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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
成田爲三作曲の童謡
成田爲三の略歴    林古渓の略歴
 赤い鳥小鳥     かなりや     浜辺の歌    りすりす小栗鼠
童謡・唱歌 事典 (編集中)




浜辺の歌

作詞 林 古渓
作曲 成田爲三

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/06/12)

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

池田小百合『童謡を歌おう 神奈川の童謡33選』
(1996年4月15日初版)より
池田千洋 画


音楽4巻8号  この歌ほど研究者を悩ませた歌はありません。原因は誰も初出詩を確認していなかったところにあります。
 私、池田小百合は、ある日、成田爲三の故郷秋田県北秋田市の『浜辺の歌音楽館』にある詩碑と、林古渓が教師(旧・京北中学校国漢科)をしていた東京都文京区の京北(けいほく)学園京北高等学校正門突きあたりにある詩碑(昭和三十三年学校創立六十周年記念建立)の碑文が同じ平仮名である事に気づきました。

 「なぜ平仮名なのだろう」。研究は素朴な疑問からスタートしました。

 【初出詩は平仮名だった】
 初出詩は、学友会誌『音楽』(東京音楽学校学友会)第四巻第八号・大正二年(1913年)八月号(国立国会図書館・所蔵)に「はまべ」のタイトルで掲載されています。

 詩の一、二連は全て平仮名です。三連も赤裳、眞砂だけ漢字で、赤裳にはルビはなく、眞砂にはカタカナでマナゴとルビがふってあります。ほかは全て平仮名です。最後に(作曲用試作)と添え書きがあります。

 ◎碑文には林古渓自筆の「はまべ」の一連が刻まれています。
 ◎現在歌われている歌詞は、この初出「はまべ」の一、二連です。

 作詞者による幾つかの修正を経て、今の歌詞ができたわけではありません。また、現在の教科書や出版譜では、一番の歌詞が「風の音よ」となっています。この歌詞が定着しているのは、原詞どおりなので、当然の事です。

 【美しい詩の構成】 詩を詳しく見ましょう。
 ・今歌われているのは一、二連だけです。一連も二連も四行で、一行目と二行目が「七・五」、三行目と四行目が「六・六」の韻律。
 ・「あした」と「ゆふべ」、「さまよへば、」と「もとほれば、」、「むかしの ことぞ」と「むかしの ひとぞ」というように一連と二連は対称的になっている。
 ・一連三行目は「かぜの おとよ、」と「くもの さまよ。」、四行目は「よするなみも」と「かひの いろも。」というように対句の構成になっていて、二連も「よする なみよ、」に対して「かへす なみよ。」、「つきのいろも」に対して「ほしの かげも。」と対句になっている。美しい構成で何も問題ありません。

  【モデルの浜辺】
 詩のモデルになった浜辺は、林古渓が幼いころ藤沢に住んでいたことから辻堂あたりの湘南海岸を歌ったものと推定されています。 古渓は幼児期を神奈川県高座郡羽鳥村(現・藤沢市)で過ごしました。教員であった父親が招かれて教鞭をとっていたためで、当時三歳だった古渓はそこで七歳まで過ごしています。
 (註)年齢は、出版物により数え歳だったり満年齢だったりしています。

 【「はまべ」を寄稿】
 原作の「はまべ」は全四連でした
 京北中学校(現・京北学園京北高等学校)の国漢科の教員をしていた古渓が、同時期に学んでいた東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)の学友会誌『音楽』に寄稿しました。
 出版の際に作者に無断で三連の前半に四連の後半をつけた改作された三連が載せられました。
 鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』(音楽之友社)より、林古渓の息子の林大(はやしおおき 国語学者。前・第三代国立国語研究所長)によると、「三番と四番の歌詞を混ぜた犯人は、××先生らしいのですが、自分ではお気づきになっていないのです、アハハ。・・・『音楽』に発表されたとき、歌詞の三番の前半と四番の後半がくっつけられていまして、これでは意味がとおらん、とおやじは言ってました。後にセノオ楽譜から出版されたのですが、版権なんかは無視された時代ですから、おやじのもとには連絡もきません。いつだったかおやじに、[原詩を]思い出したらどうかと言いましたら、忘れちゃったよ、という返事でしたがね」(鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』音楽之友社による)。

  <『音樂』について>
 『音樂』は明治四十三年一月から昭和十五年一月まで東京音樂學校學友會により刊行された雑誌。創刊から大正十一年十二月まで月刊であったがいったん廃刊。翌年「第一號」として復刊され、今度は年に一~二度刊行されて昭和十五年一月まで続いた。

  <音樂 第壹號目次>
   口繪 東京音樂學校新講堂
   東天紅 吉丸一昌 作歌
         山田耕作 作曲
   (註)巻頭をかざったのは吉丸一昌 作歌だった。(明治四十三年一月号)

  <音樂 第四巻第八號目次>
   はまべ(詩)・・・(五九)・・・林古渓
   (註)詩の題名は平仮名で「はまべ」。五十九ページに掲載。(大正二年八月号)


 【童謡歌手・安西愛子の見解】
 第三連後半二行と、第四連前半二行は、どのような詩だったのでしょうか。
 童謡歌手・安西愛子さんは、私、池田小百合に電話で次のように話されました。
 「失われた三・四節には、古渓の恋人が湘南海岸で結核の転地療養をして元気になった様子が書かれていて、古渓の本当の気持ちが織り込まれていたと思われます」。
 ・・・この記載は以下の本に掲載してあります。
  ・池田小百合著『子どもたちに伝えたい日本の童謡 東京』(実業之日本社)195ページ。及び池田小百合著『子どもたちに伝えたい日本の童謡 神奈川』(実業之日本社)61ページ。

 残念ながら「はまべ」の第三連後半二行と、第四連前半二行が残されていないため、その真偽を確かめるすべはありません。
 ●白柳龍一編集『私の心の歌―夏 夏の思い出』(学習研究社)に、「安西愛子は著書『子どもたちに伝えたい日本の童謡』の中で」と書いてあるのは間違いで、『子どもたちに伝えたい日本の童謡』の著者は池田小百合です。

