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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
大中 恩 作曲の童謡
 いぬの おまわりさん   おなかのへるうた   サッちゃん   ドロップスの うた
宇賀神敏道の略歴    阪田寛夫の略歴   さとうよしみの略歴   6の会
童謡・唱歌 事典 (編集中)




いぬの おまわりさん

作詞 さとう よしみ
作曲 大中   恩 

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2011年9月1日


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より
日本音楽著作権協会 許諾番号 J100917445号


 【発表誌】
 月刊保育絵本『チャイルドブック』(チャイルド本社)の委嘱で作られ、昭和三十五年(1960年)年十月号に掲載されました。詩と曲は同時掲載。タイトルは全部平仮名で『いぬの おまわりさん』。詩は「いぬの おまわりさん こまってしまって・・・」となっている。作詞者名は平仮名で、「さとう・よしみ」となっている。挿絵・中尾彰。編集長は城谷花子。定価五十円。ソノシート付き。
 ●長田暁二著『童謡歌手からみた日本童謡史』(大月書店)、『心にのこる日本の歌101選』(ヤマハミュージックメディア)の『チャイルド・ブック』は間違いで中点「・」は無い。『チャイルドブック』が正しい名称。
 当時、競争相手の雑誌『キンダーブック』(フレーベル館)は≪観察≫を主体としていたのに対し、『チャイルドブック』(チャイルド本社)は≪あそび≫の楽しさをテーマにしていました。


いぬのおまわりさん
「チャイルドブック」昭和35年10月号 中尾彰 絵

 【掲載ページの説明】
 挿絵は迷路の絵。右上には、さとう・よしみの詩が平仮名で書いてある。左下には、大中恩作曲のメロディー譜がある。さらに楽譜の左には「迷路あそび」の説明が次のように書いてある。
  〔社会・あそび〕 はじめに文を読んだら、ネコのおかあさんの待っているおうちまで、どこの道を通っていったらよいか、指でたどらせましょう。

 【季刊『どうよう』12号の検証】
 初出誌の掲載ページは、季刊『どうよう』12号(チャイルド本社)昭和六十三年一月発行の特集「いぬのおまわりさん」を探る(14、15ページ)で見る事ができます。
 ●しかし、詩の部分に『どうよう』編集部の説明文が書いてあるので、初出誌の詩は見る事ができません。初出では、猫も犬も四回しか鳴いていません。この部分は重要な資料です。そのことに編集者は気が付いていないようです。挿絵の上に載せられた詩は、ワープロで打ち直され、現在歌われているように猫も犬も八回鳴いているように書き直されてしまっています。
 ●さらに、挿絵の犬とネコの部分を中心に拡大したため、左側の「迷路あそび」の遊び方の説明がカットされてしまっています。この部分も重要な資料。それに編集者は気が付いていません。
 ● 『どうよう』編集部が載せた掲載ページの説明文は次のようです。
   「いぬのおまわりさん」初出誌より。(「チャイルドブック」昭和36年10月号)。
   この「昭和36年」は間違いで、「昭和35年」が正しい。
 みんなが見たい貴重な文献なのに、ずさんな編集で残念です。『チャイルドブック』も季刊『どうよう』も、チャイルド本社の出版物。
 季刊『どうよう』編集=日本童謡協会「どうよう」編集室。編集委員は藤田圭雄(編集長)ほか八名。

 【詩の依頼】
 『チャイルドブック』は、中尾彰の「迷路あそび」の絵に合わせて、さとう・よしみに「迷路のうた」の詩を依頼しました。

 【詩の誕生】
 当時の編集長の城谷花子によると、完成した詩は社内で大変不評でした。
 特に営業サイドから、「こんなに長ったらしい歌を、子どもが歌えっこない。」「大人だって覚えきれない。」とクレームがつきました。編集長の城谷花子は、確かに当時の幼児童謡でこんなに長い歌はほとんど例がなく、しぶしぶ直しを頼みにいきました。しかし、さとうは、「絶対子どもに歌える、だから直さない」と、頑として修正を拒否しました。そのまま曲がつけられることになりました(季刊『どうよう』12号 城谷花子・著「いぬのおまわりさん」誕生記より抜粋)。この時の詩は、猫も犬も四回しか鳴いていません。  

  【曲の誕生】
 作曲の依頼を受けた大中恩も、さとうよしみの詩に当惑していました。季刊『どうよう』12号掲載 やっぱり「いぬのおまわりさん」大中恩・著によると、次のようです。
 「この詩を送っていただいた時、さとうよしみさんの詩の好きな私でありながら、"こねこちゃん"というような呼び方や、ちょっと長い歌詩に、ほんとうのところ興味を覚えなかった。しかしそのころの我が家の生活状況は、いくら私自身は気にしていないとは言いながら、一篇の子どものうたの作曲と言えども、お断りするにはちょっと勇気のいることで、女房子どもの顔を思い浮かべながら、思わず「O・K」と御返事申し上げてしまったわけだ。思えばこの「O・K」によって、私はいまもって幽かな生活を支えられている結果となった・・・・・、というまことに感謝感激の有難い話ではある。
 私は度々自分の作品の会で、作品と生活(金銭)を結びつけた下賤なおしゃべりをしては、真面目な先輩である中田喜直さんに、「ああいうはなしは止めたほうがいい」とたしなめられるのだが、「いぬのおまわりさん」によって生活を支えられている事実は何としても事実なので、私のようなお調子乗りは、“テレ”も手伝って、ついしゃべりたくなるのはどうにもならないものらしい」。
 「そう言えば、このうたが少しうたわれはじめたころ、「題名がよくない。"迷子のこねこちゃん"にしなさい」と言った人がいたが、「いぬのおまわりさん」はやっぱり、「いぬのおまわりさん」でよかったと思う。親しみがあるし、愛敬もある」。
  ●別冊太陽『子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)『いぬのおまわりさん』作曲について、大中恩「一九三〇年代の半ばごろに作ったものだと思います」の「一九三〇年代の半ばごろ」は、校正ミスだろう。「作曲は昭和三十年代の半ばごろ」が正しい。

 【天才作曲家の仕事】
 大中恩の才能が光るのは、猫と犬の鳴き声のところです。
 さとう・よしみの原詩では、「にゃん にゃん にゃん にゃーん」と四回しか鳴いていません。読む詩としては当然のことです。しかし大中は、これを八回にふやして、みごとなリズムを付けました。曲なしで現在の歌詞だけを読んでしまうと、八回の鳴き声は、そこで間延びしてしまって、無駄な繰り返しでしかありません。ですが、曲が付き、歌ってみると、この八回は、なくてはならない回数に思えます。犬の「わん わん わん わーん」も同じです。まさに大中恩、天才の仕事です。

 【レコードの製作】
 当時の『チャイルドブック』には、毎月フォノシートがついていました。絵本に掲載した歌を音にして、保育園や幼稚園の先生方、子どもたちに聞いてもらおうというもの。初演、初録音は『チャイルドブック』です。編集長の城谷花子の記憶によると、編曲・指揮は湯山昭。 (季刊『どうよう』12号掲載『チャイルドブック』編集長・城谷花子による)。
 昭和三十五年八月、『いぬの おまわりさん』は『チャイルドブック』の発売に先駆け、中野慶子の歌でレコード化されました。『チャイルドブック』十月号に付けて販売するためです。これは、「ソノシート(フォノシート)」と呼ばれた薄いビニール製のレコードです。
 長田暁二著『童謡歌手からみた日本童謡史』(大月書店)平成六年十一月発行には次のように書いてあります。
  「≪新しい子どものうた≫のレコード製作に積極的だった私(キングレコードのディレクター長田暁二)が、『チャイルド・ブック』とタイアップしていたので、発売前の三十五年八月、まず中野慶子の歌でソノシート化し、その一年二ヶ月後に、同じ彼女がテレビで歌ってヒットさせたのです」。
 この記載は、重要な証言として『親子で歌いつごう日本の歌百選 文化庁編』(東京書籍。解説・上田信道、平成十九年発行)はじめ多くの書物で紹介されています。 中野慶子については、長田暁二著『童謡歌手からみた日本童謡史』(大月書店)で知ることができます。ファンは必見です。

 【テレビ初放送】
 昭和三十六年十月十日(火)、NHKテレビ「うたのえほん」。歌・中野慶子、ピアノ伴奏・小林道夫。今月のうた『いぬのおまわりさん』。
 この日の曲目構成は季刊『どうよう』12号で見る事ができます。 スタッフの中には、「言葉の数が多すぎる」「曲が長すぎる」「幼児には、この曲は難しい」などの意見が多く、私ももっともだと思ったので、なかなかチャンスがなかったのですが、この番組のピアニスト小林道夫さんの助言もあり、ともかくやってみようというので、取り上げてみたのでした(季刊『どうよう』12号/岡弘道・NHKテレビ「うたのえほん」企画担当ディレクターによる)。

 【「うたのえほん」の発足】
 「うたのえほん」は、昭和三十六年四月三日(月)に発足するや、眞理ヨシコ(当時・東京藝術大学四年生)、中野慶子(学習院大学卒、劇団三十人会)、砂川啓介(さがわけいすけ・パントマイム)の三人の活躍で一挙に人気番組になりました(季刊『どうよう』12号/岡弘道・NHKテレビ「うたのえほん」企画担当ディレクターによる)。

