこでしたか。」
  (石田玲水)「今は秋田市になっていますけれどもね、金足西小学校の宿直室なんですよ。それは、昭和11年の5月1日。玉川学園のね、学生が20人(註16)ですか、当時、玉川学園では、体育とね、体育というのは、デンマーク体操。あれとね、岡本先生のやっている音楽と両方でもってね、学生が東北地方を回ったことがあるんです。そのときに、小原先生もおいでになりましてね。斎藤由利男先生、それから岡本敏明先生おいでになりましてね。それで、私、ちょうど金足西に奉職していましたから、校長にお願いしてね、玉川の学生が来るんだから、ぜひ金足西でもやってくださいとお願いしまして、おいで願ってもらったわけですよ。
 あれは、演奏が済んだあとでね、その晩は、学校の作法室に泊まって(註17)もらったんですね。で、晩にね、宿直室に集まって、向うの学生と、それからこちらの先生方と集まって交歓会をやったわけです。向うの方は、もうお手の物で、次から次とその音楽をやったり、合唱をやったりしたわけですが、こちらの方はさっぱりね。やる先生が居らなかったわけです。そうしたところ、中道先生がいたわけです。そして、中道がうたったわけで・・・」
  (中道松之助)詩吟調でうたう。
     はあ~~春になれば~~スガモコとげて~~え~~
     どじょっこだの~~ふなっこだの~~よがあけたと 思んべな~~・・・

  こうやりましたところが、いきなり岡本敏明先生が人ごみの中を分けて、私の狭いところに、前のところにしゃがみました。そうして、ポケットから手帳を出して、今のをもう一ぺんやってけれ、と言われて、仕方なくて、この二回目の時には、すべて節をとって、秋田音頭がものしゃべる時のようなやり方をして二回目をやりました。
  それから、岡本敏明先生がちょっとの時間を、こう、沈黙しておったようでしたが、まもなく、こう、自分の前に手を上げて、そして自分が口ずさんでこれをうたいました。そうすると弟子方が全部そこに集まって来て、繰り返し繰り返しその歌をうたいました。
  したがって、この歌というものは、私のうたによって、岡本敏明先生が採譜して、その採譜によって、その場所において岡本敏明先生が作曲をしたものであります。
  その作曲した歌を、今度は自分のお弟子さんの学生と一緒に、これは男女の学生さん註18)ですが、これは一生懸命、なんべんも歌ったのです、ここのところで。これが、あの羽越線を通る時に車中でうたった。・・・」。

 (註16)引率の先生、男女学生・生徒、三十四名。
 (註17)作法室と柔道室に宿泊。
 (註18)中道が「男女の学生さん」と言っているのに注目したい。斉唱の可能性はなく、最初に発表したのは混声三部合唱でしょう。斉唱であれば、何度も歌う必要がない。「繰り返し繰り返しその歌をうたう」「一生懸命、なんべんも歌った」と言っている。

  【その後】
 渡部景一が『秋田さきがけ新聞』昭和49年11月18日付け文化欄に投稿した「どじょっこの歌」には、“この一行は、その晩、金足西小の教室に泊まり、翌日たった。由利方面に向かったはずである。このうたは、その晩、岡本先生の手で四部合唱(註19)に作られ、汽車の中で練習して、翌日、由利方面の最初の学校で発表されたという事を後で聞いた。”
  (註19) 渡部は、“四部合唱”の脇に傍線を引いている。これは、重要なことだからです。“四部合唱”は、混声四部合唱でしょう。

  【中道松之助は、なぜ元唄を知っていたのか】
  “「能代市の小学校に勤めていた当時、知り合いの女学校の先生から教えてもらった。その先生も同僚の先生から教えてもらったと聞いている」ということで詩のルーツは不明”(『さきがけ』昭和53年12月3日発行「秋田いしぶみ散歩」70による)。

  【「スガモコ」が「すがこも」に】
  渡部景一が『秋田さきがけ新聞』昭和49年11月18日付け文化欄に投稿した「どじょっこの歌」には、金足西小で中道がうたった歌詞が書いてある。
 しかし、平成6年10月29日、金足西小学校創立120周年記念祝賀会がJA追分生活センター(現・レゼール追分二階)で開催された時、渡部景一は自分の文章、文化欄投稿文に加筆訂正を加えた資料を会場内に配った。資料には次のような重大な事が書かれている。
  “『岡本敏明作曲集』では、「スガモコ」が「すがこも」、「よがあけたと」が「よるがあけたと」に変わっている。なぜ変わったかといえば、 私がそう教えたからである。中道先生が所用で席を立ったので、近くにいた私に岡本先生が来て、今の歌詞はなかなかおもしろいからといって、ノートにメモをとった。私が知っていた歌詞は、若い時から父に聞いていた物で、来客の席でよくうたっていた。私の出身は若美町払戸字渡部であるが、父が船越の農業倉庫に勤めていた頃同僚から教えてもらったものだという”。

  ●『全人教育』No.564玉川学園(平成七年六月十日発行)の<「どじょっこふなっこ」誕生秘話>梅沢一彦著には、“しばらくしてその場でメロディのみを発表し”と書いてある。ハモル合唱(ハーモニー(和声)をつけて歌う)の普及に力を注いでいた岡本敏明が、大勢の先生や生徒の前で“メロディのみを発表”したというのはおかしい。
  ●井上隆明著『秋田のうたと音楽家』(秋田文化出版社)に掲載されている楽譜は「女声三部合唱」で間違っている。この楽譜は、いろいろな出版物、名刺などに使われている。初演は「混声三部合唱」、その後「混声四部合唱」です。
  ●『秋田のうたと音楽家』に掲載されている〔鹿角地方原詞〕にはタイトルがない。タイトルは「泥鰌ッコの詩」です。
 “註・「秋田」昭和48年10月号に拠る”と書いてあるが、この詩は、昭和四十八年八月、清志の長男(清一)が詩碑建立記念品として詩の全四節を風呂敷に染めて親族などに贈った詩です。これを「秋田」が昭和48年10月号に掲載した物です。  「夜明けッコ来だど 思うべェね」は間違い。「夜明けッコァ来だど 思ふべェね」が正しい。他にも違っている箇所が沢山ある。

  【「どじょっこふなっこ」誕生の秘話】   註は池田小百合による
 岡本敏明は、次のように書き残している。「私の履歴書」岡本敏明著
   “一九三六(昭一一)年春、玉川学園小・中学生の合唱団三十名(註20)は、玉川学園の教育を地方に実際に見てもらう意味で、今日でいう演奏旅行に秋田、山形、新潟方面に出かけた。
 各地で演奏したものはせいぜいハレルヤ・コーラス程度のものであったが、日本中の公立中学校は戦前は男女共学でなかったので、はじめて聴く混声合唱の響きに東北の小・中学校の生徒さん、先生方、肝をひやした態であった。
 まだ雪の残っている秋田市外の山道を一里くらいあるいて行った山里の学校(註21)で演奏が終わってから、校長さん、村長さん、先生方、村人たちの歓迎レセプションという次第。料理が出、うた所の秋田だから歌がつぎつぎと出るはずなのに、玉川の生徒の歌声におされて秋田勢の歌声とみにあがらぬ様子。
 校長さん、しびれをきらして「橋本君(註22)、君何かやらんか」と。命令された新任の橋本先生、しばし沈黙ややあって「春になれば氷(すが)こもとけて、どじょっこだのふなっこだの、夜があけたとおもうべな」と詩吟を朗唱するような調子でうたい出した。ここまで聴いたとたん私は「ちょっと待ってください。もう一度一番からゆっくりやってください」と頼んだ。私がこの時にこれはおもしろい歌であると瞬間的に気がつかなかったならば、この歌は日本に永久に曲として残らなかったであろう。
 その場ですぐ男声合唱(註23)に作曲して宴会が終わる頃までには曲が出来上がって合唱団はもう三部合唱(註24)でご披露して大うけ。これが「どじょっこふなっこ」誕生の秘話であり、玉川学園はこのようにして時と場所をかまわず次から次へと笑いと喜びと友情の輪をその周辺に広げていったのである。” (岡本敏明先生追悼文集「岡本先生と私たち」より/昭和五十八年刊)
  (註20) 「小・中学生の合唱団三十名」は小学部の児童はいない。引率の先生、男女学生・生徒、三十四名。
  (註21)「山里の学校」は金足西尋常高等小学校
  (註22)「橋本君」は中道松之助先生
  (註23)「男声合唱」は混声合唱
  (註24)「三部合唱」は混声三部合唱