  【学友会誌『音楽』掲載の歌詞の意味】
 〔一連〕 「あした」=朝のこと。これを、「今日」「明日」の「あした」だと思って変な歌だと誤解する人が多いようです。論語に“朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり”とある。一連は「朝(あした)」、二連は「夕べ(ゆふべ)」を歌っています。
 「しのばるる」=思い出される。
 〔二連〕 「もとほれば」=行きつ戻りつする。「足元を掘る」と思っている人は意外に多いようですが間違いです。
 「ほしの かげも」=星の光も。
 〔三連〕 後日、古渓が書き残したという原詩が発見された。「赤裳の すその ぬれもひぢし」 「すそぞ」と「すその」では意味が違ってきます。三連は、疾風(はやち)が突然襲って来て波しぶきを吹き上げ、赤い長衣の裾(すそ)は濡れひたってしまった。病(やまい)になった私は、すでにすっかり治って、「はまべの眞砂(マナゴ) まなご いまは。」。「眞砂」のルビは(マナゴ)となっている。 眞砂とは細かい砂のことで、永遠に絶えないものの喩えとしても使われる。今の自分を「はまべの眞砂(マナゴ)」と表現している。ここでは、浜辺の寄せては返す波にさまよう砂のように、自分もさまよい続けるだろうという意味です。
 研究者の中には、“『音楽』に発表されたとき、歌詞の三番の前半と四番の後半がくっつけられていましたが、歌詞の意味はそれなりに通っている”とする人がありますが、古渓は、三番も四番も、そのまま掲載してほしかったにちがいありません。

 【「はまべ」の作曲時期】
 これが、東京音楽学校生徒の作曲のテキストとなりました。詩の最後に(作曲用試作)と書いてあります。作曲をしたのは、成田爲三、朝永研一郎ほか何人かいたようです。
 大正四、五年頃、「浜辺の歌」を作曲と推定されています(『浜辺の歌音楽館』パンフレットによる)。
 ★正確な年月日は未確認
  ・「はまべ」が学友会誌『音楽』に掲載されたのが大正二年八月です。この時、まだ爲三は秋田にいました。大正二年三月、秋田県師範学校卒業。四月から一年間秋田県鹿角郡毛馬内尋常高等小学校の訓導をしました。
  ・大正三年三月、音楽をすてがたく、親に内緒で受けた東京音楽学校の試験に合格、上京。
 四月、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)甲種師範科に入学しました。大正三年作曲も可能性があります。 音楽

 【奏樂堂で演奏された曲は】
 NHKテキスト『きょうの健康』2008年3月号 枡野文昭・文「浜辺の歌」に、「爲三の曲が学内の奏樂堂で演奏されたのが大正五年」と書いてありました。文脈からは「浜辺の歌」が演奏されたように読めます。東京藝術大学付属図書館で確かめてみることにしました。大正五年に「浜辺の歌」が演奏されていたら、新事実ですし、作曲された時期の解明に一歩近づきます。

 図書館で該当の記事をコピーしていただきました。すると、東京音楽学校学友会発行「音樂」の第七巻第四号(大正五年四月)の九十一ページに、「學友會記事」と題して大正五年「二月十九日第十六回土曜演奏會を開く。曲目左の如し」とあり、會員による混声合唱、吉丸一昌 作歌、成田爲三 作曲の「母よ、さらば」が冒頭(一)にありました。「音樂」の前号、第七巻第三号(大正五年三月)の巻頭には「母よ、さらば」の楽譜が収録されていました。・・・大正五年に奏樂堂で演奏されたのは、「浜辺の歌」ではなく、「母よ、さらば」でした。

 私、池田小百合は、がっかりしました。同時に自分で調査をして確かめる事の重要性を再認識しました。
 これが研究というものでしょう。


 【「はまべ」の自筆楽譜】
 (その一)『浜辺の歌音楽館』に展示
 「はまべ」の自筆楽譜は、『浜辺の歌音楽館』に展示してあります。成田爲三 が「はまべ」を「浜辺の歌」と改題して作曲したのではないことがわかります。 楽譜から作曲の年月日は不明です。

▲成田爲三自筆楽譜「はまべ」冒頭にAndantinoと速度標語が書いてある。
(『浜辺の歌音楽館』公式ガイドブック掲載。この公式ガイドブックは開館20周年記念出版
2008年10月18日発行。定価600円。研究者必携です。

 この自筆楽譜「はまべ」は、次のような経緯で『浜辺の歌音楽館』に寄贈され ました。
 “大正五年、山田耕筰に師事している成田から、大里(秋田県鹿角市(かづのし)毛馬内(けまない)の小学校に赴任していた時、唯一心を許していた五つ年下の地主の息子の大里健治)あてに手書きの楽譜が届いた。 一枚目に「敬する大里様へ」とある。音楽雑誌に教材用として掲載された林古渓の詞に成田が曲をつけた『浜辺の歌』の第一稿だった。
 ・・・大里は成田の死後、爲三の手書きの楽譜を戦災で夫の楽譜の大半を失った文子夫人に 贈った。
 ・・・1988年、成田の郷里・米内沢に「浜辺の歌音楽館」が建てられ、大里から文子夫人へと渡った手書きの楽譜がメインフロアーに飾られた”(読売新聞文化部著『唱歌・童謡ものがたり』岩波書店より抜粋)。
 〔註〕成田爲三は、昭和二十年(1945年)四月十三日、空襲で滝野川の自宅が焼失。家財・作品などの一切を失う(浜辺の歌音楽館 公式ガイドブックによる)。
 ただ、「浜辺の歌音楽館」のパンフレットに、“「浜辺の歌」の自筆楽譜を中心に紹介します”と書いてあるので、これでは誤解されます。
 ●「浜辺の歌」は間違いで、「はまべ」の自筆楽譜が正しい。
 2009年6月6日に、「浜辺の歌音楽館」に電話をして、所蔵楽譜のタイトルが 「はまべ」であることを再度確認しました。
 ●“大正五年、成田から大里あてに手書きの楽譜が届いた。『浜辺の歌』の第一稿だった”は間違いで、 正しくは、「大正七年三月、成田爲三から大里健治に『はまべ』の第一稿が送られて来た」。 十和田市民センター前庭・旧毛馬内小学校跡に「浜辺の歌」歌碑建立 歌碑資料(「浜辺の歌」作曲家成田為三と鹿角市十和田毛馬内の関わりについて)による。
 ●“一枚目に「敬する大里様へ」とある”も間違いである。 公式ガイドブックに掲載された「大里耕作さん インタビュー」の証言のように、“爲三からあの「はまべ」と題された、自筆の楽譜が送られてきました。 終わりの方には「敬する大里様」と書かれています”が正しい。 ガイドブックp.13のピアノの譜面台に載せられた自筆楽譜の写真でも楽譜の最後に謝辞が書かれているのが見てとれる。

  〔註〕成田爲三は、大正二年、秋田県鹿角郡毛馬内尋常高等小学校の訓導として赴任。大正三年、東京音楽学校甲種師範科に入学。 大正六年、卒業。四月、佐賀県師範学校に義務教生(教育実習をする学生)となって赴任する。大正七年一月、佐賀県師範を辞任。東京の音楽環境との違いからわずか一年で帰京した。七月一日、鈴木三重吉主幹の雑誌『赤い鳥』が創刊された。

