雪 姫 幻 想 (中) |
〔3〕 時間の迷路 ふと時計を見ると、すでに午後4時を回っていた。この季節、平林寺の拝観は午後4時30分までで、この時刻に山門脇の拝観入り口が閉じられる。 「いや、すみませんがね。もう時間がありません。また来週の日曜日にでも遊びに来ますよ。……来週も、あの入り口が使えれば、の話ですがね」 東斎は、目を丸くして腕時計を覗き込んでいた。 「こ、これは、なにかの? 異国の宝物と見たが……」 「時計ですよ。通販で買った安物ですがね。エコドライブといって、光に当てることで充電されるので、電池交換の必要がありません」 「時計なら知っておる。伊豆守様ご所有であるがこのようなものではない」 時代劇映画で見たことのある、灯篭のような形をした一本針の時計を思い出した。ようやく戦国の嵐が治まったこの時代なら、あんなものでもなかなか手に入らない貴重品なのであろう。 「差し上げましょう。今日は貴重な体験をさせてもらったから…… 記念、と言うほどのものじゃないけど」 ろくろッ首になりゃしないかと心配になるほど、首を伸ばして覗きこむ東斎に、腕時計をはずして渡した。 「こ、こ、このような素晴らしきものを…… 畏れ多いことじゃ」 安物の時計を押し頂くようにして感動している赤坂東斎を放り出して総門へ向かうと、「お送りいたします」と志乃が追ってきた。 美しい、実に美しい少女だ。 家来の娘ですらこれだから、雪姫様とやらは想像を絶する美人なのだろう。 それに、東斎の話によれば、「あちら」の世界に遊びに行って見てきたブルゾンとジーパンを手元の生地で自ら縫い上げたという、するどい観察眼と器用さを持ち合わせている。 「待て待て!」 ちゃんと帰れるかどうか不安に思いながら通用門をくぐろうとすると、東斎が追ってきた。 「ライシュウのニチヨウビ、と申したが、それは何日の何刻のことかの?」 そうか、江戸時代には、週も曜日もないんだな。 時の壁は無事に抜けられた。 松平家墓所も、平林寺寺域の風景も、先ほどと何も変わっていなかった。 散策路を出口へと急ぐと、あのベンチが見えてきた。 男がひとり立ち上がるところであった。 衝撃が全身を貫いた! 立ち上がった男は…… オレだ! もちろん、鏡に映る姿以外に、自分で自分を見たことはない。が、50mほど先を出口へと向かっている男は、間違いなく自分自身であった。 奇妙な体験をしてきたばかりだが、自分が二人居るというこの事態には、さらに混乱させられた。どうにも理解が出来ない。 先を行く自分が立ち止った。いまを盛りと咲き誇る、有名な枝垂桜を見上げている。 思い切って近づいてみた。自分の正面に立ち、自分を観察してみた。 まさに「鏡」を見るようであった。「鏡」と違うのは、左右が逆になっていないことだった。 もう一つ不思議があった。 真正面に立っているのに、向こうの自分はこちらの自分を認識していないことであった。 幻影か。それしか考えられなかった。 意識の深淵から浮かび上がった、自分を客観化した幻影…… 幻影は、ふたたび歩き出し、出口に着いた。 門番と二言三言、言葉を交わし、門外に出て行った。 門番は、小門を閉め、閂をかけて錠をおろした。 「待ってくれ! もうひとり居るぞ!」 声をかけて、走り寄ったが、門番は何も言わず、ふりむきもせず、管理人室へと向かう。すぐそばに居るオレに、全く気づかずに! 幻影はこちらで、いま出て行ったほうが実体なのか! 「間に合いませんでしたわね」 志乃が近寄ってきた。なぜかうれしそうに微笑んでいた。 すとんと日が落ちて、夕闇があたりを支配しはじめた。 塀を乗り越えて出ようかとも思ったが、塀は意外に高く、手がかり足がかりもなかった。 確か、全部、塀で囲われているわけではない。生垣になっているところがあったはずだ。そう思って塀沿いに歩いてみる。 塀は山門の近くだけで、あとは生垣になっていたが、手がかり足がかりはあるものの、全体が柔らかいだけに、乗り越えるのは苦労しそうだった。第一、無理に乗り越えようとして誰かに見咎められたら、少々の言い訳ではすみそうもない。 赤坂邸のことや、もうひとりの自分のことなんか持ち出したら、事はいっそうややこしくなるだろう。 「お泊まりなさいまし」 志乃が言った。 ひょっとしたら、時空間のひずみといった四次元的問題ではなく、狐狸妖怪の類に化かされているかとも思ってみた。考えてみれば、狐や狸が人を化かそうとすれば、当然「美人」の姿で出てくる。そう考えてみると、志乃という、この娘は十分に狐である資格を備えていた。 