 上記の文章の「その場ですぐ男声合唱に作曲して宴会が終わる頃までには曲が出来上がって合唱団はもう三部合唱でご披露して大うけ」。これはハレルヤ・コーラスが混声合唱だったのに奇妙である。正しく直してみます。「その場ですぐ混声合唱に作曲して宴会が終わる頃までには曲が出来上がって合唱団はもう混声三部合唱でご披露して大うけ」。これが正しい事実であろう。このことを裏付けるように『中学の音楽』(講談社)昭和40年1月20日発行(昭和36年4月20日 文部省検定済)には、「どじょっこ ふなっこ」が混声三部合唱、変ホ長調、四分の二拍子で掲載されている。歌われたのは、この楽譜であろう。〔著作者 岡本敏明・小山章三・高山清司・柳田昱 也〕



  【岡本敏明の歌碑について】

柿生霊園の歌碑

  岡本敏明が眠る
神奈川県川崎市
柿生(かきお)霊園
にある歌碑の歌詞は、
全節が平仮名で書かれ、
「はるになれば 
すがこもとけて」
となっています。

  【「泥鰌(どじょ)ッコの詩(うた)」について】


▲明治三十五年、秋田県鹿角(かづの)市で豊口清志・採録。

▲詩碑建立記念の際に記念品として贈られた風呂敷の写真

  昭和四十八年(1973年)八月、豊口清志の長男(清一)が詩碑建立記念品として詩の全四節を風呂敷に染めて親族などに贈った物が残っている。清一書。これには、“泥鰌ッコの詩 豊口清志遺作”と書いてある。清一は、「私はちいさいときから父の作であると聞かされていた」と書き残している。
 風呂敷の写真は豊口秀一氏提供、貴重な物を、ありがとうございました(平成十八年八月二十三日)。

 豊口清志の縁戚にあたる豊口秀一氏(秋田県鹿角(かづの)市十和田毛馬内(けまない)在住からの手紙(平成七年十二月二十九日)によると、“一番の歌詞に「しがまッコ」とあるのが鹿角地方の言葉で、秋田市の金足地方では「しがッコ」と表現しております。歌い継がれている途中でその地方の表現言葉が使用されているようです。”と教えていただきました。豊口清志は、豊口秀一氏の大叔父にあたる。

  【豊口清志の詩碑について】


               豊口清志 作詞
 春になればしがまこぁとげで
   どじょっこだの ふなっこだの
   夜が明げだと思べぁな
       
  昭和四十六年七月十三日 豊口清一建立
               老松庵書


             

  秋田県鹿角市十和田毛馬内の仁叟寺(じんそうじ・南部藩桜庭氏の菩提寺)境内の一角に豊口清志の採録として詩碑があります。ここは豊口清志の菩提寺。  詩碑は豊口清志の長男(清一)が昭和四十六年(1971年)七月十三日に建立。春の一節だけ刻まれていて、「春になれば しがまこぁとげで」となっています。「ぁ」は小さく見える。貴重な拓本は豊口秀一氏から送っていただきました。ありがとうございました(平成十八年八月三十日)。

  ●「どじょっこふなっこの歌を楽しむ会」事務局からの回答の“鹿角市毛馬内にある詩碑には「秋」の一節だけ刻まれている”というのは間違いということになります(平成七年八月三日)。「春の一節だけ刻まれている」が正しい。
  ●第12回「どじょっこふなっこの歌を楽しむ集い」プログラムの“仁叟寺にも、1973年に建てられた歌碑も存在している”は間違い。仁叟寺にあるのは「詩碑」です。「昭和四十六年(1971年)七月十三日に建立」が正しい。「1973年」は、清志の長男(清一)が詩碑建立記念品として詩の全四節を風呂敷に染めて親族などに贈った年です。

  <事務局からの回答やプログラムの間違いについて>
 理由があります。渡部景一は『秋田さきがけ新聞』昭和49年11月18日付け文化欄に「どじょっこの歌」を投稿した。
 しかし、平成6年10月29日、金足西小学校創立120周年記念祝賀会がJA追分生活センター(現・レゼール追分二階)で開催された時、渡部景一は自分の文章、文化欄投稿文に続いて、自筆で訂正した資料を会場内に配った。自筆で訂正した文には次のような間違いが書いてあった。
  “「どじょっこふなっこ」の詩碑  鹿角市毛馬内
  豊口清志作詞(毛馬内出身)昭和二七、七、三没、70才(註25)。
  長男清一氏。昭和四八年建設(註26)。秋の一節だけ(註27)。高さ一・四m、黒御影。(「あきた」昭和五二年十一月号による)”

  (註25)昭和二十七年七月二日没、六十七才。これが正しい。
  (註26)昭和四十六年建設。“昭和四八年”は、清志の長男(清一)が詩碑建立記念品として詩の全四節を風呂敷に染めて親族などに贈った年です。
  (註27)春の一節だけ。これが正しい。
  改悪になってしまったのは、渡部景一が(「あきた」昭和五二年十一月号)を写しただけで、自分で調査しなかったからです。これを「どじょっこふなっこの歌を楽しむ会」事務局からの回答やプログラムに使ったため間違ってしまった。

  ●碑文の「昭和四十六年七月十三日 豊口清一建立」の「六」の字は草書体で「 」のように書かれているため、「二」に見えるので間違って伝えられている。「昭和四十六年」が正しい。
 これは、どう見ても「二」に見えるので、碑のわきに立札で説明が必要のようです。

  ●DVD『歌碑をたずねて』~童謡・名曲の旅~シリーズ北海道・東北編(King Record)に「どじょっこふなっこ」の歌碑が出ているという宣伝を見て、早速セットを購入した私、著者・池田小百合は、目を疑いました。“どじょっこふなっこ 秋田〔鹿角市〕昭和42年7月13日建立(資料・写真提供:鹿角市役所)”と書いてあったからです。これで、全国に間違いが知れ渡ってしまいました。写真を提供した鹿角市役所は、「昭和42年」建立という認識のようです。「昭和四十六年」が正しい。
  (註)このDVDの解説は、先に示した「私の履歴書」岡本敏明著を参考にして書いています。
  出典を明らかにしてほしいものです。

  ●豊口秀一氏の手紙によると、
 “碑文には「しがまこあ」と刻まれていますが、こちらの方言上から、ニュアンスが異なり、「しがまッコア とげで」の「ッ」は、のむような感じとなります。
 碑文を書いた方は、旧十和田町の教育委員長をされた高橋克三先生ですが、岡本先生の詩文と混合したようで、高橋先生は、碑文を間違えたようです。資料として清一が書いた「文書」と「風呂敷の写真」を送ります”
 貴重な資料をありがとうございました(平成十八年八月二十三日)。

  ●豊口清一は、「詩碑除幕式と法要の礼文」(昭和四十八年八月二十五日)の中で、“碑に刻まれた「春になれば」の最後のくだり「夜が明けた」は私の記憶では「夜明けッコァ来た」でありましたので風呂敷に染めたものと違うこととなりました。”と書いている。できあがった詩碑は、自分が思っていた物ではなかったようだ。碑石も思っていた物と違うものだった。清一は、かなりがっかりしたように読める。
  (註)私、著者・池田小百合は、清一の記憶「夜明けッコァ来だど 思ふべェね」の方が正しいと思う。なぜなら、夏は「鬼ッコァ来だど」、秋は「舟ッコァ来だど」、冬は「天井ッコァはったど」となっているからです。春だけが「夜が明けた」では変です。岡本敏明作曲の歌詞は「夜が明けた」です。豊口秀一氏の手紙に書いてあるように、“岡本先生の詩文と混合したようで、高橋先生は、碑文を間違えたようです。”

  <昭和四十六年七月十三日 豊口清一建立のこだわり>
 豊口清一は、「歌碑除幕式と法要の礼文」の中で、“刻まれた年月日「昭和四十六年七月十三日」は、私の還暦の日にあたりますので、それまでに建てたいと思っていたのであります”と書いている。この日、「七月十三日」は豊口清一の誕生日であり、「昭和四十六年」は還暦の祝いの日ということになる。間違えてはいけない重要な年月日です。