 以上のように、当初この曲は、子供の歌の中で最も人気の高い歌の一つになるとは、だれも予想していませんでした。

 ●季刊『どうよう』12号(チャイルド本社)掲載の中野慶子・著『はじめて「いぬのおまわりさん」をうたったとき』の中で、中野慶子は昭和三十六年十月十日、NHKテレビ『うたのえほん』において、初見で『いぬの おまわりさん』を歌ったことになっています。しかし、前項【レコードの製作】で記述しているように、その前年に中野の歌でソノシート化されていて、『チャイルドブック』にも曲譜が掲載されていることから、この歌はすでに歌われていました。初見で歌ったと言うのは中野慶子の記憶違い。
 ●読売新聞文化部編『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)の記載も、同じ間違い。

 ★【謎・ソノシートの歌手は、いったい誰?】
 季刊『どうよう』12号(チャイルド本社)掲載の中野慶子・著『はじめて「いぬのおまわりさん」をうたったとき』の文章を繰り返し読んでいて、「昭和三十六年十月十日、NHKテレビ『うたのえほん』において、初見で『いぬの おまわりさん』を歌った」という中野慶子の記憶が正しく、「『チャイルドブック』発売前の三十五年八月、まず中野慶子の歌でソノシート化し」という長田暁二の記憶が違うのではないかと思います。

 【謎そのT】
 まず、歌は『チャイルドブック』昭和三十五年十月号に掲載されました。詩と曲は同時掲載。中野がこの本の楽譜を見ていない可能性があります。新曲はたくさん発表されます。

 【謎そのU】
 『チャイルドブック』編集長だった城谷花子は、季刊『どうよう』12号で、「当時の「チャイルドブック」には、毎月フォノシートがついていました。・・・歌手がどなただったか失念してしまったのは残念でなりません」と書いている。歌手は中野慶子でなく、他の歌手だった可能性もある。しかし、城谷花子は「編曲・指揮は湯山昭」というのを覚えている。「歌手を覚えていない」というのはおかしい。

 【謎そのV】
 長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』(YAMAHA、平成十九年四月発行)には「発表後すぐキングレコードでステレオ化された」と書いてある。なぜ、このように書いたのか。このあいまいな表現を本人に問いただすには勇気がいる。

 ●以上の理由で、中野慶子か長田暁二のどちらかの記憶違い。ソノシートを見れば(聴けば)問題は解決するのだが。

 ★【チャイルド本社からの回答】
 「お問い合わせいただいた件ですが、五十年前の物でもあり、絵本の保管(一冊)はされておりますが、ソノシートについての記載はありません。ソノシートがなく、どなたが歌われていたかは不明です」(2008/09/12)。これで調査は不可能になりました。いったい『いぬの おまわりさん』は、だれが最初に歌ったのでしょうか。
 ★「佐藤義美」記念館で調査中です(2008/10/11)。

 【大人気の曲になる】
 歌は、前奏二小節を聞いただけで、「あっ、『いぬのおまわりさん』だ!」とわかります。子どもたちの知っている言葉で構成され、「まいごの まいごの こねこちゃん。」の呼びかけが、子どもたちの心を自然にとらえました。そして、だれでも簡単に弾ける伴奏により、保育園や幼稚園で人気の曲になりました。

  【詩の収録】
  『いぬのおまわりさん』佐藤義美/詩■司修/絵(装画) 国土社の詩の本3 
 昭和五十年(1975年)十月二十五日初版発行

 「ひらひらはなびら」以下三十九篇。ヒット曲「いぬの おまわりさん」「おすもう くまちゃん」「アイスクリームの うた」も掲載されています。

 【佐藤義美さとうよしみの略歴】
  ・明治三十八年(1905年)一月二十日、大分県直入郡岡本村(現・竹田市)に、父佐藤平太郎、母キツの長男として生まれる。父は泉郷(郷土で一文字)と号して絵を描き、のちに文展にも入選。当時、鹿児島県立第一中学校で図工の教師をしていた。母は織物をよくした。
  ・大正九年(1920年)十五歳、三月、父が横浜市視学になったため、家族は横浜市本牧町に転居。二学期より、神奈川県立横浜第二中学校(現・横浜翠嵐高校)に編入。同組生に高木東六がいる。この頃より詩・童謡を書き始めるが、画家を志望していたため絵を描く事に熱中、休日は父と共に野外写生にでかけた。
  ・大正十二年(1923年)十八歳、関東大震災で家が崩壊し焼け出される。絵の具を焼失して絵が描けなくなり、詩・童謡を創ることに専念。『赤い鳥』派、『童話』派、『金の星』派の若い童謡詩人たちと“童謡協会”を作る。
  ・大正十三年(1924年)十九歳、雑誌『赤い鳥』『童話』『金の星』に童謡の投稿を始める。三月、横浜第二中学校卒業、早稲田大学第二高等学院を受験したが不合格。九月、父が東京市の視学になったため、東京市小石川区久堅町に転居。
  ・大正十四年(1925年)二十歳、三月、早稲田大学と慶應大学を受験して両方に合格。早稲田大学第二高等学院文科F組に入学。英文学のクラスで英詩を読み、詩と童謡のちがいを考え、詩としての童謡を考えるようになる。
  ・昭和二年(1927年)二十二歳、三月、早稲田大学第二高等学院を卒業。四月、早稲田大学国文科(英文科より国文科に変る)に入学。
  ・昭和五年(1930年)二十五歳、三月、早稲田大学国文科を卒業。四月、早稲田大学大学院に入学。五月、『赤い鳥童謡集』に「月の中」「風のふく日」「銀ぐさりの芽」「煙り雨」「たんぽぽ」「雉子」「みそはぎ」「畦道」「目白の声」「お山の夏」が収録される。九月、『新早稲田文学』が創刊され、参加して編集を手伝う。
  ・昭和七年(1932年)二十七歳、三月、早稲田大学大学院修了。四月、東京府立第三商業学校に奉職。国語・作文の教鞭をとる。六月、童謡集『雀の木』を高原書店より刊行。
  ・昭和三十五年(1960年)五十五歳、『佐藤義美童謡集』を、さ・え・ら書房より刊行。
  ・昭和四十一年(1966年)六十一歳、九月、神奈川県葉山で、学研ヨット部のヨットに乗せてもらい、積年の夢であったヨットを手に入れる決心をする。十一月、ヨットを注文。十二月、神奈川県逗子市桜山に仕事場をもつ。
  ・昭和四十三年(1968年)五月、食事の後、吐気を感じるようになる。京都に旅行。吐気がひどくなり、国立東京第二病院で診察を受けた結果、食道ガンの末期で余命二十日、二、三日中にも大吐血が起り死に至ると診断される(後に他の病院でガンではなく内臓癒着と診断される)。民間療法で吐気が止る。六月以後、あらゆる民間療法を試みながら仕事に打ち込む。十二月十六日、東京都目黒区平町の自宅で、子どもたちと多くの友人に囲まれ、ひとりひとりとそれぞれに最後の言葉を交し、六十三歳で永眠。
 代表作品に「グッド・バイ」「おすもうくまちゃん」「アイスクリームのうた」ほか。
 故郷の大分県竹田市竹田には「佐藤義美記念館」(平成十年四月開館)があり、神奈川県逗子市にあった最後の仕事場を再現し、遺品や著書が展示してあります。隣接して、「このこのおうち」というミニホールがあります。名前は『いぬの おまわりさん』の二番の歌詞「このこのおうちは どこですか」からとったものです。(『佐藤義美記念館』パンフレットより抜粋・2001/11/30)
 参考文献:『日本児童文学大系』27(ほるぷ出版)。

著者より引用及び著作権についてお願い】      ≪著者・池田小百合≫
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サッちゃん

作詞 阪田寛夫
作曲 大中 恩

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/09/01)




 「サッちゃん」が子供にも大人にも愛唱される秘密を一緒に考えてみましょう。

 【阪田寛夫が書いた理由】
 次のような理由で、阪田寛夫は「サッちゃん」を書きました。
 “歌詞を書いたのは私の従兄に当る作曲家大中恩から頼まれたためだ。昭和三十四年十月に松田敏江さんの「歌のおばさん十周年」記念音楽会が催された。 この時「ろばの会」という当時の若手の意欲的な作曲家グループ五名が、それぞれ二曲ずつ新作童謡を松田さんに贈った。『サッちゃん』も、 「ろばの会」の一員、大中恩から彼女に贈られた”(『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)掲載の阪田寛夫著「新しいわらべうた『サッちゃん』」による)。



 【初出】
 長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)によると“(昭和三十四年十月十日)、東京・大手町にあった産経ホールで、松田トシが<NHK うたのおばさん放送開始十周年記念リサイタル>を開き、作曲家グループの『ろばの会』のメンバーは一人一曲ずつ新曲を書いて、この音楽会にプレゼントすることになりました。『ろばの会』とは、昭和三十年に磯部俶の提唱で結成された<新しい子供のうた>を創作発表する作曲家のグループで、磯部俶、宇賀神光利、大中恩、中田一次、中田喜直の五人がメンバーです。” (註)松田トシは、のちに「松田敏江」と改名。
 ●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)平成元年4月25日発行では「メンバーは一人一曲ずつ新曲を書いて」となっているのに対し、 長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』(ヤマハミュージックメディア)2007年4月20日発行では、「メンバーがひとり2曲ずつ新曲を書いて」に訂正されています。「一人二曲」が正しい。

