雪 姫 幻 想

(上)



  〔1〕 松平伊豆守様ご霊廟

 小さく「P」と書かれた看板に従って車を進めると、駐車場は意外に奥深い。
 バラスすら入れていない未整備駐車場だが、木立を縫って30〜40台停められる広さだ。が、いまは、側面に会社名を書き込んだ商用車と、隣接するみやげ物店の従業員のものと思える乗用車が停まっているだけだった。
 「みやげ物店」ではあるが、みやげ物と呼べるものは置いていない。

 文庫本を尻のポケットに押し込んで車を離れると、タイミングを見計らって駐車料500円の集金人が現れる。
 「あたたかくなりましたね」
 珍しく口をきいたが、笑顔ひとつ見せないおばさんだ。いつものことだ。
 「暖かくなったから昼寝しに来たんだよ。客の少ない寺だからね……」
 「罰当たりなことを…… 平林寺は徳の高いお寺なんですよ。臨済宗……」

 軽口に、説教という罰を与えられそうになったので、皆まで聞かず、その場を離れた。

 臨済宗妙心寺派の古刹、平林寺は600年前、いまの埼玉県岩槻市に創建された。現在地の新座市には300年ほど前、時の川越城主、松平伊豆守信綱によって移設されたものである。

 広大な寺域は、かつての武蔵野の趣をそのまま残しており、国の天然記念物に指定され、保護されている。
 こういう由緒格式のあるお寺は、観光スポットとして参拝客が集まるものだが、この平林寺は、なぜかいつ行っても閑散としている。
 だから、みやげ物店に「みやげ物」がないのである。

 境内は、いつも静寂に包まれている。
 四方を交通量の多い道路や工場群に囲まれているのだが、武蔵野疎林に包まれているためか、騒音は響いてこない。

 信仰にもとずいて参拝に来たわけではない。駐車場の管理人に言った通り、暖かい休日のひと時を、緑に包まれて昼寝をしたいと思ってきただけなので、本堂には寄らず、左手奥の散策路に向かった。
 全部歩くと優に一時間はかかる散策路には、所々にベンチが設備されている。ベンチの設備はあるが、めったに人のこないところなので遠慮は無用だ。いまも木立の向こうに赤いブルゾンが揺れて見えるが、あれは最近ここでよく見かける、たぶん近くに住む少女だろう。
 少女のことは忘れて、ベンチの一つにひっくりかえった。

 高いこずえの向こうに、初夏を思わせる日差しがきらめいている。
 新芽の香りが清新で、身体の内部から清められているようだった。
 持ってきた文庫本を開いたが、すぐに眠気がさしてきた。何度も読み始めては、挫折している本であった。

 まどろみ…… しばらく夢と現のちょうど境目あたりを楽しむ。実にいい気持ちだ。
 夢からの呼び声に逆らいきれず、向こう側に落ち込もうとしたとき、ふっと日差しがさえぎられた。

 薄く目を開いてみると、髪の長い少女が覗き込んでいた。色白の、実に美しい少女だった。
 病人ではあるまいし、上から覗き込まれて平気で眠っていられるヤツはいない。不愉快だから文句の一つもいいたいところだが、この場合は少女の美しさと差引勘定ということで、相殺するとこっちのほうが得なようなので、笑顔を作って起き上がった。

 「ご本、おもしろいですか?」
 屈託のない笑顔で問い掛けてきた。ジーパンに真っ赤なブルゾン姿の、あの少女だった。十五、六歳、高校生くらいだろう。
 「さあね。すぐ眠っちゃうんで、よくわからない。催眠本といったところかな」
 両腕を大きく広げ、伸びをしながらいうと、少女は左手を軽く口に当てて、くくくと笑った。

 「やっぱり風鈴さまだわ。以前も同じことをおっしゃいました」
 「以前……、て、君に以前会ったことあったかな?」
 「あら。でも風鈴さまでしょ? 私、志乃」
 「志乃、さん? 覚えがないなあ…… ネット関係かな?」

 「ふうりん」というのは、パソコン通信のネット上のハンドル名で、ネット以外では使っていない。ネット上の知人、友人はオフで会ったことがなければ、顔も年齢、性別もわからない。
 それにしても、ハンドルか本名かはわからないが、志乃という名前には記憶がない。

 「ネット? それ、よくわかりませんけど…… 私、あんまりうれしかったものですから、先走ってしまったようですね。お許しくださいませ」
 言って少女は、両手を前に重ね、深々とお辞儀をした。妙に古風な言葉遣いと仕草である。

 誰だろう、この子は?
 「あの、父がご説明申し上げます。あちらで風鈴さまをお待ち申し上げておりますので、恐れ入ります、ご同行いただけませんでしょうか」
 言葉は丁寧だが、真顔になった少女の毅然とした態度には抗いがたいものがあった。それに…… なにやらおもしろそうな成り行きである。湧き上がった好奇心を抑えることが出来なかった。

