私の記憶の中のDavid先生 (2008/02/08) 今日、2月8日はDavid先生の命日です。あれから1年たちました。先生のことをみんなに知ってもらうために、文章にして残さなきゃと思いながらも、未だに先生のことを考えるといろんな思いや思い出が涙と一緒になってあふれでて、できませんでした。ちょうど一年たった今日を節目にするために、私の知っているDavid先生のことを書きつづりたいと思います。私がもし明日死んでしまっても、いつか広島で先生を直接知っていた人がいなくなっても、広島のサルサ界にDavid先生が生き続けていてほしいと願いながら。 David先生との最初の出会いは2000年の5月のLAで開催されたWest Coast Salsa Congressです。詳しくはかずちゃんのブログに書かれています。積極的で行動派で誰とでもすぐ仲良くなるかずちゃんと、器がおっきくて、これまた行動派でフレンドリーなDavid先生はすぐに意気投合。そこからすべては始まりました。まずは、David先生主催のStarlite Dance Studioの男の子だけのシャインチームHeart Break Boyzと、私たち女性だけのシャインチームMARSのジャパンサルサコングレスでの共演です。これはStarlite Dance Studioのこどもたちの発表会でパフォーマンスされた振り付け(曲はオルケスタ・デ・ラ・のマンボ・デ・ラ・ルス)をビデオで送ってもらい、ボーイズはボーイズで練習し、私たちは私たちで練習し、本番直前に合わせるという、まさに離れ技。今当時のビデオをみると、恥ずかしくなるくらいできてないのに、先生はすごいほめてくれました。先生もきっと私たちができないなりに必死でがんばったのがわかり、うれしかったのだと思います。本番はボルテージの高さで成功(?)といった感じです。振り付けの中で、「アースーカール!」といいながら女性が前へ出ていくシーンで、会場でおきたどよめきを忘れることができません。サルサについてほとんど知らないのに、NYのほんものになにか触れたような気がしました。その後LAのWest Coast Salsa Congressでの再共演も決まり、私たちの女性シャインチームも先生によって”Salsa Sunrize”と改名されました。さらに、その後も私たち用にシャインのパフォーマンスの振りを送ってくれたり、ファシナシオンラティーナにペアのパフォーマンスの振りを送ってくれたり、ヒロシマ・ラバー・ボーイズと命名された男性のシャインチームとStarlite Dance Studioのこどもの男の子のシャインチームJr. Heart Break Boyzとの共演を実現させてくれたりしました。ある時、私は先生に「なんでそんなに、わたしたちに振りをくれたり、よくしてくれるん?」とききました。先生は「きみらはがんばってかえしてくれるから。」と答えました。大げさな言い方かもしれませんが、お互いがお互いの夢だったり、希望だったり、はげみだったのだと思います。 先生は2001年からNYでコングレスを開き始めました。その年から毎年、広島からちょっとした団体で、コングレスのある時期にNYに行くようになりました。最初の2回は街からずいぶん離れた山の奥のホテルでありました。最初だから仕方ないかもしれませんが、決してうまくオーガナイズがされていたわけではありませんでした。迎えのバスは何時間も遅れてくるし、パフォーマンスの日がいきなり変わったりしてるし、それでもそこまでいらいらせずに、なーんとなく楽しくやれたのは、器のおっきい先生がいつもどーんと構えてくれて、そのポジティブオーラが、私たちお客さんみんなを包んでくれたからかもしれません。そしてコングレスはその次の年からはマンハッタンの街中で行われるようになりました。サルサの本場NYで行われるサルサコングレスなのに、なんだかアットホームな雰囲気でいっぱい。Starlite Dance Studioのこどもたちが夜遅くまでコングレスを楽しみうろちょろし、親たちがスタッフとして動き回り、こどもたちのパフォーマンスのときには、とびっきりの大歓声をあげる。そんな光景を毎年見てきました。そして、司会で声もかれ、体もぐったりと疲れ切った先生が、かずちゃんが売っているダンスシューズのブースにきては座り込み、かずちゃんやほかの通り過ぎていく人たちとしゃべり、広島ガールズからマッサージをしてもらっているという光景がお約束のように毎年見られました。先生のまわりにはいつも人が集まりました。