紅 の 糸


  1st contact 澱みの中で

 「こんなこと、してちゃいけない」
 恵利子の胸に、そんな思いが湧き上がった。いつものことだった。
 だが、パチンコ台に向かい、すさまじい喧騒の中で踊る銀球を見つめるひと時は、恵利子にとっていちばん落ち着ける時間ではあった。
 クィーン、クィーン、クィーン……
 耳障りな、だが今の恵利子には天国の扉の軋みにも似た音が響き、銀色の鉄球が次々と中央の穴に吸い込まれていった。
 「来た! やっと来た!」
 叫びたい衝動に駆られた。これで何日か食いつなぐことができる。これで娘の由紀子におもちゃを買える。これで夫に殴られずに済む……
 さまざまな思いが、銀球とともに踊った。

 恵利子はスナックのホステスをしている。
 国立の女子大を卒業した才媛だから、ほかにも仕事はありそうだったが、学生時代に知り合った小説家志望の青年と一緒になってから、少しずつ恵利子の人生は思っていたのとは別の方角に進んだ。

 2時間ほど前、恵利子は、自分に好意があると思えるスナックの客を近くの喫茶店に呼び出して借金を申し込んだ。
 「実家の父が倒れたんです。母ひとりで、困ってるんです。3万円、いえ2万円でいいんです。青森までの電車賃、貸してください。お給料日に必ず返しますから……」
 恵利子の「実家」は福島で、青森には親戚もない。父は、7年程前に死んだし、母は、後始末を終えてすぐに、この東京に住む兄に引き取られた。ほかに家族はいないから、福島にも「実家」はない。

 「急にそういわれてもね、あまり持ち合わせがないから……」
 客は鼻白み、それでも「返さなくていいよ」と5千円ほどを投げ出すように置いて立ち去った。コーヒー代を払ってゆかなかったので、その分を差し引いたら恵利子の手元には4千円ほどしか残らなかった。
 思ったより少額だったが、恵利子に不満はなかった。それよりも、こういうミエミエのうそをついて小銭をせしめている自分がいやだった。

 喫茶店を出て、客の目に触れないように表に待たせておいた娘の由紀子を探す。由紀子は、通りの向かいのおもちゃ屋のショーウインドーにへばりついていた。なにかおもちゃを買ってやりたかったが、4千円ではそのゆとりがない。
 昨夜から何も食べていなかった。今は空腹を満たす方を優先させねばならない。
 「いつまでこんなことを続ければいいんだろう……」
 湧き上がる思いを押さえつけながら、由紀子の手を強く引いて、恵利子は行きつけのパチンコ屋に急いだ。
 パチンコ屋の裏手にある立ち食い蕎麦屋で、二人でてんぷら蕎麦といなり寿司を食べた。これで持ち金は3千円ほどになった。
 「ちょっと、ここで遊んでいてね」
 由紀子を駐車場のベンチに残し、恵利子はパチンコ屋に入っていった。いつものことだった……

 資金3千円では心もとなかった。せめて1万円は欲しいと思っていたが、今日はツイていた。
 足元に積み上げた「ドル箱」は、ざっと数えて4万円ほどになっている。
 「もう一息!」
 はじめは3千円を「少しでも増やしたい」と思っていたが、欲が次第に膨らんで、今は「5万円」を目指していた。
 いつもなら、もうスッカラカンになって、自虐の思いに駆られながら由紀子の手を引いて家路についているところだ。家に帰り、化粧をして、お店に出勤しなければならない。だが……
 「5万円できれば、今日はお店を休んでもいい」
 そう思っていた。
 店員が新しいドル箱を持ってきた。
 たまっていた銀球を箱に移しながら入り口に目をやると、由紀子が自動ドアに身体をぶつけるようにして入ってくるところだった。
 ひとり遊びに疲れたのだろうか、ちょっとふらついているように見えた。
 「ごめんね、ゆっこ。なにかおもちゃ、買ってあげるからね」
 心のなかでそうつぶやいた……