 「こう、おいでなされませ」
 少女は先に立ち、半身になって歩き出した。

 平林寺には、ゆかりの松平家一族の墓所がある。
 伊豆守信綱の墓を中央にして、これを守護するように取り囲んで、一族累代の墓所が展開する。それぞれ、十坪から二十坪ほどの広さで、整然と石組みにより区切られており、身丈を超える巨大な多宝塔が数十基、威圧するように林立している。

 少女は、やや奥まった墓所の前に立ち、振り返って軽く会釈をすると、小さな石門を押し開いてくぐっていった。
 石組みはさほど高くはなく、墓所全体が見渡せたが、いま石門をくぐった少女の姿は、向こう側には現れなかった。
 おや? どこへ消えてしまったのだろう。
 腰をかがめて少女が入っていった石門の中を覗いてみたが、正面に石囲い越しにも見える石塔が見えるだけで、別に変わったところはなかった。
 石門を丹念に調べたが、仕掛けがあるようには思えなかった。

 ふむ、入ってみるしかあるまい。
 ためらう気持ちはあったが、見事な手品は、種明かしを見たくなるものだ。

 石門に踏み込む時、空間が揺らめいた。
 水に浮かぶ小舟に乗り込むときのような揺曳感があった。

 なんだ、これは!
 目の前には、時代劇映画で見るような武家屋敷があった。正面の式台まで矩形の敷石が続き、両側には玉砂利が入れてあった。
 周囲には石塔も多宝塔もなく、代わりに松や桜の大木が枝を張っていた。
 振り向くといまくぐってきたはずの小さな石門はなく、どっしりとした木造の総門があった。

  〔2〕 神 隠 し

 「こちらでございます」
 志乃、と名乗った少女は正面の式台には向かわず、建物に沿って左手の植え込みの陰の枝折戸を開いた。
 ここからはひとりで行け、というように傍らに身を避けて会釈した。

 自然の疎林を生かした植え込みの中を踏み石に従って進むと、目の前が開けて庭園に出た。杉苔を主とした枯山水である。
 十分に手入れが行き届いていて、この家の主の厳しい性格を感じさせた。

 「おお、ようやく戻ったか。風鈴涼之進」
 庭園に臨んだ茶室と思われる小屋から声があった。
 上品な初老の武士が端座していた。これが少女の言う「父」であろうか。

 どうにもよくわからない。
 平林寺境内には、埼玉県の「名勝」の指定を受けている「林泉庭」という池泉回遊式庭園がある。この庭園は、禅修業の場であるために一般拝観が許されていないので見たことはない。はっきりとはわからないが、この枯山水の庭園はそれとは違うようだった。
 何かのイベントかとも思ったが、、武家屋敷に侍が登場するイベントというのも初耳である。イベントなら、それなりに人集めをするだろうし、となれば、駐車場がガラガラというのは納得できない。

 夢かな? と思いほほをつねってみると、痛い。痛いから現実なのであろうが、いまどき本物の武士がいるわけがない。
 なにかわけがあって、扮装をしているとしか思えなかった。

 「まるっきりわけがわからないんですがねえ。これは、一体何なんですかねえ」
 「ふぉっ、ふぉっ。それがのう、わしにもようわからんのじゃ」
 「わからんて言われても、さっきの娘さんは、父が説明するって……」
 「志乃がそう申したかの。ふむ、志乃にもわからんのじゃな」

 武士は手を振って、茶室に入るように言った。
 武士は正座をしていたが、こっちはもう何年も正座なんかしたことがない。かまわず胡座をかいてやった。
 武士は、驚いたような顔つきをしたが何も言わず、茶を点てて勧めた。
 いい香りが部屋を満たした。

 「わからん」者同士が話し、聞いているのだから、次から次へわからないことが出てきたが、武士の話を大まかにまとめると次のようなことになる。

 武士の名は、赤坂東斎。もともと松平家の連枝で松平姓を名乗っていたが、男子に恵まれず、隠居と同時に松平姓を返上して隠宅の地名赤坂を姓としたものだという。
 改姓には、実は、伊豆守の私的秘命を受けるという事情もあった。

 伊豆守には、正側あわせて十七人の子があって、うち十一人が女子であった。それぞれ家格にあった大名家等へ嫁いだのだが、九番目の雪姫だけが売れ残ってしまった。
 いや正しくは、売れ残ったのではなく、「是非に」という貰い手はいくらでもあったのだが、雪姫自身が強硬に結婚を拒否したという。
 この時代には、絶対権者の命にそむくことなど思いもよらぬことであるが、最後には伊豆守も「いたし方あるまい」と、あきらめる事情があった。

 雪姫は、「病死」と届け出られたが、実は川越城外の某所に庵を設けて、そこで生涯を過ごすことになった。
 庵といっても、老中を勤める松平家の姫君である。それなりの格式を持った邸宅となり、経営を差配する者、御側御用を務める者、警護の者など、小者、小女を含めて三十人ほどの大所帯であった。
 雪姫は「病死」した人間である。これに仕えるものには、将来はない。
 また「実は生きている」ことが公になってはならない。
 赤坂東斎が受けた秘命は、この庵を差配することであった。家督を継ぐもののない東斎の松平家は、ここで絶える。つまり「将来」がなくなった。その意味で、東斎に与えられた役職は、まさに適役であった。

