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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
映画・テレビの新しい童謡
アイアイ   あわてんぼうのサンタクロース   一ねんせいに なったら   
いっぽんでもニンジン  おかあさん   おもいでのアルバム 
河は呼んでいる  北風小僧の寒太郎   さんぽ   幸せなら手をたたこう
 だれかが口笛ふいた   手のひらを太陽に  峠の我が家  パンの唄   ひげなしゴゲジャバル  
まっかな秋  森の熊さん  山の音楽家
内容は「童謡・唱歌 事典」です(編集中です)





河は呼んでいる

日本語詞 水野 汀子
作詞・作曲 ギイ・ベアール

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2013年12月13日


 この歌は、「河は呼んでる」「河は呼んでいる」「川は呼んでる」「河はよんでる」「川はよんでる」と、いろいろなタイトルで楽譜や歌詞集が出版されている。それで調べてみる事にしました。

 【フランス映画の主題歌】
 昭和三十三年(1958年)に封切られたフランス映画、原題『L’ EAU VIVE』、邦題は『河は呼んでる』(フランソワ・ヴィリエ監督、パスカル・オードレ主演)の主題歌です。
 映画と同名の主題歌は、シンガーソングライターのギイ・ベアール(GUY BEART)が作詞・作曲し、自ら映画の冒頭で歌った。劇中ではギターの演奏が使われた。映画も主題歌も爆発的にヒットした。ベアールが好唱したレコードは1958年のADFディスク大賞を受賞した。

  【映画のあらすじ】
  南フランスのプロヴァンス地方を流れる暴れ川、デュランス河がモデル。ダム建設工事で沈む村の大地主は娘を遺して急死してしまう。賠償金として支払われる遺産の行方は不明。遺産を相続することになった少女オルタンスの成長を描いた映画。

  【フランス語詞】

        L’ eau Vive

 Ma petite est comme l'eau Elle est comme l’eau vive
 Elle court comme un ruisseau Que des enfants poursuivent
 Courez, courez  Vite si vous le pouvez
 Jamais, jamais Vous ne la rattraperez

 Lorsque chantent les pipeaux Lorsque danse l'eau vive
 Elle mène mes troupeaux Au pays des olives
 Venez, venez, Mes chevreaux, mes agnelets
 Dans le laurier, Le thym et le serpole

 Un jour que sous les roseaux Sommeillait mon eau vive
 Vinrent les gars du hameau  Pour l'ammener captive
 Fermez, fermez  Votre cage à double-clé
 Entre vos doigts  L'eau vive s'envolera

 Comme les petits bateaux  Emportés par l'eau vive
 Dans ses yeux les jouvenceaux  
 Voguent à la derive Voguez, voguez, Demain vous accosterez
 L'eau vive n'est  Pas encore à marier

 Pourtant un matin nouveau À l'aube mon eau vive
 Viendra battre son trousseau Aux cailloux de la rive
 Pleurez, pleurez Si je demeure esseulé
 Le ruisselet Au large s'en est allé

→毎日新聞夕刊 昭和33年(1958年)9月11日(木)広告
  9月12日(金)よりロードショウ 有楽座
 『河は呼んでる』主演パスカル・オードレ、
 監督フランソワ・ヴィリエ、脚本ジャン・ジオノ、音楽ギイ・ベアール

  【日本語詞について】
 異なる三つの日本語詞(作詞・訳詞)がある。
   そのⅠ 水野汀子 日本語詞(作詞)タイトル「河は呼んでいる」
   そのⅡ 岩谷時子 日本語詞(訳詞)タイトル「河は呼んでる」
   そのⅢ 音羽たかし 日本語詞(訳詞)タイトル「河は呼んでる」

 【水野汀子 作詞】
  ・子ども向けに水野汀子が作詞した。作詞した時のタイトルは「河は呼んでる」で、歌詞は三番までだったが、『NHKみんなのうた』で放送する時、岩谷時子や音羽たかしの訳詞と区別するために「河は呼んでいる」というタイトルにした。
  ・『NHKみんなのうた』で放送。昭和38年(1963年)4-5月の木曜日の歌として中原美紗緒、西六郷少年少女合唱団が歌った。この放送により大ヒットになりました。
  ・放送された歌詞と楽譜は、『NHKみんなのうた』≪第1集≫(日本放送出版協会)昭和39年(1964年)3月22日発行で見る事ができます。歌詞は二番まで掲載。タイトルに使われている漢字は「河」だが、歌詞は「川」の漢字が使われている。

▲「河は呼んでいる L’eau Vive」 ベアール作曲 小森昭宏 編曲/ト長調(G Dur) 四分の三拍子

  (註1)●インターネット検索『NHKみんなのうた』では、タイトルが「河はよんでる」と間違っているため、「河は呼んでいる」で検索すると出てこない(2013年12月12日検索)。
  (註2)水野汀子 作詞は他に「すてきな夜(ボン・ニュイ)」(ゴラゲール作曲)「もう日が暮れる 日が暮れる お日さまも眠る 夜が来た~」。「トム・ピリビ Tom Pillibi」(ポップ作曲1965年版)「トム・ピリビは 二軒 お家を 持っている お城のように 大きな家~」が『NHKみんなのうた』で放送されている。
  (註3)水野汀子 日本語詩の「L’EAU VIVE 河は呼んでる」は、水野汀子編『シャンソン・アルバム』≪1≫(水星社)で見る事ができます。これには三番まで掲載されている。三番は次のようです。

     水の流れに 小舟は走る
    こげよ夜明けの 光の中に
    ごらんよ あの日を  
    かがやく朝が  
    みんなに優しく   
    おとずれてくる

 水野汀子(日本語詞)三番まであるもののタイトル「河は呼んでる」となっている。JASRACには「河は呼んでいる」「河は呼んでる」二通りで登録されている。


  【教科書での扱い】
 唱歌調の水野汀子作詞は、教科書にも掲載されました。どの教科書も歌詞は『NHKみんなのうた』と同じで二番まで掲載
  ・『中学生の音楽1』(音楽之友社)昭和51年発行
  ●タイトル「川は呼んでる」は間違い。「は呼んでる」が正しい。
  水野汀子作詞 ベアール作曲/ト長調(G Dur) 四分の三拍子。ギターの学習用教材。
 ・高校『音楽Ⅲ』(教育出版)音楽412
  ●タイトル「河は呼んでる」は間違い。「河は呼んでる」が正しい。
  水野汀子作詞 ベアール作曲/ト長調(G Dur) 四分の三拍子。同声二部合唱。

  (註)上記二冊のタイトルは、いずれも「い」が欠落していて間違っている。

  ・『高校用音楽2』(教育芸術社)昭和51年発行 タイトル「L′eau Vive(河は呼んでいる)」。このタイトルは正しい。
  水野汀子(ルビ ていし)作詞 ギイ ベアール作詞・作曲 変ホ長調(Es Dur) 四分の三拍子。伴唱・奏付き フランス語歌詞付。
  ●「水野汀子(ルビ ていし)」は間違い。「水野汀子(ていこ)」が正しい。

  【水野汀子について】
  私、池田小百合は、「水野汀子=みずのていこ」と読むと思っていました。ところが、高校の音楽教科書『高校用音楽2』(教育芸術社)に、(水野汀子 ていし)とルビがふってあるのを見て慌てました。まず、男性なのかもしれない、と思いました。今制作中の『読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞』改訂12版で変更しなければ、と思いました。そこで、水野汀子編『シャンソンアルバム』①から⑤を発行している水星社に問い合わせました(2013年12月11日FAX送信)。

  <水星社からの回答>
  (一)「水野汀子 みずのていこ」と読みます。(二)女性です。 (三)「水野汀子」は以前、当社に勤務していた社員で、作品の日本語訳をしておりました。従って略歴などを公開することはできません。よろしくお願いします。株式会社 水星社(2013年12月13日FAX受信)。
  (註1)「水野汀子=みずのていし」は間違いで、「水野汀子 みずのていこ」は女性でした。このような音楽教科書の間違いは、よくあることです。 たとえば「汽車ぽっぽ」(冨原薫 ふはらかおる作詞)は、『二ねんせいのおんがく』(教育芸術社)昭和三十年発行では、タイトルが「きしゃ」で、作詞者は「みやはらかおる」と間違っています。昭和三十三年発行の『改訂版 しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)も、「きしゃ」という間違ったタイトルで掲載されています。 さらに、「ゆりかごのうた」(北原白秋作詞)は、『しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)昭和三十三年発行、及び昭和三十五年発行は、「ゆりかご」のタイトルで扱っています。 教科書の間違いは、いくらでもあります。大勢の編集者が目を通しているはずなのに、単純な間違いが多いのは困ったものです。
  (註2)近年、個人情報保護法により略歴は公開されなくなりました。水野汀子がどのような人なのかわかりません。これでは研究になりません。作者がどのような人物であれ、歌がヒットして歌い続けられれば、それで好いのかもしれませんが。

  【菅美沙緒は水野汀子なのか】
 この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者から“JASRACでは菅美沙緒、水野汀子は、ともに登録されています。菅美沙緒(すがみさを)の別名が水野汀子の可能性がありますが、未確認です”という情報をいただきました。
 早速、厚木市立中央図書館に調査に行きました。二人の職員に調査を手伝っていただきました。「水野汀子、菅美沙緒(すがみさを)、どちらも、なかなか、たどり着きませんねえ」「お時間よろしいですか」・・・一時間、二時間が経過し、お昼を過ぎてしまった所で、男性の職員が『新訂 現代日本女性人名録』(日外アソシエーツ)2001年7月25日第1刷発行に、菅美紗緒(かん・みさお)が掲載されているのを発見しました。

  【菅美紗緒(かん・みさお)の略歴】
  『新訂 現代日本女性人名録』(日外アソシエーツ)2001年7月25日第1刷発行によると、次のようです。

 シャンソン歌手。愛媛県今治市生まれ。
 19歳の時、オペラの三浦環の門下生に。昭和14年から石川啄木や北原白秋の歌曲を歌う。
 終戦翌日からシャンソンを始め、訳詞した「リラの花」「聞かせてよ愛の言葉を」「行かないで」、代表作の「桜んぼの実る頃」などを歌い続ける。
 傍ら、30年代東京と京都でシャンソン教室を開き、シャンソンの普及に貢献。
 京都教室は平成7年まで30年間続け、のちパリで活躍する福田ワサブローなどを輩出。10年京都府立文化芸術会館でラストリサイタル「ありがとう京都」を開催。〔調査年月 1998.11〕
  (註) 上記、“菅美紗緒が訳詞した代表作の「桜んぼの実る頃」”は、水野汀子編『シャンソンアルバム』③(水星社)では、“日本語詞 菅美沙緒”と書いてある。したがって、シャンソン歌手の菅美紗緒(かん・みさお)と菅美沙緒は同一人物でしょう。
 訳詞者としてのJASRACの登録が菅美沙緒ということになります。サトウハチローのように、ペンネームを沢山持っていても不思議ではない。

  <そのほかの管美紗緒・菅美沙緒の情報>
  ・「愛媛県今治市生まれ。東京西麻布にいたが、東京オリンピックの道路建設で立ち退き、昭和30年代後半に関西に活動基盤を移した」(甥にあたる人のブログによる)。
  ・「1960年の初め東京から京都に居を移し、二条城のお堀の前にある京都国際ホテルで菅美沙緒シャンソン教室を開いた。その後、1993年まで30年間に渡り好きなシャンソンの日本語詩を書き続け、シャンソンに魅せられた若い世代を指導しながら毎年フランス人や日本人でにぎわう<パリ祭>を催した。・・その菅先生は今モンマルトルの墓地に眠っている」(福田ワサブローのブログによる)。
  ・ブログ「太陽光線・ヤスコ/杉山泰子」の中に、“我が師、菅美沙緒先生は水野汀子という名前でも、たくさん訳詞を書かれて、水星社の「シャンソンアルバム」全5巻を残されました”とある。
  ・ブログ「シャンソンの世界でby sararaM」の中に、“「桜んぼの実る頃」この曲は、菅美紗緒さん(水野汀子さん)が 日本で初めてシャンソンを紹介した、最初の曲であるという。・・・そして、菅美紗緒さんの82歳のリサイタルでのこの曲を聴かせてもらった。”とある。
  ・「1942年3月20日 菅美沙緒(ソプラノ、三浦環門下)第1回独唱会(2時、7時 日劇小劇場)越谷達之助(伴奏)  越谷達之助≪啄木によせて歌へる≫短歌十五首」の記録がある(『音楽の友』第2巻5号、昭和17年5月発行による)。
  ・「音楽の友」第2巻第5号には“菅美沙緒は、さいきんビクターに入社し、初めての独唱会も開いた新人ではある。だが彼女は、すでに1937(昭和12)年秋に三浦環歌劇学校の歌劇《セヴィラの理髪師》公演でロジナ役をこなしたこともあり、業界新聞でベスト・テンに挙げられたこともある。”とある。
  (註) 菅美紗緒は大正六年(1916年)生まれ、平成十二年(2000年)没のようです。弟子だった人のブログは信憑性が高く、菅美沙緒の別名が水野汀子の可能性がある。水星社で確認を取りたいのだが確認できません。

  【水野汀子が書いた解説】
  水野汀子編『シャンソンアルバム』①(水星社)には、水野汀子の略歴は記されていない。巻末に「曲目解説」がある。これは、編者の水野汀子が書いたと思われます。
  “フランス地方主義文学の長老ジャン・ジョノがシナリオを書いた映画「河は呼んでる」は、1956年から3年がかりで制作されました。この映画は、ジョノ以外には無名の人たちばかりが仕事にたずさわっていましたが、監督フランソワ・ヴィリエ、主演者パスカル・オードレ、この主題曲を作詞作曲したギー・ベアールを世に知らしめた作品といえます。なかでも、それ以前キャバレー「トロワ・ボーデ」のしがないギター弾きでしかなかったベアールは、いちはやく人気シャンソニエとなり、グレコ、モンタン等がきそって彼の作品を取り上げるようになりました。この素朴なメロディは、清冽な水の流れとその化身たる少女オルタンスをたくまず表現し、時と共に滅びることのない愛唱歌として定着しています。”

