雋達(しゅんたつ)天保12年(1841年)〜大正2年(1913年)

  博洋の第三子として江戸で生まれた。幼名は新緑、後に俊達また雋達と改めた。6歳の時、父博洋に従って帰国の途中、母を亡くしている。後に大阪に出て緒方洪庵の門に入り、蘭学及び医学を修めた。長崎にも赴き、ボードウィンとポンペから 西洋医学を学んだ。長崎留学数年の後、再び大阪に行き中江篤介についてフラン ス語を勉強した。この時、ボードウィンとポンペが大阪病院に招聘されており、再び 彼らから医学を学んでいる。 明治4年(廃藩置県の年)に杵築に戻った。

  明治12年7月大分県立医学校が創立され、雋達は副院長兼副校長に任命された。そのため一家は大分町転住となる。3年間の契約任期が終わって杵築に帰った。速見郡医師会が創立されて初代医師会会長となる。明治14年県下初めての医学 雑誌「硯田医報」を発刊。県下で雋達に学んだ者は多く、「豊後西洋医学の恩師」と された。明治41年隠居。大正2年73歳で死去。

 

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