 もうひとつ、厄介な仕事があった。
 結婚はいやだといっても、雪姫は生身の女である。それに髪を下ろして出家したわけでもない。「しかるべき相手を探せ」と、伊豆守は東斎に命じた。
 主君に仕え、事あるときには手柄を立てて出世することが武士の願いである。その願望を捨てて、将来のない「雪姫様御相手」になる若侍などいるはずがなかった。よしんば居たとしても、そんな武士の風上に置けぬ軟弱者を「御相手」にするわけにはいかない。

 悩んだ末、東斎が選び出したのが、御小姓組、風鈴涼之進であった。
 涼之進には係累がない。両親ともすでに他界しており、兄弟も居ない。本人が納得しさえすれば、周囲から異論が出る心配がない。
 加えて、涼之進は、御小姓組にあって、伊豆守の最も厚い信任を得ている若武者であった。ひととなりに問題はない。
 「うぬう、東斎め、わしの懐刀を分捕ろうとは……」
 歯噛みをしたが、伊豆守はこれを許した。「父親」の立場になってみれば、愛する姫の相手には、涼之進はふさわしいと思えたからである。

 東斎が自邸に風鈴涼之進を呼び、この決定を伝えた時、事件は起こった。
 終始無言で東斎の話を聞いた涼之進は、「一両日、考えさせてください」とだけ述べて帰っていった。
 考えたところで、拒否回答の出来ない問題であったが、東斎には即答を迫ることは出来なかった。

 「思いつめた様子であった。帰り際に地震があったのだが、涼之進はそれにも気づかなんだようであった…… それきりよ。屋敷の門を出て以来、風鈴涼之進は神隠しにあってしもうた」

 始めは主命に逆らって逐電したかと思われたが、そういう様子が全くない。組屋敷の涼之進の部屋を改めたが、身の回り品はそのままだし、少なからぬ金も残されていた。
 「着の身着のまま、金も待たずに旅に出るものは居らんからのう」

 その日以降、赤坂邸を訪れた者の神隠しが頻発するようになった。
 「わしがなにか企んでいるのではないか、と疑われてな、御目付けが二十人ほど引き連れて尋問に参った。そのお目付けの目の前で、五人まとめて煙のように消えてしもうた…… わが屋敷の総門に何事かが起こったと気づいたのはそのときじゃ」

 門を入るものに異変はないが、出たものが時として行方知れずになる。
 当初は、時として、であったものが、いまでは総門から出たものはすべて帰らぬようになってしまった。
 「志乃の発案でな、犬に縄をつけて門をくぐらせてみた。さきに小者を裏門から表に回しておいたのだが、小者は犬は出て来ないという。でな、縄を引っ張ってみると犬はちゃんと帰ってきた。面妖なことがあるものじゃ」

 「でも、志乃さんは出たり入ったりしてるんじゃないの?」
 「うむ。あのおてんば娘め、犬が帰ってきたのを見て、自分の身体に縄を巻きつけ、皆がとめるのも聞かず飛び出していってしもうた」
 「ちゃんと帰ってきたわけだ」
 「志乃が言うには、総門の向こうには違う世界がある。違う世界に驚かされるが、地獄極楽といったようなものではない、おもしろい、というのじゃ」

 「帰るところを間違わなければ、大丈夫」
 といって、志乃は以後、縄をつけずにたびたび向こうの世界へ遊びに行くようになったが、東斎を含め、他のものは、志乃がいくら勧めても総門を出てみようとはしなかった。
 それはそうだろう。それ以前に出て行ったものは誰一人帰っていないのだから。

 「でな、ある日のこと、大慌てで帰ってきた志乃が、風鈴涼之進が居た、というのじゃ…… ならば連れてこい、ということになってな」
 「しかし私は風鈴なんとかじゃありませんよ。似てるかどうか知らないが」
 「違う、といわれてしまえばそれまでじゃが…… それ、その顔のほくろまで同じなのじゃ。うむ、歳はいくぶん違うようじゃが……」
 「それ御覧なさい。私じゃありませんよ」

 どうやら時空間にひずみが生じて、赤坂邸の総門と平林寺の墓地が、時間の壁を超えて、つながってしまったらしい。つまり、風鈴涼之進始め何人かの侍はタイムスリップして、たぶん現代に迷い出てしまったのだろう。
 現代側からは、風鈴涼之進のそっくりさんが、志乃の色香に惑わされて転がり込んできた、というところだろう。
 こういうことは、話には聞いていたが、初体験だし、めったに経験したものは居ないだろう。これは十分に体験、研究しておく必要がありそうだ。

 「ところで涼之進、……いや、おぬしが涼之進でないとしてもじゃ、ひとつ談合いたしたい」

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