  【岩谷時子 訳詞】
 岩谷時子は、シャンソン歌手・越路吹雪のためにオリジナル訳詞「河は呼んでる」を創った。「娘」と「若者たち」を「河」の流れでまとめたシャンソン調の大人の恋の歌。新しい感覚の美しい訳詞になっている。
 私、池田小百合は、「しめろ しめろ ハートの鍵を」が、気に入っている。

          河は呼んでる   岩谷時子(訳詞)

        あの娘は河の 溢れる水よ
         走れば子等は 追いかけてゆく
         走れ 走れ 流れのように
        誰にも 掴まらぬよう

         そよ風ふけば 子羊つれて
         あの娘はいつも 森へ出かける
         おいで おいで 羊の群れよ
         オリーヴしげる 水のほとりへ

        いつもあの娘が まどろむときは  
         若者たちが まわりを囲む
         しめろ しめろ ハートの鍵を
         溢れる水よ 早くお逃げよ

         若者たちは あの娘が好きで
         愛のながれに 小舟を浮かべる
        漕げ 漕げ 恋の港へ  
        だけどあの娘は お嫁には早い  

        ある朝のこと 可愛いあの娘を
        やさしい声で 河が呼んでいた
         お行き お行き 河は呼んでる  
        お前の河の 溢れる水よ

 (註)この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者から次の事を教えていただきました。
  “岩谷時子の歌詞でS33.8東芝エンジェルレコードから中島潤歌でレコード(JP5011)が発売されています。新聞広告によると映画の封切日S33.9.12に公開記念実演(歌謡指導)しています。中原美紗緒歌のキングレコードなどとの競作です。”(2014年3月9日)


    【岩谷時子の略歴

   【音羽たかし 訳詞】
  音羽たかし訳詞の「河は呼んでる」は、NHK紅白歌合戦に七年連続出場歌手の中原美紗緒が紅白歌合戦に三回目に出た時に歌った。
 中原美紗緒が歌ったシングル盤レコード「河は呼んでる」は、昭和三十三年八月、キングレコードから350円で発売された。
 音羽たかしの訳詞は、映画のストーリーを盛り込んだ内容になっている。「デュランス河 流れのように」「かわいいオルタンスよ」「やがてすべてが 流れの底に」「新しい天地に あふれる水を」など。
  この年(1958年)、音羽たかし訳詞の中原美紗緒が歌った「河は呼んでる」は、大ヒットした。

           河は呼んでる   音羽たかし(訳詞)

        一、デュランス河の 流れのように
           仔鹿のようなその足で  
          駆けろよ 駆けろ かわいいオルタンスよ
          小鳥のように いつも自由に

       二、岸辺の葦に 陽はふりそそぎ
          緑なす野に オリーブ実る  
          駆けろよ 駆けろ かわいいオルタンスよ
          心ゆくまで 子羊たちと

        三、やがてすべてが 流れの底に  
          埋もれる朝が 訪れようと
          ごらんよ ごらん かわいいオルタンスよ
          新しい天地に あふれる水を

  【音羽(おとわ)たかしの略歴】
  ・日本の作詞家、訳詞家。音羽たかしの「音羽」は、キングレコードの本社地である東京都文京区音羽から来ている。本名:牧野 剛(まきの ごう)。別名:あらかは ひろし
  ・ザ・ピーナッツの「情熱の花」「可愛い花」「乙女の祈り」「月影のキューバ」、朱里エイコの「ハバナ・アンナ」、ペギー葉山の「ケ・セラ・セラ」「三色すみれ」、山口百恵の「悲しき16才」などの作詞、または訳詞を行った。作品には別名義を含む。
  ・一時期、キングレコードの常務取締役も務めていた。
  ・誤嚥性肺炎のため2009年8月6日に84歳で死去した。

  (註1)水野汀子編『シャンソン・アルバム』③(水星社)には、日本語詞 音羽たかし「悲しみのヴェニス」、日本語詩 あらかわひろし「スウェーデンの城」、日本語詩あらかわ・ひろし「私のメロディー」「焼き栗」「モーボージュの月夜」「ナポリに帰りて」「ブルー・ブラン・ブロン」、日本語詞あらかわ・ひろし「恋人たち」「トゥション・ドゥ・ボア」が掲載されている。
  (註2)JASRAC登録では「あらかは ひろし」。「あらかわひろし」「あらかわ・ひろし」はありません。キングレコード『コーヒー・ルンバ』『かわいい小鳥』(ザ・ピーナッツ)も「あらかは ひろし」。キングレコード社発行の「キングレコードの六十年」では「あらかはひろし」の表記です。

  【中原美紗緒(なかはらみさお)の略歴】
  ・昭和六年(1931年)七月十八日、東京生まれ。本名は室美紗緒(むろみさお 旧姓は中原)。叔父に画家の中原淳一、義理の叔母に女優で元タカラジェンヌの葦原邦子がいる。長男は映画監督・映像プロデューサーの室希太郎。
  ・東京芸術大学声楽科卒業。昭和期に活躍したシャンソン歌手、女優。
  ・昭和三十年(1955年)五月、キングレコードから「パリのお嬢さん」でデビュー。
  ・NHKテレビ連続ドラマ「バス通り裏」の主題歌を歌った。
  ・昭和三十一年(1956年)からNHK紅白歌合戦に七回連続して出場した。
   第7回 (1956年12月31日、東京宝塚劇場) 『フルフル』
   第8回 (1957年12月31日、東京宝塚劇場) 『ジェルソミーナ』
   第9回 (1958年12月31日、新宿コマ劇場) 『河は呼んでる』
  (註) 音羽たかし訳詞の『河は呼んでる』を歌った。
  ●『河は呼んでいる』と書いてあるのは間違いという事になります。
   第10回 (1959年12月31日、東京宝塚劇場) 『ある恋の物語』
   第11回 (1960年12月31日、日本劇場(日劇)) 『ロマンティカ』
   第12回 (1961年12月31日、東京宝塚劇場) 『ボーイ・ハント』
   第13回 (1962年12月31日、東京宝塚劇場) 『フルフル』
  ・昭和三十三年(1958年)12月1日から昭和三十五年(1960年)まで、KRT(現・TBS)で放送された連続ドラマ「あんみつ姫」(マンガ原作・倉金章介)のドラマ化で主役を演じた。映画に何本か出演した。
  ・昭和三十八年(1963年)結婚。
  ・昭和四十一年(1966年)、育児に専念するため芸能界から引退。
  ・昭和五十三年(1978年)、十二年間のブランクを経て芸能界に復帰。
  ・平成三年(1991年)、歌手生活三十周年記念コンサート開催。自叙伝「唄(シャンソン)に恋して」を出版。
  ・平成五年(1993年)、食道癌が発見され、手術せずに抗癌剤等で治療を行う。
  ・平成六年(1994年)春、食道癌の切開手術。大手術だったが経過は良好で1ヶ月で退院し秋には復帰。
  ・平成八年(1996年)、リンパ腺癌が発見され、再び切開手術。歌手生活四十周年記念コンサート開催。その直後再びリンパ腺癌が発見。
  ・平成九年(1997年)七月八日、享年六十五歳で逝去。同年春まで闘病の傍らステージに立ち続けた。
 代表曲は、「パリのお嬢さん」、「フルフル」、「私の心はバイオリン」、「河は呼んでる」、「バス通り裏」、「夜は恋人」などがある。

  〔調査の結果〕 中原美紗緒は、音羽たかし訳詞の「河は呼んでる」と、水野汀子作詞の「河は呼んでいる」の両方を歌い、ともに大ヒットした。 『NHKみんなのうた』の「河は呼んでいる」が大ヒットし、教科書にも掲載されると、音羽たかし訳詞の「河は呼んでる」の方は忘れられた。 シャンソン歌手・越路吹雪が亡くなると、岩谷時子訳詞の「河は呼んでる」も忘れられた。岩谷時子や越路吹雪の話題に「河は呼んでる」は、出て来ない。
  現在は、水野汀子作詞の「河は呼んでいる」だけが歌い継がれている。しかし、水野汀子についての情報は、ほとんどない。

  〔後記〕  「河は呼んでる」と「河は呼んでいる」、「中原美紗緒」と「室美紗緒」、「菅美沙緒」と「菅美紗緒」、そして「水野汀子」「音羽たかし」。異なる表記に翻弄された。


著者より引用及び著作権についてお願い】 利用される場合は、「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と出典を明記してください。それはルールです。

≪著者・池田小百合≫






おもいでのアルバム

作詞 増子 とし
作曲 本多鉄麿

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2012年12月1日


▲1984年(昭和59年) 2月~3月 
NHKテキスト『みんなのうた』

▲常楽院の境内に建つ「思い出の
アルバム」の歌碑。歌碑のタイトルは
漢字で「思い出のアルバム」に
なっています。

 【初出】
 昭和三十六年出版の増子とし編著『幼児のためのリズミカルプレー』(フレーベル館)に掲載された曲です。保育の現場ではテレビ以前から歌われていました。

 <増子とし編著『幼児のためのリズミカルプレー』(フレーベル館)について>
  「曲集」と「解説集」の二冊組みになっている。「おもいでのアルバム」はその中の一曲としておさめられている。「曲集」は楽譜32曲を掲載、「解説集」はリズミカルプレー演出のシナリオ。いろいろなリズム遊びを取り入れたミュージカルとして構成されたもの。いつからか、「おもいでのアルバム」だけ単独で歌われるようになった。
   曲集 もくじ  32曲
   ・はるの コーラス     ・はなが さいた  ・おさんぽ しましょう   ・かざぐるまが まわる  ・ごあいさつ ごっこ   ・わたしと とけい
   ・ゆうえんち    ・おうち ごっこ   ・にわへ でて あそぼう   ・どうぶつえん ごっこ   ・ゆうだち   ・こかげ   ・うんどうかい ごっこ 
   ・お月さま いくつ   ・おにんぎょうさん   ・おやまにいきましょ   ・むしの アンサンブル   ・はっぱと どんぐり   ・つみき あそび 
   ・ありがとう   ・ふゆじたく     ・おいしい おかし   ・クリスマス・プレー   ・おもちゃのクリスマス・イブ   ・ねずみの おしょうがつ 
   ・さむくは ないぞ   ・ゆき こんこ     ・かぜっこ   ・はるが きた    ・はるの あそび   ・おもいでの アルバム  ・がっこう ゆき
  「解説」のタイトルは「おもいでのアルバム」

  <おねがい> (増子とし)
 リズミカルプレーということばは、新しくつくられたものです。それは、この本を創った意図が、まったく新しく、内容にマッチした題名としてつくられたものです。この本は、従来の保育方法に新しい風を吹き込むものと思います。子どもたちの動きを自然に、楽しくさそいだす保育の新機軸が生まれる事を願って、また、子どもの自発性と音楽とを密着させる目標をもって、総合的な姿にまとめました。
 ただ、残念な事に、ページ数の関係で、これらの曲と、その使い方、および、わたくしの一応の計画と動きの創作についての解説とを別々に発行しなければならないことです。曲集と解説集の両者がそろって、完全なものになりますので、この点をご諒承願い、みなさまの保育を豊かにするための、お役になれますことを願ってやみません。
  (註)昭和38年3月10日再版発行は、玉川大学 教育学術情報図書館所蔵。
   卒業生は図書館内見学のみ許可される。閲覧・複写は不可である。これでは勉強にならない(2015年10月14日)。

 【テレビで放送】  保育園、幼稚園の卒園式で歌い継がれている曲です。昭和五十五年二月に、テレビ朝日の幼児番組『とびだせパンポロリン』で、かおりくみこが歌いました。続いてNHKテレビ『みんなのうた』でダークダックス(昭和五十六年二・三月)や、芹洋子(昭和五十七年二・三月)が歌い全国に広まりました。その後も、毎年二、三月になると再放送されました。同じ曲が毎年繰り返し放送される事は、めずらしく、繰り返し聞く事により、みんなが覚えました。

 【繰り返し放送】
  ・1984年(昭和59年) 2月~3月 NHKテキスト『みんなのうた』 「おもいでのアルバム」歌・ダークダックス、アニメーション・鈴木康彦。他に「サラマンドラ」「オナカの大きな王子さま」「宗谷岬」「ひげなしゴゲジャバル」「ふぃふぃ」「こんな日がほしかった」「おにいちゃんになっちゃった」計八曲放送。おもしろい歌が満載だった。

 



  ・1995年(平成七年) 2月~3月 NHKテキスト『みんなのうた』 「おもいでのアルバム」歌・芹洋子、アニメーション・鈴木康彦。他に「ありがとう・さようなら」「雪の音」「ふるさと春まつり」「冬の夜のおはなし」「旅人のように」「ともだち」「感謝状」「ニャンコロこもりうた」「ありがとう」「笑顔が風にもどる瞬間」「輝きの彼方へ」計十二曲放送。

 ・2000年(平成十二年) 2月~3月 NHKテキスト『みんなのうた』 「おもいでのアルバム」歌・芹洋子、アニメーション・鈴木康彦。他に「雪うさぎ」「ピアノとわたし」「メッセージ・ソング」「ふるさと春まつり」「わたしのふるさと」「冬の夜のおはなし」「昔のことばは生きている」「生命の話をしよう」「YES,YOU」「だけど I LOVE YOU」計十一曲放送。次第に「みんなで歌う」曲から「みんなで聴く」曲が放送されるようになっていった。

 【レコード】  ダークダックスがポリドールで、芹洋子がキングで吹込みました。

 【曲と歌詞について】
  ・園児たちの一年間にわたる思い出を歌ったものです。
  ・八分の六拍子のリズムに乗って歌います。あたたかく心に沁みるメロディーです。
  ・冬の歌詞が二種類(五番と六番)あるのは、宗教が違っても、どちらかを選んで歌えるように考慮したためです。
  ・五番の「メリークリスマス」の歌い方が難しいですが、ここは話すように歌います。
  ・「きれいな花も」「お船も」「赤いはっぱも」「桃のお花も」など各所に出てくる「も」は、歌った人それぞれの四季の思い出を引き出す大切な役割をしています。
  ・最後は「もうすぐみんなは 一年生」と、まとめています。小学生になる園児を見守る先生の温かなまなざしがあります。共に過ごした時間を惜しむ歌です。
  ・前半の二行を先生が歌い、後半の二行を子どもたちが歌うと一層楽しくなります。七番は全員で歌います。
  ・子どもたちの大好きな歌です。みんなに愛唱され、思い出と共に長く歌い継がれていく歌です。