 【「ろばの会」について】
 ・「ろばの会」は、磯部俶(いそべとし)、宇賀神光利(うがじんみつとし)、大中恩(おおなかめぐみ)、中田一次(なかだかずつぐ)、中田喜直(なかだよしなおお)の五人の作曲家グループ。昭和三十年、時 流におもねることのない作品作りをしようと発足。以来、数多くの子どもの歌の創作をした。

 <宇賀神敏道(うがじんとしみち)略歴
 ・大正十二年(1923年)十二月十八日生まれ。東京都出身。別名・宇賀神光利(うがじんみつとし) 作曲家。父は戦前期に浅草オペラなどで指揮・作曲家として活躍した宇賀神味津男(うがじんみつお)。
  ・国立音楽大学本科卒。師は尾高尚忠、諸井三郎。音楽コンクール作曲部門室内楽曲第三位(第十八回・1949年)入賞。
  ・童謡の分野で活躍し、NHKの童謡番組「うたのおばさん」などにも曲を提供した。1955年、子どもの歌の自主的な創造を目的として、 磯部俶、大中恩、中田一次、中田喜直らと「ろばの会」を結成、作曲・公演・出版を行うが、昭和四十二年(1967年)一月十五日、四十三歳の若さで亡くなった。
  ・作品には「てぶくろ」「あの頃」「風の子」「くしゃみ」「五月の雨」「チューリップがひらくとき」「わっしょいわっしょい」などがあり、曲集『新しい子どもの歌』を第5集まで刊行している。
 (参考文献) 『日本の作曲家』(日外アソシエーツ)
 ●宇賀神光利は、すぐ亡くなってしまったためか、河内紀・小島美子著『日本童謡集』(音楽之友社)では、 「四人の作曲家のグループ」と書いてある。
 ●阪田寛夫著『どれみそら』(河出書房)には、「亡くなられた宇賀神光敏さん」と書いてある。「光敏」は間違い。「宇賀神光利」または「宇賀神敏道」。

 【収録】
  阪田寛夫著『サッちゃん』国土社の詩の本13 (国土社)1975年12月25日初版発行の ■初出発表誌・年月・作曲者一覧には、サッちゃん「松田トシ歌のおばさん十周年演奏会」昭34大中恩曲と書いてあります。「青い青い秋ですよ」「サッちゃん」「おなかのへるうた」「マーチング・マーチ」「夕日がせなかをおしてくる」など三十六篇。装画は和田誠。

 【「うたのおばさん」について】
  藤田圭雄著『解題戦後日本童謡年表』(東京書籍)昭和五十二年(1987年)八月二十五日発行で、次のように書いてあります。
 「昭和二十四年八月一日、NHKラジオで「うたのおばさん」はじまる。うたい手は松田トシと安西愛子。」(37ページより抜粋)。
 季刊『どうよう』10号(チャイルド本社)「戦後の新しい童謡の主柱―中田喜直の世界」では、次のように書いてあります。
 「サトウハチローやさとうよしみの新時代の童謡は、一九四九年八月一日、NHKラジオに依るうたのおばさんの出現まで待たねばならなかった。ラジオから毎朝きこえて来る新しい童謡は大きな魅力だった。所謂レコード童謡の豆歌手でなく、幅のある、そのつややかなうたのおばさんの歌声は、童謡の世界に新境地を拓いた」。
 (註)「かわいいかくれんぼ」「めだかの学校」「ぞうさん」「サッちゃん」、これらは、童謡といわずに、新しい子どもの歌と呼んだ。

  【「うたのおじさん」も歌った】
 昭和三十六年六月、 キングレコードで童謡としては日本で初めてのステレオLPレコード盤『新しい子どもの歌』 (キングレコードディレクター・長田暁二)では、昭和三十五年からNHKの“うたのおじさん”になっていた友竹正則が歌い、 レコーディングしました。彼も持ち歌として歌いつづけたため、次第に広く知られるようになりました (長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』(ヤマハミュージックメディア)による)。

 (註)NHKラジオ第一「うたのおじさん」は、昭和35年4月25日(月)よりスタート。 詳しくは、以下の「うたのおばさん」についてを見て下さい。 当時の新聞などを調査しました。中田喜直作曲『めだかのがっこう』の項に記録しています。


  【NHKからの初放送は】
 『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)には次のような事が書いてあります。
 「作られた時期については作者が記しているところでは、一九五九年(昭和三十四年)であるが、 NHKからの初放送は、それから約六年後の一九六五年(昭和四十年)、としている童謡集もある。」(構成・解説は秋山正美)。

 「サッちゃん」は、日本放送協会・編『NHK こどものうた楽譜集 第4集』(日本放送出版協会)昭和四十三年発行に収録してあります。

 【子どもには名前がある】
 『サッちゃん』は文字通り、名前のうたです。「ミッちゃん」や「ヨッちゃん」や「ナッちゃん」と名前を入れ替えて、自分たちの歌として歌うことができます。
 昭和五十四年(1979年)、ユニセフ国際児童年の協賛曲として、ゴダイゴが『ビューティフル・ネーム』(作詞・奈良橋陽子、作曲・タケカワユキヒデ)で 「エヴリ・チャイルド・ハズ・ア・ビューティフル・ネーム Every Child Has A Beatiful Name (すべての子どもには美しい名前がある)」と歌いましたが、すでに、『サッちゃん』にも同じ素晴らしい世界観が流れていました。

 『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)掲載の阪田寛夫著「新しいわらべうた『サッちゃん』」によると次のようです。・・・ 歌が流行って一番よく受ける質問は、「サッちゃんは、あなたの初恋の相手ですか」ということだ。
 「いいえ、実在の人の名ではありません」と私は答える。これは音のひびきが好きでつけた名前で、その他の理由はない。
 ところが、阪田寛夫著『どれみそら』には次のように書いてあります。
 「幼稚園の頃一つ上の組に、さっちゃんという女の子がいまして、その名前の響きが好きだったから、なんとなくそのことを思い出して、まず「サッちゃん」とタイトルをつけた ・・・あとは、ただただ自分のことなんかを、ごじゃごじゃと入れて。いわば話し言葉で作った童謡です。それが彼の曲にのると「言葉の内側のリズム」が立ちあらわれてくる」。

 【作詞の経過と歌の感想】
 阪田寛夫は従兄弟に当る大中恩と、それまでに混声合唱曲は書いていました。また、民間放送の会社に勤めて新しい童謡の番組を作っていました。 しかし、童謡を自分で書くのは初めてで、困ったあげく、好きな響きの名前を一番初めに書いてみた。 すると、響きから生まれたはずの女の子が立ち上がって、まるで私を導くように、あとの歌詞を書かせてくれたのだった。

 大中に依頼された阪田は『サッちゃん』『いちばん高いは』のふたつの詩を書いて渡しました。
 『いちばん高いは』は、♪いちばん高いはエベレスト、と始まり、そこでカモシカの坊やが逆立ちした、というサーカスみたいな歌詞(阪田寛夫著『どれみそら』(河出書房)より)。

 二週間ほどして大中が出来た曲をピアノの弾き語りで聞かせてくれたとき、阪田は「ふしぎなことに最初の一行を聴いた時から、前もって知っていたような気がした。決して他の曲のフシに似ているのではない。いや、世界中のどの曲にも似ていない個性の強い曲だ。それなのに、心の中に、なつかしい昔の歌のように響いた(阪田寛夫著「新しいわらべうた『サッちゃん』」による)。

 【「サッちゃん」は新しいわらべうた】
 『サッちゃん』には、少しだけ年上の男の子が、幼い女の子に対して抱く気持ちが歌われています。 歌が生まれた経緯や歌の心、作曲の特徴についていちばん的確な証言や指摘をしているのは阪田寛夫自身です。 「サッちゃん」を作った時の経験は、阪田寛夫著『童謡でてこい』(河出文庫)にくわしく書かれています。

 「心の中に、なつかしい昔の歌のように響いた」その理由を阪田はいろいろ考えてみています。
 ・「声を出して歌詞を読んだときの言葉の抑揚やリズムが、そのまま(拡大強調されて)旋律になっている」。
 ・「単なる拡大強調にとどまらず、旋律が子供のお喋りの調子をうまく形どって、しかもやはり旋律としての個性の強さと美しさを備えている」。
 ・「言葉がはずんでそのまま歌になる。これが歌だとすれば、「サッちゃん」も現代の新しい意匠のわらべうたと言えるのではあるまいか」
 ・「ドレミソラの五音しか出てきません・・・「近代的な和音に日本のわらべうたの音階がのっかっていた」
  (阪田寛夫著『どれみそら』より)。

 【「サッちゃん」は新鮮】
 「サッちゃん」が愛される理由は何か。・・まど・みちおが重要な指摘をしています。まどは、阪田との対談「童謡を語る」 (昭和五十七年「児童文芸」秋季臨時増刊号)で、「だけど ちっちゃいから」が、鍵だと教えてくれたといいます(以下、阪田寛夫著『どれみそら』より抜粋)。