  風呂敷の写真 「泥鰌ッコの詩 豊口清志遺作」として清一が碑に刻みたかった一番の春 ⇒

  <なぜ詩碑を建立しようとしたか>
  豊口清一は、「詩碑の建立にあたって」という文を残している。次の文から清一が、なぜ詩碑を建立しようとしたかがわかります。
  “従妹(いとこ)と会った時、「泥鰌(どじょ)ッコの詩(うた)」のことに話が及んだ時、彼女は小学校(毛馬内)の頃、先生からこの詩(うた)を習ったと云い、その時先生は、この詩(うた)が多助屋のオンチャマが作ったのだと教えられたので誇らしく思ったのを覚えて居ると云う事でありました。それならば詩碑の建立こそ父への供養と思い立ちました。
  多助屋は毛馬内中町の糀屋、豊口秀一宅(私共の本家)の屋号である事は郷里に在住の皆様がご存知の通りであり、オンチャマは次男のこと即ち父清志のことであります”。
 多助屋は、天保十二年からの麴屋(こうじや)。

  <続柄>
  平成七年十二月二十九日現在、豊口秀一氏による。
  ●長男の名前は「清一」です。秀一氏の直筆の「精一」は間違い。
 豊口秀一氏の手紙(平成十四年三月九日)によると、“分家の伯父母・叔父母も逝き、「どじょっこふなっこ」の歌の内容的な話を出来るのが私だけとなりました。”とある。私、著者・池田小百合は、豊口秀一氏と親しくさせていただき、毎年、年賀状の交流があります。今年(平成二十六年元旦)も、新年の挨拶をいただきました。
 鹿角市では午後四時のチャイムとして、この曲を使っています。

  【秋田市立金足西小学校の歌碑について】

  「どじょっこ ふなっこ」の歌碑は、秋田県秋田市立金足西小学校の校庭にある。歌詞は「春になれば氷(すが)こも解けて」で、「氷(すが)」とルビがしてある。
 創立百二十周年を迎えた金足西小学校は、その記念に「どじょっこふなっこ」誕生の由来を後生に残すため、これまでの小さな歌碑を立派な歌碑に立て替えようと、PTAが中心になって努力、平成七年(1995年)三月八日の開校記念日に新しい歌碑の除幕式が行なわれました。以来、同校では毎年「どじょっこ ふなっこの歌を楽しむ集い」を開催している。平成七年九月三十日の第一回より、すでに十九回(現・平成二十五年)を数える。「どじょっこふなっこの歌を楽しむ会」事務局は秋田市金足追分の藤原正三方。
 歌碑の前面には楽譜と歌詞、裏面には渡部景一が書いた「どじょっこふなっこ」の由来があります。裏面は次のようですが、森稔「東北公園旅行記 体操部 音楽部」(昭和11年)の記録により、由来文に間違いがあることが分かりました。。


  <正しい記録>

・金足西小学校の
当時の校名は
金足西尋常高等小学校


・この歌を最初に発表した
ところは
本庄高等女学校


  【昭和45年『愛吟集』について】
  ▼玉川学園の『愛吟集』(昭和四十五年、平成十年出版)。


  タイトルが「どじょっこ ふなっこ」になっている。“東北地方方言による”と変わっている。岡本敏明作曲。単純な混声四部合唱でなく、本格的な合唱曲に岡本敏明が編曲した。
 歌詞は「すがこもとけて」。混声四部合唱、Es Dur。
 これが「どじょっこ ふなっこ」の決定版楽譜。最後はハレルヤコーラスのようになっているのが特長。ここが決まると拍手喝采となる。最大の見せ場で、指揮者の腕の見せ所です。歌詞は「はるになれば すがこもとけて」となっている。残念な事に、岡本敏明自身が指揮をした以上にうまく歌わせた指揮者を見た事がない。

 <歌い方について>
 歌い方をいろいろくふうしてみましょう。
 ・最初は二拍子、春の歌は楽しく、のびやかに(モデラート)
 ・夏の歌は元気よく(アレグロ)
 ・秋の歌はしんみりと四拍子で(アンダンテ)・・・最後の和音をフェルマータ
 ・冬の歌は思い切り元気いっぱいに歌って(ビュー・アレグロ)、最終音の「おもうべな」の「な」は、未練を残さずに軽く切ってしまう。
  演奏会用編曲は、カワイ合唱名曲選[G22]の中にあります(岡本敏明著『実践的音楽教育論』(カワイ楽譜)による)。

  【岡本敏明の略歴】
 ・作曲者の岡本敏明は、明治四十年(1907年)三月二十九日、宮崎県宮崎市に生まれました。父は組合教会牧師・岡本松籟。父は同志社神学校で伝道に従事。教会に於いてオルガンの音を聴きつつ育った。そして日本国中を二~三年程度の長さで転々とする幼少期を過ごした。母は教会での礼拝のオルガンを担当しつつ、牧師夫人として務めを果たし、多忙な毎日を送っていた。
(註)「どじょっこ ふなっこ」の解説を書いている研究者の中には、讃美歌が混声四部合唱であることを認識していない人が多いようです。
  ・大正三年(1914年)、福島県師範学校付属小学校入学。
  ・大正八年、福島県立福島中学校入学。
  ・大正十三年三月、福島県立福島中学校卒業。 家庭環境もあって中学生の頃から、音楽学校への進学を志すようになった。
  ・大正十五年(1926年)、一回生として入学した東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)の高等師範科では、作曲の出来る教師となるために研鑽を積んだ。 在学中は片山頴太郎、H・ウェルクマイスターに作曲を学び、卒業後は成田為三に師事した。
  (註)大正十五年四月、国立音楽大学の前身「東京高等音楽学院」設立。東京市四谷区番衆町の仮校舎で開校。十一月に国分寺と立川の間にある国立(くにたち)に移転した。
  ・昭和四年(1929年)三月、東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)高等師範科を卒業。
  ・昭和四年四月四日、玉川学園の校歌を作曲した。作詞の田尾一一(たおかずいち)は、小原國芳の香川県師範学校時代の教え子で玉川学園創立当時は教頭。後の東京藝術大学音楽学部長。八日、開校式で校歌(混声四部合唱)が発表された。歌詞は三番まである。
  ・昭和四年四月八日、小原國芳が新たに作った玉川学園の小学部・中学部教諭兼任。
  ・昭和五年四月、高等部教諭となる。
  (註)昭和四年四月八日、開校式挙行、幼稚部・小学部・中学部、塾生で生徒数百十一人、教職員十八人。昭和五年四月十日、高等女学校開校。

 昭和三十三年まで約三十年間、小原國芳園長の下で玉川学園の生活の歌を育成(この間、成城学園・和光学園にも兼務した)。 玉川の丘では、「歌に始まり、歌に終わる」といわれるほど、「音楽」が学校生活の一部としてとけこんでいる。 このような音楽的環境の基盤は、創立期より音楽教育に邁進した岡本敏明によって創り上げられた。
 創立当初の頃の玉川学園には、ピアノも音楽室もなく、今日と比べて必ずしも教育環境が十分でなかった。 それでも岡本は、「子供たちが飛びついてうたえる歌、うたっている内に自然に合唱になる歌」を次々に作曲し、同時に子供たちに教えた。 朝、昼、夕方の歌、歓迎の歌、別れの歌といった学校生活に密着して生まれた音楽は、数百曲以上ともいわれている。 とりわけ、キリスト教的色彩を持つ本学園と生徒たちが、讃美歌の混声四部合唱の響きを自然と身につけていったことが特徴といえる。このため、普段歌う音楽も合唱的な曲が多くなっていった。
 このように生活の中における大小様々な音楽を通じて、玉川の生徒たちは、知らず知らずのうちに合唱に対する感覚を身につけていった。 当時は、特に中学生の混声合唱団はとても珍しく、その歌唱力に高い評価を得ていた。