 【増子としの略歴】
  ・明治四十一年、宮城県で生まれました。女性。
 ・宮城女学校(現・宮城学院)を卒業。
  (註)宮城女学校は1911年「高等女学校」の認可を得ているが、宮城高等女学校の名称は1943年以降。1951年「学校法人 宮城学院 設立認可」。
  ・神戸の頌栄(しょうえい)保母伝習所を卒業。31回生(1926年 昭和元年入学)。
  (註)1889年、保母伝習所として開設され、1935年より保育専攻学校となり、戦後 頌栄短期大学となった。
 頌栄保母伝習所については、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました。ありがとうございました(2014年5月30日)。
 ・東北や東京の幼稚園に勤めました。この間、洗礼を受けてクリスチャンになりました。

  <作詞当時の増子とし>
  昭和二十六年、東京都墨田区立江東橋保育園の園長となり、翌年、『幼児のための音楽カリキュラム』を出版した。出版社フレーベル館の元編集者、河合隆一氏によると、園長室には園児がひっきりなしに入ってきて、園長と楽しそうにしゃべって行った。一方、大人には、とても厳しい人で、約束の時間に遅れたりすると「この次から会わないからね」と、はっきり言われたそうです。
  ・昭和三十四年、『生活あそび』(フレーベル館)を出版。
  ・昭和三十六年、「おもいでのアルバム」が入った『幼児のためのリズミカルプレー』(フレーベル館)を出版。
  ・昭和三十八年、五十五歳の時、脳髄膜炎(のうずいまくえん)を患い、以後、長い闘病生活をしました。
  ・平成九年七月二日、風邪をこじらせ亡くなりました。 享年八十九歳。

 <「増子とし」の「増子」の読み方>
  ・『日本童謡唱歌大系』(東京書籍)藤田圭雄 阪田寛夫 中田喜直 湯山昭監修では、「Toshi Masuko」と書いてある。
  ・長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』(YAMAHA)では、「増子(ますこ)とし」と書いてある。

  以下の所に手紙を出し、「増子」の読み方を教えていただく事にしました。
  ・「常楽院」本多慈昭住職からの返事は「お尋ねの増子としさんの呼称は、「ましことし」さんとお呼びしています」。(2017年10月26日)
  ・調布市郷土博物館 事業文化財係からの返事は、「お問い合わせいただきました「思い出のアルバム」の作詞者増子としさんは、墨田区の江東橋保育園の園長だった方で、お名前は「ましこ」さんです。保育園に直接、電話をかけて教えていただきました。」
  ・「墨田区立江東橋保育園」は「ましこ」でした。

 【本多鉄麿(鐵麿)の略歴】
  ・明治三十八年一月十七日、群馬県前橋市泉沢で生まれました。天台宗の僧・本多綱祐の長男。本名は慈祐(じゆう)といいます。
  ・大正大学予科を経て、昭和五年、大正大学文学部国文科卒業。昭和四年より八年まで作曲家の弘田龍太郎に師事しました。
  ・昭和二十六年四月、天台宗の寺院、福増山常楽院(東京都調布市西つつじヶ丘)住職となる。第五十二世住職本多慈祐。

  <常楽院について>
 常楽院は天平年間(729〜748年)に行基菩薩の開創と伝えられ、本尊阿弥陀如来も行基作と伝えられている。当寺はもと、宝王山常楽院長福寿寺という名称で、現在の東京都台東区上野広小路にあったが、昭和二十年三月の戦火で焼失したのを機に、現在の調布市に移った。ここには、それまで福増山延命院蓮蔵寺という無住の寺があったが、その寺と合併する形で福増山の山号を継ぎ、福増山常楽院となった。
 また、父親が設立した神代(じんだい)幼稚園の初代園長に就任しました。幼稚園での実践を中心に全国各地で幼児音楽の講習を行い、童謡や幼児向けオペレッタなど二千余曲の作品を残した。寺院の敷地内には平成十二年まで「私立神代幼稚園」を開園していた。

  <増子としとの出会い>
 増子としとの出会いは、保育の研究会だったようです。『思い出のアルバム』は、クリスチャンの増子とし園長と、お坊さんの本多鉄麿園長が、「幼児のために楽しく歌える歌を」との考えから協力して生まれました。
 これで前記の「冬の歌詞が二種類(五番と六番)あるのは、宗教が違っても、どちらかを選んで歌えるように考慮したためです。」が、理解できるでしょう。 作曲については、「保母さんのピアノの演奏技術に合わせて作曲しているんです」と話していたそうです。
  ・駒沢短期大学講師もしました。
  ・昭和四十一年五月二十四日、ぜんそく発作のため亡くなりました。享年六十一歳。

 【歌碑】
 教え子たちが、没後三十年を記念して平成八年十一月に常楽院に歌碑を建てました。

 【後記】  保育園や幼稚園で必ず歌うこの歌は、上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版)には掲載されていません。


著者より引用及び著作権についてお願い】 利用される場合は、「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と出典を明記してください。それはルールです。

≪著者・池田小百合≫





まっかな秋

作詞 薩摩 忠
作曲 小林秀雄

池田小百合なっとく童謡・唱歌
((2011/10/31)




 「まっかだな」の歌い出しが印象的です。この歌を歌えば、秋の風景が目の前に広がります。それは、赤くそまった秋です。

 【初放送はNHKテレビ①『たのしいうた』】
 長田暁二著『心にのこる日本のうたベスト400』(自由現代社)には“昭和38年10月、NHKTVの『たのしいうた』でボニー・ジャックスのコーラスで放送された”と書いてあるので、放送日時を調査しました。他のどの出版物にも、放送日時がありません。

 <調査結果>
 昭和38年10月12日(土曜日)午後6時25分~35分、NHKテレビ①『たのしいうた』でボニー・ジャックスの歌で放送されました。毎週土曜日に『たのしいうた』という番組が放送されていました。

 <調査>2011年10月10日「まっかな秋」調査、厚木市中央図書館に行く。 虫眼鏡で格闘。昭和38年10月のNHKテレビ欄の調査。
 まず、毎日新聞復刻縮刷版を調査。以下のように書いてありました。
   ・5日 たのしいうた近藤圭子
   ・12日 たのしいうた
   ・19日 たのしいうた松島トモ子
   ・26日 たのしいうた
 ●12日または26日に歌われたことがわかります。しかし、それではボニー・ジャックスが歌ったかわかりません。
 
 続いて読売新聞復刻縮刷版を調査。

   ・5日  たのしいうた 近藤圭子
   ・12日 うた ボニー・ジャックス
   ・19日 たのしいうた 松島トモ子
   ・26日 うた 東京混声合唱団ほか

 ●毎日新聞では「たのしいうた」としか書いてなかった。「ボニー・ジャックス」も「東京混声合唱団」も文字数が長いからです。読売新聞も見てよかった。あきらめなくてよかったと思いました。

 【『NHKみんなのうた』でも放送】
 昭和40年10月‐11月の金曜日の歌としてボニー・ジャックスの歌で放送されました。繰り返し聴き、みんなが覚えました。

 【「とんぼ」のアクセント】
 二番で、「とんぼ」のアクセントが逆なのに気がつきます。この場合、一番の「もみじ」に対して、「とんぼ」のアクセントが逆になってしまうのは、日本語の場合、仕方がない事です。詩のイントネーションに充分気を配ってもこのようになってしまいます。

 【白い彼岸花もある】
 ヒガンバナ科の植物には、ヒガンバナ(別名マンジュシャゲ)の他に、リコリス(別名シロバナヒガンバナ)や、ネリネ(別名ダイヤモンドリリー)などがあります。色は、赤だけでなく、白、ピンク、黄色などがあります。

リコリス

ネリネ


 【カラスウリの熟した実は赤い】
 カラスウリはつる性で林縁に生息。花期8〜9月、果期10〜11月。

平安神宮大鳥居(明神・みょうじん型) 高さ24.4メートル
 幅18メートル  鉄筋コンクリート造モルタル塗
 【お宮の鳥居について】
 昔から、日本人は自然そのものを神としてあがめてきました。滝や大きな岩など特に神々しさを感じさせる場所には、縄を張って大切に祭りました。縄はやがて、二本の柱(木または石)の間に張られるようになります。一説によるとそれが鳥居に変化していったとされています。

 また、日本の神社の使いがニワトリであることから、そのニワトリが止まる横木が鳥居の原型であるとか、通り居る門から鳥居と呼ばれるようになったなど、鳥居という名称の由来は定かではありません。

 稲荷神社などの鳥居が朱色であるのは、古来その色が生命の躍動を表し災いを防ぐ魔よけの意味があるとして神殿などに多く使われたためで、これが鳥居にも影響しているとされる。





 私の自宅の近所の鳥居を調べてみました。


・大井町金手 三島神社の鳥居。

・大井町金子 雨降(あふり・あまたら)神社
(通称あまみやさん)の鳥居。

・大井町金子 日枝(ひえ)神社
(通称ひえいじんじゃ)の鳥居。

・松田町 寒田(さむた)神社
(通称かんだじんじゃ)の鳥居。

・松田町神山 石材店の店頭にある
稲荷神社(通称お稲荷さん)の鳥居。

・大井町金子 豊作の神様として農家の
庭先にあるお稲荷さんの鳥居。
キツネはネズミや害虫を退治し農作業に貢献、
稲荷明神と崇められた。

・小田原市堀之内 若宮八幡宮
(通称わかみやさん)の鳥居。
2015年10月15日は清掃の日、
大勢の氏子さんたちが落葉を集めていた。

・小田原市扇町 井細田八幡社
(通称はちまんさん)の鳥居。

・小田原市扇町 井細田八幡社境内
の稲荷社の鳥居。

報徳二宮神社

報徳二宮神社

報徳二宮神社


報徳二宮神社

  ・小田原市扇町 井細田八幡社前での会話
 通行中の女性:「この辺り昔は井細田でしたが、現在は扇町です」。
 犬の散歩の男性:「八幡さんと言っているので、神社の名前はわかりません」。
 私:「圧倒的に鳥居は白ですね。赤い物を集めた歌に『まっかな秋』があります。 ♪お宮の鳥居をくぐりぬけ」
 お参りをした女性:「お稲荷さんは赤ですよね。そんな歌があったなんて知らなかった。神社の名前はわかりません。どこかに書いてあるんじゃないですか」。
  私:「鳥居の上の文字、消えていて読めません」。
  お参りをした女性がもどってきて:「おばさん、入口の看板に書いてありますよ」と教えてくれた。
 説明の看板に井細田八幡社と書いてあった。境内に稲荷社、山神社、神明社、天神社が祀ってある。ここの稲荷社の鳥居は白です。

  (各地にある白い鳥居)
  ・富士山頂にある浅間神社の鳥居
  ・靖国神社の鳥居
  ・伊勢神宮の鳥居
  ・神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社の鳥居
  ・神奈川県真鶴町の貴船神社の鳥居(境内の稲荷社の鳥居は赤色)
  ・熊本県熊本市中央区本丸の加藤神社の鳥居(肥後熊本藩初代藩主・加藤清正公)
  ・報徳二宮神社の鳥居
  ・福島県双葉町の初発(しょはつ)神社の鳥居
  ・港区赤坂の乃木神社の鳥居
  ・石川県金沢市花園八幡町の波自加弥(はじかみ)神社 参道の鳥居は白、境内社には赤い鳥居がある。
     (波自加彌神(はじかみのかみ)は、調味医薬・五穀豊穣の神として全国に類例のない食産神(しょくさんしん)で、歯でかんで辛(から)いもの即ち、生姜(しょうが)・山椒(さんしょう)・山葵(わさび)などの古語で『薑(はじかみ)』を語源とする。)

 【秋を歌おう】
 平成21年発行の『新しい音楽3』(東京書籍)、『音楽のおくりもの3』(教育出版)に楽譜が掲載されています。子供たちの大好きな歌です。
 親子で歌い継ぎたい一曲です。「まっかなほっぺたの」がこの曲の山です。声を前に出し、大きく歌うと気分爽快です。作曲者が二部合唱にも編曲しているので、二部合唱でも歌ってみましょう。

 【薩摩忠(さつまただし)の略歴】詩人 エッセイスト
  ・昭和六年一月二十九日、東京で生まれました。
  ・昭和二十七年、慶応義塾大学文学部フランス文学科卒業。
  ・昭和三十九年、「海の誘惑」で、第四回 室生犀星詩人賞受賞。
  ・藤浦洸、堀口大学らに師事して詩作を学ぶ。
  ・「風」「新詩潮」を経て、「詩帖」同人。日本詩人クラブ会長を務めた。
  ・シャンソンなどの訳詩も多く手掛ける。
  ・主な詩集に「蝶の道」「海の誘惑」「愛するものたちへ」「日曜日の夜」「昆虫のうた」など。
  ・エッセイ集に近代日本の童謡や唱歌の名作を論評した「うたの博物誌」がある。
  ・少年少女向きの詩集に「まっかな秋」がある。
  ・日本文芸家協会、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、日本童謡協会、日本訳詩家協会(理事)。武蔵野女子大学講師。
  ・平成十二年三月二十四日、葛飾区亀有にて逝去。

 【小林秀雄の略歴】作曲家
  ・昭和六年ニ月十二日、東京生まれ。
  ・昭和三十年、東京芸術大学作曲科を卒業。
  ・昭和三十一年、ポーランド特別平和賞受賞。
  ・昭和三十四年、三十六年、芸術祭奨励賞。
  ・昭和四十七年~六十年愛知県立芸術大学教授を経て、聖徳学園短期大学教授、のち活水女子大学教授。
  ・作品にオペラ「紫のドレス」、合唱曲「落葉松」、合唱組曲「こころの風土記」など多数。
  ・日本作曲家協会会長、新・波の会会長、全日本合唱連盟所属。
  ・葛飾区東金町・在住。
  ・どのような難曲のピアノ伴奏でも初見で弾いてのけるので、東京芸術大学の学生時代から「神様」と言われていた人です。