 「だけど ちっちゃいから」という語句が三連ともに入っていますね。サッチャン(原文のまま)が可哀想で、おかしくて、そして寂しい。 その理由が全部「だけど ちっちゃいから」なのです。この「ちっちゃいから」というのは、この歌の主人公のサッチャンを愛情こめて見守った結果、 相棒の「ぼく」が発見した絶対的でどうすることもできない理由なのです。
 この絶対的などうすることもできない理由、それが全編をおおっておって、その寂しさがあの作品の基調になっていると思います。 しかも一番終わりのしめくくりは「さびしいな サッちゃん」ですが、その寂しいのは、サッちゃんじゃなくて、 「ぼく」が寂しいのですね。サッちゃん自身はちっちゃいから寂しさすらも知らないわけで、そのことがなおさら寂しい感じがするんですよ。
 よく、子どもの歌というのは明るくないといけないみたいにいわれますが、明るさでさえそれがリアリティーを持つためには、寂しさとか、 何か反対色の裏づけがあるべきだと思います。

 作者の「ぼく」は、小さな「サッちゃん」を愛情を込めて見守っています。その温かさが、だれにでもひしひしと伝わってくる歌です。同じ幼児の「ぼく」の視点から描いた点が新鮮です。

 【もう一つのキーワード】
 子どもは常に「ほんと?」と言う言葉を口にします。各連三行目の「ほんとはね」「ほんとだよ」「ほんとかな」は、歌う同じ子どもの心に共感を呼び起こします。子どもの心をつかんだ優れた作品です。

 【天才・大中恩の作曲】
 『いぬのおまわりさん』でもその言葉に対する鋭い感覚を示した大中恩は、阪田が話し言葉で作った『サッちゃん』の字余り字足らずがあちこちにある歌詞を、一語一音を守らずに自由に扱って、同じメロディーで処理しています。大中恩の才能が光っています。「サッちゃん」の愛らしさが歌となり、みんなの心に響きます。

 【愛唱される決め手はこれだ】
 「おかしいな」と「サッちゃん」の間の休符は、この歌の最も重要な部分です。休符がしっかり取れると、歌は大成功です。 この爽快な感覚は、歌わない人にはわかりません。だから、今までだれもこの事について書く事がありませんでした。
 休符をしっかり取り、続いて「サッちゃん」と歌うのです。この締めくくりの「サッちゃん」が、この歌の決め手です。決まれば気分が明るくさわやかになるので、子供も大人も繰り返し歌うのです。
 「サッちゃんはネ」と始まり、「サッちゃん」で終わる。「サッちゃん」が愛唱される秘密は、この休符に凝縮されているのです
 また、「サッちゃん」にはサッちゃんの描写とそのふるまいへの共感はありますが、教訓はありません。 これは阪田寛夫の感性によるもので、たとえば「どうしておなかがへるのかな、ケンカをするとへるのかな」など『おなかのへるうた』にも 、共通する特徴です。詞が長く愛唱されるには時代遅れになりやすい教訓が含まれていてはなりません。
 そしてもうひとつ、この歌にはサッちゃんと僕のほかにもうひとりの登場人物がいます。 それは僕のそばにいて、僕の話を聞いているひとです。僕はその人、たぶん保護者に話しかけているのです。 このような話し相手としての《保護者の影》が想定される歌はあまりありません。そのことが歌の情景を豊かにしています。

 【阪田寛夫(さかたひろお)の略歴】 詩人、小説家、児童文学作家
  ・大正十四年(1925年)十月十八日、大阪市住吉区天王寺町(現・阿倍野区松崎町)で生まれました。
  ・阪田家は、代々紺屋の屋号で、安芸国忠海(現在の広島県竹原市忠海)で海運業を営んでいた。寛夫の祖父・阪田恒四郎が三十八歳の時、広島から大阪に出て興したのが阪田インキ製造所(後のサカタインクス)。寛夫の父・素夫は同社の二代目社長であった。六百坪の屋敷で三人兄弟の末弟として育つ。
  ・帝塚山学院小学部、大阪府立住吉中学校(現・住吉高等学校)を経て、昭和十八年、高知高等学校文科入学。戦局一段と悪化した翌、昭和十九年、全員が勤労動員で新居浜市の住友化学工場へ移され、一日十二時間、三交替制の工員生活を始める。東京帝国大学(現在の東京大学)文学部美学科へ転籍、その後、国史科に転じる。召集令状が来て入隊、在学中に応召して中国に渡る。
  ・昭和二十一年、旧満洲より復員。
  ・昭和二十五年、三浦朱門ら高知高等学校出の仲間たち数人で、第十五次の「新思潮」を発刊し、これが文学的拠点、出発点になった。
  ・昭和二十六年、東京大学文学部国史科卒業、朝日放送大阪本社入社。
  主にラジオ番組のプロデューサーとして制作に携わる。ラジオ番組「ABC子どもの歌」の制作など、番組は新しい童謡を次々と生み出しました。編成局ラジオ制作部長、東京支社勤務を経て、十年余り勤めた朝日放送を退社。

  <「6の会」について

  ・昭和五十年(1975年)、『土の器』(文藝春秋)で第七十二回(昭和四十九年下半期)芥川賞を受賞。
  ・昭和五十一年、「サッちゃん」で第六回日本童謡賞。
  ・昭和五十五年(1980年)、『トラジイちゃんの冒険』で第十八回野間児童文芸賞。
  ・昭和五十九年(1984年)、『わが小林一三 清く正しく美しく』で第三十八回毎日出版文化賞。
  ・昭和六十二年(1987年)、短編『海道東征』で第六十四回川端康成文学賞。
  ・平成元年(1989年)、第四十五回日本芸術院賞と恩賜賞を受ける。
 この他、詩集『わたしの動物園』や、まど・みちおに関するエッセイ『まどさん』(1985年・新潮社)などがある。まどを先輩として尊敬し、共著を五冊出している。
  ・平成二年(1990年)、日本芸術院会員(六十四歳)。 小説を書き、童話や合唱曲の作詞をする他、放送劇の台本も書くという多才ぶりを示しました。 家族はキリスト教を信仰し、母親は、教会のオルガン奏者をしていた。そのような事で、作曲家大中恩(従兄)の主催するコーラスグループ「コール・メグ」に加わり、音楽と文学の両面に関係しました。島崎藤村の「椰子の實」の作曲者大中寅二(とらじ)は叔父にあたる。
  小学生時代、親族・周囲に宝塚ファンが多かったため自身も幼いころより晩年まで宝塚歌劇に親しむ。平成十七年(2005年)四月、菊田一夫演劇賞を受賞した女優で宝塚歌劇団の元花組男役トップスター大浦みずきは次女にあたる。
 作家として活躍する他、『NHKみんなのうた』の「だれかが口笛ふいた」などの作詞でも知られています。この歌詞は、本当に美しく、すばらしい。
 カワイ出版の『いぬのおまわりさん・大中恩選集』には、「サッちゃん」「おなかのへるうた」「おとなマーチ」「青い青い秋ですよ」など、コンビで作った歌が二十一曲掲載されています。

        青い青い秋ですよ   阪田寛夫

        ぶどうの実のなる ぶとうの木
         りんごの実のなる りんごの木
        ざんざら風も ふいとくれ
        青い青い秋ですよ
        秋ですよ

        くるみの実のなる くるみの木
        かりんの実のなる かりんの木
        ざんざか雨も ふっとくれ
        青い青い秋ですよ
        秋ですよ

  ・平成十七年(2005年)三月二十二日、肺炎のため死去。享年七十九歳。赤坂の日本キリスト教団霊南坂教会で阪田家が営む告別式に、親友の三浦朱門が葬儀委員長を務めた。亡くなると各新聞が写真入りで報じた。雑誌「文藝春秋」「新潮」「群像」「文學界」もそれぞれ追悼文を載せた。私、池田小百合が主宰する童謡の会員は、掲載記事を手に三月の例会に集まったほどです。四月例会では、もちろん「サッちゃん」「だれかが口笛ふいた」を歌いました。

   <作家・庄野潤三の話>
  「伸びやかで親しみやすい、子どものための詩や歌を書く、すばらしい天分を持っていた。放送局時代には、一緒に机を並べて仕事をしたが、とても温和な方だった」(読売新聞2005年3月23日)。

 【「サッちゃん」その後】
 ・一年後、平成十八年三月二十二日の朝日新聞(大阪版)夕刊に「サッちゃんずっと遊ぼ 童謡のモデル女性判明」の記事が掲載され話題になりました。モデルは幼稚園の時、一年上にいた菊田幸子という人だそうです。モデルの女の子については、すでに阪田寛夫と合田道人とのFAXのやりとりが合田道人著『童謡の秘密』(祥伝社)平成十五年六月発行に書いてあります。また、阪田自身が、阪田寛夫著『どれみそら』で次のように書いています。「幼稚園の頃一つ上の組に、さっちゃんという女の子がいまして・・・」と。
 しかし、「サッちゃん」の歌を歌う時、モデルの女の子が誰かなど必要のない事です。
 ・平成十八年十月、阪田寛夫が卒業した幼稚園に「サッちゃん」の詩碑ができました。
 