 (その二) 成田爲三目録
 成田爲三目録にも、“はまべ(浜辺の歌の肉筆楽譜)成田爲三 大正4年ごろ (浜辺の歌音楽館蔵)”とあります。  

 (その三)恋歌・楽譜郵送
 大正五年(1916年)ごろ、東京音楽学校でピアノを専攻していた同窓の倉辻正子宛に爲三から郵便が届いた。中には手書きの楽譜(歌詞つき)があり、「いとしの正子にささぐ」と記されていた。それが「浜辺の歌」でした。その時婚約者がいた正子は「私には決まった人がいます」と手紙を添えて、楽譜を送り返したという(2006年(平成18年)7月16日(日)読売新聞に正子の養子 声楽家・鈴木義弘氏公表/矢田部正子 東京出身1900年~1989年、旧姓倉辻)。 こちらも楽譜の年月日は不明。婚約者は矢田部勁吉・声楽家で、のちに東京藝術大学名誉教授。
 ●読売新聞には「浜辺の歌」と書いてありますが、その楽譜のタイトルが「はまべ」だったか、「浜辺の歌」だったかは、今となっては不明です。

  【セノオ楽譜の出版】
 大正七年十月一日、成田爲三の曲が竹久夢二の装画で「獨唱 濱邊の歌」セノオ楽譜九八番のピース(単発楽譜)としてセノオ音楽出版社から出版されました。
 (註)出版の際、妹尾幸陽が手を加えた可能性があります。
▲「濱邊の歌」の楽譜。表紙絵は竹久夢ニ
(『浜辺の歌音楽館』公式ガイドブックより)

 奥付には次のように書いてあります。
  「■本曲の作曲者たる成田爲三君は、山田耕作氏の門下で作曲にたけた人です。それで、こうした作曲の一二を世に問ふて見たいとの希望から、此處に刊行いたす次第となつたのです。私は、今、成田爲三君を我が樂界に紹介するの機會を得た事を喜びと致します。大正七年九月 妹尾幸陽」
  ・・・版権などは無視された時代なので、古渓のもとには連絡がありませんでした。後日、古渓はこの歌詞では意味がよく通らないことと、原作の情感と異なる曲がついたと理由づけをして、三番が歌われることを好みませんでした。


 ※『日本近代音楽館』所蔵のセノオ楽譜をコピーしてもらうためには、「資料複製承諾書」に著作権者の成田爲三の夫人の成田文子さんのサインとハンコが必要でした。1993年10月6日当時、成田文子さんは静岡県浜名湖エデンの園にお住まいでした。
 お手紙には、「私は今八十七歳の老いの身をこの老人ホームですごしております」とあります。
 現在では『原典による近代唱歌集成 原典印影Ⅱ』(ビクターエンタテインメント)の192・193ページで、だれでも簡単に見る事ができます。
浜辺の歌音楽館 ※表紙絵は、竹久夢二の美人画でした。この絵は、爲三の故郷秋田県北秋田郡にある『浜辺の歌音楽館』の案内パンフレットの表紙になっています。
 また、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫 緑92-1)のカバーにも使 われています。私の岩波文庫は1993年10月15日第50刷発行。岩波文庫に以前は、カバーはありませんでした。

 【セノオ楽譜の検証その一】 歌詞について(1)
 初出詩『はまべ』の一連の三行目「かぜ おとよ、」は、セノオ楽譜九八番『濱邊の歌』では「風音よ、」(歌詞も楽譜も)になっています。これには理由があります。成田爲三の自筆楽譜に、そう書いてあるのです。この歌詞の誤りは、成田爲三が誤記したためにおきたもののようです。林古渓は生前そのように認めていました。歌われているのは「かぜの おとよ、」の方です。

  <自筆楽譜『はまべ』について>
  1.自筆楽譜には一番だけ歌詞が書いてある。「カゼヨオートヨ」となっている。
   セノオ楽譜には三番まで書いてある。「カゼヨオートヨ」となっている。
  2.自筆楽譜には強弱記号がない。セノオ楽譜にはついている。
  3.自筆楽譜の伴奏譜の最後の音にフェルマータがついているが、セノオ楽譜にはついていない。
  4.伴奏譜で一ヶ所特筆すべき相違がある。【セノオ楽譜の検証その三】を参照。

 【セノオ楽譜の検証その二】 歌詞について(2)
 ・初出詩の三連の二行目が「赤裳の すそぞ ぬれもひぢし。」となっているのに、セノオ楽譜では「赤裳のすそぞぬれもせじ。」(歌詞も楽譜も)となっています。
 ・初出詩の三連の三行目が「やみし われは すでに いえて、」となっているのに、セノオ楽譜では「やみし我はすべていえて、」(歌詞)となっています。ここは(楽譜)では初出詩のように「やみし われは すでに いえて、」となっている。
 ・初出詩の三連の四行目の「眞砂」のルビは、(マナゴ)です。「はまべの眞砂(マナゴ) まなごいまは。」と韻をふんでいる。セノオ楽譜では「濱邊の眞砂(まさご)まなごいまは。」「眞砂」のルビは(まさご)に変えられている(歌詞も楽譜も)。
 セノオ楽譜の三番の歌詞の間違いについて、林古渓は誤植だと生前認めていました。この誤植によって意味が通らなくなってしまいました。教科書に掲載される時、三番が削除されたことが納得できます。

 【セノオ楽譜の検証その三】 楽譜について(1)
 岡本敏明編著『成田爲三名曲集』玉川大学出版部(昭和四十年発行)271ページには、楽譜について重要な事が書いてあります。
 “伴奏部で一ヶ所(55頁★印のところ)現行のものと違う音がある。これは成田先生の竹馬の友である郷里秋田県毛馬内の大里建治氏に作曲当時贈った自筆の楽譜を調べてみて、これが正しいことを判定したのである。音としてはどちらでもさしつかえないのであるが、先生の音のこのみから推測すれば、この曲集の方が正しい。今のうちにこのことを証明しておかないと、永遠に原作とちがったものが流布されると思うので、ここに記しておく。”
 上記で“違う音”と問題にしているのは、12小節目「クモノサマ」の「マ」のピアノ伴奏低音部の最後の音です。自筆楽譜は「B」になっているのに、セノオ楽譜は「As」になっている。

 【セノオ楽譜の検証その四】 楽譜について(2)
 成田爲三が作曲したこの曲は、ロマンチックなメロディーと高度な和音でできています。変イ長調、二部形式。八分の六拍子の伴奏は、波が寄せては返すかのようです。
 「あした」は、アウフタクト(弱起)で始まります。12345と数えて6拍目から歌います。この一小節目は、旋律部の構造は弱起ですが、伴奏部を含めて楽曲全体から見ると強起になるため不自然ではありません。美しい日本語が生かされています。山田耕筰の作風に似ていると思うのは、私・著者池田小百合だけでしょうか。
 「しのばるる。」「かぜの おとよ、」の音程は大変難しいので、しっかり練習しましょう。「くもの さまよ。」で十分気持ちを高め、次の「よするなみも」の歌い出しは、最初の気分にもどって歌います。
 名作ですが難点があります。「くも」の部分が二点ヘ音まで上がるので一般の人が歌うのには苦しいのです。
 伴奏譜の音域が広いので49鍵のキーボードでは弾けません。