誰もが、「Davidとしゃべりたいな、そばにいってみたいな」と思い、David先生は誰もをおっきなあったかい笑顔で受け入れてくれました。 先生は実は日本に5回来ています。広島にも2回来ています。Heart Break Boyzと私たちが共演した2000年ジャパンサルサコングレスのあとに広島にきたのが最初で、2回目は次郎さんとさとちゃんの結婚式でした。日本で、日本人の結婚式に出席するなんて、なかなかできる経験ではありません。2人を祝う気持ちはもちろんのこと、それプラス、先生はいろんなことを経験したかったんだと思います。先生の滞在は計4日。楽しんでもらうために、結婚式の次の日は上口さんちの前で満開の桜の下でお花見をしました。大勢で料理を持ち寄り、わいわいと楽しみ、その後上口邸でビデオ観賞音楽鑑賞おしゃべり三昧。先生はこの日のことをずっとあとになっても「あれはたのしかったー。ファミリーみたいだった。」といっていました。 先生は私たちが出会った時にはすでにがんと闘い始めていました。でも会うといつもにこにこ。脚を切るかもしれない恐怖や、治療の痛さ、苦しさ、つらさ。それを人には決してみせませんでした。がんはいったん進行が止まり、私はまるでもうがんなんてなおってしまったかのように思っていたのに、2005年に再発。化学療法を始める直前に、5回目の来日をしました。そのとき、何にもわかっていない私に化学療法について説明をしてくれました。「注射をして、癌細胞を殺すんだけど、これをすることによって、いい細胞も殺してしまうんだ。ものすごい吐き気と気分の悪さが続き、副作用で、前の時は髪が白くなったけど、今度は髪が抜けるかもしれない。まあ、次回あったときに髪がなかったら抜けたってことだよ。生きるために、やらなくちゃいけないことだからね。」なんて強い人なんだろうと思いました。 先生は決してパーフェクトな人間ではありませんでした。(そしてパーフェクトになろうとも別に思ってなかったと思います。)野菜は食べないし、水のかわりにコーラばかり飲むし、車にあったごみを道に捨てて警察に怒られるし。。。でも先生が教えてくれたことは山程あります。まず助けが必要な人には手を差し伸べるということです。サルサが大好きな私たち、でも習う術がほとんどなかった時に、振りをくれることによって習う機会を与えてくれました。ある年はNYコングレス後にNY にもうしばらく滞在する私たちが、少しでもお金をセーブできるようにおうちに泊まらしてくれました。次の年はハリケーンカトリーナの被害で自分たちの街に戻れなくなってしまったカップルをずっとずっと泊めてあげていました。よく先生は話してる人の横で手話のまねをして笑いをとろうとしました。私はそういうのはあんまり好きではなかったけれど、これはDavid先生だから許されるのかもと思いました。なぜならば、もし手話を必要とする人たちが困っていたら、いちばんにすっと優しく手をさしのべるのはきっと先生だからです。それから人との出会いを大切にすることも学びました。先生はいつでもGentleman。例えば、コンビニでおばちゃんが何か物を落としたら、すぐに「落としましたよ」って拾っていつもと変わらぬ微笑みでわたしてあげる。ちょっとかわっとるなーっていう感じの人が先生にしつこく話しかけてもちゃんと目を見て話をきき、答える。当たり前のようで、なかなかできないことを先生はふつうにやっていました。それから他にはThink Positiveということを教えてもらいました。人をねたんだりうらんだり、病気に悲しみふさぎこむのではなく、その状況の中で、楽しめること、次の楽しみにつながることをみつけるのです。言葉でいわれただけだったらきれいごとにしか思えないかもしれないけれど、どん底の状況にあるはずの先生がいつも前向きに楽しく人生を生きてる姿にいつも映し出されていたことだから、私には生きていく上での現実的なコツなのです。 そして、なによりも大切なこと、死は簡単にやってくるということ。人生はいつかは終ってしまう。それが長いか短いか誰にもわからないけれど、もしかしたら明日、いや、次の瞬間やってくるかもしれないけど、その限りあるなかで、きらきら生きる。後悔ないように生きる。自分の人生を生きる。次につづく命のために生きる。 先生が私たちにしてくれたこと、私はちょっとずつほかの人にすることで恩返しをしたいです。そして、そうすることは、私を通じてたくさんの人の中に先生が生き続けていくってことなんだと思います。先生見とってね。 2008年2月8日 ともえ |