 ふらりふらり、左右のストールやパチンコに熱中する客の尻にぶつかりながら、それでも由紀子の目は確実に母親を捉えていた。すがりつくような眼差しだった。
 「おかあちゃん」
 恵利子のもとにたどり着いて、由紀子の手が母親の膝に巻きつく。
 「ごめんね、ゆっこ。もうすぐ済むからね」
 「おかあ……」
 小さな声で再び呼びかけようとして、しかしその声はか細く消え入り、膝にかけた手は力なく母親の膝からすべりおちた。

 由紀子はそのまま床に倒れ込んだ。
 薄く開いた目に、すでに生気はなかった。
 恵利子の絶叫がパチンコ屋の喧騒を引き裂いた。

 救急車が呼ばれたが、由紀子はすでに死んでいた。
 店は閉店し、廃墟のような静寂につつまれた。
 制服、私服の警察官が店の内外を動き回っていた。
 なにが起こったのか、恵利子にはわからなかった。
 「おかあちゃん」
 ゆっこのかぼそい声が、しかし恵利子の耳にはには割れ鐘のように響きつづけた。

 由紀子は、駐車場で交通事故にあったものと推測された。
 自動車にはねられ、車止めのコンクリートブロックに頭をぶつけたようだった。ほとんど痕跡はなかった。由紀子がいつも持っていた小さなウサギのぬいぐるみが発見され、その付近の車止めにわずかな血痕と毛髪が残っていた。
 「頭蓋骨陥没骨折、脳挫創」
 後の司法解剖によって、由紀子の死因はそう解明された。
 瀕死の重傷を負った由紀子は、最後の力を振り絞って母親の膝を求めたのだった。
 加害者ならびに加害車両は特定できなかった。
 警察は、ひき逃げ事故として捜査を開始したが、遺留物、痕跡等があまりにも乏しく、目撃証言も得られなかった。
 わずかに、当該駐車スペースに「バンが駐まっていた」という聞き込みを得ただけだった。もっとも、これも「小型トラックだった」という証言もあり、捜査の難航が予想された。

 「保護責任、という問題もあってね、あなたはただの被害者の遺族、というわけではないんです。詳しく事情を聞かせていただきますよ」
 最後まで「ゆっこの傍にいたい」という母の願いに捜査員はそう応え、恵利子は警察署に連れて行かれた。

 「旦那さん、来ないねえ」
 深夜にまで及んだ事情聴取が終わって、恵利子は身元引受人がいることを条件に帰宅を許された。しかし、その身元引受人となるべき彼、内縁の夫がいつまで待っても出頭して来なかった。
 結局、恵利子は警察署に泊まることになった。
 保護責任は、刑事事件として立件できるほど重い責任だが、恵利子の場合は身柄を拘束され、留置されたわけではなかった。「万一、自殺でもされたら……」という配慮からであった。

 「おかあちゃん」
 ゆっこの絶え入るような声が、繰り返し闇の中にこだましていた



    2nd contact 奔流の行方


 「かわいそうになあ、俺、泣いちゃったよ」
 「だけどなあ、4歳の子供をほっぽり出してパチンコやってる母親ってのも許せねえな」
 「許せねえのは、ひき逃げしたヤツだよ。すぐ救急車呼べば、助かったかも知れねえだろ」
 「とかいっちゃって、おめえじゃねえのか? あのパチンコ屋はおめえたち守口チームが工事したんだろ? 縁がねえわけじゃねえ」
 「馬鹿いうな。昨日は休みだからって、昼間っからおめえんちでビール飲んでたじゃねえか。俺、酒弱いから寝ちゃっただろ? あ! 俺が寝てる間におめえがやったんじゃねえか? 飲酒運転、ひき逃げじゃ助からねえよ。自首しな、俺、付き添ってやるからよ」
 「この野郎、人に無実の罪を押し付ける気でいやがる」
 「あははは……」

 昼食をとりながらの、若い下職たちのにぎやかなおしゃべりに、守口達夫はハッとした。
 昨日、そのパチンコ屋に行った。
 パチンコをしにいったわけではない。
 会社は休業日だったが、緊急の仕事で呼び出され、現場へ向かう途中だった。
 トイレの欲求が強まったため、仕事上、勝手のわかっているあのパチンコ屋に立ち寄ったものだ。
 トイレを済ませて駐車場に戻り、工事用の道具類を積んだバンを発進させた。狭い駐車場で、その上ほとんど満車状態だったため、駐車スペースから出るのに2度ほど切り返しが必要だった。
 2度目にバックした際、後部に軽い接触感があった。
 車を降りて後部に回ってみると、4〜5歳の女の子が立っていた。間違いなく立っていた。
 見たところ、怪我をしている様子はなかった。車のほうにも傷痕はなかった。