  ・昭和十年から母校の東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)に兼務。
  (註)昭和二十二年(1947年)七月、東京高等音楽学院は「国立音楽学校」と校名変更。
  ・昭和十一年から十三年の国民音楽協会と東京市主催の「競演合唱祭」(現・全日本合唱コンクール。 NHK主催のものではなく、全日本合唱連盟と朝日新聞社の共催のコンクールの前身)では、三年連続で総合第一位を受賞した。
  ●インターネット上、「競演合唱祭」(現・NHK全国学校音楽コンクール)と書いてあるものは、間違いという事になります。
  ・昭和十一年、「どじょっこふなっこ」作曲。
  ・昭和十五年、日本放送協会嘱託(十九年まで)、日本放送合唱団を指揮する。
  (註)日本放送合唱団は、日本放送協会が昭和十四年十二月放送専門の合唱団を募集し、昭和十五年一月二十七日結成された。昭和十五年二月十一日、第一回放送。昭和十九年十二月東京放送合唱団(東唱)となる。もとのJOAK合唱隊。
  ・昭和二十一年、文部省音楽教科書審議委員(国定教科書)となる。
  ・昭和二十二年、文部省音楽図書編纂委員。文部省小・中・高等学校教科書作成に協力(~二十三年)。文部省音楽学習指導要領編纂委員となる(~二十六年)。 輪唱や合唱を取り入れた、楽しい音楽の普及に努めました。戦後の音楽教育の方向を示し、国の音楽教育に大きく貢献しました。
  (註)昭和二十一年六月、文部省は暫定音楽教科書七冊(初等科用六冊、高等科用一冊)を作った。昭和二十二年五月から七月にかけて新主旨に基づく編集による音楽教科書を発行した。昭和二十四年からは各出版社の発行する民間の検定唱歌教科書が文部省唱歌に代わって、全国の小・中学校で用いられることに決まり、現在に及んでいる。
  ・昭和二十三年、全日本学生音楽コンクール(毎日新聞)の審査委員となる(~二十五年)。関東合唱連盟理事。
  ・昭和二十四年、玉川大学教授。
  ・昭和二十五年四月、国立音楽大学教授となり音楽教育・音楽理論・合唱を担当。
  (註)昭和二十五年(1950年)二月、「国立音楽大学」認可。有馬大五郎学長。声楽、器楽、作曲学科の他に楽理学科、教育音楽学科を新設。
  ・昭和二十五年、全日本学生音楽コンクール合唱部門審査委員。
  ・昭和二十六年、文部省音楽教科書検定委員となる。
  ・昭和二十七年、全日本合唱連盟朝日新聞社主催合唱コンクール課題曲審査委員。
  ・昭和三十年、関東合唱連盟理事長。
  ・昭和三十三年、玉川大学教授辞任。米国国務省の招待で、「北米及びヨーロッパの音楽教育と音楽事情」を視察(三月十二日から八月十五日)。 全米音楽教育者協議会(MENC)ロスアンジエルス大会にて講演。演題「日本の学校唱歌教材にあらわれた西洋音楽の影響について」。
  ・昭和五十年、国立音楽大学退職。四月、国立音楽大学名誉教授。
  ・昭和五十二年(1977年)十月二十一日逝去。勲三等瑞宝章受賞。

  東京上京以来亡くなるまで日本基督教団弓町本郷教会に所属しオルガニスト、聖歌隊指導者として活躍する傍ら、宗教音楽活動は教会内に留まらず東京YMCA合唱団の設立に携わり初代指揮者となった。また日本基督教団讃美歌委員としても活躍。
  「浜辺の歌」「赤い鳥小鳥」「りすりす小栗鼠」の作曲者、成田爲三に師事。その関係で、成田が突然亡くなると、一人になってしまった文子夫人は、爲三の門下生の岡本の家(小田急線玉川学園前駅に近い丘にあった)で家族と一緒に住む事になった。その後、文子夫人は高齢者介護施設「浜名湖エデンの園」に住み、亡くなった。

 インターネット上に岡本敏明の紹介があり、これが一般的に使われている。間違いがあるので正してみました。
  “当時は、特に中学生の混声合唱団はとても珍しく、その歌唱力に高い評価を得ていた。昭和11年から13年の国民音楽協会と東京市主催の「競演合唱祭」(現・NHK全国学校音楽コンクール)現・全日本合唱コンクール。NHK主催のものではなく、全日本合唱連盟と朝日新聞社の共催のコンクールの前身)では、3年連続で総合第1位を受賞したことは、それを物語っている”。
  集合写真の説明も間違っている。“第10回「競演合唱祭」1938(昭和13)年1936(昭和11)年11月23日於:日比谷公会堂”。
  “「どじょっこふなっこ」は、玉川学園の合唱団デンマーク体操と合唱の公演旅行団が、1936(昭和11)年の五月一日に、秋田市金足西尋常高等小学校(現・秋田市立金足西小学校)を訪問した際の歓迎会のときに誕生したものである。訪問先のある先生中道松之助先生が、詩吟を朗唱するように、「春になれば氷(すが)こもとけて、どじょっこだのふなっこだの、夜があけたとおもうべな」と、歌ったところ、岡本が瞬間的に興味を示し、その場で男声合唱用混声合唱用に採譜を始めたのだ。やがて会が終わる頃になると、今度は生徒たちが、混声三部の合唱で「どじょっこふなっこ」を先生方に披露した。会場内は大いに盛り上がったという 曲が出来上がり、混声三部合唱を披露して拍手を浴びた。翌日、移動の車中にて練習 し、次の訪問校である秋田県立本荘高等女学校(現・秋田県立由利高等学校)で午前 十時より、混声四部合唱を発表(初演)しました。以来、全国で愛唱されています。

 <発声練習について>
  岡本敏明著『実践的音楽教育論』(カワイ楽譜)には、発声練習について次のように書いてあります。
 “合唱練習に先立って、必ず発声練習をしなければ気が済まない指揮者も多いようです。発声練習おおいに結構。けれども合唱練習の中で、いくらでも発声練習はできます。合唱練習が発声練習でもあるのです。それなのに、総練習の四分の一は発声練習ときめてかかって、機械的な発声練習を繰り返す人がいますが、いささか、無駄が多いのではないかと思うのです。
 先日、アメリカのコーネル大学グリー・クラブ来演の折、指揮者ソコル氏と在京のアマチュア合唱団の指揮者との懇談会があった時、ある大学の指揮者が、「アメリカでは合唱の前の発声練習を、どのように、何分ぐらいやっているか」と質問しました。ソコル氏は、この質問の意味すらも諒解しかねているようでしたが、「格別に発声練習だけをとりあげてするということはない。合唱の練習の中で、たえず、気を配って発声を正している」と答えていましたが、外人指揮者にいわれるまでもなく、まことにあたりまえのことと思うのです”。
  岡本敏明著『実践的音楽教育論』には「中学校における混声三部合唱」「中学校における混声四部合唱」についても書いてあります。必見です。

 <「かえるの合唱」について>
  昭和二十二年版『四年生の音楽』(文部省)に掲載された。タイトルは「かえるの合唱」です。作詞 岡本敏明、作曲 ドイツ曲とある。
  「かえるのうたが きこえてくるよ」という歌いだしなので、「かえるの歌」というタイトルと思っている人が多いようです。
  昭和二十二年版での蛙のなきかたは「クワ クワ クワ クワ、ケケケケ、ケケケケ、クワクワクワ」。楽譜はヘ長調、四分の二拍子、四つの組に分かれて歌う四声輪唱。この曲は、子供たちに人気の曲で、合唱ブームのきっかけとなりました。

▲昭和二十二年版『四年生の音楽』(文部省)の「かえるの合唱」
 
▲「蛙の合唱(Froschgesang)」岡本敏明作詞 ドイツ曲。
 岡本敏明著『実践的音楽教育論』(カワイ楽譜,昭和41年8月5日 第一刷発行 
 昭和44年2月20日 第三刷発行) 31ページ掲載楽譜 解説は岡本敏明による

 <平成二十一年版の扱い>
 三冊共、タイトルは「かえるのがっしょう」で同じ。蛙の声と指導内容に違いがある。
  ・『新しい音楽 2』(東京書籍)
  蛙「クワックワッ クワックワッ ケロケロケロケロ クワックワックワッ」。「さあ がっそうしよう」鍵盤ハーモニカ、タンブリン、鈴、木琴の演奏写真が掲載されている。
  「2くみに わかれて りんしょうもしてみよう」、〔歌だけの時はヘ長調で〕と書いてある。
  ・『小学生の音楽 2』(教育芸術社)
  蛙「クヮックヮッ クヮックヮッ ケロケロケロケロ クヮックヮックヮッ」。
  「2つの くみに わかれて えんそうしましょう」鍵盤楽器の指導になっている。
  ・『音楽のおくりもの 2』(教育出版)
  蛙の声「クヮクヮ クヮクヮ ケロケロケロケロ クヮクヮクヮ」。
   「歌や楽きでおいかけっこをしよう」
   「かえるの声の ことばを かえて あそんでね。<れい>ケロ グヮ」

