あしたの風

(5)


   15.故  郷

 東京都荒川区町屋。
 電車を下りて商店街に出ると、伸一の表情に変化が現れた。
 近くの交番で、住所を示して「笠原雄大」の家を尋ねようと思っていたのだが、目を輝かせ明るい顔になった伸一が、案内をするように良介の手をぐいぐい引っ張って歩き始めた。
 「この町を知ってるんだよ、伸一は」
 「しかも、どうやらこの町には楽しかった思い出があるらしい」
 「あの田舎町のときは、とうとう車から降りなかった。よほどつらい思いをしたんだろう」

 伸一は、ときどき、おもちゃ屋やケーキ屋のショーウィンドウで立ち止まりながらも、確実な足取りで商店街を進み、郵便局の隣の狭い路地に入って行った。
 「ここ、町屋8丁目だぜ。利恵の住民票にあった方の住所だ」
 「つまり伸一の一家は、住民票どおりの住所に住んでいたってわけだ。ってことは、3丁目の笠原雄大は、利恵の亭主ってわけじゃないな」
 「なんでもいいさ。伸一がきちんと社会的に認知されればいいんだから」

 伸一は、商店街の裏町の狭い路地を迷う風もなく辿って、2階建てアパートの前に出た。
 住居表示を確かめると、まさに利恵の住民票に記載されていた住所だった。
 伸一の足が速まり、2階への階段を上がる。まさに「自分の家に帰る」様子そのものだった。
 「自分の家」は、子供にとって最も楽しく、安心できる場所である。そこには優しい父と母が待っているはずである……
 ……が、伸一がつかんだドアのノブはピクリとも動かなかった。
 かつては「笠原」と書いてあったであろうはずの表札には、当然のことだが、他人の名前が記されていた。
 「だめだよ、伸一。ここはもうお前の家じゃない」
 良介はそう言って、小さいこぶしを固めてなおもドアを叩き続ける伸一を抱き上げた。
 「でも変だな。伸一の様子は、まるでここに自分をかわいがってくれる人が待っているって感じだぜ。それが両親だとしたら、あの町の家と同様、おびえるんじゃないかな?」
 「つまり、利恵夫婦は、もともと伸一の親じゃない?」
 「そう考えると筋が通るんだけど……」

 10戸あるアパートの部屋は、ほとんど留守だった。
 1件だけ、赤ん坊を抱いた母親が居たので、笠原某のことを聞いてみたが、入居後の日が浅く、知らないとの返事だった。
 家主についても聞いてみたが、このアパートは不動産会社が管理していて家主には会ったことがないとの返事だった。
 伸一の、楽しい思い出の詰まったふるさとは、たった一年の間に消失してしまったのだろうか。

   16.笠 原 雄 大

 いや、この町には、もう一つの手がかりがある。
 どういう関係かは不明だが、笠原利恵の保証人となっていた笠原雄大。その住所は町屋3丁目であった。

 商店街に戻り、郵便局で尋ねてみると、8丁目から3丁目だからかなり遠いのかと思ったら、通りの向かい側が3丁目だった。しかも笠原雄大の住所は、斜向かいの横丁を入ったところだった。
 そこには木造2階建ての小さな古ぼけたアパートがあった。
 2階へ上がる鉄製の階段の脇に6戸分の集合郵便受けがあり、部屋番号らしい数字と居住者名が書かれていた。もっとも居住者名のほうは2軒分しか書かれておらず、目指す「笠原雄大」の名はなかった。
 1階の奥の部屋だけ、2室分の広さがあり、入り口のドアも他とは違う造りになっていた。たぶん、このアパートの持ち主の居室なのだろう。そう当たりをつけて、ドアをノックした。
 「はい、はぁい」
 明るい声が聞こえ、すぐにエプロン姿のおばさんが顔を出した。