 「車にぶつかったの? 大丈夫?」
 守口が問うと、女の子はうなずいてから、パチンコ屋の入り口の方へ歩いていった。
 大丈夫そうだったが、近くに親がいるだろうから、女の子と一緒に行って、とりあえず挨拶だけしておこうか、とも思った。警察に連絡しようかとも思った。
 が、仕事先へ急ぐ気持ちから、結局「まあ、いいか」と思ってしまった。

 下職たちの話題は、どうやらこの件に関係がありそうだった。
 食事が済んで下職たちの去っていった後に新聞が残されていた。いまの話題は、その新聞の記事に端を発していたようだった。

 「ひき逃げ? 4歳女児、不審死  母親はパチンコ中」
 大きくはないが、そういう見出しの記事があった。
 「女児は、重傷を負っていたにもかかわらず、約40メートル、パチンコ中の母親のもとまで歩き、昏倒、死亡した、と推測されている…… 警察は、ひき逃げの疑いが強いとして、引き続き物証の発見と付近の聞き込みを重点に捜査に全力をあげている」

 死んだ?
 軽い接触程度で、怪我はほとんどなかった、と思ったが……
 守口達夫は、会社を早退し、あのパチンコ屋に行った。
 パチンコ屋は休業し、駐車場全域に黄色いテープがめぐらしてあった。
 背中に「警視庁」と書かれたスタジャンを着た男たちが数人いた。そのうちの二人が、あの駐車スペース付近にかがみこんでいた。
 「間違いない。ひき逃げの犯人は俺だっ!」
 脳裏にあの女の子の顔が鮮明に浮かび上がった。不安げな目をしていた。
 その目が、達夫に何かを訴えていた。
 守口達夫は、自分の人生が消えたのを悟った。

 まじめで朴訥な男だった。
 守口達夫は、山形県の海辺の村で生まれ育った。
 20年程前、中学卒業と同時に、集団就職で東京にきた。10人ほどが同じ会社に就職したが、5年もしないうちに仲間たちは会社を去っていった。
 転職をした友人が「楽だし給料も高い」と誘いに来たが、達夫は会社を辞める気はなかった。この会社が好きだったわけでも、この仕事が自分に向いていると思っていたわけでもない。新しい仕事に就けばまた一から仕事を覚えなおさねばならない。自分はそういうことが器用に出来る人間ではない、と思っていただけだった。
 それに、集団就職の条件として、定時制、つまり夜学だが、高等学校に通うことが出来た。
 転職した仲間たちは次第に教室に姿を見せなくなったが、達夫は、本来4年の課程を5年かかったものの、卒業することが出来た。

 その後、仕事の合間を見て独学で、2級建築士をはじめ、いくつかの国家資格も取得した。
 そして現在は、誰にも言わなかったが、通信教育の大学に入学し、さらに高度な勉学に取り組んでいた。

 「なぜ勉強するのか?」
 「ほかにすることがないから」
 それが守口達夫の考え方だった。
 会社は、こういう守口達夫の人間性を認めていた。
 派手さはないが、じっくりと仕事を仕上げる堅実さを評価し、通常高卒では就くことのない職制に引き上げた。仕事は忙しくなったが、給料も上がった。

 ほとんどひまさえあれば本を読み、勉強をしていたので、守口達夫の交際範囲は狭く、それも男社会の建築現場中心だったので、女友達が出来ず、35歳の今日まで独身であった。
 結婚をして家庭を持ちたいという願望がなかったわけではないが、現実にそういう相手が現れないのだから仕方がなかった。