  【豊口清志の略伝】
  ・採録者の豊口清志は、明治十八年(1885年)二月六日、麴屋・多助屋、豊口勇蔵の次男として毛馬内村(現・鹿角市毛馬内中町)に生まれた。
  ・明治三十二年二月、毛馬内小学校高等科四年卒業。
  ・明治三十三年十月、花輪本科准教員乙種検定準備場卒業。
  ・明治三十四年二月または三月、秋田師範学校受験のために秋田に行った。

  <豊口清志が即興的に吟じた>
 息子の清一の証言が残っている。
  “父と石田一学先生その他何人かが、鹿角から師範学校の入学試験を受けに秋田へ行ったそうです。そして県内各地から来た受験生が旅館で一緒になり、二、三日を共にすごした。やがて試験が終わり解散の会合が開かれ、各地の余興が始まり、父(清志)の番が来ました。父は歌も知らず、従って上手でもなかったので、即興にこの詩「泥鰌ッコの詩」を作り、詩吟の節でうたいあげたというのであります。”(「秋田」昭和48年10月号掲載)。
  (註)この証言は、あらゆる出版物で面白おかしく書きかえられ、中には「恒例のうさ晴らしコンパが催された」などというのもある。使う時は出典をあきらかにしてほしいものです。それはルールです。
  ・秋田師範学校受験に失敗。
  ・明治三十五年から不老倉小学校、七滝小学校、山根分校、草木小学校などを准訓導(代用教員)として転々とした。休日には若い教員たちは、宿直室に集まり、酒席になると詩吟調で「泥鰌ッコの詩」を唄った。忘年会でも。複数の人の証言があることから、この時期に教師仲間に流行したようです。
  ・明治三十八年、弘前五十二連隊で兵役。
  ・除隊後は教師に戻らず、兄・秀太郎と共に家業に就く。一時、郷土の先輩米沢万陸に近づくため日立鉱山の精錬夫に身を投じたり、小坂鉱山の煙害問題で農民代表に付き添い、大阪藤田本社まで交渉に赴くこともあった。
  ・大正初め、のれん分けして花輪六日町に分家、独立した。小坂、尾去沢など鉱山の発展につれて郡内の鉱山へ米納入、商売の基礎も固まり、東京市場に出荷するまでの大店になったが、第一次世界大戦後の米相場の大変動で商売に失敗。金物雑貨、古書などと商売を変える。
  ・昭和二十七年(1952年)七月二日、六十七歳で亡くなりました。
  『かづの新聞』昭和42年3月26日発行 第1781号には、“昭和二十七年、六十七歳で亡くなりました。”と書いてある。これが正しい。
  ●「どじょっこふなっこ歌碑建立除幕式」(平成七年三月八日)プログラムに、「昭和二十九年六十歳で病没」と書いてあるのは間違いという事になります。

  豊口清志は、俳号を持つ趣味人で、俳号を村子(そんし)、後に精蓮(精錬夫の経験にちなむ)といった。句会に弘前、五所川原などへでかけている。後年、五所川原へは米を買いにでかけるほど親しい知人がいた。戦時中は弘前の五十二聯隊に所属していた。このような場所で自分が作った「泥鰌ッコの詩」を歌ったに違いない、そうして広まったのだろうと、清一は考えていたようです。清一は、風呂敷に書き記したように「泥鰌ッコの詩」を正確に覚えていた。
 元歌については、いろいろな研究が発表されています。青森県木造地方の田植唄、南部地方(岩手・青森にまたがる旧南部藩)、津軽地方の古謡など類似する歌があるが、どれも、複雑な詩と民謡調の難しい節回しの唄です。豊口清志は、鹿角地方に伝わっていた唄を聴き覚えていて、簡単な歌詞にまとめ、自分で歌いやすい節を付けて歌ったので、これが広まったのでしょう。
  ●井上隆明著『秋田のうたと音楽家』(秋田文化出版社)の「静蓮」は間違い。「「精蓮」が正しい。

  【『日本の唱歌』での扱い】
 金田一春彦 安西愛子編『日本の唱歌』〔中〕大正・昭和篇(講談社文庫)では、タイトルは「どじょっこふなっこ」東北方言による。初出は『青年歌集』(一)昭23・8と紹介してある。楽譜は岡本敏明作曲として混声四部合唱(Es Dur)の楽譜が掲載されている。 解説には“元歌は青森県の民謡。田植唄、わらべ唄として歌われていた。これをヒントに、新たに作詞・作曲されたと思われる。参考までに、町田嘉章編の『日本民謡大観 東北篇』所蔵の舘山甲午氏の採譜による元歌の「田植唄」を掲げれば、「春くれば、田堰(たぜき)、小堰(こぜき)サ水コア出る。泥鰌(どじょ)コ鰍(かじか)コアせア、喜んで喜んで、海サ入(はえ)ったと、思うべアネ、コリャコリャ。」四番まである。”
  次の一ページを割いて「田植唄」(陸奥国西津軽郡木造町)の楽譜も紹介している。そして、「どうしてこの元歌を生かさなかったのだろうか。」と疑問に思っている。 この解説には、昭和十一年(1936年)五月一日、玉川学園の公演旅行団の一行が、秋田の金足(かなあし)西尋常高等小学校(現・秋田市立金足西小学校)を訪れた事が書かれていない。当日の夜の歓迎会で同校の中道松之助先生が、余興として「どじょっこ ふなっこ」の元唄を詩吟調で愉快に歌ったのは、舘山甲午氏の採譜による元歌の「田植唄」ではなく、豊口清志採録の「泥鰌(どじょ)ッコの詩(うた)」の方です。 金田一春彦氏は、玉川大学の客員教授だった事があるので、この事を知らないはずがない。金田一春彦 安西愛子編『日本の唱歌』〔上 中 下〕(講談社文庫)の解説には、「冬の星座」にも書いたように、時々「金田一春彦・安西愛子が書いた文章ではない」と思えるような表現があります。

 【NHKみんなのうた】
 「NHKみんなのうた」で放送された記録があります。 歌:中村浩子 作詞:東北地方民謡 作曲:岡本敏明 編曲:服部公一  映像:木馬座
 昭和36年(1961年)4月~5月放送。

  【後記】
  〔その1〕 私、著者池田小百合は、豊口秀一氏から沢山の資料をいただき、この論文を書いて持っていました。インターネットのYouTubeで玉川学園・岡本敏明・国立音楽大学の関係者が「どじょっこふなっこ」を歌っているのを見て、ウェッブ「池田小百合なっとく童謡・唱歌」に掲載する事にしました。

  〔その2〕 私、池田小百合が主宰している童謡の会では、この二十五年間に二、三回しか歌っていない。斉唱で歌っても、おもしろくなかった。ある日、山形県に住んでいた義母(詩吟の師匠をしていた、1999年病没)に「どじょっこふなっこ」を歌ってもらった。東北なまりのその歌声は、「すがこ」か「しがこ」か、などを超越していて、今までに聞いた誰よりもうまく、感動的でした。一緒に歌っても、神奈川県人の私は、全く理解できなかった。東北なまりの「し」と「す」は同じ音なのである(東北方言 Wikipedia参照・・・裏日本式音韻)。その後、私の童謡の会では、リクエストは沢山あるが、歌っていない。
 秋田市立金足西小学校の「どじょっこふなっこの歌を楽しむ集い」が今年二十周年を迎えるのを機会に、私の童謡の会でも「どじょっこ ふなっこ」の決定版楽譜で歌ってみようと思っています。
 みなさんも、楽しく歌って下さい。(2014年元旦)