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≪著者・池田小百合≫

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おかあさん

作詞 田中ナナ
作曲 中田喜直

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2013/10/20)


  【初放送】  初放送については、さまざまな情報があります。調査をしました。

 <情報Ⅰ 国土社によると>
 国土社編集部『きりとおとうさん』 戦後名作選Ⅱ(国土社)国土社の詩の本20 小林与志/絵(装画) 昭和五十一年(1976年)四月五日初版発行。三十七篇収録の中に、田中ナナの詩「おかあさん」も掲載されている。初出発表一覧には“NHKお茶のひととき”昭36 中田喜直曲。と書いてあります。
 この情報は、あらゆる出版物に使われています。放送の月日は不明。

  <情報Ⅱ 武鹿悦子によると>
  “「おかあさん。」と子が呼び、「なあに。」と母がこたえる。それだけで満ち足りる母と子の対話を、いかにも女流らしい柔かな言葉で綴ったこの作品は、NHK「お茶のひととき」―うたいましょう―の時間で放送された(中田喜直作曲「NHKお茶のひととき」1961年)。
  「おかあさんて いいにおい」と子は言う。愛に満ちた言葉である。「せんたくしていた においでしょ」「おりょうりしていた においでしょ」と母と子はデュエットするが、「しゃぼんのあわ」が、どれほどよい匂いだろう。「たまごやき」が、どれほどよい匂いだろう。それらが入り混り、しみついたおかあさんであればこそ、こんなにもいいにおいなのだと、子どもは知っているのである。(武鹿悦子)”
  以上は『日本児童文学別冊 少年詩・童謡への招待』(偕成社)に掲載された武鹿悦子の評論です。端的にまとまった文は、この詩を好く言いあてています。私、池田小百合は、「うまい文だなあ」と感動しました。

  〔調査1回目〕
 毎日新聞縮刷版で、昭和三十六年のNHKラジオ第一を調べようとしました。ところが、一月から十二月までは十二冊あり、とても全部を見るのは無理です。そこで、四月、五月、六月の新聞を見ました。すると、不定期に「お茶のひととき」という番組が放送されていました。しかし、番組表には放送内容までは書いてありません。わずかに五月十九日(金)の「お茶のひととき」に“鳥の音楽と鳥の話”と内容が書いてあり、音楽とお話が放送されたことがわかります。
 通常「お茶のひととき」は午後三時十分から二十九分で、一分間ニュースの後、三十分から別の番組になります。時々ニュース番組が延長されたり削除されたりしている。放送日は決まっていない。土曜日、日曜日に「お茶のひととき」は放送されていません。

 ≪結果≫
 今回の調査では、「おかあさん」が放送されたかどうかはわかりませんでした。「お茶のひととき」という番組があったことがわかりました。
  「お茶のひととき」(NHKラジオ第一 午後三時十分~二十九分)平日、不定期に放送。最初に調査した人は、放送の月日まで正確に書いておいてほしかったと思いました(調査・厚木市立中央図書館2013年10月11日)。★調査中

  <情報Ⅲ 長田暁二によると>
 長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』(ヤマハミュージックメディア)には次のように書いてあります。
  “NHKの児童婦人番組の責任的ポジションに着いた江上フジが、五月八日の<母の日>にふさわしい童謡をという狙いで委嘱しました。ところがどうした理由か初放送は、昭和二十九年十一月二十三日から二十八日までの、若い母親向けの育児番組『お茶のひととき・・・・・・』でした。やがて幼稚園保育園でも歌われるようになり、今は誰知らぬ者のない幼児童謡にまで成長しました。”
  (註) インターネット検索ウィキペディアによると“日本では、1931年(昭和6年)に、大日本連合婦人会を結成したのを機に、皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日(地久節)を「母の日」としたが、1937年(昭和12年)5月8日に、第1回「森永母の日大会」(森永母を讃へる会主催、母の日中央委員会協賛)が豊島園で開催された後、1949年(昭和24年)ごろからアメリカに倣って5月の第2日曜日に行われるようになった。母の日にはカーネーションなどを贈るのが一般的”。

 具体的な年月日がみつかったので、調査することにしました。しかし、上記の文には不審な点があります。

  <不審Ⅰ>
 “五月八日の<母の日>にふさわしい童謡を”という部分がおかしい。ウィキペディアによると、“<母の日>は、1949年(昭和24年)ごろからアメリカに倣って5月の第2日曜日に行われるようになった”と書いてあるが、昭和二十九年(1954年)の五月八日は土曜日です。

  <不審Ⅱ>
 “初放送は、昭和二十九年十一月二十三日から二十八日までの、若い母親向けの育児番組『お茶のひととき・・・・・・』でした”という部分がおかしい。 昭和二十九年(1954年)十一月二十三日は火曜日で、二十七日は土曜日、そして二十八日は日曜日。通常土日は大人向けの特別番組で、平日の育児番組が土日にも放送される事はない。六日間も続けて放送されたのだろうか?

  <不審Ⅲ>
 『お茶のひととき』は、“若い母親向けの育児番組”だったのだろうか。

  <不審Ⅳ>
 “『お茶のひととき・・・・・・』でした”という部分がおかしい。『・・・・・・』この点々は、一体何だろう?

  〔調査2回目〕
  ・厚木市立中央図書館には昭和二十九年の読売新聞縮刷版は所蔵されていませんでした。
  ・読売新聞縮刷版で、昭和三十六年十一月のNHKラジオ第一を調べました。不定期に「お茶のひととき」という番組が放送されていました。土曜日、日曜日に「お茶のひととき」は放送されていない。放送内容は時々書いてあります。十一月十三日(月)から十六日までは童話「オッペルとぞう」十七日(金)は「マンガの音楽と話」が放送されていた。
  11月23日(木)「お茶のひととき」放送なし/24日(金)「お茶のひととき」霧の音楽と霧の話/25(土)26(日)放送なし/27日(月)詩「山の村」ほか/28日(火)詩「少年の歯」。

  ≪結果≫
 今回の調査でも、「おかあさん」が放送されたかどうかはわかりませんでした。昭和三十六年には、確かに「お茶のひととき」という番組があった。「童話」「音楽と話」「詩」が放送されていたことがわかった。“若い母親向けの育児番組”ではなさそう(調査・厚木市立中央図書館2013年10月19日)。★調査中

 <情報Ⅳ 『日本のうた こころの歌』によると>
   『日本のうた こころの歌』(デアゴスティーニ・ジャパン)20号掲載の「おかあさん」には、“昭和三十二年の作”と書いてあります。

  〔調査3回目〕
 2013年10月27日(日)、台風27号、28号が通過したので、神奈川県立図書館に調査に行きました。
  ・読売新聞縮刷版のラジオ番組表で、昭和三十六年(1961年)四月、五月の「お茶のひととき」の放送を調査しました。「おかあさん」が放送されたかどうか、わかりませんでした。
  ・読売新聞縮刷版のラジオ番組表で、昭和三十二年(1957年)四月、五月、十一月の「お茶のひととき」の放送を調査しました。「おかあさん」が放送されたかどうか、わかりませんでした。
  『日本のうた こころの歌』では、“昭和三十二年の作”と書いてあり、放送月日を調査しても無駄でした。
  ・朝日新聞縮刷版のラジオ番組表で、昭和二十九年(1954年)十一月二十三日(火曜日)から二十八日(日曜日)を調査しました。「おかあさん」が放送されたかどうか、わかりませんでした。

  ≪結果≫
 虫眼鏡を使って、一日中調査していたので、終いには自分が何を調査しているのかわからなくなってきました。成果が出ないまま疲れたのでやめて帰宅しました(調査・神奈川県立図書館(横浜)2013年10月27日)。★調査中

  【歌について】
  ・「洗濯」は「シャボンの泡」の匂い、「お料理」は「たまご焼き」の匂い。それは優しいおかあさんの匂いです。さわやかで上品な歌です。
  ・歌詞も曲も簡単で覚えやすい。「子ども」と「おかあさん」に分かれて歌うといっそう楽しくなります。
  ・NHKテレビ『おかあさんといっしょ』で、うたのおにいさんの、かしわ哲さんが、「おとうさん」という替え歌を一度だけ歌いました。私、池田小百合の記憶では「おとうさん なんだい おとうさんて へんなにおい おさけをのんだ においでしょ たばこのけむりの においでしょ」というものです。私は、「父の日」に歌う、おとうさんの歌がないので、これはおもしろいと思いました。しかし、かしわ哲さんと電話で話してみると「先人の作ったすばらしい歌に対して敬意を表し、替え歌は、もう歌いません」との事でした。電話は平成七年(1995年)一月十七日、阪神・淡路大震災の日だったので、よく覚えています。

  【田中ナナの略歴】
 大正十四年(1925年)東京生まれ。成城学園小学部卒業。その卒業記念として創作集『金の風車』(1933年・金の星社)を出版。田中ナナ自身が吹き込んだお話のレコード(J-10082-A)が発売された。You Tubeで聴く事ができます。
 文化学院を経て、日本女子大学校(現・日本女子大学)国文学部国文学科卒業。日本放送協会の専属ライターとして、放送台本執筆にたずさわる。
 雑誌、レコード、CDのほかに詩・童謡を発表。
 詩集『新緑』(2003年・いしずえ)にて三越左千夫少年詩賞・特別賞受賞。
 日本児童文学者協会・日本童謡協会・詩と音楽の会に所属。
 童謡作品は「おかあさん」(中田喜直・曲)、「ピアノとらっぱとけんかした」(三保敬太郎・曲)が知られている。

  【中田喜直(なかだよしなお)の略歴

  【中田喜直作曲の「おかあさん」】
 他にも中田喜直は「おかあさん」を作曲していた。
  ■「おかあさん/Okasan」江間章子 作詞
  ♪おかあさん おかあさんと そっと呼んでみる
  <昭和三十九年(1964年)渡辺音楽出版>

  ■「おかあさん/My mother」堀内幸枝 作詩
   ♪沈丁花(ぢんちょうげ)のこぼれる晩に おかあさん お話しましょう
  <昭和四十六年(1971年)音楽之友社>

  【サトウハチローの「おかあさん」】
  サトウハチローの「おかあさん」の詩は、昭和三十三年九月から始まったTBSのテレビドラマ「おかあさん」のタイトル詩として書いたもの。
  サトウハチロー詩集『おかあさん』(オリオン社)の出版は昭和三十六年(1961年)。この詩集は評判が良くロングセラーとなった。
  国土社の詩の本16「おはなしゆびさん」の、間違いだらけの記述からすると、国土社の詩の本20の初出発表一覧の「おかあさん“NHKお茶のひととき”昭36」の記述は、サトウハチローの「おかあさん」と間違えた可能性がありそうです。★調査中

 私、池田小百合の母は、ラジオで聴いたサトウハチローの「おかあさん」の詩の朗読に感動し、私に詩集『おかあさん』(オリオン社)の三冊セットを買い与えました。小学生の頃は、まだ家庭ではラジオが一般的で、「おかあさん」の朗読を聴いた覚えがあります。しかし、セットで一度に買ってもらった詩集『おかあさん』を読んだ記憶がありません。「すばらしいから読むように」と薦められても興味が持てませんでした。私の名前と買った日付が書かれたその本は、今でも本棚にあります。母は小学校の教員でしたが、子どもの心理は理解していませんでした。
  母は、買い与えたものには、私の名前と日付を書くようにしていました。小学校入学祝いに買ってもらった「手廻し鉛筆削り」と「国語辞典」は、今でも使っています。

  【教科書での扱い】
 昭和四十年から四十二年まで、教育芸術社の二年生の教科書に掲載された。(教科書研究センター附属教科書図書館所蔵)。

       ▲『二ねんせいのおんがく』(教育芸術社) 昭和41年12月10日発行/昭和39年4月20日文部省検定済。
       子と母の二組に分かれて歌うように楽譜の上に〔子〕〔母〕〔子〕〔母〕〔母・子〕の指示がある。


  【「NHKこどものうた楽譜集」第四集の扱い】
 日本放送協会編「NHKこどものうた楽譜集」第四集(日本放送出版協会)1968年3月25日発行に掲載されている。「刊行にあたって」には、“NHKの幼児番組では、総合テレビで放送している「おかあさんといっしょ」の「うたのえほん」「てをつなごう」「らっぽんぽん」。また教育テレビの「なかよしリズム」など、音楽を、たくさん盛り込んで構成しております。そして、それらの番組で放送されたうたの中から40曲を選らんで収めたのが、この楽譜集です”。(昭和43年3月 日本放送協会教育局 青少年部長 小山賢市)と書いてあります。「おかあさん」は、どの番組で放送されたのでしょうか。書いておいてほしかったです。『NHKみんなのうた』では放送されていません。

  【後記】
 童謡「おかあさん」は、これからも長く歌い継がれて行く事でしょう。文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)にも掲載されています。

著者より引用及び著作権についてお願い】   利用される場合は、「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と出典を明記してください。それはルールです。

≪著者・池田小百合≫

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山の音楽家

ドイツ民謡
作詞 水田詩仙

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2013/02/20)


 【小学校一年生の教科書には三番まで掲載】
 「山の音楽家」の歌は、小学生の頃、だれでも楽しく歌った。
 『新編あたらしいおんがく1』(東京書籍)平成21年2月発行を見ると、タイトルは「やまのおんがくか」で、三番までが掲載されている。 歌詞は一番「こりす バイオリン きゅきゅきゅっきゅっきゅっ」、二番「ことり フルート ぴぴぴっぴっぴっ」、三番「たぬき たいこ ぽこぽんぽんぽん」という歌だ。楽譜はヘ長調。