 
 【うたのおばさん「松田トシ」】
 2011年12月7日、「うたのおばさん」として知られた歌手の松田トシさんが、老衰のため東京都世田谷区の高齢者施設で亡くなった。96歳。
 横浜市出身。東京音楽学校(現・東京芸大)の声楽科を卒業。歌手としてデビューし、1947年に日本語訳で歌ったインドネシアの名曲「ブンガワン・ソロ」がヒットした。
 1949年から始まり、15年間続いたNHKの子供向けラジオ番組「うたのおばさん」に出演し、「サッちゃん」など数々の童謡を紹介した。1954年にはNHK紅白歌合戦にも出場しました。
 日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」の審査員を務めた。音楽教室を主宰し、歌手の岩崎宏美さん良美さん姉妹、新沼謙治さんらを指導した。
 後年は松田敏江の芸名で活動した。1987年、勲四等瑞宝章受章。

 【知られざるエピソードを大中恩が語る】
 大中恩は、大正十三年(1924年)7月24日、現在の東京都港区赤坂一丁目で生まれました。三十一年間ここで暮しました。その後麻布十番に四十五年住み、それから現在の赤坂八丁目に住んでいる。

 <「恩」という名前について>
 “僕の名前の恩という字は本当は「めぐみ」とは読めないかもしれないけれど、もう一人弟か妹ができたら「真(まこと)」とつけて、僕と二人で『「恩恵(めぐみ)」と「真理(まこと)」に満てり・・・』という聖書の言葉を生かしたかったんです。でも母親(文子)は身体が弱くて二人目は無理だと医者にとめられちゃったそうです。”

 <母親・文子(ふみこ)について>
 日本キリスト教団赤坂霊南坂教会(東京都港区赤坂)附属幼稚園の保母として働いていた。キリスト教の熱心な信者だった。
 教会のそばに家があったので、教会の人が帰りに寄ったり、作曲家志望の若い人たちが父(「椰子の実」を作曲した大中寅二)の所に来たりして、だから家はいつもにぎやかで、母はとても忙しかった。
 なんか悪さをすると、キリスト教の信者だから、「神様にお詫びしてお祈りしなさい」なんて言うんですよ。
 「神様の心を伝える事と、それが一番善(よ)いことだから、そういう良い子になりなさい」って、いつも言ってました。教会の聖歌隊で歌ってましたし、ずっと20年間そういう環境の中で過ごしてきたから、僕もなかなかそういうものをすぐには捨てられなかったですね、染み込んでいたから。今では「教会で育ったんですね」なんて言われると、「ああ、そうです」なんて、すましていえますけれどもね。昔は、そう言われるのが一番嫌でしたね。
  でも、やっぱりお袋は優しかった。当時の童謡のレコードを、聴きたいなと思っていると内緒でこっそり買って来てくれたりして、後から親父に見つかって叱られたんですけどね。
 母親は、恩が二十七歳の時、五十五歳で亡くなった。父親は五十八歳で、一年もしないうちに二十歳をやっと過ぎた人と再婚した。

  <父親・寅二(とらじ)について> 
 大中恩の父親は大中寅二。赤坂霊南坂教会の聖歌隊指揮者兼オルガニスト(1920年〜1979年)・作曲家。 「椰子の実」(島崎藤村・作詩)の作曲者
 家に来る人たちを楽しませるために一生懸命だった。親子で落語の本を読んだ。父親と一緒にピエロになったり、即席漫才をしたりした。
 親父(寅二)は、音楽家になりたかったが、両親や親戚に反対された。親の意見にしたがって普通の大学に進学、同志社大学経済学部を卒業。その後、家を飛び出し 山田耕筰に弟子入りして作曲家になった
 だから親父は、山田耕筰だけを音楽家だと考えていたんです。子どもの歌でも「山田耕筰と自分の歌以外の童謡は音楽じゃあない」って、僕には歌わせなかったですから、頑固な人だったですね。 童謡のレコードなんかも、見つかるとバーンと割られちゃったりしてね。
 親父は中学生の時にも、通っていた教会でオルガン奏者になったらしいですし、その後は、霊南坂教会でずっと50年以上もオルガン奏者を続けていました。
 親父は足踏み式のリードオルガンが本当に好きで、「パイプオルガンとは違って自分で音を作れるから好きだ」って言ってました。
 大中寅二は、リードオルガンの曲を数百曲も作曲している。東洋英和女学院で40年教えた。
 親父は1982年(昭和57年)86歳で亡くなりました。親父が亡くなった時にNHKが、 「大中寅二氏が亡くなりました」と「椰子の実」をバックで流してくださったんですけど、もし僕が死んだ時に 「犬のおまわりさん」を流されてもやっぱり成仏できないんじゃあないかって思うんです。そういう意味では僕も「椰子の実」のような歌を作りたいな、なんて思いますね。

 <阪田寛夫について>
 阪田寛夫(さかたひろお)は、大中恩の従弟。大中寅二の姉の次男。「サッちゃん」「おなかのへるうた」の作詞者。 49歳で『土の器』で芥川賞を受賞。50歳で『サッちゃん』(国土社)で日本童謡賞を受賞。65歳で日本芸術院会員になった。
 阪田の広い家は大阪にあった。大実業家の息子だった。寛夫も両親がクリスチャンだった。教会を建てて、夫婦揃って自宅を教会の聖歌隊の練習場に提供し、阪田の母親がその伴奏をしたりしていた。
 それから、阪田の家の教会には、幼稚園も作った。その幼稚園の園長を阪田の母親がやっていた。
 結局、阪田寛夫が亡くなるまで「メグちゃん」「寛夫ちゃん」と呼び合っていました。

  <合唱団を作る>
  ・芸大を卒業してすぐ混声合唱団「PFコール」(1946年〜1955年)を作った。「PF」とは、「ピアノ・フォルテを綺麗に歌おうよ」という意味。九年やって辞めた。
  ・「どうしても、また合唱団をやってくれ」「じゃあもう一回やるけれど、今度は僕自身の作品しかやらない、という合唱団でもいいか?」「それでもやってください」と言うので作ったのが 「コールMeg」(1957年〜1987年)。「PFコール」のOBが集まって、週三回練習。午後六時から九時まで練習。大中恩の作品だけを歌う合唱団。 どんどん作品を書いた。30年やって終わりにした。
 練習は休まず、一、二分の遅刻にも厳しく、「一、二分なら、ちょっとあそこから走ってくればいいじゃあないか」と言ったりして、僕は会社勤めをしたことがないので、 常識が無くてね。僕は、三十分ぐらい前には行って、椅子を並べていましたよ。もう、とにかく「自分の葬式以外は休むなよ」と言ってずっと、やっていたんですよ。
  三十周年記念演奏会をやった後すぐに、「今日で辞める」と言ったのです。

 <大中恩の合唱へのこだわり>
  「コーラスだってただ舞台で歌えばいいってもんじゃあなくて、この音楽と詩を伝えなきゃいけないんだ」。
  「人に伝えるっていうことはどういうことか、たとえお客さんが七〜八人だとしても一生懸命伝えようとする、そういう意識をしっかり持って行動しなきゃいけない」。

  ・それから十年経って、「月に一度でいい」「まあ月に一度なら、いいか」という気持ちで「メグめぐコール」(1997年〜)を結成。 もう八十歳くらいの人が数人いますよ。月に一度、南は九州から北は仙台まで団員の皆さんが集まってくれる。途中でちょっと休むんですが、四時間みっちりやっている。
  ・「コールグレース」は、大中恩の女声合唱曲だけを歌う合唱団。主婦だけの“お母さんコーラス”として三十九年も続けている合唱団。
 以上は、『親子で楽しむ童謡集 第3集』(にっけん教育出版社)2008年9月20日発行より、みなさんに紹介したい事柄を抜粋しました(2012年2月9日)。
 <「ろばの会」について

 <もう一つの曲「いちばんたかいは」>
 昭和三十四年(1959年)十月、大中恩が三十五歳の時の作品。
 大中恩によると,“NHKラジオ<歌のおばさん>の松田トシ(敏江)さんの「10周年記念音楽会」が催されて、この時に「ろばの会」のグループ5人が、それぞれお祝いの曲を2曲ずつ松田さんに贈った。その1曲が「サッちゃん」で、あとの1曲は「いちばんたかいは」という曲。そちらは、あまり、はやらなかった。”




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おなかのへるうた
作詞 阪田寛夫
作曲 大中 恩

池田小百合なっとく童謡・唱歌
((2012/09/01)


 【発表】
 「おなかのへるうた」は、雑誌『チャイルドコーナー』十月創刊号(カワイ楽譜)昭和三十五年(1960年)十月一日発行に、作曲家・大中恩が三十六歳の時に発表した作品。
  “「サッちゃん」を作ったらわりと評判がよかったので、「もう一つ二人で作ったら金になるぞ」なんて言ってね。それが「おなかのへるうた」なんです”(大中恩の言葉。『親子で楽しむ童謡集 第3集』(にっけん教育出版社)による)。
  歌詞のタイトルは「おなかのへるうた」、二番は「食べても」「背なか」と漢字になっている。歌詞と楽譜、大中恩のコメントが掲載されている。

  <指導する人に>
  「お行儀がわるい」と云ってしまえばそれまでですが、おなかがすいてたまらなくて、「たすけてー」とどなりたくなるようなことが誰にもあったはずです。「どうしておなかがへるのかな」はじめのうちはちょっとばかり恥かしくて、自分でおなかをさすりながら考えてもみましたが、もうがまんできません。「かあちゃん、おなかとせなかがくっつくぞ」と、まるでおこったように、訴えます。ひとりごとのように、しゃべらせて下さい。(大中恩)