  [その3]
  「前の玉川学園の園長が中学生の時、東北の公演旅行(昭和十一(1936)年)に同行していた」という情報を、どこかで読んだか聞いたかした事を最近思い出しました。
  そこで思い切って、玉川学園の小原芳明園長に手紙を出しました。すると玉川学園教育企画部秘書課から、小原國芳編『教育日本』五月号(昭和十一年六月二十日発行)掲載、森稔著「東北公演旅行記 体操部 音楽部」のコピーが送られて来ました(平成27年7月2日)。「どじょっこ ふなっこ」の最も重要な資料です。
  まず、「東北公演旅行記」が存在していた事に驚きました。玉川学園の関係者の方々が今まで気がつかなかった事が不思議です。これ以上詳細に書かれたものは、もう出てこないでしょう。
  「昭和十一(1936)年四月二十八日から五月七日の十日間、東京の玉川学園(創立者・小原國芳)の学生・生徒・引率の先生ら三十四名は、玉川学園の教育を地方で実際に見てもらうために秋田、山形、新潟方面へ公演旅行に出かけました」。年月日、人数(メンバー)、場所(訪問校)は、これが正しい。
  引率の先生の中に、寮母先生がおられます。NHK朝の連続ドラマ『花子とアン』でもわかるように、寮母さんは、重要な先生です。「寮母先生」が同行されていた事を初めて知りました。メンバーの学生・生徒の中には大矢弦司君のような地方出身の塾生も選ばれていた。小原國芳先生は塾生を大切にし、玉川学園の教育の中心に置いていました。
  (男子)中学部三名の所に「小原」とあるのが、小原哲郎君(大正十(1921)年生まれ)、小原國芳先生の息子で、後の玉川学園園長(現・小原芳明園長の父親)。小原哲郎君は、「どじょっこ ふなっこ」ができた昭和十一(1936)年当時十五歳、中学部三年生でした。公演旅行団に選ばれた学生・生徒は、デンマーク体操、混声四部合唱もできる玉川学園の超エリートでした。なによりも健康で、旅行中欠席した十日間の学業を取り戻せるほどの成績優秀な学生・生徒が選ばれていました。
  新潟で一番大きな「イタリア軒」での打ち上げパーティーは、小原國芳先生らしいです。メンバーへのねぎらいのつもりだったのでしょう。同行者は全員感動したに違いありません。
  今まで、玉川学園同窓会、岡本敏明の弟子と言われる方々、「どじょっこふなっこの歌を楽しむ会」事務局などから教えてもらった事は、間違いだらけでした。長い時間が経過し、岡本敏明はじめ関係者が語った事にも記憶違いが多い。しかし、これまで間違いを正すことを誰もしませんでした。その間違いをそのまま使って「どじょっこ ふなっこ」の解説が次々書かれ続けてしまいました。事実が判明するまでに延々と時間がかかってしまいました。
  「どじょっこ ふなっこ」が作られた当時の学校名、例えば金足西尋常高等小学校(現・秋田市立金足西小学校)、秋田県立本荘高等女学校(現・秋田県立由利高等学校)、子吉尋常高等小学校(現・由利本荘市立子吉小学校)など、正確に書いてある出版物はありません。地元にいれば、すぐわかる事です。指揮者の小沢征爾氏が小学六年生の時に通っていた小学校は神奈川県の金田村立金田小学校(現・大井町立大井小学校 新築移転した)です。私は大井町にずっと住んでいるので、旧・新学校名がすぐにわかります。なぜ正確に書かれていないのか。残念です。
  (註)小沢征爾著『おわらない音楽』(日本経済新聞社)には、「立川の家を売り払い、神奈川県足柄上郡金田村(現・大井町)へ移る。小田原の近くだ」と書いてあります。

  「どじょっこ ふなっこ」に出ている学校の「当時の校名」と「現在の校名」、そして「玉川學園混聲合唱團のラヂオ出演記事」は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました(2015年7月17日)。ありがとうございました。

  [玉川學園混聲合唱團 ラヂオ出演]
  以下は、昭和十一年十二月二日(水曜日)東京朝日新聞朝刊掲載記事。
  ラヂオけふの番組東京(JOAK)午後の部▲八・三〇合唱
  (一)「祖國に寄する歌」外 東京リーダー・ターフエルフエライン
  (二)「春來る心」外 ホワイト合唱團
  (三)「羊飼の歌」外 玉川學園混聲合唱團
  “去る十一月二十三日東京市主催の下に日比谷公會堂に於て催された第十回競演合唱祭の優勝團體によって榮えある合唱の競演が送られることになった。出演團體並に曲目は次の通りである。
  一、 男聲合唱 東京リーダー・ターフエルフエライン(指揮)秋山日出夫
  (イ)「祖國に寄する歌」(ロ)「村の花嫁」(ハ)「希望の峰」
  二、女聲合唱 ホワイト合唱團(ピアノ伴奏)一宮三千子(指揮)浅香鏻三郎
  (イ)「春來る心」(ロ)「川」(ハ)「旅愁」
  三、混聲合唱 玉川學園混聲合唱團(指揮)岡本敏明
  (イ)「羊飼の歌」メンデルスゾーン作曲 津川主一譯詞 (ロ)「セレナード」ラツソ作曲(原語にて歌ふ) (ハ)「梅花」北原白秋作詞 成田爲三作曲 (ニ)「かたつむり」小學唱歌、岡本敏明編曲

  寫眞説明 上よりホワイト合唱團、玉川學園混聲合唱團、東京リーダー・ターフエルフエライン”。
  (註) 写真は、玉川学園混声合唱団。中央が岡本敏明先生。写真からも、玉川学園混声合唱団の四曲は無伴奏だったことがわかる。岡本先生の昭和十一年の活躍は目を見張るものがある。昭和十一年十二月二日(水曜日)東京朝日新聞朝刊は神奈川県立図書館で見ることができます。

  <全校生で参加>
 岡本敏明著『実践的音楽教育論』(カワイ楽譜)には、次のように書いてあります。
  “昭和8年から13年まで、当時の合唱コンクール(国民音楽協会と東京市主催・競演合唱祭)に参加しましたが、中学生の混声合唱は初めてというので珍しがられ、最後の3年間を連続優勝して引退しました。
 コンクール自由曲で歌ったラッソの“Matona mia cara”は「マトナの君」と訳され、戦後一般に普及しましたが、もう一つの自由曲、モンテヴェルディのマドリガル“Si,chio vorei morire(ああ わたしは死にたい)は、今日でもまだ一般には歌われておりません。
 このようなコンクール参加の場合でも、「特定の合唱団合唱部の部員だけの参加は、教育的に賛成できないから、全校生で参加してはどうか」との小原國芳先生の考えから、わたしにとっては、なかなか大変なことでしたが、その後の外部への演奏参加は、原則的に全校生徒で出演という主義をとってきました。
 もちろん、上手下手のあることは当然の事。中には音痴に近い者も少なからずまじっていたのです。しかし、小原先生の「偉大なものに触れさせる教育」を実践して、結果としては、はかり知れない大きな精神的収穫があったものと信じていますし、わたしも合唱指揮者として得難い経験をしました”。

 平成二十六年(2014年)十二月一日出版の『どじょっこふなっこの歌を楽しむ集い 20周年記念誌』が著者・事務局の藤原正三氏から送られて来ました。読むと、運営関係者のこれまでの苦労が伝わって来ます。写真とプログラムで、20年の歩みが手に取るようにわかります。楽しい歌声が聞こえて来ます。出版おめでとうございます。 いつも、親しくさせていただき、ありがとうございます。これからも、どうぞよろしくお願いします(2014年12月3日)。

▲第20回プログラム 2014年6月28日
▲表紙絵 いしいじゅん

 「どじょっこ ふなっこ」を書き換える事で、まとめにしました。利用される方は、ウェッブ「池田小百合なっとく童謡・唱歌」よりと出典を書き添えていただけると努力が報われます(2015年7月27日猛暑)。

▲秋田市金足地区振興会だより広報かなあし第7号に「なっとく童謡・唱歌」の研究成果を取り上げていただきました。
広報の紙面1-2ページは「どじょっこ通信」(平成28年7月21日発行、どじょっこふなっこの歌を楽しむ会)にも紹介。

  童謡「どじょっこふなっこ」の曲が追分駅到着メロディに採用され、6月7日から列車が到着するとき、駅ホームにメロディが流れることになりました。歌詞は流れませんが、ギターによるやさしい音色が、駅を利用するおおぜいの人たちの心をうるおしてくれることでしょう。
 地域の要望を受けた秋田市がJRと話し合い、実現に向けてはたらいてくれました。曲は音楽著作権協会の管理下にありますので、著作権契約は市が負担しました。音源作成はどじょっこふなっこの歌を楽しむ会が担いました。
 ▽地域要望提出の関係者・団体は次の通りです。追分町内連合会の駅前・本町・新町・旭町・学校通り各町内会、金足地区振興会、どじょっこふなっこの歌を楽しむ会、金足西小学校PTA、秋田市議会北部議員団。△追分町内連合会だより2019年5月25日発行より
 