                             ▲『新編あたらしいおんがく1』(東京書籍)平成21年2月発行

  【『NHKみんなのうた』第2集には五番まで掲載】
 ところが、この歌は五番まである。
 日本放送協会編『NHKみんなのうた』第2集(日本放送出版協会)昭和39年12月10日 第1刷発行、昭和55年4月10日 第47刷発行を見ると、タイトルは「山の音楽家」で、一番は「こりす バイオリン キュキュキュキュキュ」、二番は「うさぎ ピアノ ポポポロンポロンポロン」、三番は「小鳥 フルート ピピピピピ」、四番は「たぬき たいこ ポコポンポコポン」、五番は「仲間 そろえて タタタンタンタン」と、まとめになっている。楽譜はト長調。

                                   ▲『NHKみんなのうた』第2集の歌詞

 【『NHKみんなのうた』で放送】
 昭和三十九年(1964年)四月‐五月の歌として『NHKみんなのうた』でダークダックスの歌で放送された。編曲は服部克久(はっとりかつひさ)。

  【ドイツの曲】 原曲はドイツ民謡。ドイツ語原題は「Ich bin ein Musikante」(私は音楽家)。 曲は、今、日本で歌われている物とはメロディーが少し違う。 詞は、シュヴァーベン地方からやってきたという音楽家が登場するが、動物は出て来ない。

  【小学校四年生の教科書に掲載】
  ・昭和四十年代の四年生用の教科書、『新訂標準 音楽4』池内友次郎・木下保監修(教育出版)発行年月不明には、タイトルが「山の音楽家」で、歌詞は「こりす キュキュキュキュキュ」「ことり ピピピッピッピッ」「たぬき ポコポンポンポン」で、三番までが掲載されている。楽譜はヘ長調。♩=92。後半が部分二部合唱に編曲してある。
  ・金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔中〕大正・昭和篇』(講談社文庫)には『小学音楽(四)』昭23・8が紹介してある。タイトルは「山の音楽家」で、三番まで。歌詞は「小りす キュキュキュキュキュ」「小鳥 ピピピピピ」「たぬき ポコポンポンポン」。楽譜はト長調。♩=92。斉唱。
 日本では戦前から歌われていたが、この教科書から学校で歌われるようになり広まった。
 私、池田小百合は、四年生で習った。だから、「この歌は三番までの歌」と思い込んでいたので、五番まであると知った時、ビックリした。
 たとえば、文部省唱歌『春の小川』は三年生の教科書に二番までが掲載され歌い続けられている。その結果、今では三番がある事を若い人たちは知らない。しばしば「春の小川は三番があるの?」と聞かれたりする。私は、三番まで掲載し、歌ってほしいと思っている。「山の音楽家」も、五番まで教科書に掲載してほしいものです。

 【黒沢隆朝(くろさわたかとも)の略歴】
  ・明治二十八年(1895年)四月九日、秋田県鹿角郡花輪町(現・鹿角市花輪)に神官の長男として生まれる。民族音楽学者、作曲家、作詞家。
  ・小学校の代用教員の傍ら、秋田県師範学校を二度受験するも極度の近視のため不合格となり、明治四十五年(1912年)三度目の受験の際に検査表を書き直して合格した。
  ・大正六年(1917年)、秋田県師範学校卒。鹿角郡曙村の曙小学校の訓導を務めた後、1918年上京して東京音楽学校(現・東京藝術大学)甲種師範科に入学。ヴァイオリンを学び、山田耕筰、田辺尚雄に師事。また在学中から「音楽」誌などに文章を執筆した。1921年卒。
  ・別名・水田詩仙(みずたしせん)、桑田つねし、秋田実、植村甫(はじめ)、西田徹、藤村俊、藤原俊。次男は黒沢真澄(ヴァイオリニスト)。
  ・卒業後は、高知県師範学校義務教生を経て、渋谷の猿楽小学校、常磐松小学校に勤め、三十七歳の頃退職。この頃、小学唱歌「私のうち」をはじめ1924年~1927年(昭和2年)にかけて敬文館から自作曲集『可愛い童謡』全十集を出すなど童謡運動に参加し、「金魚」「もぐらもち」「めだかとかえる」などの童謡を作曲した。
  ・一方、変名を用いて作詞・訳詞活動も活発に行い、水田詩仙の名でフランス唱歌「サンタクロース」や、NHK「みんなのうた」で有名なドイツ民謡「山の音楽家」を、桑田つねしの名でウェーバー作曲の「狩人の合唱」、藤村俊の名でドイツ民謡「秋の山楽」などの詞をそれぞれ翻案し、植村甫の名ではシューマン作曲の「楽しき農夫」に、西田徹の名では「はと時計」(曲・佐々木すぐる)の詞を書いている。
  ・東洋の民族音楽の研究で業績をあげている。1941年、南方音楽文化研究所(現・日本民族音楽協会)を発足させ、朝鮮、満州、東南アジア諸国、台湾、樺太などで現地調査に従事。「音階の発生よりみた音楽起源論」などに結実した研究は<黒沢学説>と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。東洋音楽学会の理事を長く務めた。
  ・川村短期大学(現・川村学園女子大学)教授、東邦音楽大学教授、文部省教科用図書検定調査審議会委員音楽部長などを歴任した。
 著書に『タイに於ける楽器の調査研究』『東南アジアの音楽』『楽器の歴史』『世界音楽史』『音楽起源論』『ベートーヴェンの生涯』『図解世界楽器大事典』『台湾高砂族の音楽』などあり、各種の音楽教科書の編著もある。作曲作品に「お星様」(黒沢隆朝作詞)、「玩具の舟」(西條八十作詞)のような童謡がある。
 昭和六十二年(1987年)五月二十日に逝去。
  〔参考文献〕金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔中〕大正・昭和篇』(講談社文庫)。『日本の作曲家』(日外アソシエーツ)。

  【親子で歌おう】
 親子で歌うのに最もふさわしい歌です。どこで、どのように歌っても楽しい。別の動物でも歌ったり踊ったりする事ができます。しかし、文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には選ばれていません。

 
著者より引用及び著作権についてお願い】 利用される場合は、「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と出典を明記してください。それはルールです。

≪著者・池田小百合≫

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森の熊さん

アメリカ民謡
訳詞 馬場祥弘

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/09/01)


 みんなが大好きな歌です。歌うと笑顔がこぼれます。この歌は、日本の歌と思いこんでいる人が多いようですが、アメリカ民謡です。  


 【「みんなのうた」で初放送】
 『NHKみんなのうた』昭和四十七年(1972年)八-九月の歌としてダーク・ダックスが歌いテレビ放送されました。タイトルは「アメリカ民謡 森の熊さん 玉木宏樹 編曲」と出るだけで、訳詞者の名前は出ません。放送の経緯及び作詞作曲者に関して玉木宏樹氏が《「森の熊さん」との「遭遇」》に書いています。

 【「熊さん」か「小鳥」か】
 歌は物語になっています。少女が森で熊さんに出会います。熊さんは少女に「お逃げなさい」と助言するので、少女は走って帰ろうとします。ところが熊さんが後からついてきます。少女に追いついた熊さんは少女の落し物を拾ってくれたのでした。少女と熊さんは一緒に歌います。
 テレビ放送当時も現在もこんな物語になっていますが、二番の歌詞の「熊さんの言うことにゃ」にクレームがついたことがあります。後述します。

  ≪教科書の楽譜≫  A「あるーひ」B「あるーひ」・・・のように、A(最初に歌うグループ)とB(後から歌うグループ)に分かれて、掛け合いを楽しんで歌いましょう。歌の後半は、全員で一緒に歌います。
 ・教育出版『おんがくのおくりもの1』(平成21年発行)の楽譜は、一番から五番まで同じメロディーで歌うようになっています。これは覚えやすい。 
 ・東京書籍『あたらしい おんがく1』(平成21年発行)の楽譜は、五番の最後「らんらんらんらんらーん」が上昇して終わるようになっています。これは、華やかで、いっそう楽しく心が弾みます。


 ・東京書籍『新しい音楽3』(昭和62年発行)では、後半の「はなさく」から二部合唱になっています。教科書を見ると、三、四年生の教科書内容が年齢に合っていません。簡単すぎるのです。三、四年生には、もっとレベルの高い曲を掲載してほしいと思います。

 【二番の歌詞は「変だ」というクレーム】
 当初から、歌詞について、熊が逃げるように助言しているのに、その熊が後からついて来るのは不自然だ、「熊さん」を「小鳥」に変更すべきだ、二番を「小鳥の言うことにゃ おじょうさん お逃げなさい」とすることで物語の流れが自然になるという指摘があったようです。そして、二番の「熊さん」を「小鳥」に変えた楽譜も発行されたようです。
 『季刊 どうよう』第三号(チャイルド本社、昭和60年10月発行)には、「会員からの提言」として、東京都の山田美智子さん(幼稚園教諭)という方から、「十五年以前に覚えたものは“小鳥の言うことにゃ”だった。鬼ごっこではあるまいし、熊が自分で逃げろといっておいて追いかけるのは不自然。詩の内容からいって小鳥であるべきと思うのに、どの曲集も熊となっているのは本当に残念です」という提言が掲載されており、これに対して次のように答えがあります。 「チャイルド本社編集室では、日本音楽著作権協会やNHK資料室に問い合わせましたが、いつから変わったか全く不明。作者へ直接連絡を試みたところ、電話は取り外されており、手紙もナシのツブテ」。・・・つまり、わからない。
 『季刊 どうよう』第四号(チャイルド本社、昭和61年1月発行)の「会員にひろば」には、次のような続報が出ました。 「前回の提言者山田美智子さんから、お手紙とともに"小鳥"になっている楽譜(全音楽譜出版社・昭和50年刊)が届けられました。この楽譜集は改訂を重ねて現在も出版されていますが、現在のものは"熊"に変わっています。出版元では「テレビや教科書と歌詩が違うとクレームがついて改訂した」といっています」。
 ★(昭和50年刊)が初版かどうかは不明です。
 私、池田小百合は、「小鳥」になっている楽譜を是非見たいと思いました。そこで、チャイルド本社編集室および、日本童謡協会に(全音楽譜出版社・昭和50年刊)の楽譜集のタイトルと、山田美智子さんから届けられた楽譜の所在を問い合わせました。しかし、わかりませんでした(2006年2月24日)。

  【熊さんか、小鳥か】 子供は必ずしも森の熊を怖いものだとは思っていないでしょう。ミルンの『くまのプーさん』のように、熊は気のいい友だちです。そこで、森で出会った熊が、「ひとりで森にきちゃいけないよ」と助言してくれることは、無理なく想像できる設定でしょう。なにも小鳥から「怖い熊から逃げなさい」というアドバイスをしてもらうという状況が必要とは限りません。
 それに、怖くない、やさしい熊だからこそ、落し物をひろってくれたり、届けてくれたり、歌ってくれたりするわけです。無理に小鳥に変える必要があるとは断言できません。あなたは「熊さん」派ですか、それとも「小鳥」派ですか。

  【馬場祥弘の略歴】 
 昭和十九年七月二十七日大阪府豊中市で生まれました。関西学院大学を卒業。ディレクター、ディスクジョッキーを経て、小森豪人のペンネームで著作活動をしています。クイズ本を主として、子供向けのなぞなぞ本を含めると百冊以上にのぼります。

 【「森の熊さん」との「遭遇」
  玉木宏樹『贋作・盗作 音楽夜話』(2010年、北辰堂出版)より
 “まだ業界では駆け出しの二十代の後半のころ、私はNHKの「みんなのうた」のディレクター氏から仕事を依頼され、訪れた一室にはアコーデオンのY氏とディレクター氏が待っていました。(引用者註:このディレクター氏は玉木氏の別の文章によると「みんなのうた」のプロデューサーの後藤田氏(故人)です)。・・・・
 作詞作曲者のわからない民間伝承の歌なんだけど、とてもかわいくて歌いやすい曲がある。それを是非とも形にして放送したいので協力して欲しいとのことなのです。アコーデオンのY氏は巷に歌われているいろんな形のメロディを弾き、ディレクター氏も様々な詞を並べたてる。私はもっぱらアコーデオンのメロディを整理し、一番メロディにのりやすい形の詞を選んで、後はダークダックス用にアレンジしてバックオーケストラを作る役目をおおせつかったのです。この作業の結果でき上がり、放送されたのが「森の熊さん」と名付けられた曲。
 ・・・・・ディレクター氏からは、民間伝承の曲をちゃんと形にしたのは玉木ちゃんなんだからJASRACに編曲著作権を登録したほうがいいと勧められました。・・・・一応JASRACに届けを出してみたところ、但し書き付きで受理されました。
 その条件とは、もし作詞作曲者が現れたら、編曲権は消滅する、そしてその時点まで払われた使用料を遡って請求されたらその人に払う、といういささか不本意なものでしたが、私は応じました。まさかあんな曲(どうみても外国民謡風だということ)に作者が現れるとは思わなかったからなのです。ところが・・・・数年たったある日、突然作詞作曲者が現れたというのです。
 ・・・・・それから一年ほどたち、・・・・NHKのディレクター氏から電話がかかってきました。いわく、玉木ちゃんは突然現れたという作者に対して、疑義申し立てはしなかったのかと言うのです。そんなことは思いつきもしなかった当方の素朴な疑問に対して、ディレクター氏は驚くべきことを告げました。それによると、現れた作者というのは、実は前々からJASRAC関係では札つきの要注意人物で、作者不詳の曲に変に詳しく、かたっぱしからそれらを書きつづった大学ノートを見せては、人に「この曲の作者は自分だ」と触れまわっていたという、その世界では有名な人物で、毎回JASRACに登録しようとしては、門前払いにあっていたというのです。大学ノートに書かれていたのはたしかに、ボーイスカウトなんかが歌いそうな民謡ジャンボリー風、作詞作曲者不詳のキャンプファイアソングみたいなものばかりだったらしい。それでいつもいつも門前払いを食わされていたX氏はどうしたかというと、JASRACを飛び越え、なんと、文化庁へ直訴に及んでしまったのです。
 ・・・・文化庁長官からのお達しによって、輝かしくもX氏は「森の熊さん」の作詞作曲者として認知されたのでした。
 ・・・・それから十年ほどして、話は大逆転、急展開します。NHKのディレクター氏からの勝ち誇った電話が入ったのです。
 「玉木ちゃん、ついに見つけたよ。あの曲の原譜、あれはやっぱりアメリカ民謡だったんだよ。すぐ見せるから今後の対策を協議しよう」
 呼び出されて眼の前にした譜面は、今日本で歌われている(つまりは自分が形にしたのだ)曲とは細かいところが数カ所違うが、まさしく見事に原形をとどめている譜面でした。拍子の指示も二/四ということは私の編曲と全く同じで、X氏が文化庁に提出した四/四とは明らかに違うのです。・・・・
 ディレクター氏の熱意と正論に説得され、JASRACに再審査を請求しました。
 ・・・・結論をいうと、X氏の作曲者としての権利は剥奪され、私の編曲権は復活しました。・・・・しかし、X氏の作詞の権利は残ってしまったのです。なぜか・・・。つまり、一度認めた権利関係というものは、アメリカ民謡であることを実証した「楽譜」のようなしっかりした証拠を提出しないかぎり、取り消すわけにはいかないということなのです。”