  <チャイルドコーナーについて>
  ・昭和三十五年(1960年)十月一日、<チャイルド・コーナー>(発行所 カワイ楽譜)創刊。
  ●河合楽器と書いてあるものは間違い。
  ・表紙には「母と教師のためのうたとお話 チャイルドコーナー Child Corner 10創刊号」と書いてあります。
  ・表紙絵は岩崎ちひろ。中央に男の子と女の子が肩を組んでいて、空にはトンボが七匹描かれています。

      童謡  (作詞者   作曲者)
   まきばのうしに(葛葉国子 大中寅二)
   カンガルーの坊や(サトウハチロー 平井康三郎)
   まねっこ坊や(若谷和子 石桁真礼生)
   ちょっとちょっとたんま(川上和子 山田夏精)
   おなかのへるうた(阪田寛夫 大中恩)
   カンガルーがピョン(若谷和子 畑中良輔)
   お山の上から(サトウハチロー 清水脩)
   アイスクリームの歌(さとうよしみ 高木東六)
   らくだ(都築益世 湯山昭)
   いたちょこぷっちん(関根栄一 中田喜直)

  ・国立国会図書館所蔵。館内ディスプレイにより閲覧可能です。創刊号には11月号予告が掲載されている。
  『チャイルドコーナー』について、府中市の方から情報をいただきました。ありがとうございました(2013年9月28日)。
 藤田圭雄著『解題戦後日本童謡年表』(東京書籍)には、“意欲的な楽しい雑誌だったが、長続きしなかった”と書いてあります。昭和三十五年十一月号、十二月号、昭和三十六年一月号、二月号の記録があります。
 十一月号は昭和三十五年十一月二十四日発行、十二月号は昭和三十五年十二月一日発行、一月号は昭和三十六年一月一日発行、二月号は昭和三十六年二月一日発行(鳥取市わらべ館による平成26年度収蔵資料にあり)。

 【収録】
 童謡曲集『すてきな66のうた』(カワイ楽譜)昭和四十年発行に収録。
 子供の詩を書く6人、おうちやすゆき・こわせたまみ・阪田寛夫・荘司武・関根榮一・鶴見正夫、が新しい童謡の創作運動をめざして「6の会」を結成したが、(1974年解散)この童謡曲集はそうした中で作られた作品と最近の作品も含めた66曲を収録。「おなかのへるうた」は21番目に掲載されています。

 【放送】
 『NHKみんなのうた』昭和三十七年八月―九月の金曜日の歌としてフレーベル少年合唱団の歌で放送されました。

 【掲載】
 日本放送協会編『NHKこどものうた楽譜集 第5集』(日本放送出版協会)昭和四十三年発行に掲載。

 【歌詞と曲について】
 「お腹が減って減ってたまらない」という食欲旺盛な子どもの歌です。子どもの素朴な訴えを率直に表現したところに新しさがあります。だから愉快です。繰り返される「かあちゃん」も、子どもの生活の中のバイタリティが溢れています。作品全体がおおらかなので、「かあちゃん」という言葉が下品という批判は、すぐに払拭されました。 過去の童謡に「かかさん」「おかあさま」「かあさん」は、ありましたが、「かあちゃん」は、ありませんでした。大中恩によると次のようでした。
 『「おなかのへるうた」の中の“かあちゃん かあちゃん”という歌詞があるんですが、そこにNHKが「“かあちゃん”なんて言葉はよくない」と言うんで「それじゃ、“おかあさま”にでもするか」って意見を戦わせた事があったんですよ』(『親子で楽しむ童謡集 第3集』(にっけん教育出版社)による)。
 『阪田の家は僕(大中恩)と違って、いいとこのお坊ちゃんなんですけれど、自分の子どもには“とうちゃん”“かあちゃん”と呼ばせていたんです。はじめは“パパ”“ママ”だったと思うんですけど、いつの間にかね。かえって粋(いき)だな、なんて思ったりしますが』(『親子で楽しむ童謡集 第3集』による)。それがそのまま詩になったわけです。
 ところが、大中恩自身は、『僕の所は“パパ”“ママ”と呼んでいました。僕の家は貧乏作曲家(大中寅二)の家でしたが、親父もお袋も、特に親父は気取ってたから、“かあちゃん”だなんて、僕の家では言えなかったですよ』(『親子で楽しむ童謡集 第3集』による)。
 『NHKみんなのうた』で放送されると、日常会話に「かあちゃん」「とうちゃん」を使っている子どもたちには、すんなりと受け入れられ、人気の曲になりました。当時は、「かあちゃん」「とうちゃん」と呼ぶのが一般的でした。
 歌詞の「どうして」は、質問期の幼児にピッタリです。「おなかと せなかが くっつくぞ」に子どもたちは「そんなことあるのかな?」と、びっくりします。「くっつくぞ」のメロディーが面白い。

 【二人で作った歌】
  作詞の阪田寛夫(さかたひろお)と、作曲の大中恩は従兄。大中恩は「椰子の実」を作曲した大中寅二の一人息子で、阪田寛夫は大中寅二の姉の次男。「サッちゃん」「おなかのへるうた」の他にも二人で作った歌は沢山あります。以下は『現代こどもの歌秀作選 いぬのおまわりさん大中恩選集』(カワイ出版)に掲載されている歌です。
  「おなかのへるうた」「おとなマーチ」「いちまんえんさつ」「海」「しょっぱいうみ」「かぜのなかのおかあさん」「つきはすき」「パパのワルツ」「すっからかんのかん」「ぽんこつマーチ」「つきよのおばけ」「青い青い秋ですよ」「ちいさいはなびら」「お正月どん」「つきとさるのこ」「さむいうた」「パンダのごはん」「はのは」「よーいやさ」「せっせっせ」。

 
 【子どもの好きな歌】
 「おなかのへるうた」子どもが大好きな歌です。文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には選ばれていません。子どもの歌の定番として定着しているのに残念です。


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ドロップスの うた
作詞 まど・みちお
作曲 大中 恩  

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2013/09/01)


 【奇抜な発想の詩】
 まど・みちおの詩には、誰も思いつかないような言葉が出てくる。 「まっかな なみだ」「きいろい なみだ」「すっぱい なみだ」「あまい なみだ」「ぽろん ぽろん」「ちゅるん ちゅるん」など。
 ある小学校の先生方の研究会で、「こんな言葉は今まで詩に使われたことがないから違和感を感じてダメだ」と非難された。すると、まどさんは「今まで使われた言葉の他にどんな言葉があるか、いつも考えている。誰も考えた事のないものを表現したい」と言ったそうです(『親子で楽しむ童謡集』第3集<「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」の作曲者 大中恩 特集>(にっけん教育出版社)による)。

 【楽しいリズム】
 色彩感覚の豊かな、まど・みちおの詩に、大中恩が楽しいリズムの曲を付け、見事なファンタジーの世界ができあがりました。

  【放送】
  ・昭和三十七年(1962年)、NHKラジオ『幼児の時間』のために作られ歌われました(日本児童文学別冊『少年詩・童謡への招待』(偕成社)掲載の「ドロップスの うた」の詩の後に(大中恩作曲「NHK幼児の時間」1962)と書いてある)。まど・みちお五十歳の時の作品。
  ・『NHKみんなのうた』昭和三十八年(1963年)十・十一月の水曜日の歌として弘田三枝子の歌で放送されました。これにより、大ヒット曲になりました。子どもたちは大喜びして一緒に歌いました。

  【タイトルについて】
  ・まど・みちお著『≪ぞうさん≫まど・みちお 子どもの歌102曲集』(フレーベル館)改訂初版・平成七年発行に掲載されている詩のタイトルは「ドロップスの うた」です。「うた」は平仮名。
  ・『いぬのおまわりさん』大中恩選集(カワイ出版)に掲載されている詩のタイトルも「ドロップスのうた」です。
  ・NHKみんなのうたで放送された時のタイトルは「ドロップスの歌」です。

  「ドロップスの うた」は、文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には掲載されていません。

 私、池田小百合は「ドロップスの うた」が好きで、主宰する童謡の会で使っている『読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞』に掲載しています。 『NHKみんなのうた』昭和三十七年(1962年)六-七月の歌として放送された「アイスクリームのうた」(さとうよしみ作詞、服部公一作曲)は大ヒットしました。昭和六十年七月十日発行の季刊『どうよう』日本童謡協会編(チャイルド本社)第二号の「今、童謡は何がうたわれ何が求められているか 幼稚園・保育園の現状」のアンケートによると、「アイスクリームのうた」を、親や保育園・幼稚園の先生が好きで、子どもに歌わせたい歌にあげていました。
 しかし、実際、園でどれくらい歌われたか疑問です。今、園でよく歌われている歌のアンケートには入っていないからです。テレビで放送されなくなると、次第に忘れられ、平成二十五年現在では誰も「アイスクリームのうた」を歌いません。
 歌詞が長くて子どもたちは覚えきれない、伴奏が難しくて先生が簡単に弾けない(「チューリップ」「むすんでひらいて」「ぞうさん」は簡単に弾けますが)などの理由もありそうです。
  「ドロップスの うた」は、どうでしょうか。同じ運命をたどらないようにと願っています。