だが、ここは霊域であり、聖域である。妖しのものの跳梁跋扈しうるところではない。 うむう…… 無理に塀を乗り越えるか、なんとか管理人にこちらを認識してもらい、穏やかに退出するか、志乃の色香にたぶらかされて、赤坂邸で一夜を過ごすか…… 初夏とはいえ、夜はまだ寒い。この広大な武蔵野疎林で、食い物もなく野宿は出来ない。 明日は月曜日、安サラリーマンだから、よほどのことがない限り、出勤しなければならない。が…… まてよ、会社へ行って、もし誰もオレの事を認識しなかったらどうなるだろう。 とりあえず必要なことは、ここを出て家に帰ることではなく、もしかしたら幻影になってしまっているのかもしれない自分を現実に戻すことではないか。 まだ十分に納得したわけではないが、松平家廟所の、あの石門をくぐった時から、もしかしたら本当に別の時空間、つまり江戸時代初期に入り込んでしまったのかもしれない。だとすれば、自分は現代に戻ったつもりでも、現代側から見れば存在していないといえる。 存在は、先ほど門を出ていった自分のほうであろう。アイツはオレだから、明日はちゃんと出勤するだろう。とすれば、とりあえずオレは首にならなくてすむだろう。 そう考えて、不安ではあるが、赤坂邸に泊まることにした。志乃は手をたたいて喜んだ。 待て待て、ちょっと待てよ…… 時空間のひずみにより、江戸時代と現代がつながった。それを認めたとしても、向こう側からこちら側に戻った自分が、なぜ幻影になってしまうのだろう…… 考えられることは…… そこには三百年の隔たりがある。これを行き来する間に、若干の時間のずれが発生することは考えられる。つまり、三百年前と、現代とでは、時間そのものの速度が違う。わずかなものだろうが、その蓄積は大きい。 それに違いない。 たとえば5分間の誤差が発生したとすれば、こちらが実在していても、門番には非存在でしかない。5分前か、5分後に存在することになる。 確かめてみよう。 あっという間に真っ暗になってしまった木立の中を、志乃のやわらかい手を引いて、山門に戻ってみた。 いた! オレだ! 門番が笑いながら閂をはずしていた。 オレが、頭を掻きながら門番に詫びていた。 ただ、傍に居たはずの志乃は見当たらなかった。 おそらく、あの石門付近は、向こう側とこちら側の時間が干渉しあって、互いにバランスがとれているのだろう。 だが、山門付近まできてしまうと、向こう側の影響力がなくなってしまい、意識下以外には、向こう側の存在である志乃は実存しえないのであろう。 だめだ、これは。 このままでは、ここにいるオレはもう帰れない。 たとえば、深い海底に潜水してきた人が減圧装置に入って圧力調整するように、時系調整をしなければ、オレはこちら側に存在しえないことになる。 その時系調整の方法を、オレは知らない。 やむをえなかった。 泣きたい思いを抑えながら、赤坂邸に戻った。 〔4〕 拝 謁 目覚めはさわやかだった。 ちょっと小さくて足が飛び出てしまうことを除けば、さらっとした絹布の布団は快適で、わが家のせんべい布団より熟睡できた。 ただし、枕、あれは駄目だ。結い上げた髷を保護するために首に当てるらしいが、高すぎるし固すぎて眠れたもんじゃない。最初にちょっと試しただけで放り出してしまった。 昨夜、志乃とともに屋敷に戻ると、東斎は狂喜した。 酒と料理が出た。 酒のほうは、いまで言う生酒のようなものであったが、結構いけた。 が、料理のほうは、種類と量は多かったが、味が駄目だった。 精進料理のように野菜主体は許すとしても、全体にどんがらい塩と醤油、味噌の味付けはとても現代人の口に合わない。 長居をするつもりはないが、こんなものを毎日食わされたら、人間の塩辛が出来てしまう。 それに、焼く、煮る、蒸すだけの料理で揚げ物がない。 こってりしたものが好みなので、野菜料理でもせめて天ぷらは欲しいと思ったが、考えてみると、この時代、「油」は貴重品だが精製されていないだろうから、うっかり口にしたらえらい目にあっていたのではなかろうか。 「さて、談合じゃが……」 酒を酌み交わしながら、東斎が口火を切った「談合」とは次のようなものである。 雪姫様は、もともと聡明で、文書を好み、書をよくする人だという。 経典を始め、古文書類から、町民が親しむ草紙類まで、およそ手に入るものは片っ端から身近に置いて、読みこなしている。しかし、田舎のことゆえ、新しいものはそうそう手に入らない。 近頃は読む本もなくなり、また、世捨て人ゆえ訪れる人も少なく、珍しい話も聞けないで居る。 