 【文化庁は・・・】
▲幼稚園で「森の熊さん」を歌う。子供たちは
パネルの絵に大喜びだった。絵は鈴木芳美さん。
 大人も子どもも大好きな楽しい歌なのに、文化庁が行なった『親子で歌いつごう日本の歌百選』には選ばれていませんでした(最終選考会平成十八年十二月)。しかし、この歌は、きっと長く歌い継がれて行くことでしょう。そう願っています。

 
著者より引用及び著作権についてお願い】 利用される場合は、「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と出典を明記してください。それはルールです。

≪著者・池田小百合≫



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手のひらを太陽に

作詞 やなせ たかし
作曲  いずみ たく 

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/09/01)



 この歌は、漫画『アンパンマン』の作者やなせたかしが作詞しました。
 やなせたかしは、大正八年(1919年)二月六日、東京生まれ。出生届は高知県香美郡香北町(現・香美市)に出されました。本名柳瀬嵩。
 平成二十五年(2013年)10月13日に満九十四歳で心不全で亡くなりました。
 「手のひらを太陽に」の作詞作曲の年月や放送日、時間ははっきりとは確定できません。記述が様々で裏付けが取れないためです。

  【タイトルについて】 タイトルは、表記がさまざまです。
  ・日本放送協会編『NHKみんなのうた』第6集(日本放送出版協会)昭和41年発行のタイトルは「手のひらを太陽に」です。 池田小百合編著『読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞』(夢工房)では、『NHKみんなのうた』第6集のタイトル「手のひらを太陽に」と歌詞を使っています。
  ・昭和四十年、レコードのタイトル「手のひらを太陽に」。
  ・やなせたかし著『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)2005年2月6日発行の文中では「手のひらを太陽に」。
  ・色紙「のひらを太陽に」となっている。年月日不明。
  ・やなせ・たかし著『詩集 愛する歌 第一集』(山梨シルクセンター)1966年発行では「てのひらを太陽に」。出版社の山梨シルクセンターは、やがてサンリオとなる。
  ・やなせの故郷、高知県香北町(現・香美市)の市の運動場にある歌碑は「てのひらを太陽に」。 「てのひらを太陽に」のタイトルは、子供たちにもわかるようにということで、「て」を平仮名にしたのでしょうが、それなら「太陽」の方も平仮名にすべきでしょう。
  ・国土社の詩の本19  国土社編集部『とんぼのめがね』戦後名作選Ⅰ(国土社)1976年4月5日初版発行のタイトルは「てのひらをたいように」と、全て平仮名です。
 
▲「てのひらを太陽に」色紙 ▲「てのひらを太陽に」歌碑

 

  【発表年について】
 やなせたかし本人の証言がある『やなせたかし メルヘンの魔術師 90年の軌跡』(河出書房新社)2009年3月30日発行の編者・中村圭子さんから、やなせたかし著『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)2005年2月6日発行を紹介していただきました。ありがとうございました(平成23年4月9日)。

▲中村圭子編『やなせたかし
メルヘンの魔術師 90年の
軌跡』(河出書房新社)の表紙
▲やなせたかし著
『人生なんて夢だけど』
(フレーベル館)の表紙

  <発表年は昭和三十七年(1962年)>
 『人生なんて夢だけど』の134ページに「一九六二年、ぼくは佐野さんに頼まれてニュースショーの構成をしました。司会に宮城まり子。そしてぼくが作詞し、作曲をいずみたくに依頼したのが「手のひらを太陽に」です」と書いてあります。 つまり、発表は昭和三十七年(1962年)、やなせたかしがNET(現・テレビ朝日)のニュースショーの構成をしていた時に、その番組で宮城まり子が最初に歌った。
  ★放送の月・日・時間は不明。どこにも書いてないのは、なぜでしょうか?
 昭和三十七年(1962年)発表を裏付ける証言が、『日本のうた こころの歌』第79号(2007年2月6日発行)の1580ページ「歌への想い・三カク主義 やなせたかし」にあります。
 「ぼくの代表作といえば「てのひらを太陽に」ということになるでしょうね。今年は丁度「てのひらを太陽に」誕生から四十五年ということで、これは全くの偶然ですが北溟社からやなせたかし全詩集『てのひらを太陽に』といった分厚い本が刊行されます」。
 やなせたかし全詩集『てのひらを太陽に』(北溟社)は、2007年1月15日発行。つまり、四十五年前は昭和三十七年(1962年)になります。
 これ以降は発表は昭和三十七年(1962年)として記述を展開していきます。


 【初放送】
 初放送の様子は、わずかに読売新聞文化部編『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)1999年8月発行で知ることができます。
 “NET(現・テレビ朝日)の朝の番組で、宮城は帽子にズボン姿で歌った。デビュー曲『ガード下の靴みがき』のような必死に生きる少年と違い、今度は虫を採りに野原をかけまわる元気な男の子のイメージだった”。
  ★発表は「NETの朝の番組」だったのでしょうか? 初放送の様子は、この記述以外では発見できませんでした。

  <初放送の調査>    
 朝日新聞縮刷版のテレビ番組欄を調査しましたが、ニュースには内容が書いてありません。
 放送年月日が不明なため、とりあえず昭和三十六年の一年分のテレビ欄を厚木市中央図書館で、昭和三十七年の一年分のテレビ欄を神奈川県立図書館で調べましたが、ニュースショーという番組は発見できませんでした。2011年5月24日、再度、厚木市中央図書館で昭和三十七年(1962年)毎日新聞縮刷版の1月と2月のテレビ欄・午前で、「NETニュースショー」を探しました。しかし、ありません。
 NETの朝のニュース番組に該当する番組としては、月曜日から土曜日の7時20分から「けさの話題」という番組があります。 この番組のなかで初放送されたのでしょうか。
 「けさの話題」の終了時刻は7時32分、7時40分があり、12分や20分番組のようです。番組欄にはときどき7時32分や7時40分からスポーツ、海外ニュースの別番組の表示がある。ショー的要素はなく、歌が入っていたとは思えない。

 当時のテレビ局は、NETテレビ(10チャンネル)、NHK総合テレビ(1)、日本テレビ(4)、TBSテレビ(6)、フジテレビ(8)、NHK教育テレビ(3)がありましたが、 教育テレビ以外のどの局も朝の7時台にはニュース番組を放送していました。テレビ番組欄の「けさの話題」のところに書かれている出演者の名前の中で、入江氏は当時フジテレビの「フジテレ新聞」朝7:20の月曜日も担当していました。
 (註)NETテレビは、現在のテレビ朝日です。「NETニュース」は、11時50分から12時まで10分間ありましたが、これは、普通の社会情勢のニュース番組と思います。

  <『木島則夫モーニングショー』について>  『木島則夫モーニングショー』は、1964年(昭和三十九年)四月一日から1968年(昭和四十三年)三月二十九日までの放送です。これは、インターネットや新聞の復刻版で確認できます。 この事について、やなせたかし著『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)には、次のように書いてあります。
  「日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)でモーニングショーのテスト版のようなニュースショーを始める事になり、若いディレクターの佐野和彦が宅を訪ねて来ました(彼は東京芸大を卒業し、子どもに音楽を教えることに夢と情熱を注いだ後に「徹子の部屋」のチーフプロデューサーになる)」。
  ★『けさの話題』は、『木島則夫モーニングショー』のテスト版だったようです。 すると、以下の文は間違いということになります。
  ●文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)平成十九年五月二十八日発行には、次のように書いてあります。
  “完成した唄は昭和三十六年の民放テレビ「木島則夫モーニングショー」で宮城まり子が歌いました”。
  ●坂入恵美、坂入真紀著『童謡で、あの日にかえりたい。』(宝島社)2005年1月10日発行にも次のように書いてあります。
  “生まれた歌は、昭和36年(1961年)、日本教育テレビ(現・テレビ朝日)『木島則夫モーニングショー』にて宮城まり子が歌い、発表されました”。
 さらに、 ●国土社の詩の本19  国土社編集部『とんぼのめがね』戦後名作選Ⅰ(国土社)1976年4月5日初版発行には「初出発表“NET”昭35・2」と書いてあります。 これを使って『日本児童文学別冊 少年詩・童謡への招待』(偕成社)に、こわせ・たまみが解説を書いています。
 しかし、(「NET」昭和35年(1960年2月)も間違いということになります。
 
 【結論】
 ★『NET』での「手のひらを太陽に」の初放送時間、年月日は不明。 決め手となるものを調査継続中。

 2011年6月5日、最後にもう一度、厚木市中央図書館にコピーに行きました。 毎日新聞縮刷版による
▲昭和三十六年(1961年)11月13日(月曜日)から19日(日曜日)までの一週間のテレビ番組表。午後6時以降は省略した。
 出演者名は(月)岡田録右衛門、(火)高田市太郎(ジャーナリスト)、(水)入江徳郎(ジャーナリスト)、
(木)渡辺三樹男(もと特派員)、(金)和田斉(「朝日ジャーナル」編集長)、(土)村上巌
▲昭和三十七年(1962年)1月15日(月曜日)から21日(日曜日)までの一週間のテレビ番組表。午後6時以降は省略した。
 出演者名は(月)西島芳二(朝日新聞社論説委員)、(火)新井宝雄、(水)入江徳郎、
(木)五味三勇(毎日新聞編集)、(金)太田博夫、(土)加藤義憲(経済ジャーナリスト)

 【昭和三十六年(1961年)、詩ができるまで
 やなせたかし著『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)によると次のようです。
 “一九六一年、米国の新大統領ケネディーが軍隊をキューバに上陸させようとして失敗したその頃、ぼくの漫画の仕事は徐々に減り始めて、民放ラジオとかその他いろんな仕事をして食べるには困らなかったものの、漫画集団の仲間は先輩も後輩も大活躍なのに自分だけが冬の谷間でひとりぼっちみたいな気分でやるせなかったですね。それでも弱味は見せず、仕事もないのに徹夜して仕事場で詩ともいえないようなものを書いたりしてたんですね。退屈だから仕事場にあった懐中電灯を自分の手のひらに当てて子どものときのレントゲンごっこを思い出して遊んでいたら、血の色がびっくりするほど紅くてきれいで見惚れてしまいました。 そのときに「手のひらを太陽にすかしてみれば」のフレーズが浮かんだのです。まさかそれが広く歌われる歌になろうとは、夢にも思いませんでした。”
 文中では、「手のひらを太陽に」と「手」が漢字になっている。この文は、あらゆる出版物で、書き直され紹介されていますが、出典が書いてあるものはありません。次の研究者のために出典を明らかにしておいてほしいものです。私、池田小百合の場合、やなせたかし著『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)にたどり着くまで、延々と時間がかかってしまいました。

 <「手のひらを太陽に」は1961年に作った>
 2011年9月1日、10時55分~11時25分放送 NHKテレビ『爆笑問題』「驚異92歳や なせたかしが熱唱!アンパンマン誕生秘話 手塚治虫と意外な関係」では、タイトル は「手のひらを太陽に」。「手」は漢字。やなせたかしが、「これは、50年前の1961 年に僕が作った」と証言した。経緯は著書と同じ。

 【いずみたくが作曲】
 作詞者やなせたかしの方からだけでなく、作曲者いずみたくの方からも「手のひらを太陽に」を見る事にしました。
 購入した本は以下の三冊。本は手にしてみないと内容がわかりません。 
  ・『ドレミファ交遊録』(朝日新聞社)昭和45年6月10日発行
  ・『新ドレミファ交遊録』(サイマル出版会)1992年3月発行 (前著の増補改訂版でした)
  ・『見上げてごらん夜の星を』(新日本出版社)1977年5月30日発行

▲『ドレミファ交遊録』表紙 ▲『新ドレミファ交遊録』表紙 ▲『見上げてごらん夜の星を』表紙

 発表の前年の昭和三十六年(1961年)には、詩はできあがっていて、依頼を受けたいずみたくが作曲しました。『見上げてごらん夜の星を』(新日本出版社)の146ページには作曲年一覧表があり、「手のひらを太陽に(1962)」と書いてあります。
  ●この(1962)は、発表年の間違いで、実際の作曲は(1961)年でしょう。そうでないと、やなせたかしの証言と合いません。

▲いずみたく著『見上げてごらん夜の星を』(新日本出版社)の26ー27ページ タイトルは「手のひらを太陽に」

  ・作曲をする時、子供向けの歌を作るつもりはなく、仲の良かった宮城まり子という大人の歌手を意識して作曲した。
▲和田誠が描いた
宮城まり子。
『ドレミファ交遊録』
(朝日新聞社)
の挿絵より

  ・「バイヨン」=ブラジルのダンス音楽。二拍子で軽快なリズムが特色。「手のひらを太陽に」は4拍子だが。
  ・「ボクの歌の中で最も多く歌われた歌は、この歌かも知れない」(いずみたく)