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 【《6の会》について

  <結成>
 昭和三十八年(1963年)五月五日、子ども歌の「詩」を書く6人、おうちやすゆき、こわせ・たまみ、阪田寛夫、荘司武、関根榮一、鶴見正夫が新しい童謡の創作運動をめざして《6の会》を結成。ちょうど、戦後の日本の童謡が、詩・曲ともに戦前の童謡から大きくすがたを変え、より自由に、すぐれた歌を生みだしはじめておよそ十年ほどを経たころでした。

  <解散>
  リサイタルの開催、曲集やレコードの発行、子どもミュージカルの作成等を通して、十一年間運動をつづけ、昭和四十九年(1974年)五月五日に解散した。

 6人は、たがいに個性を尊重しあいながら、詩のコトバが「音」(歌)としてうたわれることを実践の第一義として、《6の会》を出発させました(童謡曲集『すてきな66のうた』66の会編(カワイ出版・1992年8月1日第1刷発行)による。この童謡曲集では関根榮一と書いてある)。 6人は、歌われる童謡をめざし、音楽性を重んじた詩を書く事に心を傾けようとした。

  【荘司武《6の会》回想】
  <由来>
 昭和三十六年から、同三十八年にかけて『骨の会』(ほねのかい)という名前の会に入っていた。童画家と童謡詩人が合流して作った会で、『まんもす』という機関誌を出していた。絵あり、歌あり、童話あり、さらに当時としては珍しく楽譜まで載せていた。しかし、あまり派手にやりすぎたせいか三号で解散ということになった。そのとき誰かが「童謡を書く若い詩人だけで会をつくろう」と言った。その結果、六人だけあつまった。「若い詩人」といったが、私はそのときすでに三十八歳。あつまったのは六人なのだから『六人の会』とでもなりそうなものなのになぜか『6の会』(ろくのかい)となった。これは『ほねのかい』という五音のリズムを、無意識に受け継いだのかもしれない。

  <第一回リサイタル>
   “「6の会」十年、のうちで強く印象に残っているのは、やはり、第一回リサイタルに関してのことである。組曲「トンペイの日曜日」に使う「ゴーカートのうた」を作るため、はるばる東京・江戸川から豊島園まで出かけた。しかし、いくらゴーカートが走るのを見ていても詩はできなかった。あきらめて電車に乗って帰る途中、「ゴーゴー」という電車の音で、「ゴ ゴ ゴーカト ぼくがうんてんしたら・・・」という頭の部分がでてきた。このときは全く嬉しかった”(日本童謡協会編集 季刊『どうよう』20号(チャイルド本社)より抜粋)。

  【鶴見正夫《6の会》回想】
  <「6の会」の活動>
  “「6の会」っていうのは、六人、の子どもの歌を作る詩人のグループと言う事で、三十代が集まった。最初に、おたがいに姿勢、資質を尊重し合うということ、たがいの個性を尊重し合うということ、それから、詩が歌として歌われることを実践の第一義としようってなことだったね。いわゆる童心に寄りかからないで、直接に詩を作るっていうことを念願としようともしたね。
 もう一つ、広い視野を持ちたいというようなことでやったんで、十一年の間に、作品発表のリサイタルを、イイノホールで六回やった。また、二枚のLPレコードを出したよね。「すてきな66のうた」って曲集をだしたのは初めの頃だった。子どものミュージカルを共同で創作して発表したし、『実用こどもの歌』って本を編纂した。その他雑誌の編集者、放送のプロデューサー、ディレクター、それから児童文学の評論家、先輩の詩人とか、そういう人を時々呼んで研究会を開いたね。・・・”(日本児童文学別冊 『少年詩・童謡への招待』(偕成社・昭和五三年七月一五日発行)関根栄一と鶴見正夫の対談より抜粋。話しているのは鶴見。この本では関根栄一と書いてある)。
  詩集の刊行を否定し、作曲家と手を組んで、三冊の楽譜集を出版した。『すてきな66のうた』、『実用こどもの歌1』、『実用こどもの歌2』。

▲第五回「6の会リサイタル」1970年12月4日(金)午後6時開演(イイノホール)プログラム。
第一回リサイタル1965年(昭和40)年1月、第二回1966年4月、・・・第六回1971年12月。
▲ABCラジオ・グラフ「トンペイのアフリカ旅行」構成6の会、制作朝日放送。 昭和41年3月27日(日)午后六・一〇―六・四〇放送。
第二回リサイタルでは、磯部俶作品は、おうちやすゆき作詞「山のぼり体操」と、阪田寛夫作詞「チャンバラ時代」が演奏された。

  【《6の会》三冊の楽譜集の出版】
  ◆『ラジオ・テレビ・絵本の すてきな66のうた』6の会編(カワイ楽譜、昭和40年1月20日第1刷発行。絶版)は、6の会の第一作品集
 新作童謡66曲を収録。
  (註)大阪府立中央図書館・国際児童文学館所蔵。2014年4月24日複写郵送。

 ←『ラジオ・テレビ・絵本の すてきな66のうた』6の会編(カワイ楽譜)表紙

  ▼はじめに
 
 「はじめに」には次のような事が書かれている。
  “・・・もっと、子どもたちと強くかたく手を握る事によって、子どもの本質である、たくましいエネルギーと、けっぺきなまでの自己主張を詩の中にほうりこみ、少なくとも、おとなに(おとなである私たち作家自身に)ほほえましくもやすらかな安堵感などを与えることのないきびしさをこそ持つべきだと思います。”可愛いカットの猫が六人を表現している。

                  ▼もくじ

  「よくしっているうた」「ひとりでうたいましょう」「みんなでうたいましょう」「おとうさん おかあさん うたって下さい」「おもしろいうた」に分かれている。鶴見正夫作詞、磯部俶作曲<おほしさん>は「ひとりでうたいましょう」のグループに入っている。<おほしさん>の初出は、昭和39年『キンダーブック』7月号(19集4編)5-6歳用(フレーベル館)。

             ▲作詩別目次

  おうちやすゆき作品 <テキパキパキッこ>など四作品。
  こわせ・たまみ作品 <やぎのここやぎ>など九作品。
  阪田寛夫作品 <サッちゃん>など十五作品。
  荘司武作品 <トマト>など八作品。
  関根栄一作品 <こんぺいとう>など十五作品。この曲集では関根栄一と書いてある。
  鶴見正夫作品 <あめふりくまのこ>など十五作品。

  作曲者は湯山昭作曲(十六曲)、中田喜直作曲(七曲)、大中恩作曲(七曲)、萩原英彦作曲(七曲)、佐藤眞作曲(六曲)、服部公一作曲(五曲)、富田勲作曲(三曲)、有島重武作曲(二曲)、小林秀雄作曲(二曲)、木原靖作曲(二曲)、團伊玖磨作曲、芥川也寸志作曲、越部信義作曲、ほそやみそぎ作曲、磯部俶作曲、平岡照章作曲、山田耕筰作曲、岩河三郎作曲、宇野誠一郎作曲(各一曲)がある。この曲集では富田勲と書いてある。

  ◆『実用こどものうた1』6の会編(チャイルド本社、昭和47年11月15日初版発行。昭和50年7月5日第3刷発行。絶版)を出版。 (註)埼玉県立久喜図書館所蔵。カラーコピー可。2014年4月30日複写郵送。▼『実用こどものうた1』6の会編(チャイルド本社)表紙


  ▲推薦の言葉
  童謡を幼稚園や保育園での実際の教育に役立てようと親切に編集した本。 文部省初等中等教育課教科調査官 真篠将の推薦の言葉がある。

           ▼もくじ   「年中行事のうた」と「しつけのうた」が集められている。

  “第一巻は6の会の六人のほか、さとうよしみ、まど・みちお、小林純一、岩崎京子、三越左千夫、荘司武、筒井敬介、都築益世、田中ナナ、与田凖一、保富康午の作品もある”(藤田圭雄著『解題戦後日本童謡年表』(東京書籍)による)。
  ●6の会の六人のほかに“荘司武”が書いてあるのは間違い。荘司武は6の会のメンバー。
  「年中行事のうた」、(七夕)には<おほしさま>都築益世作詞、團伊玖磨作曲が掲載されている。「♪おほしさま ぴかり おはなし してる ちいさな こえで かわいい こえで おはなし してる」。この歌は、今も保育園や幼稚園で歌われている人気の歌です。<おほしさん>鶴見正夫作詞、磯部俶作曲は掲載されていない。

  ◆『実用こどものうた2』6の会編(チャイルド本社、昭和48年11月15日初版発行、昭和50年7月5日第2刷発行。絶版)を出版。
  (註)埼玉県立久喜図書館所蔵。2014年4月30日複写郵送。 ▼『実用こどものうた2』6の会編(チャイルド本社)表紙

          ▼もくじ   「あそびのうた」が集められている。

  【≪66の会≫童謡曲集】
 童謡曲集『すてきな66のうた』66の会編(カワイ出版・1992年8月1日第1刷発行)。

  ▼童謡曲集『すてきな66のうた』66の会編(カワイ出版)表紙
  《6の会》が、昭和四十年(1965年)年一月、当時のカワイ楽譜から刊行した『すてきな66のうた』をより充実したもの。6人各11作品。


