絶望の交響曲


MOZART:Symphony No 40 in G miner,K550


   1.allegro molto  あてなき旅へ

 石材屋の職人が墓石に向かって一礼し、納骨は終わった。
 僧侶も神官も、牧師もいない。私ひとりだけの埋葬の儀式であった。12月の冷たい風が、容赦なく体温を奪っていった。
 母との別れであった。悲しさはなく、空しさだけが胸に広がっていた。

 高熱を発し、それから5日ほど寝込んだ。6日目に、まだ微熱が残っていたが、床を上げた。この間、ほとんど何も口にしなかったので、ふらついて立ち上がるのに苦労した。
 いつまでも寝ているわけには行かない。調度類を除いて、生活用品はすべて処分を終わっていた。冷蔵庫の電源を抜き、食料品はすべて廃棄済みであった。
 布団を片付けてしまうと、がらんとした部屋は、すぐに冷え込んだ。

 凍りつくような冷たさを足裏に感じながら、家中を最後の点検に回った。ガスや水道の元栓を締め、電気のブレーカーを切って、すべてが終わった。
 この家に、もう戻るつもりはなかった。

 身の回りのものだけ車に積みこみ、イグニッションをまわす。
 暫く使っていなかった車だが、すぐに静かなエンジン音を響かせた。
 行くあてはなかった。「北へ行こう」とだけ決めていた。
 住み慣れた町、喜びも悲しみも、すべてを見守ってくれた我が家、それらがルームミラーに映り、やがて消えた。

 ポストに2通の手紙を放りこんで、すべてが終わった。2人の娘にあてた別れの手紙であった。自ら生命を絶つ意思はない。むしろ新しい人生を探すつもりであった。
 知らない町で、知らない人達に囲まれて、残された人生を過ごしたい。それが目標であった。それは容易なことではない。それどころか、食い詰めてしまうことが十分に予想できた。
 それもよかろう、と自分に言い聞かせていた。

 かつて夢があった。実現の可能性もあった。いや、半ば実現しかけていた。しかしそれは、母のアルツハイマーの発症と共にあっさりと消えてしまった。何も問題がないと思っていた妻との間にきしみが生じ、15年の結婚生活はあっさりと崩れ去った。
 妻が娘たちを連れて去った日から、地獄が始まった。


   2.andante  過ぎ去りし日々


 『開発部長職を解く』『取締役に任じ、開発担当を委嘱する』2通の辞令が私の手元に届けられ、同時に社内に掲示された。当時、37歳であった。
 翌日の業界新聞もこれを報じ、『大抜擢人事の意図』を、紙面を大きく割いて分析した。『業界のプリンス誕生』とまで書いたものもあった。

 半年後には、平取締役のまま常務会へ出席するようになった。常勤取締14名の序列では末席であったが、事実上、社長、専務、常務二人に次ぐ、ナンバー5であった。
 『駅弁大学』と称された地方の大学を卒業し、なんの縁故もなく入社。平凡に社内恋愛のすえ結婚。まさに平凡なサラリーマン生活を続けていた私が、急に注目されるようになったのは、たまたまかなりの額の投資を続けたまま暗礁に乗り上げていたプロジェクトを発掘し、一気に完成させ、成功させたことによる。

 私自身もこの成功に自信を持ち、将来の展望が大きく開けるのを感じた。

 会社の内外で、私は、畏敬の目で見られた。
 ひとつひとつの発言が注目され、社長ですら呼び捨てから『君』づけへ、さらに『さん』づけに呼び方をかえた。

 『役員としての体面』と言うことで家を買い、社宅を出た。
 妻は狂喜した。考えても見なかった夫の昇進。狭くとも庭付きの家。サラリーマンの妻なら誰でも夢見るふたつが、一度に実現したのだ。喜びの深さは尋常ではなかった。
 狭い社宅で、夫婦に二人の娘、それに私の母も一緒に住んでいた。母はおとなしい人だったから、妻と面と向かって衝突することはなかったが、妻にとってはやはり気重い存在であったようだ。

 新しい家では、母はもちろん、娘たちも一部屋ずつ与えられた。
 家を買うために貯金をはたき、その上気の遠くなるような借金も出来たが、明るく希望に満ちた家庭がスタートしたことは間違いなかった。

 幸せな日々が数年続いた。
 私には、筆頭常務への昇進の内示があり、行く手はさらに明るいものになっていた。
 が、この時、私を支えるはずの家庭内に、暗い影が差し始めていた。


   3.minuet allegretto  涙のワルツ


 母の奇矯な言動が目立ち始めた。
 始めの内は、物忘れや勘違いの域を出ないようなものだったが、すぐに家庭の平穏を乱す事態へと進んで行った。アルツハイマーの始まりであったが、この時はまだ、家族全員に余裕があった。