 【成田爲三の言葉の考察】
 「この曲は正しく歌われていません。みんなテンポが遅いんですよ。もっとサラリと歌うと良いのです。」昭和十六年から作曲科の教授をしていた東京高等音楽学院(現・国立音大)での弟子・清水嘉介(昭和二十年九月作曲科卒)に語った成田の言葉。
 この曲の持つゆるやかなうねりは、それだけで充分な表現になっているが、うまく演奏するのは非常に難しい。それで、音を確かめ慎重になり遅いテンポになってしまいがちです。練習し、「サラリと歌う」ようにしたいものです。

 【教科書での扱い】
 古渓は三番が歌われる事を好みませんでした。昭和二十二年(1947年)七月一日発行の『中等音楽3』(文部省)に掲載される時、三番を省きました。以後、二番まで歌うのが普通になっています(教科書センター教科書図書館所蔵)。
 奥付を見ると著作権所有 著作兼発行者 文部省と書いてあります。

 林古渓は、昭和二十二年(1947年)二月二十日、疎開先の埼玉県浦和市で七十二歳で亡くなりました。
 ★“「浜辺の歌」が教科書に掲載されることになり、林に許諾が求められ、林は問題の3番の歌詞を削除し、著作権協会にも全2節の詩として登録した”(藍川由美著『これでいいのか、にっぽんのうた』(文藝春秋)より抜粋)。林は亡くなる直前でした。未確認。

 茅ヶ崎の方から次のような手紙をいただきました。 “『中等音楽』を昭和24年以後も使っていました。山形県は、その後も長く使っていました。『中等音楽3』には、「花」「浜辺の歌」「ボルガの舟歌」「野ばら」「浦のあけくれ」などがありました。私は尾花沢の出身ですが、高校まで鶴岡にいました。山形県立鶴岡南高校三年生の時、富樫 剛(とがし つよし)が入学して来ました。後の第47代横綱となる柏戸です”(2003年9月9日)。

  <『中等音楽1 2 3』の調査>
  教科書研究センター附属教科書図書館回答(2003年10月9日)。
  (1)文部省著作教科書『中等音楽1 2 3』は、文部省発行『教科書目録』に昭和22~29年度の間、掲載されています。昭和24年度より教科書検定制度が始まり、教科書に記号・番号が付与されるようになりますが、記号・番号のない昭和22年~23年度のものと、付与された昭和24~29年度のもの(1:中音700,2:中音800,3:中音900)は同じ物と考えられます。従って、『中等音楽1 2 3』は、昭和29年度まで使用は可能でした。
  (2)昭和24年度以降は、民間会社からも検定教科書が発行されていて、『教科書目録』に掲載されている教科書の中から、どこが何を採択して使用したかは、資料が無く当館でもわかりません。
  (3)昭和24年度の『教科書目録』に掲載されている音楽教科書は以下のものと判明しました。
  ・文部省著『中等音樂1 2 3』(中教出版)
  ・武藏野音樂学校著『中等音樂一 二 三』(春陽堂)
  昭和25年度以降は、数社からいろいろな書名で発行されている。



+
  【昭和二十二年版の検証】 『中等音楽3』を、もっとくわしく見ましょう。
  ・タイトルは「浜べの歌」です。へ長調に移調してあります。
  ・歌詞は二番までで、一番の四行目は「風の音よ 雲のさまよ」となっています。林が、著作権協会に全2節の詩として登録した時、「風の音よ 雲のさまよ」としたのでしょう。以後、「風の音よ」と歌われ続けています。何も問題ありません。
  ・楽譜は、セノオ楽譜の時は二ページでしたが、一ページにまとめられています。 冒頭には「優美に八分音符=108」と書いてあります。自筆楽譜にはなかった強弱記号が書かれています。

  ・【セノオ楽譜の検証その三】で岡本敏明が“違う音”と指摘している問題の12小節目「クモノサマ」の「マ」のピアノ伴奏低音部の最後の音は、セノオ楽譜の“違う音”の方が採用されています。
  ・おや? 自筆楽譜にもセノオ楽譜にもなかった「クモノサマヨー」の後の八分休符の上に、フェルマータが書いてあります。その下の伴奏譜にもフェルマータが書いてあります。このフェルマータは、だれが書いたのでしょう? 
 ここで延長すると、今までの八分の六拍子の波のうねりが止まってしまいます。必要のないフェルマータです。現在歌われている楽譜には、フェルマータはありません。今までの研究者は、だれも気がつかなかったのでしょうか。

 続く「ヨスルーナーミーモ」には、a tempoが付いています。このようにする と、「ヨ」を歌い出す時、ドラマチックにすることができます。しかし、成田爲三は「さらりと歌う」ことを求めていますから、a tempoも必要のないものです。

  ・自筆楽譜には、最後の音にフェルマータがついていますが、この楽譜にはついていません。

 私、池田小百合は、玉川大学継続学習センター主催の玉川大学公開講座「懐かしい思い出の歌・童謡・唱歌 みんなで歌いましょう」を毎回楽しみにして、参加していました。ある時、全員で『浜辺の歌』を歌った後、指導の男の先生が 「みなさん、この歌に三番があることを御存知ですか。これから僕が三番を歌いますから聴いてください」そして、高らかに歌い上げました。チャペル会場にいた約三百人の人々は、感動し、拍手喝さいでした。林古渓が生きていたら、ありがたくなかったことでしょう。私は、それ以来この会には参加していません。

 【中学校音楽共通教材(歌唱)
 文部省は、昭和五十二年七月の告示で、中学校学習指導要領の中の音楽で「浜辺の歌」を「共通教材」に含めることとしました。
 中学二年生の共通教材(歌唱)には、「浜辺の歌」「夏の思い出」「早春賦」が選ばれています。学校で教えたので、みんなが知っている曲になりました。

 かつて仕事をした出版社の編集の人が、「中学校音楽共通教材は廃止されたと思う」と言っていたので、調査しました。

  ・中学校学習指導要領 昭和52年7月告示。対応教科書 昭和56年~平成4年度。
    〔第二学年〕歌唱教材として、次の共通教材3曲を含めること。
     「浜辺の歌」「夏の思い出」「早春賦」

  ・中学校学習指導要領 平成元年3月告示。対応教科書 平成5年~平成13年度。
   歌唱教材として、次の共通教材を含めること。
   〔第二学年〕
     「浜辺の歌」、「夏の思い出」「荒城の月」(合唱)、
   〔第三学年〕
     「早春賦」、「花」(合唱)