 こういう人生に、しかし、守口達夫は不満はなかった。
 その人生がいま、思いもかけず「ひき逃げ犯」という立場になって崩れ去ろうとしていた。

 新聞によれば、証拠はほとんど無い、ということだった。
 このまま、知らん顔をしていることも出来そうだった。実際、一瞬だが、守口達夫はそうも考えた。
 まじめに、静かな生活を送っていた男が、突然、犯罪者という顔を見せたら彼を知る人々はどう思うだろうか。
 会社は…… 同僚や数少ない友人たちは…… その他の生活範囲の知人たちは…… そしてなによりも、すでに老境に入って田舎でひっそりと過ごしている両親は…… 兄弟たちは……

 女の子の顔が浮かんだ。
 不安げな眼差しで達夫を見つめていた。


 ひき逃げの犯人が出頭、逮捕されたことが、警察から恵利子に伝えられた。
 本人の自供が現場の状況と一致し、車の後部から由紀子のものと一致する毛髪が発見された、という。
 「加害者の顔を見ますか?」
 直接、面会は出来ないが、希望するならそれとなく顔を見せる、と電話口の警察官が言ったが、恵利子は断った。
 ゆっこを殺した男は憎い。会って面罵したい思いはある。
 だが、ひき逃げをするような卑怯で悪辣な男の顔を見て憎しみを増幅させたからといって、どうなるものでもない。

 恵利子にはもうひとり、憎しみの対象があった。
 加害者を憎めば憎むほど、もうひとりに対する憎しみが膨れ上がる。
 「おかあちゃん」
 ゆっこが痛みと苦しみからの癒しを求めた母親、なにもしてやれなかった母親…… 自分が一緒にいれば、ゆっこは事故にあわなかった……
 あの時、自分は何をしていたか…… そんな母親でもゆっこは最後のよりどころにしてくれた。
 憎んで余りあるのは自分自身であった。

 かわいそうなゆっこ。
 事故で痛い目にあったのに、死んでからも司法解剖とかで切り刻まれた。
 そんな目にあわせたすべての責任は自分にあった。


   3rd contact 源流を求めて


 「毎度ありがとうございます。お会計、4点で6,240円です」
 財布を探っていた男の手が止まった。
 「……すみません。これ、取り消してもらえませんか?」
 金が不足したようだった。おずおずと、カウンターに積み上げた4冊の中から1冊の本を抜き出して男が言った。
 恵利子はレジを操作して、その1冊分を差し引いた。
 紙袋に詰められた本を抱えて、男は店を出て行った。
 いつも難しい本を買ってゆく、その男の背中は寂しげだった。


 警察の聴取を終えた恵理子を、身元引受人になるはずの「内縁の夫」はついに迎えにこなかった。
 後でわかったことだが、このとき「内縁の夫」は、恵利子の勤務先のママさんにしつこく食い下がって「恵利子の給料」の前借をせしめていた。そればかりでなく、翌日には、営業を再開したパチンコ屋に赴いて、恵利子が受け取ったはずの「景品」を回収したという。

 やむなく恵利子は、いちばん避けたかった兄を頼ることにした。
 新聞には、恵利子の名前は出ていなかったので、兄はこの事件を知らなかった。警察からの連絡に、「妹とは絶縁しているので……」と一旦は断ったが、老いた母の説得に負けて、兄は恵利子の身柄引き取りにやってきた。
 「みんなの反対を押し切って、自分で選んだ人生じゃなかったのか? パチンコにかまけて実の娘を死なせるなんて…… 結局、ロクな人生じゃなかったじゃないか!」
 家に着くなり、兄は、そういって恵利子を責めた。兄嫁はチラッと姿を見せただけで子供たちを促して消えた。

 「傷ついて頼ってきたものにそんなこと言ったらかわいそうでしょう。いまはそっといたわってやるのが身内じゃないかしら? 恵利子はいま、つらい思いに必死に耐えているのよ。どうして味方になってやれないの?」
 もともとおとなしくて、自分の考えを言わない母が、めずらしく兄に意見をした。
 「事の是非、善悪は関係ないのよ。苦しみの底にいるものにそっと手を差し伸べることで、人と人の世の中が出来上がるんじゃないかしら? まして身内ならなおのこと、他人が許さなくても、世界中が許さなくても、許して助けてあげなくちゃいけないんじゃないかしら」
 「おかあちゃん」
 ゆっこは傷ついて自分を頼ってきた。しかし自分は何もしてやれなかった。
 それと比べて・・・・・・
 自責の涙がとめどなく流れ、激しく老母の膝を濡らした。