庵に詰めているものは、警護の男どもは武骨ものばかりで腕には覚えがあっても文のほうはからきしだめだし、女は老女以外は字も読めないものが多い。 「わしは政治向きのことしか知らんし……」 やはりどうしても「御相手」役が必要だという。 風鈴涼之進は、もともと秀才ばかりの御小姓組でも、伊豆守が特別目をかけるほどの英才で、雪姫様の「御相手」としては、これ以上ふさわしいものは居なかった。 「おぬしが風鈴であるかどうかは別として、珍しい話を知っていることは確かだ。御相手として雪姫様は十分満足されよう」 つまり、御相手役になれ、ということであった。 悪い話ではない。高貴の姫君を彼女にできるチャンスなんてそうあるもんじゃない。 古くは、高千穂ひずる、丘さとみ、最近なら、若村真由美…… ももう古いかな。深キョンなんていいねえ。時代劇に出たことがあるかどうかは知らないが。 「それはならぬ!」 東斎め、目を吊り上げて大きな声を出した。 「風鈴本人であれば氏素性がハッキリしておるゆえ問題はないが、異な世界より参った、どこの……」 「馬の骨、だって言うのかな? 氏素性なんてものに縁がないことは確かだけどね」 「いや、そこまで言う気はないが…… ところで、おぬしの名を聞いていなかったな。名はなんと申す?」 「酒匂三郎」 「酒匂… ほほう、苗字があるのか。では卑しき身分のものではないな。それはよい。いかに姫様の無聊をお慰めするためとはいえ、あまり卑しき者をおそばに近付けるわけには参らぬでの」 あちらの世界では、苗字を持たない人間はいませんよ、犬猫だって苗字のあるやつがいる、と説明しかけて、止めた。酒が回って面倒くさくなったせいもあるが、ここで東斎めのご機嫌を損ねては、高貴の姫君にお目にかかれなくなるかもしれない、と思ったからだ。 いずれにしろ、今のところ時間のはざまで迷子になっているわけで、「時系調整」の手段が見つからない限り、自分の世界には戻れそうにない。無理に戻っても、常に周りと5分の時差があるのでは不便でしょうがない。 多少の不便は我慢するとしても、いつも変な時に姿をあらわすなんてことになったら、幽霊と間違われかねない。 だいぶ酔っ払った状態だったが、とりあえず雪姫様に拝謁して、一時のお慰めをする、ということで「談合」はまとまった。 腕時計をやってしまったので時間はわからないが、だいたい午前10時頃、東斎と二人で裏門から屋敷外に出た。 初夏の日差しはきらめいてまぶしいくらいであった。 車を始め、さまざまな排気ガスで汚れた20世紀末とは明らかに違って、空気が甘かった。 雪姫様の庵は、すぐとなりと聞かされていた。 途中に家がないから確かに隣には違いがなかったが、小高い丘の上の木立の中を15分ほど歩かされた。 遠くの高台に城らしきものが見え、城下町らしい集落が広がっていた。 キラキラ輝いて延びている水路は、新河岸川か。 雪姫様の庵は、さまざまな季節の花に包まれて、主が女性であることを誇っているかのようであった。 茅葺の小体な門があって、雪姫様の書だという額が掲げられていたが、読めなかった。東斎さんに聞くと「無壱」と書かれており、そのためここは「無壱庵」と呼ばれている、とのことだった。 後に雪姫様に聞かされたのだが、「無壱」は、中国の名僧、慧能禅師の言葉「本来無一物、いずれの処にか塵埃を惹かむ」からとったもので、悟りの境地を示したものだそうだ。 無壱庵の門内は、玉砂利の敷かれた前庭があり、左側やや奥まったところに式台を備えた本屋の玄関があった。 雪姫様を除けば、この庵を差配する主人格の赤坂東斎であるから、自宅と同じようなものなのだろう。声もかけずに入ってゆく。 建物は見掛け以上に奥が深く、いくつかの部屋の前を通って、玄関とは反対側と思える、建物のはずれに出た。 池のある中庭をはさんで、向こう側にもう一つ、離れのような建物があり、渡り廊下でつながれていた。 そちらが雪姫様の、いわば私宅であって、東斎といえどもこの廊下を渡ることは許されていないのだそうだ。 拝謁は、本屋側の広間で行われた。 二十畳ほどの部屋に、一段高い御座所があって、御簾が下げられていた。 ここではさすがに胡座をかくことは許されず、苦労して正座しなければならなかった。 待つほどもなく、老女が腰元二人を従えてやってきた。 無言だったが、驚いたような目つきでこちらを見つめる。 東斎が「老女」というから白髪の婆さんを想像していたが、せいぜい30歳くらいで、しかも結構美人である。これが姫様だ、といわれても疑わなかっただろう。 そういう女性に見つめられるのだから、悪い気はしないが、面映い。 