 【宮城まり子のファン】
 やなせたかしも、いずみたくも、宮城まり子のファン。
 やなせたかしは、“宮城まり子の大ファン”だった。
 写真は、やなせたかし著『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)より。
 いずみたくは、その著『見上げてごらん夜の星を』(新日本出版社)の中で、“この曲「手のひらを太陽に」は、子供の歌ではない。宮城まり子という歌手を意識して作った大人の歌である”と書いている。
 また、『ドレミファ交遊録』(朝日新聞社)には、次のような事を書いている。
  “ミュージカル「泥の中のルビー」は、昭和三十五年の暮れ、大阪のフェスティバル・ホールで初演され成功した。・・・・ 「タクちゃん、とてもきれいなメロディーやわ」大阪なまりのあるシャベリかたで、宮城まり子サンがボクの曲をほめた。この仕事の後二、三年、ボクは、宮城まり子サンの仕事を手伝った。  ある時はリサイタル、ある時はドラマ、ある時はテレビと、惚れっぽいボクは、宮城まり子サンの女に惚れていった”

 【いずみたくと『NHKみんなのうた』の関係】
  昭和三十六年(1961年)、10月-11月に、いずみたく作曲の「へのへのもへじ」(歌・楠トシエ、作詞・谷川俊太郎)が放送されています。いずみたくは、『NHKみんなのうた』に最初の頃から、かかわっていました。 昭和三十六年(1961年)、いずみたくは、仕上がった「手のひらを太陽に」を、『NHKみんなのうた』に持ち込んでいました。

 【宮城まり子ショー】
 初放送かは分かりませんが、『NHKみんなのうた』の前に次の番組が放送されていました。

▲読売新聞1962年1月17日 朝刊5面 ヨミダス歴史館
 神奈川県立図書館で見ることができます。

  昭和三十七年一月十七日、午後九時十五分から九時四十五分 日本テレビ(NTV)で宮城まり子ショー「てのひらを太陽に」が放送されています。孤児院の物語り、心暖まるミュージカルと番組紹介記事があります。
 ここで「てのひらを太陽に」を歌ったと思われます。宮城まり子はデザイナー役、ボニー・ジャックスが先生役、京都アイリス少年合唱団が孤児役で出演(ほかに佐々十郎、頭師佳孝、梅田コマ・ミュージカルチーム)。歌ったとすれば宮城の独唱か、それとも合唱か、新聞からはわかりません。

  昭和三十七年一月二十四日、読売新聞の「テレビ週評」には次のように書いてあります。この番組のようすがわかります。 “17日夜YTV(NTVへネット)の宮城まり子ショー「てのひらを太陽に」(新野新編成)を見てまり子に痛く失望したのは筆者だけだろうか。孤児院を舞台に、笑いを忘れた孤児たちが明るさを取り戻すまでの話でいうところの“心あたたまるミュージカル”も、ここへきてそろそろ鼻についてきた感じである。 子供たちに、自分の子供のころの“かまくら”(雪国の行事)の話をきかせてみたり、おうたのけいこをしてみたり、いっちょうらの洋服を着てデザイナーのふりをしてあらわれたまり子が“ほんまいうたら焼きとり屋のおねえちゃん”だったというオチも、いい加減コジツケにすぎるのは困りもの。使い古した題材を適当に話しの中にはめこんでいるだけで、野球の投手でいえば、新しいタマの発見がまったくみられないのはどうしたことか。”との評が載っている。YTV(大阪の読売テレビ)制作。新野新は大阪で活躍の放送作家。(「テレビ週評」は、ヨミダス歴史館 読売新聞1962年1月17日 朝刊5面。神奈川県立図書館で見る事ができます)。

  (註)「宮城まり子ショー」と「テレビ週評」の発見は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました(2014年3月16日)。
  <愛読者の方の意見> 
 スタジオでの収録か、ステージでの中継(録画)か不詳。児童が出演しているので生中継ではないだろう。なお当時の梅田コマ劇場は別の公演中。
  いずみたくが『見上げてごらん夜の星を』で書いている「その曲は宮城まり子によって何回かステージで、何回かテレビで歌われただけであったが・・・」の一つであろう。

 <昭和三十七年(1962年)、「NHKみんなのうた」で放送
  昭和三十七年(1962年)、2月‐3月の金曜日の歌として宮城まり子の歌で放送されました。これは、新聞のNHK総合テレビの番組欄(毎日新聞縮刷版・昭和37年2月9日と2月23日朝刊)で確認できます。放送を繰り返し聴いたので、みんなが覚えて歌うようになりました。

 みんなのうたは一日二曲放送。金曜日は宮城まり子の歌で「手のひらを太陽に」(毎週金曜日)と、東京少年合唱隊の歌で「牧場の小道」(毎日)。

 <昭和三十七年(1962年)、2月‐3月の歌>  放送時間夕方6時30分から35分
▲昭和37年
(1962年)
2月9日
金曜日
毎日新聞朝刊
夜6時30分
から35分
「みんなのうた」
宮城まり子
▲昭和37年
(1962年)
2月23日
金曜日
毎日新聞朝刊
夜6時30分
から35分
「みんなのうた」
宮城まり子
東京少年合唱隊

  (毎日)  牧場の小道   東京少年合唱隊
  (月) 雪とこども   伊藤京子 東京少年少女合唱団
  (火) かあさんのうた ペギー葉山(編曲・いずみたく)
  (水) 掲示板のうた  ダークダックス
  (木) きれいな帽子  芦野宏
  (金) 手のひらを太陽に 宮城まり子

 <「手のひらを太陽に」の放送日>
  2月9日(金曜日)、16日、23日、3月2日、9日、16日、23日、30日。繰り返し放送されました。

 <新聞のテレビ番組表の説明>
 ▲昭和37年(1962年)2月9日金曜日 毎日新聞朝刊 夜6時30分から35分 「みんなのうた」 宮城まり子
 宮城まり子の名前だけなのは、スペースがないので、毎日放送される「牧場の小道」東京少年合唱隊は除いた。
 ▲昭和37年(1962年)2月23日金曜日 毎日新聞朝刊 夜6時30分から35分 「みんなのうた」 宮城まり子 東京少年合唱隊
 宮城まり子 東京少年合唱隊と書いてあるのは、「手のひらを太陽に」宮城まり子、「牧場の小道」東京少年合唱隊と書くべきところをスペースがないので除いた。

 いずみたくは、1962年には、「かあさんのうた」(歌・ペギー葉山、作詞作曲・窪田聡)や、「アイルランドの子守歌」(歌・ペギー葉山 ヴォーチェ・アンジェリカ、作詞・城戸洋子、作曲・J.R.シャノン)の編曲も手がけています。どの曲もヒットしています。
 ●足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版)1984年5月20日初版発行(2000年11月30日第20刷)の解説には次のように書いてあります。
  “昭和38年に作られ、翌39年にNHKテレビ「みんなの歌」で放送されました”
 この「昭和38年に作られ」は間違い。作られたのは昭和36年。「放送は昭和39年」も間違い。放送は昭和37年が正しい。さらに、NHKテレビ「みんなの」は間違い。この番組は、NHKテレビ「みんなのうた」と平仮名のタイトルが正しい。
 ●長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』(YAMAHA)の解説にも次のように書いてあります。
  “昭和39年には、NHKの「みんなのうた」への売り込みが成功し、ここでも再び宮城まり子が歌いましたが、ともにあまり反響がありませんでした”。
 「昭和39年」は間違い。 注目したいのは、長田暁二が、「売り込みが成功し、ここでも再び宮城まり子が歌いました」と書いている事です。

  <昭和三十九年(1964年)、『NHKみんなのうた』放送曲一覧>  ●「手のひらを太陽に」は放送されていません。
    (2月-3月) ・海賊の歌・回転木馬・禁じられた遊び・ゲレンデの穴・スケートをする人々・でか ちび のっぽ・若人の歌
    (4月-5月) ・ぎらぎらとひょろひょろとちかちか・五月のうた・ドミニク・花のまわりで・ほがらか村長さん・山の音楽家・ゆかいに歩けば
    (6月-7月) ・いかりをあげて・うそなんかいうもんか・海はまねく・蛙・ひかるこみち・ぼくらの町は川っぷち・山道ゆくなら
    (8月-9月) ・海のマーチ・コックのポルカ・五匹のこぶたとチャールストン・たのしいショティッシュ・ともだちの歌・ママごめんなさい・山のごちそう
    (10月-11月) ・朝一番早いのは・雨がふっても・草原のマーチ・野原で手をたたけ・フルーツサラダの歌・山の男たち・友情の歌
    (12月-1965年1月) ・木ぐつをはいて・粉雪のポルカ・すてきな雪景色・谷間に鐘は鳴りひびく・つむじ風・陽気にうたえば・わんぱくマーチ


 【キング・ボニー盤レコードのヒット】
 昭和四十年(1965年)、ボニージャックスのキングレコードが大ヒットしてボニーは『第十六回NHK紅白歌合戦』に出場しました。昭和四十年五月発売のレコード「手のひらを太陽に」のB面BS199Bは、中野慶子とボニー・ジャックスの歌で「私は誰でしょう」です。
 (註)レコードの情報はこの検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者から教えていただきました(2014年3月9日)。
▲昭和四十年五月発売のキング盤
レコードのジャケット
 A面「手のひらを太陽に」
 B面「私は誰でしょう」
▲昭和四十四年発売のキング盤 
レコードのジャケット
タイトルは「手のひらを太陽に」。
裏面は「ボニー・ジャックス ゆうえん地」


  ●読売新聞文化部編『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)1999年8月発行には、「翌年には(1966年)ボニー版が「みんなの歌」で放送された」と書いてあります。これは間違い。

 <昭和四十一年(1966年)、『NHKみんなのうた』放送曲一覧> ●「手のひらを太陽に」は放送されていません。
   (2月-3月) ・うるわし春よ、風がふいたら、学校へ行く道、こんぴらふねふね、トトトのうた、ドナドナ・ドーナ、トロイカ
   (4月-5月) ・あふれる若さ、あわて床屋、おんぼろピアノ、元気に笑え、チム・チム・チェリー、春のそよ風、小さなカレンダー
  (6月-7月) ・海の底から、おおブレネリ、お化けなんてないさ、五ひきのかえる、バラが咲いた、はさみとぎ、ほたるこい
  (8月-9月) ・いいやつ見つけた、谷間をゆけば、ちびっこカウボーイ、てんさぐの花、峠のわが家、ひなげし、湖のむこうに
  (10月-11月) ・おしゃべりあひる、ガリバーのマーチ、からすと柿のたね、とっくりやしの木、ねこふんじゃった、ママとゴーゴー
   (12月-1967年1月) ・おんぼろピアノ、こうして踊ろうよ、ジロマジトンド・ジロトンド、ともしび、ねこの子もりうた、ぼくらの町は川っぷち、雪のふるまちを

  ●2019年3月15日、岡山県瀬戸内市在住の「かあさんの歌」の作者・窪田聡氏から、『うた’62ごえ』「手のひらを太陽に/太陽に向って」サン・アルバムJASRAC7003(ソノシート)が送られて来ました。ありがとうございました。
  ソノシート タイトルは「手のひらを太陽に」。独唱:天地総子 合唱:クールアベイユ
  歌詞・一番の二行目は「生きているから笑うんだ」
     ・二番の二行目は「生きているから踊るんだ」
     四行目は「生きているから歌うんだ」
     七・八行目は「みみずだって おけらだって あめんぼだって」


 【教科書での扱い】
 いずみたくが、子供の歌にするつもりがなかったこの歌は、小学校の教科書にも掲載され、校歌がわりに歌われたり、幼稚園でも歌われ、手話や遊戯が付いて、子供たちの人気の曲になりました。

          ▼『新しい音楽4』(東京書籍)昭和60年3月31日文部省検定済 タイトルは「手のひらを太陽に」。
           楽譜は四分の四拍子で、軽快なリズム。


 “ことばの感じを生かして、いきいきと歌いましょう”と書いてあります。 この教科書を使った子供たちは、現在三十代になっている。
  私の娘が、保育園から転校して初めて幼稚園に行った日、手話で「手のひらを太陽に」を覚えて帰宅しました。歌いながら手話をしてくれ、当時、手話を知らなかった私は、感動したのを覚えています。 その後、手話を勉強するため、小田原駅前の本屋の二階の棚にあった手話の本を全て買いました。しかし、手話を勉強してみると、日常使う言葉の数に比べ、手話の数が足りないため、細かいニュアンス、日本語の持っている独特の言い回しが表現できません。再び本屋に行き、店員さんに、「先日買った手話の本より上級の手話の本はありませんか?」と尋ねました。店員さんは、二階の棚を見て、「ここにズラーッと、沢山並んでいたのですが。ありませんね。おかしいですね」と言いました。「ここの棚にあった本は、私が全部買いましたよ」と言うと、店員さんは、ビックリして、私を見ました。
 その後、「良いにおい」や「故郷」「古巣」「忘れがたき」「丸い大きなお月さま」「数字の10は煙突とお月さま」などでつまずき、手話の勉強は中断しています。
 平成二十三年(2011年)六月、テレビを見ていると、『手話事典』がニ千語を追加し、改訂版出版のニュースが流れた。私が思った通り、手話の数が不足でした。

 【歌って元気に】
 平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災後、「故郷」「上を向いて歩こう」そして「手のひらを太陽に」が、被災した人・ボランティアの人・慰問の人・さまざまな人によって歌われました。「手のひらを太陽に」を歌ったり聞いたりして、元気をもらった人は多かったのではないでしょうか。復興は、みんなの願いです。


▲2011年4月に来日し公演。大震災の犠牲者追悼と復興への祈りを込めて
日本語で「故郷」を歌ったブラシド・ドミンゴ。寄付金もあった。

▲坂本九が歌った「上を向いて歩こう」は映画にもなり一世を風靡した。
被災地で何度も歌われた。

 【いずみたくの言葉】
 いずみたくは、この「手のひらを太陽に」の歌について次のような言葉を残しています。
  “やなせたかしの詩は、力強い生命感に溢れていた。”
 “公害問題が人々の口にのぼる前に、この歌は、人間はもちろん、動物も、オケラに至るまですべての生物は生きる権利があると、主張し、告発する歌だった”(いずみたく著『見上げてごらん夜の星を』(新日本出版社)による)。
 「手のひらを太陽に」が、被災地で歌われた事が理解できます。