 今後の身の振り方が決まるまで、恵利子は母の部屋に同居することになった。

 一週間ほど後になったが、兄が手配して、由紀子の葬儀が行われた。
 恵利子の「内縁の夫」、由紀子の父親は、葬儀がアパートの近くの寺で行われたにもかかわらず、ついに姿を見せなかった。
 その一週間の間に、彼は2度ほど恵利子を訪ねてきて、自分の元に戻るように懇願した。
 「やさしそうな人じゃない」
 初めて会う彼を、母はそう評した。
 そう、優しい人だった……

 小説家を目指す、という彼のよりどころは、学生時代、たまたまある文芸雑誌に投稿した作品が評価され、その年の新人賞の候補に「ノミネート」されたことだった。
 恵利子もこの作品を読んだ。荒削りだが、確かにきらめきがあった。そのきらめきが恵利子を彼との同居に踏み切らせたものだった。
 文学に深い興味を持っていた恵利子は、彼と共に歩む人生は、まさに自分の人生だと思った。目に見えぬ赤い糸が、彼との間に結ばれていると思った。

 後になって「新人賞候補」というのは彼が勝手に言い出したことだとわかったが、彼の可能性のとりこになっていた恵利子には、それはたいした問題ではなかった。
 文学賞というものは、通常、たくさんの「一次候補」の中から、まず編集者が5作ほどを選び出す。これを「候補作」といい、この中から審査委員により授賞作が選び出される。
 彼の作品は、「一次候補」に入っていたに過ぎなかった。

 彼は優しい男だった。
 人当たりがよく、あまり自己主張をしなかった。
 何事も恵利子に相談したし、恵利子の相談事には「君の思うとおりにしていいよ」と答えた。
 恵利子はそれを、彼の包容力であり、優しさであると考えていたが、実は自分では何も決められず、また結果に対して責任を負えない、ただの優柔不断な男でしかなかった。

 それがわかったからといって、彼との生活を清算する気は起きなかった。
 彼は「小説家」であり、その作品の中にこそ彼の本質のすべてがあると思ったからだ。
 しかし彼は、当初こそ原稿用紙に向かい、また同人誌の仲間に入って、創作を続けていたが、由紀子が生まれ、生活が厳しくなり始めてからは、ほとんどペンを持つことがなくなっていた。

 恵利子に暴力をふるうようになったのもこの頃からであった。
 タバコを切らしたといっては殴り、食事がまずいといっては殴った。
 恵利子はそれを、思うような作品のできない苦悩によるものと考えた。
 彼の愛は変わらない。愛は、恵利子との垣根を取り払い、一体化した。だから苦悩を、自分の半身である恵利子にぶつける…… そう考えて耐えた。

 しかし、恵利子の自虐的なその考え方が、この家庭をいっそうすさんだものしていることに、恵利子は気づかなかった。
 彼の暴力を理解したからといって、殴られれば痛い。痛みを避けるためには、彼の手の届く範囲に身をおかないことだった。
 必要がない限り家には居ない、それが解決方法だった。
 はじめは由紀子とともに付近の公園めぐりをしていたが、ちょうどこのころ同僚のホステスに誘われてパチンコを覚えた。適当に時間を費消し、投じた金には見合わないが由紀子に与える菓子くらいの景品は手に入る。
 その上、場合によっては思いもかけぬ現金を手にすることもできた。
 そしてなによりも、パチンコ屋の喧騒の中に居ると、嫌なこと苦しいことはすべて忘れることができた…… それが麻薬と同じで、一時的なものであったとしても。


 由紀子の葬儀に彼が現れなかったことで、恵利子は過去を清算すべき時が来たことを悟った。

 さんざん恵利子を責めながらも、兄は恵利子のために近くにアパートを借り、駅前の本屋の店員の口を見つけてきてくれた。
 本屋の仕事は思ったより重労働だった。一冊一冊は、ポケットに入るほどの重量でも、ダンボールに詰まった本は腰が抜けるほど重かった。
 給料も、スナックのホステスと比べるとはるかに安く、アパートの家賃を払うと、恵利子一人が食べてゆくのにやっとだった。
 だが、恵利子はこの仕事が気に入った。
 もともと本が好きだったこともあるが、朝から晩まで、余計なことを考えていられないほど忙しかったからだ。
 ただひとつの懸念は、将来、いつの日か「彼」の本がこの店の書棚に並ぶことがあったとしたら、ということであった。