  ・中学校学習指導要領 平成10年12月告示。対応教科書 平成14年~平成23年度。
   〔第二学年及び第三学年〕
   歌唱教材には、各学校や生徒の実態を考慮して、次の観点から取り上げたものを含めること。
     (ア)  我が国で長く歌われ親しまれているもの。
     (イ)  我が国の自然や四季の美しさを感じ取れるもの。
     (ウ)  我が国の文化や日本語のもつ美しさを味わえるもの。

  ・中学校学習指導要領 平成20年3月告示。対応教科書 平成24年度~
   〔第二及び第三学年〕
   以下の共通教材の中から各学年ごとに1曲以上を含めること。
     「浜辺の歌」「夏の思い出」「早春賦」「荒城の月」「赤とんぼ」「花」「花の街」
   (註) 調査は教科書研究センター教科書図書館(2010/06/10)

 以上のように中学校音楽共通教材は平成10年にいったん廃止され、平成20年に復活していました。
 自分で調査することは、大切だと、あらためて感じました。

  【「浜辺の歌」変奏曲の初演】
 国立音楽大学附属図書館から発見された「浜辺の歌」変奏曲はピアニスト・小原孝により昭和五十九年初演されました。

 【平成二十一年の教科書】 「浜辺の歌」のタイトル」で掲載されています。
 ・『中学音楽 音楽のおくりもの2・3上』(教育出版、平成二一年一月二〇日 発行)
 ・『中学生の音楽2・3上』(教育芸術社、平成二一年二月十日発行)
 いずれも一番の歌詞は「風の音よ」となっている。二番まで掲載。ヘ長調に移調してあり中学生に歌いやすくなっています。伴奏譜が付いています。この伴奏譜は【セノオ楽譜の検証その三】で岡本敏明が指摘している12小節目の伴奏低音部の最後の音は、 成田爲三の自筆楽譜のとおりになっています。


 このように、今までの研究者が「謎」や「ふしぎ」としてきた部分は、教科書上では正しく伝えられています。現在歌われている歌詞、楽譜は正確なものです。

  【林古渓の略歴】 
  ・明治八年(1875年)七月十五日、東京の神田に次男として生まれました。本名は竹次郎といいます。
  父(林三郎)は、姫路藩士永田家の子孫(旧姓名・永田)だったが、明治維新に際して帰農し林姓を名乗る。上総国長柄郡六地蔵村(千葉県長柄町)に住んだ。古渓が生まれた頃の一時期、一家は東京に住んでいた(詳細は不明)。 その後、教員試験に合格した父は、明治十一年、漢学者・小笠原東陽(おがさわらとうよう)の招きによって、神奈川県高座郡羽鳥(はとり)村(現・藤沢市)の羽鳥学校(現・藤沢市立明治小学校の前身の一つ)に奉職した。一家は羽鳥村に転居。(古渓、三歳から七歳)。

 <辻堂海岸の思い出>
 羽鳥村から南へ約二・五キロメートルの所に辻堂海岸が広がっている。「浜辺の歌」は、古渓が辻堂海岸で遊んだ子供の頃を思い出して作ったものといわれている。
 歌集『わがうた千首(一)』(大正十五年、丙午(へいご)出版社刊)に次のような歌がある。
    ※ 相模の海 盆波(ぼんなみ)たかし 辻堂の はまの松ばら 秋の風吹く

  ・明治十五年十一月、父は、神奈川県愛甲郡下古沢村(現・厚木市)の古沢学校(現・厚木市立小鮎小学校分校)の第三代校長になりました。一家も転居、学齢期を迎えていた古渓(八歳)は、父の小学校に入学。厚木で成長しました。

 <古沢学校について>
  古沢学校は、上・下古沢村が共同で設立した小学校で、下古沢村竜栖寺本堂を仮校舎として開校、明治九年には上・下古沢村村境の字新地に新校舎が落成した。のち、明治二十二年、「市制・町村制」が施行されると、上・下古沢村は飯山村と合併して小鮎村となり、古沢小学校は小鮎小学校分校となった。

  父が古沢学校に赴任した翌々年の明治十七年三月二十八日、古渓が十歳の時、父は四十九歳で急逝(病没)してしまいました。下古沢にある日蓮宗の本照寺に葬られた。林三郎には二男二女(兄、古渓、姉、妹)があった。古渓の母は、夫の三郎亡き後、古沢学校教師として子どもと共に暮らした。
 『わたくしのはは』(大正十一年、四時佳興楼(しじかこうろう)刊)には、次のように書いてあります。
  “十歳の時、父が亡くなりました。一家離散の悲しみが来ました。叔母も、叔母の娘も、姉も、兄も、少し遅れて私も、みな東京へ送り出され、分(わか)れ分れになりました。七歳になる末女(むすめ)を一人抱へて、母はその(古沢)小学校へ教員として勤めました”。

  <雅号「古渓」について>
  父親の転勤に伴い、大山の麓にある愛甲郡下古沢村に住みました。明治時代の「古沢村」は美しい森林や「渓流」のある純農村地帯で、所々に古刹(こさつ)や神社があり、ひと山越えると温泉宿が点在するといった、のどかな雰囲気に包まれた村でした。後年、ここでの生活を懐かしみ、地名の一字と風物から雅号を「古渓」としました。
 歌集『わがうた千首(一)(1926年・丙午(へいご)出版)には、古沢周辺での作品も数多く収録されている。
   ※ 古沢の 山のたらの芽 ことごとく 取りもつくしつ 父に食(を)さすと
   ※ 龍栖寺(りゅうせんじ)の 上のはたけの 春の日の ながき萱根(かやね)に いもととあそびし

  ・父没後の少年時、小笠原東陽の紹介で東京・池上本門寺に入り修行をした。十六歳になった時、得度(とくど・剃髪して仏門に入る事)をしています。
  ・二十一歳で都内の井上圓了創立の哲学館(現・東洋大学)に入学して国漢を学んだ。明治三十二年卒業。
   (註)校名変遷 哲学館(明治二十年)、哲学館大学(明治三十六年)、東洋大学(明治三十九年)。

 卒業後は同館の系列学校・私立京北(けいほく)中学校(現・京北学園京北高等学校)に就職。ここで国漢科の教員として約三十年近くを過ごしています。
  “毎朝校門の近くに立って、登校して来る生徒をチェックしていた。怖い先生だったのか、それとも容貌に連想させられるものがあったのか、生徒から奉られたニックネームは「達磨・ダルマ」だったという”(鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』(音楽之友社)より。

 京北学園(東京都文京区白山)には、『浜辺の歌』の詩碑が建てられています。昭和三十三年(1958年)建立。林古渓の自筆、全文平仮名の旧仮名遣いで、詩の第一節が八行刻まれている。