▲2019年6月8日 秋田さきがけ新聞より 6月7日 <どじょっこふなっこ追分駅到着メロディ開始記念式典>
▲どじょっこふなっこを歌う金足西小の児童
   (追分町内連合会とどじょっこふなっこの歌を楽しむ会共催)
▼下の記念写真の前列椅子の方は中道松之助氏の次男中道琢郎氏  (藤原正三氏<右端>ご提供による) 
 

 

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まっててね

作詞  武鹿悦子
作曲 小村三千三

池田小百合なっとく童謡・唱歌 (2015/11/13)


 【かわいい童謡】
 武鹿悦子の最大のヒット曲です。最後の歌詞、「だっこをさせて あげるわね」「わんわんきたって まっててね」が、何ともかわいいですね。幼い女の子の口調で書かれ、旋律もそれにふさわしく、無邪気なかわいらしいものになっています。

 【現代の赤ん坊の扱い】
 昔は、赤ん坊は背中に背負って子守をしていました。子どもたちは真似をしたがったので親は、せがまれるままに、人形を負ぶい紐で括りつけて外遊びに出したものです。子どもたちは、大人になった気分になり、大喜びで「せなかに おんぶの おにんぎょうと」、夕方まで石けり、ゴム跳び、縄跳び、あや取り、鞠つきをしました。
 今は、赤ん坊を前に抱きかかえるのが主流で、抱き紐が販売されています。抱きかかえる方が、負ぶうより楽で、すぐ授乳できて便利です。
  その結果、「おせなに おんぶの おにんぎょうと」の三番が省かれた楽譜が出版されるようになりました。時代の流れは、ここまで来ています。

  【歌い方について】
 「♪おリボン つーけて」「♪だっこを さーせて」と歌います。
  少女歌手の小鳩くるみさんが歌いました。『甦える童謡歌手大全集』(発売元:コロムビアファミリークラブ)で聴く事ができます。

  【武鹿悦子(ぶしかえつこ)の略歴】
 本名=荒谷悦子。昭和三年(1928年)十二月二十日、東京(港区)生まれ。童謡詩人・児童文学作家。東京都立第八高等女学校(現・八潮高校)を昭和二十年に卒業。佐賀高等女学校専攻科を経て、松竹大船シナリオライター養成所の一期生となる。西條八十の門下生として詩作を学ぶ。
 昭和二十五年(1950年)頃からNHKの幼児番組『うたのおばさん』を中心に幼児向けの童謡を数多く発表し、日本コロムビア学芸部の専属童謡詩人として、放送界やレコード界を舞台に活躍。
 昭和四十一年(1966年)には、神沢利子・立原えりか・稗田宰子・間所ひさこなどと、子どもの歌のグループ『鵞鳥(ガチョウ)の会』を結成。子どもの歌の世界に新風を送り込んだ。
 平成七年(1995年)、長年にわたる詩作活動と、その業績に対して第七回サトウハチロー賞が贈られた。
 童謡集『こわれたおもちゃ』(1976年・国土社)第六回日本童謡賞、第六回赤い鳥文学賞。
  詩集『ねこぜんまい』(1982年・かど創房)第十三回日本童謡賞、第三十回サンケイ児童出版文化賞
 童話『りえの雲の旅』(1984年・小峰書店)、『くらやみの物語』(1997年・小峰書店)ほか

 〈代表的な童謡作品〉
  「ナコちゃん」足羽章 作曲 
  「まっててね」小村三千三 作曲
  「あひるのスリッパ」湯山昭 作曲
 「きらきらぼし」『小学生の おんがく1』(教育芸術社)平成九年発行掲載。


   きらきらぼし   作詞 武鹿悦子             フランス民謡

 一、きらきらひかる おそらのほしよ
    まばたきしては みんなをみてる
    きらきらひかる おそらのほしよ

 二、きらきらひかる おそらのほしよ
   みんなのうたが とどくといいな
    きらきらひかる おそらのほしよ

 平成二十六年(2014年)、詩集『星』(岩崎書店)で第五十四回日本児童文学者協会賞、第四十四回日本童謡賞受賞。児童詩、絵本、翻訳、子供向け伝記など多数を執筆している。
  所属団体 日本児童文学者協会、日本童謡協会(常任理事)、JASRAC

 【小村三千三(こむらみちぞう)の略歴】
 「歌の町」参照。

【後記】
 「まっててね」を歌うと、私が主宰する童謡の会では全員が歌えました。みんな懐かしそうに歌いました。次に武鹿悦子を紹介すると、会場から「知らない」「変な名前」と声がかかりました。武鹿悦子は、忘れてはならない童謡界の重鎮です。
 「まっててね」は、文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には選ばれていません。みんなで歌わなければ、このかわいい童謡が消えてしまいます。歌い継いで行きましょう。


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今 様

(越天楽今様、黒田節)

日本古曲

池田小百合なっとく童謡・唱歌 (2016/11/27)

 平成二十八年十一月十三日(日)、三十五周年記念発表会「米若会」を聴きに行った。松田町民文化センター大ホールは、午前十一時の開演から午後四時の終演まで満席でした。
 三味線、尺八、唄の合奏で「お江戸日本橋」「今様」「荒城の月」「斉太郎節」の演奏があった。司会者が「今様」の説明に、「黒田節」と、今やっているNHKの大河ドラマ『真田丸』の後藤又兵衛の槍(ヤリ)の話を力説した。観客は一様に「黒田節」が歌われると勘違いした。しかし、「今様」の唄の中に「黒田節」がひと節も出て来なかったので、観客の頭上に「?」がついた。 唄の後で司会者が「いい気分でホラをふいてしまい、失礼しました。私も多少は民謡を勉強した事がありましたが、難しいものですね。歌詞を見ないで歌うという事は。みなさん素晴らしいですね」と話題をかえた。会場から割れんばかりの拍手があった。それで、「今様」「越天楽今様」「黒田節」を調べてみることにしました。

  【「今様(いまよう)」とは何か】
  「今様」は、日本の歌曲の一形式。「現代風、現代的」という意味であり、当時の「現代流行歌」という意味の名前。古い歌に対して「今風な新しい歌」という意味に使われた。
  平安時代中期に発生。流行し、当時は「今様合わせ」と呼ばれるコンクールのようなことも行われていた。平安時代末期には後白河法皇が愛好し、熱中し過ぎて喉を痛めたことが史書の記録に残されている。また、法皇が編纂した『梁塵秘抄』の一部が現代に伝わっている。

  <歌詞について>
  歌詞は、7、5、7、5、7、5、7、5の七五調で1コーラスを構成するのが特徴。様々な歌詞が生み出された。

  <曲について>
  曲の方も、「越天楽今様」の他に各種作られた。近代の歌曲にも、「荒城の月」などこの形式の曲がある。

  <「今様」の碑がある>
  「今様」の碑は、永観堂内(京都市東山区)にある。

  【「越天楽(えてんらく)」について】
 「越天楽」は、雅楽曲で唐から伝来した。その経移については不明。雅楽は管絃と舞楽に分けられるが「越天楽」は舞のない小曲で原曲は平調(ひょうぢょう・ホ音を主音とする調)であるが、白河、堀河両天皇の頃、笛の名手大神惟季が、盤渉調(ばんしきちょう・ロ音を主音)に移し、その後、再び黄鐘調(おうしきちょう・イ音を主音)に移したので、今は平調、盤渉調、黄鐘調の三種があり、雅楽の中では最もよく知られている曲。

  <楽器の編成>
  ・吹物(ふきもの)=笙(しょう)、竜笛(りゅうてき)、篳篥(ひちりき)の管楽器。
  ・打物(うちもの)=鞨鼓(かっこ)、鉦鼓(しょうこ)、釣太鼓(つりだいこ)の打楽器。
  ・弾物(ひきもの)=楽箏(がくそう)、楽琵琶(がくびわ)の弦楽器から成る。

                        ▼雅楽の楽器           ▼雅楽「越天楽」の演奏

  <「調子」について>
 「今日は調子がよい」、「調子をそろえて歌おう」の“調子”は雅楽の言葉がもとです。また、ハ長調などの調(ちょう)という言い方は、雅楽の調子から転じたものといわれている。

  <「千秋楽」について>
 「本日は大相撲九州場所の千秋楽2016年11月27日(日曜日)。優勝は横綱鶴竜」。なんと “千秋楽”は、雅楽の曲名。昔、行事の最後にいつもこの曲が演奏されたことから、相撲や芝居の最終日を千秋楽と呼ぶようになったといわれている。