 恵利子の新しい人生は、静かだった。
 半年ほど後、ひき逃げ犯が刑務所を出所したらしい、という風聞がもたらされたが、そのことは恵利子には関心はなかった。忘れようにも忘れられない、ゆっこの思い出がちょっと大きく膨らんだだけだった。


 年末近くになって、書店は一斉に、主婦向け雑誌の拡販に取り組む。
 店内販売が仕事の恵利子にもノルマが課せられ、外商の手伝いで家庭訪問に狩り出された。
 「こんにちは。駅前の○○書店です。毎度ありがとうございます」
 知らない家のドアを叩き、主婦を呼び出しては、家計簿つきの主婦雑誌新年号の予約を取るのである。総じて反応は冷たく、ドアを叩く手も鈍りがちだが、申込書の枚数が増えるにつれて、さまざまな家庭の実情が見えてくるようで面白くもあった。

 「あら、お客さんのお宅、こちらだったんですか?」
 こんなところでは売れまい、と思いながらも、町内を一軒残らず訪問しろ、という店長の指示に従って小さなアパートのドアを叩くと、あの、お金がないのに高い難しい本ばかり買ってゆく男が出てきた。
 「僕、独身だから、主婦雑誌は要らないなあ」
 来意を聞いて、男は頭を掻きながらそういった。若くはないが、仕草がなんとなくかわいいと感じた。
 「それより、安い百科事典て、ないかなあ。百科事典、欲しいんだけど高すぎて手が出ないんです」
 確かに、百科事典は高い。10冊から30冊以上のセットで、安いものでも十数万円、高いものは30万円を超える。店にもパンフレットがあるだけで、現物はない。恵利子はまだ1セットも売れたのを見たことがない。

 主婦雑誌以外の注文も受けろ、といわれていたので、恵利子は住所と名前をメモした。
 守口達夫…… どこかで聞いた名前だった。


   final contact  底知れぬ淵へ


 「十数万で、高いっていわれちゃねえ。いまどき小学生向けの学習百科事典だって十万近くするんだからね」
 店長は笑って言った。
 「でも、うちの上得意様なら何とかしなくちゃね。安いものはないけど、クレジットで毎月3千円ていう手がある。わかった。外商に回ってもらおう」

 数日後、恵利子は、守口達夫のクレジットが信販会社に拒否されたことを聞かされた。
 これは恵利子にも覚えがあった。
 お金のないものにとって信販会社による月賦販売は頼みの綱だが、かつての恵利子のように、夫はいわゆる自由業、自分はスナックのホステスという浮き草のような職業では、いくらキチンと支払う意思があっても、信販会社は受け付けてくれないのだ。
 難しい本ばかり買う、まじめそうな人なのに……
 あの人もこの社会の底辺で泥水をすすって生きているのだろうか……

 守口達夫……
 どこかで聞いた名前だが、恵利子には思い出せなかった。強いて思い出そうともしなかった。
 ゆっこの命を奪った男を憎む気持ちがないわけではなかったが、恵利子が負った重荷は、そのときいっしょに居なかった自分自身であって、心の底でずっと自分を責めつづけていた。

 守口達夫は、その後も時折、本を買いに来た。
 店内以外で顔を合わせた気安さからか、恵利子と目が合うとちょっと微笑んで会釈するようになった。店頭に在庫のない本を注文するときも恵利子を選ぶようになった。
 なにげない会話も交わすようになった。
 店員と客、という間柄のほかに、知人という要素が加わったようであった。