 <雑誌『音楽』の牛山充との出会い>
 京北中学校で教師をしながら、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)分教場や、東京外国語学校(現・東京外国語大学)専修科伊語学科で学びました。
 古渓は、東京音楽学校で学んでいた時、牛山充(みつる)と知り合った。東京音楽学校授業補助の牛山充が編集担当する学友会誌『音楽』第四巻第八號(大正二年八月発行)に「はまべ」の題名で詩を寄稿しました。
  『音楽』は明治四十三年に創刊。牛山は在学時代から、その編集に携わった。古渓は文才を買われ、ほぼ毎月作曲用の詩歌を寄稿した。生涯を通して和歌を作り続けた古渓が、新体詩を書いたのはその青年期。ほかにも、「昼」(弘田龍太郎 作曲)、「小鳥のよろこび」(中山晋平 作曲)など作曲されたものがあるが、「浜辺の歌」を超えるものはない。
  末尾に「作曲用試作」と但し書きされている「はまべ」の詩は、東京音楽学校生徒の作曲課題となり、多くの生徒が作曲しました。しかし、今歌われているのは成田爲三のものだけです。大正七年(1918年)、セノオ楽譜が表紙に竹久夢二の絵をそえて発売してから知られるようになった。

林古渓
  ・昭和三年、松山高等学校講師、六年同助教授。
  広島高等師範学校、愛媛県師範学校、日本大学専門部高等師範科へも出講
  ・昭和八年帰京し立正大学教授、母校の東洋大学専門部の講師にもなった。昭和十九年、全退職。
  ・昭和二十二年(1947年)二月二十日、疎開先の埼玉県浦和市で満七十一歳七ケ月で亡くなりました。池上永寿院に葬られた。歌人、漢詩人、国漢文学者。

 <その他>
  ・『夕焼け小焼け』の作詞者中村雨紅が長年勤務していた神奈川県立厚木高等女学校(現・厚木東高校)の校歌の作詞もしました。作曲は梁田貞。
  ・明治三十年代の新仏教徒同志会の運動に活躍し、会誌『新仏教』の編集に従った。
  ・古渓歌会を起こし、大正八年から昭和二十年にわたって歌誌『わがうた』を主幹。その他、詩誌も編集した。歌集、詩集、漢詩集など多くの署作がある。歌集に『わがうた千首(一)(1926年・丙午(へいご)出版)、『わがうた千首(二)』(1928年・丙午出版)。感想論集に『松山風竹』(1936年・明治書院)、『万葉集外来文学考』『懐風藻新註』(昭和三十三年、没後の刊)など。

 〔参考文献〕
  ・飯田孝著『相模人国記 厚木・愛甲の歴史を彩った百人』(市民かわら版社)
  ・『日本人名大事典』(講談社)
  ・『人物レファレンス事典(文芸篇)』(日外アソシエーツ 2010年)
  ・NHKテキスト『きょうの健康』2008年3月号 枡野文昭・文「浜辺の歌」
  ・厚木童謡の会調べ<林古渓>厚木童謡の会 常務理事・三橋道明
  ・「市民かわら版」1989年(平成元年)11月15日(水)「浜辺の歌」の林古渓
  ・『文京ゆかりの作詞・作曲家』(文京区教育委員会)

  以上を参考にしましたが少しずつ違っていて、どれが正しいかは、わかりません。

 【牛山充(うしやまみつる)の略歴】
 大正から昭和時代にかけての音楽・舞踊評論家。明治十七年(1884年)六月十二日生まれ。母校、東京音楽学校 (現・東京藝術大学)の講師のかたわら大正十四年から「東京朝日新聞」の音楽・舞踊欄を担当した。のち東京バレエ学校を創立し、校長をつとめた。昭和三十八年(1963年)十一月九日死去。七十九歳。長野県出身。旧姓は百瀬。著作に『音楽鑑賞論』など。
  (註)『日本人名事典』(講談社)による。

  <牛山充の履歴>
  明治四十一年四月東京音楽学校専科(唱歌)入学。
  明治四十二年四月同校乙種師範科進学。
  明治四十三年三月同校乙種師範科卒業、甲種師範科進学。
  大正二年三月東京音楽学校甲種師範科卒業、同校授業補助(英語)。
 同校教務嘱託、講師を経て、昭和三年四月解嘱。

  <『音楽』と牛山充>
  明治四十三年(1910年)一月、東京音楽学校の学友会誌『音楽』が創刊された。牛山は在学時代からその編集・発行に携わった。牛山は「MU生」として記事を書いている。

 【成田爲三の略歴
  ・明治二十六年(1893年)十二月十五日、秋田県北秋田郡米内沢(よないざわ)村(現・北秋田市米内沢)に生まれました。父・成田和三郎、母・ミツの三男。

△成田爲三
  ・明治三十三年(1900年)四月、米内沢尋常小学校一年に入学。しかし、父が秋田県山本郡響村仁鮒(にぶな)の役場の書記(後に収入役)就任のため、一家は仁鮒(現・能代市二ツ井町仁鮒)に転居。爲三も米内沢尋常小学校一年を数ヶ月で去り、仁鮒尋常小学校一年に編入した。
  ・明治三十七年(1904年)三月、仁鮒尋常小学校をトップで卒業(四学年)。四月、二ツ井尋常高等小学校に入学。 この頃、父はバイオリンを買って与えたようです。その背景には阿仁地方は阿仁鉱山の隆盛で文化的雰囲気を漂わせていた時代でした。
  ・明治四十一年(1908年)三月、尋常高等小学校を首席で卒業(四学年)。 旧・ニツ井町立仁鮒小学校校庭には、「成田爲三先生勉学の地」として『浜辺の歌』の歌碑があります(昭和五十二年九月二十日建立)。父の事業の失敗や転居など不遇な少年時代を過ごす。四月、北秋田郡鷹巣町の郡立准教員準備場に入学。
  ・明治四十二年(1909年)三月、同場卒業。四月、秋田県師範学校(現・秋田大学教育学部)本科第一部へ入学。ここで初めて接したオルガンが音楽への眼を開く事になります。ピアノやバイオリンを学びました。教官・沢保次郎との出会いが将来の進路を決める重大な転機になりました。同校の音楽会ではベートーベン作曲「月光」の演奏を披露した。
  ・明治四十三年(1910年)八月、長兄正吉の死により両親は仁鮒を引き払い、再び米内沢に戻る。
  ・大正二年(1913年)三月、秋田県師範学校卒業。四月、一年間秋田県鹿角郡毛馬内尋常高等小学校の訓導をしました。当時の教え子たちの話では「心の優しいまっすぐな先生で子供たちには好かれたが、音楽ばかりに熱心だったので、ほかの先生からはよく思われなかったようだ」ということで校長とそりが合わず、間もなく末広小学校への転勤を命じられる。
 (平成十七年八月二十一日、十和田市民センター前庭・旧毛馬内小学校跡に「浜辺の歌」歌碑建立・・・歌碑資料・写真は豊口秀一氏より頂きました)