  【「越天楽今様」について】
  雅楽「越天楽」のメロディーに歌詞を付け歌にしたものが「越天楽今様」である。特に有名なのは「春のやよいの…」で始まる慈鎮和尚(じちんかしょう)の歌詞。この曲に舞を付けたものは「今様舞」と呼ばれ、白拍子装束で舞う。この他にも様々な歌詞が付けられた。

                  ▲「越天楽今様」慈鎮和尚 作歌 
 歌詞と楽譜 一番と二番がある。平成元年から小学校六年生の必修教材で、教科書に掲載されている。

  【「黒田節」との関係】
  これが九州に伝わったものが「筑前今様」となり、後に民謡化したものは「黒田節」と呼ばれ広く親しまれている。

  <さまざまな歌詞がある>
  「筑前今様」と呼ばれた「黒田節」は、福岡県福岡市の民謡。福岡藩の武士たちに歌われていたものが日本全国に広まったもので、雅楽の「越天楽」のメロディーにさまざまな歌詞を当てはめて歌う「越天楽今様」が元になっている。博多駅前に「黒田節像」がある。
  「♪酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)の この槍を 呑み取るほどに 呑むならば これぞ真(まこと)の 黒田武士」高井知定作の「今様」が転じたとされる。酒宴などでよく謡われる定番の唄である。黒田節のもとになっているのは平調、典型的な七五調。

                            ▲「黒田節」楽譜

  <福島正則の槍の逸話>
  “ある日、黒田長政は酒好きの福島正則のもとに家臣の母里友信(もり とものぶ)を使いに出した。友信もまた酒豪であったため、長政は酒の上での間違いを恐れ、杯を勧められても飲むことを禁ずる。が、行ってみると案の定酔っ払っていた正則は、よい飲み相手が来たとばかり酒を勧めてきた。固辞する友信に正則は「黒田の者は、これしきの酒も飲めぬのか」と執拗に酒を強い、巨大な大盃を出して「これを飲み干せば、何でも褒美を取らす」と言ったため、心を決めた友信はその杯を見事に飲み干し、褒美に正則が豊臣秀吉から下賜された自慢の槍の日本号を貰い受けた。翌日、酔いがさめて青くなった福島正則は、使いをやって槍を返してくれるよう頼んだが友信はこれを断り、のちの朝鮮出兵に日本号を持参して武功をあげた”(黒田節-Wikipedeiaによる)。
 歌詞の内容はこの逸話に基づいている。
 NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』第44回(2014年11月2日放送)でもこの逸話を基にしたシーンがみられる。母里太兵衛(もり たへえ。演:速水もこみち)。 “黒田官兵衛から元服した黒田長政の守役に指名され、武働きに躍起になる長政をかつての自身と重ね合わせていた。豊前国移封後は家老の一人として黒田家を支える。文禄の役の後、長政の使者として福島正則の屋敷に赴いた際、口論となり飲み比べに発展するも勝利。正則から日本号(槍)を勝ち取る。息子・吉太夫に先立たれるが官兵衛に従って九州制圧に活躍する。官兵衛の最期にも立ち会った”(黒田節-Wikipedeiaによる)。
  母里は、(もり)または(ぼり)とも言われる。太兵衛は友信の別称。黒田一族は酒と槍が強かった。
  2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』の後藤又兵衛は、元黒田家家臣、牢人。演:哀川翔。後藤又兵衛も酒と槍が強かったが、「黒田節」の逸話とは直接関係がない。

  <「黒田節誕生の地」の立て札>
  平成二十六年、黒田節の逸話発祥の地、京都伏見の御香宮神社の門前に、地元伏見の有志により、「黒田節誕生の地」の立て札が設置された。

  <レコードで有名になった>
  人気芸者歌手である赤坂小梅によってレコード化され、昭和十七年(1942年)五月二十日にコロムビアレコードから発売され有名になった。当初は「黒田武士」の題で吹き込み、第二次世界大戦中であったため歌詞は戦意高揚の内容だった。戦後、昭和二十五年(1950年)五月二十日に歌詞を一部変更し「黒田節」の題として再発売された。

  【民謡を楽しむ】
 平成二十八年十一月十三日(日)、三十五周年記念発表会「米若会」を聴きに行った。民謡のコンサートは、初めてで緊張した。入場無料なのに、受付で立派なプログラムをいただいた。松田町民文化センター大ホールは、午前十一時の開演から午後四時の終演まで満席でした。その間、休憩は十分だけ。
 会場を埋め尽くした客は、二・三人で連れ立って来ているので、隣同士で話をしている。楽しそうだ。幕が上がっても話をし続けている。
 会員の唄が始まった。一人一曲ずつ二番まで唄う。ピアノの発表会のようだ。最初の人は「ひえつき節」、一人の歌い手に対し、合いの手を入れる(唄ばやし)が二人と、三味線の人が四人、尺八の人が四人、鳴物(太鼓や鐘)の人が二人いる。鳴物の人は指揮者の役目で、全曲暗記している。おおよそのテンポを決めたり、終わりの合図を送ったりする。すばらしい。
  「武田節」「南部牛追唄」「箱根馬子唄」「秋田節」「おてもやん」「お江戸日本橋」「佐渡おけさ」・・・唄い手が変わるごとに伴奏の三味線と尺八の伴奏者がめまぐるしく交代した。
 驚いた事に、ステージで唄っている人がいるのに、会場では楽しいおしゃべりが続いている。そのため、ステージはマイクのボリュームが全開になっている。耳が痛い。クラシックのコンサートでは、ステージの演奏を静かに聴く。隣りの人とは話をしない。演奏に聴き入る。常識だ。
 さらに驚いた事に、客は知っている曲があると一緒に唄う。一緒に唄ってしまうと唄っている人の声を聞くことができない。
 尺八の演奏があった。六人の合奏。「椰子の実」「刈干切唄」「旅愁」編曲がおもしろかった。しかし、客は尺八の音(ね)を聴くどころか気持ちよく大きな声で歌った。司会者が「歌も入って、よかったですねえ、ありがとうございました」と言った。私は、「民謡は、こうして楽しむものなのか」と思った。
 四時近くになって、やっと特別出演の原田直之さんの唄になった。「新相馬節」は、昔と変わらない好い声で聴かせた。姿勢がいい。唄う時は姿勢が良くなければいけないと確信した。私は、童謡の会の指導の時、「姿勢を良くしてください」と言うようにしている。 続いて「大漁唄い込み」唄と華やかな踊りが披露された。三曲目は「花は咲く」東日本復興支援ソングが民謡調になっていた。フィナーレは、特別出演者全員で「花笠音頭」を唄い締めくくられた。客は、口々に「よかったわねえ」と満足し、民謡を楽しんで笑顔で家路についた。

  ◆原田直之さんは、福島県双葉郡浪江町出身。福島県立双葉高等学校卒業。1960年、『NHKのど自慢』の民謡部門福島県代表となる。1964年、「秋の山唄」でポリドールレコードからデビュー。1968年にキングレコードに移籍。1978年、NHK総合テレビ『民謡をあなたに』に出演。金沢明子さんらと活躍。その年の第29回NHK紅白歌合戦にゲストとして出演している。1980年に日本コロムビアに移籍、1989年に出した「全国ご町内音頭」が50万枚のヒットとなる。2011年、故郷である浪江町が、東北地方太平洋沖地震並びに福島第一原子力発電所事故に襲われた。日本放送協会による「花は咲く」プロジェクトに参加し、東北復興に尽力している。『NHKみんなのうた』で「こきりこの歌」(放送時期:1981年12月~1982年1月期)富山県民謡、編曲:三枝成章。(wikipediaによる)

  【クラシックを楽しむ】
 2015年11月15日(日)14時開演 小田原市民会館大ホールで、小田原フィルハーモニー交響楽団第112回定期演奏会、天満敦子を迎えてストラディバリウスで奏でるメンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」を聴いた。
  観客はヴァイオリンの深い響きに涙した。アンコールは、童謡「月の沙漠」だった。演奏者の訴えるものが伝わって来た。静かに聴き入り、感動の時が流れた。今でも心に残っています。
 民謡のコンサートとクラシックのコンサートとでは、これだけ楽しみ方が違う。会場に足を運ぶ人にも違いがある。年齢も関係しているかも知れない。

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