 ある夜、玄関に小さな音を残して、母の姿が消えた。
 夜を徹して、妻と二人で探しまわった。もちろん警察にも届け出た。明け方になって、遠く離れた町の警察署に、母は保護された。連絡を受け迎えに行った私たちに、冷たい目で妻を見つめて母は言った。
 「私、この人、嫌い!」

 何事にも笑顔を絶やさず、おとなしかった母が初めて明かした心の声であった。妻は、なにも言わなかったが、その悔しさ、情けない思いは私の心にも伝わっていた。
 そして、どちらの思いに対しても、私はどう答えることも出来なかった。

 母の深夜の徘徊が続いた。
 二度目からは、こちらに準備があったので、警察のお世話になるようなことはなかったが、毎夜のことであったため、夫婦とも疲労の極に達した。
 そしてある夜、母は玄関先で転倒し入院した。右大腿骨の骨頭部が折れていた。

 母が入院して、皮肉にも我が家の平穏がよみがえった。
 しかし、いつのまにか夫婦の間に亀裂が出来つつあった。久しぶりに、ほんとうに久しぶりに妻に優しくしてみたが、喜びに達することはできなかった。砂を噛むような思いが残り、何かが終ったように感じた。

 仕事の方は、とりあえず順調であった。
 が、仕事というものは常に緊張状態を要求する。仕事に賭ける男にとって、最も打撃となり、かつ解決が難しいのは、家庭内の問題である。実際、私の仕事に小さなミスが出始めていた。
 そのミスは、秘書がさりげなくカバーしてくれていた。

 家庭内の問題をかたずけねばならなかった。
 そのためには、最近ほとんど日常の会話すら途絶えた妻との関係の修復を図らねばならない。
 ある夜、時間を割いて外で食事をし、結婚前後によく行ったナイトクラブへ誘った。

 ここで踊りながら結婚を申し込み、応諾を得た。
 ここで踊りながら将来の夢を語り合った。
 ここで踊りながら子供が出来たことを打ち明けられた。

 しかしこの夜、ここで踊りながら、妻は涙を浮かべ、別れの意思を告げた。
 疲れ果て、病んだ心が目もとの小じわに浮かんでいた。
 「あなたのせいじゃない。でも、他に道がないの」


   4.allegro assai  追い詰められて


 母は、『寝たきり』になって戻ってきた。加えて痴呆症状がずっと進行していた。入院中、毎日、身の回りの世話に通った妻に、母はつらく当たっていたらしい。帰ってきてから、その現実を見て、私は妻に言うべき言葉を見出せなかった。

 妻は娘達と共に去った。
 広い家に、母と二人だけになった。

 寝たきり老人の介護問題について、私は新聞等である程度の知識があった。しかし現実は、生易しいものではなかった。
 炊事洗濯、清掃といった一般的家事に加えて、オムツの交換を始めとする、介護の仕事は凄まじい激務であった。
 私は事情を説明し、休暇を求めた。社長は不快な表情で応諾した。
 出来る限り短期間でこの問題を解決し、仕事に復帰しなければならない。

 病院は、あらゆる伝を求めて探したが、「病気ではない」ために受け入れを拒否された。
 公的施設は、近くに住む民生委員も心配して奔走してくれたが、私のようなケースは、法の外側にあって、どうにもならなかった。
 民間の施設は、ほとんどが完全介護を要する老人は受け入れなかった。

 なんとかなりそうなところもあったが、数千万円の前納金と、月々数十万円の費用負担は、私にはとうてい無理であった。
 一時的に家政婦を雇ってみたが、費用の点、寝たきり老人の介護労働が加わる点などで、長期間、安定して家政婦を雇うことは不可能であった。
 何よりも肝心の老母が、家政婦の介護に抵抗し、事態をいっそうむづかしいものにした。

 万策がつき、私は、20年勤務した会社を退職した。
 退職金は、役員になったとき、従業員時代の分を受け取ってしまっていたから、ごくわずかなものであった。

 私は、母の介護に当てる時間が取れる仕事を探した。そんな都合のよい仕事が、おいそれと転がっているわけはなかった。
 それから9年、なんの希望もない、ただ生きるだけの日々が続いた。
 それは地獄だった。
 なによりも地獄を感じたのは、自ら動くことの出来ない母を憎む心が私の中に芽生えたことだった。

 木枯らしが吹きすさぶ寒い日、母は逝った。
 寝酒を過ごし、寝過ごした朝だった。
 暗いうちからいつも騒がしい母の寝室が静かだった。

 すべて終わったことを知った。
 すべてを失い、絶望だけが残された。

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