 歌碑の右の立札に下記の「歌碑建立趣意書」がある。
  “作曲家成田為三氏は、大正二年毛馬内小学校訓導として赴任したとき、音楽愛好家大里健治氏と親交を結ぶ。翌年東京音楽学校に入学、その後作曲家山田耕作氏に師事。「浜辺の歌」を作曲し自筆の楽譜を大里氏に送って来た。 成田氏のため大里氏がピアノを買い求め昭和二年毛馬内小学校で作品発表会を開催した。この故事に因み、東京毛馬内会が三十周年記念事業として、毛馬内小学校跡地に歌碑を建立す。なお、原楽譜は大里氏が成田氏未亡人に送られた後、森吉町浜辺の歌音楽館に収められておりピアノはあぶらや大里宅に現存する。
   平成十七年八月二十一日 東京毛馬内会会長 木村博 ほか”
  〔註〕「浜辺の歌」は、正確には「はまべ」。

  <成田為三が弾くためのピアノを購入した大里家について
  「浜辺の歌」と成田為三の名を広めたいと思い続けていた大里健治は、当時としては家が二、三軒買えるほど高価なアップライトピアノ(八百円)を東京の業者から購入し、昭和二年に毛馬内小学校で為三が、このピアノを弾いて、作品発表音楽会を全国で初めて開催しました。ピアノは大里耕作(健治の長男)宅に現存する。
  大里家は、鹿角市毛馬内の有名な「あぶらや旅館」でした。かつては菜種油を商う商家で、後に地主に成長しました。しかし、戦後の農地改革で、ほとんどの土地を失い、旅館業に転じた。
  「あぶらや旅館」は、大地主だった時代の、太い漆塗りの梁が光る豪華な建物で、蔵がいくつも建ち、往時を偲ばせます。かつて帳場だった部屋に、ピアノが置いてあります。今でも音が出ます。
 父の健治は息子を音楽家にしたいと思い、為三の恩師の山田耕作(耕筰)から名前をもらって名づけた(『浜辺の歌音楽館公式ガイドブック』インタビュー「あの時に」より抜粋)。

  ・大正三(1914年)年三月、鹿角郡・末広小学校に転任させられるが赴任せずに上京。音楽をすてがたく、親に内緒で受けた東京音楽学校の試験に合格した。四月、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)甲種師範科に入学。師の一人に助教授・本居長世がいる。当時の東京音楽学校には作曲科がなかったので、ドイツから帰朝したばかりの山田耕筰に師事し、ホームレッスンで作曲を学ぶ。同門に近衛秀麿、大中寅二、宮原禎次らがいる。
  ●多くの出版物に「作曲科に合格」とあるのは間違い。

  ・大正四年~五年頃、教務嘱託・牛山充に、同氏が編集担当する学友会誌『音楽』第四巻八号(大正二年八月)所収の作曲用試作品「はまべ」(林古渓詞)に作曲するようすすめられる。この曲が大正七年にセノオ音楽出版社から竹久夢二装丁の楽譜「浜辺の歌」として出版される。一般に歌われるようになったのは昭和二十二年に文部省の中等音楽教科書に採用されてからでした。

  ・大正六年(1917年)三月、東京音楽学校甲種師範科を卒業。四月、佐賀県師範学校に義務教生(教育実習をする学生)となって赴任する。
  ・大正七年(1918年)一月、佐賀県師範を辞任。東京の音楽環境との違いからわずか一年で帰京した。七月一日、鈴木三重吉主幹の雑誌『赤い鳥』創刊。
  ・大正八年(1919年)四月、赤坂小学校訓導として赴任(大正十年まで)。山田耕筰の推薦で、鈴木三重吉主幹の子供向けの雑誌『赤い鳥』の選者となり、自身も「かなりや」(西条八十作詞)を五月号に発表、一躍有名になった。以後「赤い鳥」の専属作曲家となる。弘田龍太郎、草川信らとともに大正童謡運動の中心となって活躍。
 山田耕筰は、大正七年に創刊された雑誌『赤い鳥』の音楽を担当するはずでしたが、渡米を控えていたので、弟子の成田を推薦しました。大正七年、山田は、カーネギー・ホールで自作の管弦楽曲による第一回演奏会を開催しています。


  ・大正十年(1921年)、赤坂小学校を辞任。一月十四日神戸を出港、ドイツに四年間留学。ベルリンでラインベルガーやブラームスに系列する作曲家R・カーン(Robert Kahn 1865-1951)教授に師事し、和声学や対位法といった本格的な西洋の作曲技法を学んだ。
  ・大正十三年(1924年)、「二つのローマンス第一 青い帆」「二つのローマンス第二 湖底の薔薇」などの管弦楽曲を作曲している。ベルリンでの四年間は、文字通り作曲に明け暮れる日々だった。

  ・大正十四年(1925年)一月五日帰国。
 日本でいち早く合唱に、二部輪唱、三部輪唱、ドイツで学んだ対位法に基づいた「カノン」という技法を取り入れた。日本で初めての輪唱の楽譜、成田爲三著『新撰 二部輪唱曲』『新撰 三部輪唱曲』(東京 培風館)を刊行。(輪唱の楽譜の表紙←)
 また、ピアノ独奏曲、『浜辺の歌』変奏曲、『さくら』変奏曲、『君が代』変奏曲、対位法を駆使した「フーゲ」といったピアノ曲を発表。そして、『管樂重奏樂譜』と題された作品集が次々出版された。
 こうした取り組みは当時の日本音楽界の最先端を行くものでしたが、まだ本格的な管弦楽団が存在しない当時の日本では、あまり知られることがありませんでした。

(註)上記写真の解説中『管弦重奏楽譜』は『管樂重奏樂譜』の間違い。

  ・大正十五年(1926年)四月二十六日、鈴木文子と結婚。見合いの席で禁酒を宣言し、以後、終生酒を口にしなかった。

  ●森吉町 インターネット観光情報『浜辺の歌音楽館』には、「大正十一年一月、ドイツ・ベルリンに留学のため、神戸より出港する」と書いてあります(2003年3月2日検索)。今回、再度確認のためインターネットで検索すると、「森吉町(もりよしまち)は2005年3月22日、北秋田郡の鷹巣町・合川町・阿仁町と合併し北秋田市となった」そのため、「森吉町 観光情報」には×がついていた。そして「大正10年、成田為三は27才の時にドイツに留学」と正しい記載になっていた。
  ●井上隆明編著『秋田のうたと音楽家』(秋田文化出版 1987年9月20日初版3刷発行)156ページには、「大正十一年一月十四日神戸を出帆して、ベルリンに四年留学」と書いてある。
  ●鮎川哲也著『唱歌のふるさと旅愁』(音楽之友社 1993年)には「大正十一年から十五年にかけてベルリンに留学、作曲を学ぶ。帰国した年に結婚」と書いてあります。
  (註) 以上の「大正十一年留学」「大正十五年帰国」説は、あらゆる書物に書かれていて、確認に手間取りました。