  【いずみたくの略歴】
 本名・今泉隆雄 ・昭和五年 (一九三〇年)一月二十日生まれ
  ・作曲家、ミュージカル・プロデューサー『歌麿』ほか
  ・一九八九年、参議院議員に繰り上げ当選(第二院クラブ)
  ・「見上げてごらん夜の星を」「いい湯だな」「夜明けのうた」「ともだち」「君の祖国を」「希望」「友よ」「恋の季節」「太陽がくれた季節」「世界は二人のために」「いいじゃないの幸せならば」「ゲゲゲの鬼太郎」「夜明けのスキャット」「ケロヨンのうた」などを作曲
  ・平成四年(一九九二年)、逝去。

 【川崎洋の言葉】
 詩人の川崎洋の言葉を紹介します。亡くなってから読み直すと、ますます重みのある言葉です。
 <「向日性」という言葉があります。植物が光の強い方向に屈曲して伸びる性質を指しますが、わたしはこの言葉を人にも当てはめて、絶望に押しつぶされても、精神の闇につき落とされても、少しでも早く光の方を向きたいと思っています。朝の来ない夜はない、明るさの訪れない闇はないと信じて生きたい。かっこよく言えば、それがわたしの生き方です。
 「手のひらを太陽に」の中に“手のひらを太陽に すかしてみれば まっかに流れる ぼくの血しお”という言葉があります。その血しおは戦争のために流されてはなりません。>(川崎洋著『大人のための歌の教科書』(いそっぷ社)1998年7月30日発行より抜粋)。
  「手のひらを太陽に」の解説に、このような事が書けるのは、川崎洋だけです。尊敬しています。

 【初出の調査ふたたび】
 2011年6月10日、気になることがあり、また厚木市中央図書館に新聞の調査に行きました。
 『人生なんて夢だけど』の134ページに“一九六二年、ぼくは佐野さんに頼まれてニュースショーの構成をしました。司会に宮城まり子。そしてぼくが作詞し、作曲をいずみたくに依頼したのが「手のひらを太陽に」です”と書いてあります。
 気になったのは、“司会に宮城まり子”という部分です。もし、『けさの話題』に書かれている名前が司会者なら、宮城まり子の名前があるはずです。その日に「手のひらを太陽に」が歌われたのです。
 <再び調査>
 昭和37年(1962年)1月1日(月曜日)~2月8日(木曜日)まで NETテレビ10チャンネル7時20分から8時までの『けさの話題』に宮城まり子の名前があるか? 毎日新聞縮刷版による。

 〔結果〕 
 宮城まり子の名前は発見できませんでした。
 この調査中一回だけ「けさの話題 解説 福湯豊」と書かれたものがありました。福湯豊は、毎日新聞の社会部記者で、すでに故人なので、この時の放送内容を聞くことができません。結局、「けさの話題」は「解説付きのニュース番組」ということがはっきりしただけで、一番知りたい事はわかりませんでした。

  ≪著者・池田小百合≫
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峠の我が家

アメリカ民謡
作詞 岩谷時子

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2013/11/16)


 【原題】
  「峠の我が家」の原題は、「Home on the Range」。一般的にはアメリカ合衆国の民謡とされている。
  歌詞は、1870年代初めにカンザス州スミス郡のブリュースター・M・ヒグリー(Brewster M. Higley)が書いた「西部の我が家」(My Western Home)という詩からのもので、1873年に「おお、バッファローが、うろつく地に我が家を与えよ」(Oh, Give Me a Home Where the Buffalo Roam)という題名でスミス・カウンティ・パイオニア紙に掲載された。そして、ヒグリーの友人のダニエル・E・ケリーがそれに曲を付けた。ヒグリーによる元々の歌詞は今日のものに似ているが、まったく同一ではない。
  この歌は、入植者やカウボーイらによって歌われ、様々な形でアメリカ中に広まった。
  20世紀初頭には、テキサス州の作曲家デビッド・ギオン(David Guion)によって編曲され、1933年にレコード化されると大ヒットとなった。カンザス州は1947年6月30日に、この曲を公式に州歌とした。当時のアメリカ大統領であったフランクリン・ルーズヴェルト(1882年~1945年)の愛唱歌でもあったといわれている。
  以上は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考にしました。

  【佐伯孝夫の訳詞】
 日本では昭和十五年に日本語盤がビクターから発売された。ビクターA4105,V4005 佐伯孝夫の訳詞/灰田勝彦の歌でヒットした。
 

       峠の我が家

     なつかしや 峠の家(いえ)  
    木々の みどり深く
    朗らかに 人は語り  
    青き空を 仰ぐ  
      あゝ 吾が家(わがいえ)   
      帰りゆく 日あらば
    谷水に のどをうるおし
    けもの追いて 暮さん

     Home On The Range

 Oh, give me a home where the buffalo roam,
 And the deer and the antelope play,
 Where seldom is heard a discouraging word,
 And the skies are not cloudy all day.
   Home, home on the range,
   Where the deer and the antelope play,
   Where seldom is heard a discouraging word,
   And the skies are not cloudy all day.

 Where the air is so pure and the zephyrs so free,  
 And the breezes so balmy and light,
 Oh I would not exchange my home in the range,  
 For all of the cites so bright,
   (Refrain)
  

  この楽譜は、長田暁二編『日本抒情歌全集2』(ドレミ楽譜出版社)で見る事ができます。
  タイトルは「峠のわが家 Home On The Range」。四分の三拍子 ト長調。American Folk Song/佐伯孝夫 訳詞/松山祐士 伴奏編曲になっています。楽譜には英語の歌詞も付いています。斉唱。
 

  【中山知子の訳詞】
 『NHKみんなのうた』では、「峠のわが家」というタイトルで放送された。最初は、昭和四十一年(1966年)八月・九月の歌として放送された。中山知子 訳詞、石丸寛が編曲。歌は岩崎進。
  それから二年後の昭和四十三年(1968年)八月・九月には中山訳詞・石丸編曲はそのままで、歌は岩崎進の他に、新たに東京マイスタージンガーが加わった。

       峠のわが家

      一 ふきわたる みどりの風
        さわやかな 峠には  
        ふりそそぐ 日のひかりと
        はてしない 青空
          おお わが家(や)よ
          牧場こそ わが家
          山なみの かなたの村   
          ふるさとの 牧場よ

      二 草をはむ 子じかのむれ  
        林では 鳥の歌
        咲く花の かげうかべる
        清らかな 小川よ
          おお わが家(や)よ
          牧場こそ わが家
          夢さそう 木陰(こかげ)の道
          ふるさとの 牧場よ
  
      三 さすらいは われらのもの
         牛たちを 追いながら
         草の波 はるか遠く
         こえてゆく たのしさ
          おお わが家よ   
          牧場こそ わが家
          風かおり 日はかがやく
          ふるさとの 牧場よ

  この楽譜は、『NHKみんなのうた』≪第6集≫(日本放送出版協会)で見る事ができます。
  タイトルは「峠のわが家 Home on the range」。四分の三拍子 ト長調。アメリカ民謡/中山知子 訳詞/石丸寛 編曲になっています。前半は斉唱で後半は二部合唱。

  【久野静夫の訳詞】

         峠のわが家

       一 空青く 山はみどり
          谷間には 花咲き
          幼い日 ひとり遊ぶ
          なつかしい あの家(いえ)
            ああ わが家
           峠のわが家
            楽しい日 悲しい時
           思い出の あの家

        二 紅(くれない)の 空を高く
           鳥は啼き飛び行く
          山の端(は)に 月はかかり
          夜の香(か)は 漂(ただよ)う
            ああ わが家
            峠のわが家  
            楽しい日 悲しい時  
            思い出の あの家

  この楽譜は、佐藤愛編曲『シニアのための童謡・唱歌集』(音楽之友社)で見る事ができます。
  タイトルは「峠のわが家 Home on the Range」。八分の六拍子 ト長調。アメリカ民謡/久野静夫 訳詞/佐藤愛 編曲になっています。二部合唱。

  【岩谷時子の作詞】


             ト長調 八分の六拍子。西六郷少年少女合唱団は、この楽譜で歌っています。斉唱。

  【教科書の扱い】
   <中学校の音楽教科書>
   「岩谷時子 作詞/アメリカ民謡 八分の六拍子 ト長調」は全ての教科書で同じ。
  ・『中学生の音楽 2』(音楽之友社)昭和49年4月20日発行、昭和46年4月10日文部省検定済。 タイトル「峠のわが家」、♪=120。同声二部合唱に編曲してある。
  ・『中学生の音楽 2』(音楽之友社)昭和61年1月20日発行 昭和55年3月31日文部省検定済 昭和58年3月31日改訂検定済。 タイトル「峠の我が家」、♪=108~116(強弱を工夫して)、混声二部合唱に編曲してある。
  ・『中学生の音楽 2』(音楽之友社)昭和64年1月20日発行 昭和61年3月31日文部省検定済。 タイトル「峠(とうげ)の我が家(や)」(Home on the Range)、♪=104~112、混声二部合唱に編曲してある。
  ・『中学生の音楽 2』(教育芸術社)昭和46年4月10日文部省検定済。 タイトル「峠のわが家」、Andanteになっている。笛 鍵盤楽器用に編曲してある。
  ・『中学生の音楽 2・3上』(教育芸術社)平成8年1月31日文部省検定済 平成9年発行。 タイトル「峠(とうげ)の我が家」(Home on the Range)、♪=104~112。川崎祥悦(しょうえつ)編曲。
  ▲旋律の変化・対照を感じ取り、六拍子に乗って歌おう。
  ■西部へのあこがれと愛情を歌ったこの曲は、1933年にレコード化されると同時に空前の大ヒットとなった。カウボーイソングの代表的なものとして広く人々に親しまれ、当時のアメリカ大統領であったフランクリン・ルーズヴェルト(1882年~1945年)の愛唱歌でもあったといわれている。

 <小学校の音楽>
 掲載しているのは、『新しい音楽5』(東京書籍)だけです。
  ・昭和60年3月31日文部省検定済・昭和63年2月10日発行。
  ・昭和63年3月31日改訂検定済・昭和64年、平成3年2月10日発行。 タイトルは「とうげのわが家(や)」、岩谷時子 作詞/アメリカ民謡。ヘ長調 八分の六拍子、♪=96~104ぐらい。斉唱。


  八分の六拍子や、レガート(なめらかに)に歌う事を勉強するための教材。
 後半は、リコーダーの練習曲用に編曲されている。シとレのフラットの練習。かなり高度なテクニックを必要とする。 この教科書を使った子どもたちは、現在三十代で、子育て中、子どもに歌ってやる時は、学校で教えられたリズムで歌うのでしょうか。

  【楽譜について】
  音やリズムの異なった楽譜が多数存在している。元はウエスタン&カントリーの軽やかな弾んだリズムに乗って歌われていたものだが日本では抒情歌のように編曲され歌われている。 石丸寛は「さわやかな 峠には」の部分を大胆に編曲している。四分の三拍子 ト長調。このテレビから流れる旋律を覚えた人が多い。 しかし、中学校の音楽教科書では圧倒的に岩谷時子 作詞が支持されている。八分の六拍子 ト長調。さらに、小学校の音楽教科書では、小学生にわかりやすく編曲された楽譜が掲載された。八分の六拍子 ヘ長調。 したがって、みんなで歌う時は、大混乱になるようです。一般の方から、“「峠の我が家」を『池田小百合なっとく童謡・唱歌』に掲載して下さい。”というメールが多数寄せられました。私、池田小百合が主宰する童謡の会では岩谷時子 作詞で歌っています。

  【岩谷時子の略歴
  ・大正五年(1916年)三月二十八日、京城府(現在のソウル特別市)生まれ。本名トキ子。五歳の頃に兵庫県武庫郡西宮町(現・西宮市)に移住。
  ・西宮第一尋常高等小学校(通称水抜小学校、現・西宮市立浜脇小学校)、西宮第三尋常高等小学校(現・西宮市立安井小学校)、西宮市立西宮高等女学校(現・西宮市立西宮高等学校)を経て、神戸女学院大学部に進学。
  ・昭和十四年(1939年)、神戸女学院大学部英文科を卒業後に、宝塚歌劇団出版部に就職し、宝塚歌劇団の機関誌である『歌劇』の編集長を務めた。
 そうした中、偶然宝塚歌劇団編集部にやってきた当時タカラジェンヌで十五歳の越路吹雪と出会う。二人は意気投合し、越路の相談相手となる。越路が宝塚歌劇団を退団して歌手になりたいと相談したとき、岩谷も退職を決意。
  ・昭和二十六年(1951年)に越路吹雪とともに東宝文芸部に移籍。マネージャー兼作詞家として越路吹雪とコンビを組み、「愛の讃歌」「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」など海外のヒット曲を訳詞した。
  ・加山雄三が歌った「君といつまでも」、ザ・ピーナッツの「ふりむかないで」「ウナ・セラ・ディ東京」、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」、ピンキーとキラーズの「恋の季節」、郷ひろみの「男の子女の子」など多数の作詞を手掛けた。
  ・ミュージカルにも造詣が深く、「王様と私」を日本にいち早く紹介した。「南太平洋」「ジーザス・クライスト=スーパースター」「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」の訳詞を担当した。
 詞は、歌謡曲の主流だった七五調から脱して、会話を思わせるような新鮮な言語感覚が特徴。その後の流行歌にも大きな影響を与えた。
  ・昭和五十四年(1979年)に菊田一夫演劇賞特別賞、平成五年(1993年)に勲四等瑞宝章。平成二十一年(2009年)に文化功労者に選ばれた。
  ・岩谷時子音楽文化振興財団を設立し、岩谷時子賞が創設された。
  ・平成二十五年(2013年)十月二十五日、肺炎のため東京都内の病院で死去。九十七歳。作詞家、詩人、翻訳家。

                                                 岩谷時子 ⇒
                                              写真は2005年
                                              東京都千代田区(神奈川新聞掲載による)



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≪著者・池田小百合≫

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