 服役中、守口達夫は、あの女の子のことを忘れたことはなかった。まぶたにいつもあの子を置いて、折があれば目を閉じて両手を合わせていた。
 だから出所後、いちばんに警察署に赴き、担当官に会って出所の挨拶をした上で、霊前で両親に詫びたいという意思を述べた。
 担当官は、守口がいわゆる「ひき逃げ」をしたわけでないことを理解していた。誠実な人間で、詫びる気持ちも本心であると思った。さらに、遺族の複雑な事情も感じていたので、守口の考えに賛成しなかった。
 「そういうことを警察は仲介できないし、住所を教えることもできないんでね……。もう償いはすんだんだから、その気持ちだけを大切にして、自分の新しい人生を考えたほうがいいんじゃないかな」
 それでも守口達夫は弁護士から聞いていた住所をたずねてみた。
 そのアパートにはすでに別人が住んでいて、家主に尋ねてみたが、引越し先は不明とのことであった。

 遺族に詫びたい、という気持ちは、今も変わりがなかった。
 その当の本人が、行きつけの書店の店員として、いま目の前にいるとは、思いも及ばなかった。ただ、好ましい人、と思っていた。
 好ましい人、という思いは恵利子にもあった。
 クレジットの件で、図らずも守口達夫の人となりの一端を覗いてしまったが、かつての自分の自堕落な生活から見れば、彼はキチンと大地に足を据えた人生を送っていると思えた。


 「恵利ちゃん、彼氏、捕まえたみたいだね」
 笑いながら、店長が言った。ドキンとした。
 彼氏…… そういう対象として、守口達夫を考えたことはなかったが、そういわれてみると、たとえば炊事をしながら「あの人は食事はどうしているのだろう……」というように、何かにつけ「あの人」に思いを及ぼしていることに気づいた。
 「今日、専門書の棚のところで話し、してただろ? 商品の話にしちゃ、ちょっと長すぎたようだよ。いや、怒ってるんじゃない。あの人はいい人だよ。大事にしろっていいたいんだ」
 事情を知らない店長は、前々から「独身」の恵利子に見合いを勧めていた。具体的に写真を持ってきたこともある。

 確かに今日は、守口の専門書探しの手伝いをしながら、ちょっと私的なことにまで話が及んだ。

 「お仕事、何をなさっているんですか?」
 「タクシーの運転手」
 「えっ? タクシーの運転手さんがこんな専門書、読むんですか?」
 「えっ? あ、いや、これは趣味なんです」
 「学校の先生かと思ったわ」
 「僕がですか? その反対で、いい年してるけど、学生なんですよ」
 「あら、タクシーの運転手さんじゃないんですか?」
 「どっちもうそじゃありません。○○大学の通信教育の学生なんです」

 仕事の合間にたゆみなく勉学にいそしむ男、その人生の確かさが感じられた。
 はじめからこういう男と知り合っていれば、自分の人生はまるで違ったものになっていただろう。
 「おかあちゃん」
 今日のゆっこは、微笑んでいた。初めてだった。

 「はいっ、守口さんのご注文の本。外商さん、出払ってるから、恵利ちゃん、届けてきて」
 気を利かせたつもりで、店長が言った。

 「あ、あの、よかったら、お茶でも……」
 「仕事中で、あまり時間ありませんけど……」
 お茶を飲む時間くらいは、店長は許してくれそうだった。
 「今、コーヒー入れます。そちらに座っててください」
 そういって、守口達夫は台所に消えた。

 部屋はキチンと片付いていた。
 壁という壁は、天井まで本で埋め尽くされていた。
 隅にはデスク…… そしてデスクには……
 恵利子の体が凍りついた。
 「ゆっこ!」
 デスク上の小さなフォトスタンドの中に、由紀子が微笑んでいた。
 「おかあちゃん」
 写真の前には、ウサギのぬいぐるみと菓子類が数点。

 コーヒーカップを持って、守口達夫が部屋に入ったとき、恵利子は何事もなかったように座っていた。
 守口の顔をみて微笑み、静かにコーヒーを飲んだ。


 数日後、恵利子の退職願が提出された。
 「結婚のため」という理由を聞いて、店長はあまりの進展の速さに驚いたが、大喜びで「式には是非呼んでくれ」といった。
 その日以来、二人の姿を見たものはいない。
 二人は、誰も知らない深い深い海底で、紅の糸でしっかり結ばれて横たわっていた。
 糸は、由紀子の真っ赤な血で染められたものだった。