「風鈴涼之進さまではないと、おおせられるのですね?」 「ええ。東斎さんも間違ったようだが、私はそんなご大層な人間じゃぁありませんよ。向こうの世界じゃ安月給のサラリーマンでしてね…… 何かの間違いでこちら側に紛れ込んじゃったんです」 こちらの言っていることが理解できなかったのだろう、老女さまはポカンとしていた。 昨夜、赤坂東斎にさんざん質問されたのと同じようなことを、ふたたび老女に説明させられた。 説明はしたのだが、なにしろ先方に、まず「現代」を理解させなければならないので、困難を極めた。 いいかげんうんざりしかけたところで、「このものの献上品でござる」と東斎が持参した包みを開き、三宝に乗せて老女に渡した。 あっ! オレの腕時計! ステンレスに金メッキを施した本体に、金銀ツートンの金属ベルトがついている。現代人がみれば、すぐに安物と見破られるが、腕時計など存在しない時代のものにとっては、すばらしい宝物に見えたのであろう。 息を詰めてしばらく見つめた老女さまは、傍らの腰元に軽く耳打ちして三宝を渡した。 腰元は、御簾の端のほうを少し持ち上げて、三宝を中に押し入れた。 「おお、なんと美しい。東斎、これはなんじゃ?」 御簾の向こうから、玉を転がすような声が聞こえた。やわらかい、濁りのない声だった。 なんだ。雪姫様に会う前の、老女さまの面接試験かと思っていたら、どうやらご本尊の雪姫様は、はじめから御簾の向こうにいらっしゃったようだ。 「時計ですよ。時を計る道具…」 「直答、ならぬ!」 東斎が叱声をあげたが、かまわず自分で説明することにした。東斎に説明させたって、どうせ要領は得ない。 実は先ほどから足の痺れが始まっていて、なにか口実を設けて足を伸ばさないとえらいことになりそうだった。美しい姫様の御前でひっくり返るという醜態だけは避けなければならない。 説明にかこつけて、何とか立ち上がりたいものだ。 するすると正面の御簾が上がった。 きらびやかな着物を着て、正面に姫様が鎮座していた。 げっ! ブスだ! 雪姫様というから、色白、細面、明眸、おちょぼ口の美人を想像していたが、実は最近はやりの「やまんばメイク」じゃないかと思うほどの色黒、えらの張ったでかい顔、造作はいわゆる金壷眼に獅子鼻、これで口が小さいから、かえって始末が悪い。 うむう。これは風鈴涼之進とやら、神隠しなどではなく、自らの意思で逐電したのではないか。いや、そうに違いあるまい。 「これ、姫様にご挨拶せんか!」 想像と現実のあまりの落差に呆然としていると、東斎が小声で言ってわき腹をつついた。 「よい、よい。みれば着る物も、おつむの造りも違う異邦の者のようじゃ。わらわもすでに松平の姫ではない。互いに非礼はとがめまいぞ」 声はいい。声だけは透き通っていて耳に心地よい。 「風鈴…… いや、涼之進ではないとのことじゃが、幼き頃より見知り居るわらわにも、涼之進としか見えぬのじゃが……」 「違いますよ。皆さんにそういわれてますが、私は第一、こちらの世界の人間じゃありません。20世紀…… といってもわからないか…… どうやらいまから三百年ほど後の世界から、何かの間違いで来てしまったようなわけで……」 やれやれ、また一から説明しなきゃならんのかな。 「向こうの世界で生まれ育った人間だという証拠に写真もあります」 「シャシン? それはどのようなものじゃ?」 「シャ…… うぅ、持ってないもんなぁ、ここには……」 とっさに運転免許証を思いついたのだが、車の中に置きっぱなしにしていることを思い出した。 自分のほうから言い出したことだから、何とか証拠を出したいところだが、Tシャツに綿パン、ブルゾンを引っ掛けただけの格好で来てしまったので、何にもない。 いや。そうだ! あるぞ! 写真! 自分の写真ではないが、とりあえず写真というものを理解させるためには、これでいい。 尻のポケットから文庫本を引っ張り出して、カバーを広げた。 カバーには、奈良・法隆寺の五重塔のカラー写真と、折り返しのところにモノクロだが鮮明な著者の顔写真が印刷されている。 立ち上がって姫様に手渡そうとした。 「これっ!」 東斎と老女さまが同時に発した叱声より先に、すでに限界をこえ感覚を失っていたわが下肢は、無慈悲にも上体を畳の上に放り投げてしまった。 せき止められていた血液が一気に膝下へ流れ込み…… 「うわわわぁ……」 居ても立っても居られぬ状態になり、畳の上を転げまわることになった。 雪姫様は、コロコロと鈴を転がすような声で笑いつづけた。 |
「雪姫幻想(下)」へ |