  ・昭和三年(1928年)四月、川村女学院(現・川村学園短大)の講師となる(昭和六年まで)。
  ・昭和六年(1931年)九月から小松耕輔とともに『新日本小学唱歌』を編集し、毎月刊行(第十集まで)。児童の音楽教育にも携わり、明治以来の硬直化した唱歌教育の改革に取り組みました。
  ・昭和八年(1933年)四月、東洋音楽学校講師となる(昭和十年まで)。
  ・昭和十五年(1940年)四月、東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)教授になり後輩音楽家(岡本敏明など多数)の指導をしました。数多くの著書を出版。
  ・昭和二十年(1945年)四月十三日、米軍の空襲で東京滝野川(現・東京都北区)の自宅を焼失し、同時に家財や楽譜などの一切を失ってしまいました。四月二十一日、郷里の秋田県北秋田郡米内沢町川向の次兄・憲生宅に疎開しました。半年後の十月二十七日に上京。門弟・岡本敏明の計らいにより東京都南多摩郡町田町(現・町田市)の玉川学園の女子寮(玉川学園では塾といい、そこに住む学生を塾生と呼んでいた)に到着。二日後の十月二十九日朝、脳溢血のため急逝。享年五十二歳でした。
 第一歩から出直そうとしていた時でした。葬儀は玉川学園講堂で営まれ、東京高等音楽学院(昭和二十二年七月から国立音楽学校)と玉川学園の合唱隊による「浜辺の歌」が霊前に捧げられた。

 ≪その他の作品・著書≫
  「赤い鳥小鳥」(北原白秋)、「りすりす小栗鼠」(北原白秋)、「雨」(北原白秋)、「ちんちん千鳥」(北原白秋)、「お山の大将」(西條八十)、「ころころ蛙」(二部輪唱曲 北原白秋)、「山のびわ」(二部輪唱曲 北原白秋)、「いとたけの」(二部輪唱曲・三部輪唱曲 (管弦)明治天皇)、「かりうど」(三部輪唱曲 北原白秋)、「雀のお宿」(三部輪唱曲 北原白秋)、「うらうらと」(女声二部合唱 賀茂真淵)、「すみれ」(女声三部合唱 良寛)、「ほろほろと」(女声三部合唱 行基)、「敷島の」(混声四部合唱 本居宣長)、「見ようるわしく」(混声四部合唱 島崎藤村)、「秋田おばこ」(混声四部合唱 秋田民謡)、「庄内おばこ」(混声四部合唱 山形民謡)、「秋田県民歌」(混声四部合唱)、「望郷の歌」(吉丸一昌)、「古戦場の秋」(葛原しげる)、「木の洞」(三木露風)、「昼と夜と」(三木露風)、「波の上の月」(三木露風)など。「浜辺の歌」は混声四部合唱にもなっている。
 著書に『初めて学ぶ人の対位法 及びその作曲法』『対位法』『対位法の基礎』『和声学』『和声学の基礎』『楽式論』『楽器編成法』『童謡の起源』などがある。 (註)
   参考文献
    ・細川修平監修『日本の作曲家』(日外アソシエーツ)2008年6月発行。
    ・『浜辺の歌音楽館』公式ガイドブック(2008年)

  【歌碑について】
 秋田県北秋田市米内沢字寺の下の生家跡に『浜辺の歌音楽館』(1988年完成)があります。
 旧米内沢小学校校庭に設置した「浜辺の歌」の歌碑は、現在は『浜辺の歌音楽館』敷地内に移設。
  (右の写真参照)
  ●『浜辺の歌音楽館』公式ガイドブックには、この歌碑の記載がありません。

 十和田市民センター前庭・旧毛馬内小学校跡に平成十七年八月二十一日、「浜辺の歌」歌碑が建立されました。

  【原詩「はまべ」について】
  ●井上隆明編著『秋田のうたと音楽家』(秋田文化出版)156ページに“「音楽」四巻八号(大正二年八月刊。創刊明治四十三年一月)に林古渓の詩「浜べ」が載った。”と書いてあるが、既に資料のとおり、「浜べ」は間違いで、タイトルは平仮名で「はまべ」が正しい。著者本人に、電話で間違いを確認しました。「原詩は見ていない」との事でした(1987年12月)。
  ●藍川由美著『これでいいのか、にっぽんのうた』(文藝春秋)掲載の《はまべ》は、原詩と違うものです。
  ●星野辰之著『歌碑を訪ねて 日本のうた唱歌ものがたり』(新風舎 2004年)掲載の「はまべ」も、残念ながら三番が原詩と違います。
 ここに初めて「はまべ」の原詩と解説を公開します。(2009年6月12日)

 【映画『二十四の瞳』で「浜辺の歌」を聞く】 
 木下恵介脚本・監督の映画『二十四の瞳』(松竹、1954年)で、小豆島の小学生の修学旅行の船上で、大石先生(高峰秀子)がクラスで一番歌のうまい女の子を指名して歌わせるシーン があります。その子マスノは、すぐに無伴奏で「浜辺の歌」を歌い出します。きれいな声で、音程がしっかりしています。私、池田小百合は、これほど感動する「浜辺の歌」を聴いた事がありませんでした。このマスノを演じたのは石井シサ子(岬の分教場時代のマスノは、シサ子の妹・石井裕子が演じています)。ぜひ、皆さんも映画『二十四の瞳』を見 て、この心に響く「浜辺の歌」を聴いてみてください。
 映画では、その後、マスノは音楽学校での声楽の勉強を希望するのですが、親から反対されてしまいます。大石先生は家庭訪問をしますが、貧しい家庭の親の古い考え方を説得できず、夢はかなえられませんでした。

 【林光編曲の「浜辺の歌」】
 林光編『日本抒情歌曲集』(全音)全三集の第一集に「浜辺の歌」が掲載されている。原調の変イ長調(As Dur)で、混声四部合唱に編曲してある。初版は「はやちたちまち 波をふき~」だったが、途中で改訂され、一番・二番・そしてもう一度一番の歌詞を繰り返し歌うようになっている。林光らしい美しい編曲になっていて、すばらしい。合唱団の人は必見です。最近では、平成二十五年九月二十二日に『三十五周年記念 札幌放送合唱団OB会 思い出の名曲コンサート』(札幌サンプラザ)で演奏された。

 【後記】
  次女に『浜辺の歌』の挿絵を描いてもらうように頼んだ。すると、すぐに着物の女性を描いて持って来て言った。「竹久夢二の描いた女の人は、足を捻挫しているよ」(1996年2月)。
  セノオ楽譜『浜辺の歌』の挿絵をよく見ると、本当に足の描き方がおかし い。「これは捻挫だ」という娘の言葉を夢二が聞いたら、さぞ驚くことだろう。

著者より引用及び著作権についてお願い】   ≪著者・池田小百合≫


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