  ≪66の会≫おうちやすゆき(「むかしはえっさっさ」など)、こわせ・たまみ(「しずかにしてね」など)、阪田寛夫(「サッちゃん」「おなかのへるうた」「あさ いちばんはやいのは」「おとなマーチ」「マーチングマーチ」「ねこふんじゃった」「夕日が背中を押してくる」「うたえバンバン」「かぜのなかのおかあさん」など)、荘司武(「トマト」など)、関根榮一(「おつかいありさん」「こおろぎ」「こんぺいとう」など)、鶴見正夫(「あめふりくまのこ」「あかいかさ」など)。

                     ▼66曲初出一覧

  作曲者は湯山昭、中田喜直、團伊玖磨、芥川也寸志、大中恩、林光、山本直純、服部公一、越部信義、冨田勲、末吉保雄ほか。
  磯部俶の曲はない。荘司武作詞「ゴーカートのうた」は掲載されていない。

  もくじ は、Aちいさい子のうた、Bちょっと大きい子のうた、Cみんなのうた、に分けられている。各22曲。
  A ちいさい子のうた 「サッちゃん」「おつかいありさん」「あめふりくまのこ」「トマト」「こおろぎ」「こんぺいとう」「おなかのへるうた」など。
  B ちょっと大きい子のうた 「あかいかさ」「あさいちばんはやいのは」「ねこふんじゃった」など。
  C みんなのうた 「マーチング・マーチ」「かぜのなかのおかあさん」「うたえバンバン」「夕日が背中を押してくる」「おとなマーチ」など。

  【≪6の会≫のメンバー略歴】
  ◇おうちやすゆき(1936〜)
 東京生まれで、本名・生地靖幸。早稲田大学文学部卒業。同人誌『ピアノとペン』『まんもす』に童謡を発表し、NHKの幼児向け番組の構成・作詩を担当した。作曲家としても多くの作品を残している。童謡集『こら!しんぞう』(小峰書店 一九九六年)で第二七回日本童謡賞を受賞。

  ◇こわせ・たまみ(1934〜)
 埼玉県生まれで、本名・小和瀬玉三。早稲田大学商学部卒業。早稲田大学童謡研究会に入会し、童謡を書き始めた。コピーライターを経て文筆生活に入り、一九六〇年に同人誌『ピアノとペン』を創刊した。さらに『まんもす』『むぎばたけ』などの同人誌に加わるとともに、NHKラジオ・テレビの幼児番組の構成にも関わりながら童謡を書き続けた。愛とやさしさのある歌をめざして、特に小さな生き物の命のまたたきを歌った作品にすぐれたものが多かった。代表的な作品として「やぎのこ こやぎ」「かいがら からから」などがある。童謡集『だけどぽかぽか』(チャイルド本社 一九六四年)、子どもの歌曲集『ちいさなこもりうた』(チャイルド本社 一九七四年)、詩の絵本『しずかにしてね』(白泉社 一九八四年)のほか、合唱組曲集や絵本などの著作もある。一九八九年、合唱組曲「いるま野の花と子どもと」により第一九回日本童謡賞を受賞した。日本童謡協会の事務局長や機関誌編集長を務め、一九九四年第六回サトウハチロー賞を受けた。

  ◇荘司武(1924〜)
 東京生まれ。三越(みつこし)左千夫主宰の『きつつき』同人を経て6の会に入会した。繊細な感性で対象をとらえた、やさしさのある詩が多い。代表作に「トマト」がある。詩集『トマトとガラス』(かど創房 一九八四年)で第一五回日本童謡賞を受賞した。
 代表作の「トマト」は、今も幼稚園や保育園で人気の曲です。一回で覚えられ、歌い継がれている。短いのが好い。初出『新しいこどものうた』(音楽之友社)昭和三十一年(1956年)十二月発行掲載。

         トマト
            荘司武 作詞
            大中恩 作曲

    トマトって   
    かわいい なまえだね
    うえから よんでも
       ト・マ・ト
     したから よんでも
        ト・マ・ト

    トマトって
    なかなか おしゃれだね
     ちいさい ときには
       あおい ふく
    おおきく なったら
        あかい ふく

  ◇関根栄一(1926〜2005)
 埼玉県生まれ。NHKラジオの「うたのおばさん」で放送された「おつかいありさん」をはじめとして童謡の創作に意欲的に取り組み、6の会に加わって作品に磨きがかかった。子どもを躍動させるリズミカルな作品を数多く書き、6の会の志向した≪歌われる童謡≫をみごとに具現した。
 童謡集『にじとあっちゃん』(小峰書店 一九八六年)で第一七回日本童謡賞を受賞。ほかに童謡集『おつかいありさん』(国土社 一九七五年)、『葡萄の歌』(小峰書店 一九八九年)、『はしるふじさん』(小峰書店 一九九八年、第二九回日本童謡賞受賞)がある。ここでは関根栄一と書いてある。

  ◇鶴見正夫(1926〜1995)
 新潟県生まれ。早稲田大学在学中に早大童謡研究会に入会して、童謡を書きはじめた。学徒出陣で海軍航空隊に入隊、大戦後、大学に復学して政経学部を卒業した。一九五一年、童謡コンクールで文部大臣奨励賞を受け、以後雑誌や放送に童謡を発表した。「あめふりくまのこ」に代表されるバラード(物語詩)を数多く書き、子どもたちを楽しい想像の世界へと導いた。一九九一年、第三回サトウハチロー賞を受賞。童謡集『あめふりくまのこ』(国土社 一九七五年)、詩集『日本海の詩』(理論社 一九七四年)、詩の絵本『らんどせるのうた』(国土社 一九八三年)のほか、童謡の背景や舞台となった土地を訪ね歩いた紀行文集『童謡のある風景―詩のふるさとをたずねて』(小学館 一九八四年)という著作もある。そのほか、童話や絵本などの著作も多い。

   阪田寛夫著『童謡の天体』(新潮社)の「鶴見正夫への弔辞」で、“あなたをよく知る人に好まれた童謡「あかいかさ」を、心の中で歌ってお別れします”と書いている。「あかいかさ」の初出は『キンダーブック』(フレーベル館)昭和四十七年(1972年)六月発行掲載。

      あかいかさ
          鶴見正夫 作詞
          中田喜直 作曲

   あかいかさ さして
   まえをいく あのこ
   かさに かくれて
   あししか みえないよ
   あかいかさ いいな
   ふりむかないかな

   あかいかさ さして
   まえをいく あのこ
   かさを まわして
   ひとりで うれしそう
   あかいかさ いいな
   よびかけようかな

   あかいかさ さして
   まえをいく あのこ
   あめが やんだら
   ならんで いきたいな
   あかいかさ いいな
   おいついちゃおかな

 私、池田小百合は、主宰する童謡の会で歌おうと思い楽譜をさがしましたがありませんでした。日本童謡協会編『日本の童謡二〇〇選』(音楽之友社)には掲載されていません。中田喜直先生に問い合わせると『最新こどものうた名曲選』(音楽之友社)を紹介してくださいました。「あかいかさ」は一曲目に掲載されている。その後、「今度、あなたが気に入ったという「あかいかさ」を、『日本童謡唱歌大系』(東京書籍)に掲載しました。よろしく・・・」という手紙もいただきました。楽譜を手にしたのに、残念ですが「あかいかさ」は私が主宰する童謡の会では歌っていません。

▲中田喜直からの返信 ▲音楽之友社 表紙

  (掲載曲)
  あらかはひろし作詞/リチャード・シャーマン ロバート・シャーマン作曲「チム・チム・チェリー」、オーストラリア民謡/音羽たかし作詞「調子を揃えてクリック・クリック・クリック」、水野汀子作詞/A.ポップ作曲「トム・ピリビ」、合唱の名作 佐藤竜太作詞/広瀬量平作曲「雪はのんのん―熊の子たちの子守唄―」も掲載されている。
   ・磯部俶作曲は「何を折りましょう」(渡部千津子作詞)、「はるかな友に」(磯部俶作詞)、「りすの帽子屋さん」(大平よし子作詞)の三曲が掲載されている。「何を祈りましょう」の作詞者は目次や楽譜では渡辺千津子とある。歌詞には渡部千津子とある。渡辺は間違いで、渡部が正しい。

  ◇阪田寛夫(1925〜2005  「サッちゃん」参照)

  (註)略歴は、畑中圭一著『日本の童謡  誕生から九〇年の歩み』(平凡社)を参考にしました。

  【畑中圭一の詩の評価】
 “六人の詩人は、会を結成した時点ですでに童謡詩人として独自の詩的世界をもち、それぞれに創作活動を行っていたが、会としての第一の主張である≪歌われる童謡志向≫については、主に関根栄一とこわせ・たまみ、鶴見正夫がそれを具現していたと言えよう。関根栄一は子どもたちを躍動させるリズミカルな詩で、こわせ・たまみは小さく、かわいい世界を描くことで、それぞれ「歌」としての童謡を書き続けた。また鶴見正夫は語りかける歌としてのバラードを数多く発表した。一方、子どもの本音を歌う童謡は、阪田寛夫によってみごとに実現されているが、ほかに、おうちやすゆきの作品にもそうした傾向が見受けられる。したがって6の会の主張は、会員すべての足並みがそろったかたちではなかったが、的確に具体化されていたのである。しかもこの六人はその後それぞれの詩的世界を拡充して、童謡詩人として活躍したのであり、彼らにとって6の会は貴重なスプリングボードだったと言えよう。”(畑中圭一著『日本の童謡』(平凡社)による)。
 五人の詩の評価はあるが、荘司武の詩については書かれていない。


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