 「こちらに、笠原と言う人がお住まいだと思うんですが」
 「ああ、タケちゃんね、2階の2号だよ。でもまだ仕事から帰ってないんじゃないかね」
 「タケちゃん? 雄大って書くんだよね?」
 「そう、タケヒロって読むんだって」
 「奥さんはいないの?」
 「奥さんなんて居ないよ、タケちゃんは独身だから。でもいい男だからね、早くいいお嫁さんを見つけてあげたいと思ってるんだけど…… 誰かいい人いないかしらねえ?」
 「そんなにいい男なら、彼女くらいはいるんじゃないの?」
 「あたしの見るところ、いないね。だってね、彼女が居れば、デートだってするだろうし、彼女が尋ねてくるってことだってあるでしょ? 一人住まいなんだから、誰も文句は言わないしね。それがね、全然そんな気配がないのよ。仕事から帰るとほとんど部屋にこもりっきり。休みの日だって、めったに出かけないし……」
 エプロンおばさんは、話し好きのうえ、好奇心も旺盛らしい。アパートの住人のことは何でも知っている風だった。
 「もっとも仕事も忙しいらしいから、彼女を作っている暇がないのかもね。朝が早いから、夕方帰ってきてもお風呂へ行ってすぐ寝ちゃうみたい。……ねえ、ところであんた誰? ……あっ! もしかして興信所? タケちゃんの縁談?」
 想像力もすさまじい。
 「そう! 縁談なのね。よかったぁ。お相手はどんな人かしら? 興信所を使って調べるくらいだから、きっといい家のお嬢さまね。大丈夫、私が保証する。タケちゃんは、ほんとにいい人よ。つまらない女の引っかかりなんかありません。まじめで仕事熱心……」
 「笠原利恵って知らない?」
 「誰かしら、それ? お姉さんか妹さん? 兄弟が居るって聞いたことないけど……」
 「タケちゃんは、いつごろからここに住んでるの?」
 「一年くらいになるかな…… ねえ、利恵って誰? お母さん?」
 「この一年間、タケちゃんは、毎日ちゃんと帰ってきてるんだね?」
 「間違いない。お酒も飲まないまじめな子だからね。酔っ払って遅くなることもないし、外泊もしたことない。……それより利恵って……」

 エプロンおばさんの激しい追及を何とかかわして、まもなく帰るだろう、と聞かされた笠原雄大の、2階の2号室の前で待つことにした。
 「誠ちゃん、これは別人だね、利恵が一緒に居た男とは」
 「どうやらそのようだね。だけど利恵の保証人になり、踏み倒した家賃をすぐに払ったくらいだから、他人てわけじゃない」
 「兄貴か弟か…… いずれにしろ身内だね」
 「身内なら事情は知っているだろうから、伸一のこともわかるだろう」
 「うん、それさえわかれば、バカ女を絞め殺さなくて済みそうだ」

 秋の日の夕暮れは早い。それほどの時間ではなかったが、笠原雄大の帰りを待っている間に日が落ちて、あたりは暗くなった。 表通りの商店街のネオンがにぎやかに点滅し、家々の明かりが次々と点りはじめたが、このアパートの住人はまだ誰も帰っていないらしく、真っ暗なままだった。
 誠一が時計を見ようと、遠い明かりに腕をかざしたときだった。無いと思っていたアパートの廊下と階段の照明が点いた。

 続いてガタガタと人が階段を上がってくる音がした。

   17.父  親

 上がってきたのは、体格のいい若い男だった。夜目にもそれとわかるほど、真っ黒に日焼けした顔、額には汗が玉になって光っていた。作業衣の汚れ具合で、ペンキ屋の職人と知れた。
 男はチラッと誠一に目をやっただけで、腰のキーホルダーをはずし、目の前の2号室のドアを開けた。

 「笠原雄大君…… かな?」
 男は鋭い目で誠一をにらんだ。目の色が意志の強さをあらわしていた。
 「なんだい、あんたは?」
 「ちょっと聞きたいことがあってね。込み入った話なんだが……」
 「……サツの旦那かい?」
 「警察に弱い尻でもあるのかな?」
 「ねえよ。むかしの埃は、一年前に全部たたき出してもらったはずだぜ」
 「一年前? 一年前に何かあったのか?」
 一年前に、笠原利恵は山形に引っ越した。引っ越したとき、利恵は子供と二人連れだった。夫は数ヵ月後に転がり込んできた…… エプロンおばさんによれば、笠原雄大がこのアパートに引っ越してきたのも1年前だ。

 しかし、笠原雄大は、その問いには答えなかった。
 「仕事を上がってきたばっかりなんだ。風呂へ行きたいんだけどな」
 「すまん、すまん。手っ取り早く話を済ませよう。用件は、笠原利恵のことなんだがね」
 「利恵が何かしたのかい? あいつがなにをしようと、俺には関係ないぜ」
 「関係ないのに保証人になり、踏み倒した家賃の始末までつけたのか?」
 「そんなことまで調べたのかい。……利恵が家を借りるのに保証人が必要だと言ってきた。それくらいのことはしてやらなくちゃならねえと思ったから引き受けた。引き受けた以上、溜めた家賃を払うのは俺の義務だろ?」

 「笠原利恵とは、どういう関係なんだね?」
 「どういう関係って…… あんた山形の警察の人かい? 俺のことはなんにも知らねえようだな。利恵は、別れた女房だよ」
 「なんだと! 別れた女房だあ? 一年前にか? じゃ、この子は……」
 誠一は身体をよじって、後ろで良介と手をつないでいる伸一を指差した。
 廊下の薄暗い照明を透かすように伸一を見た笠原雄大の目が大きく開いた。
 「……タイム?」

 次の瞬間、誠一は突き飛ばされてコンクリートの床に転がった。強い力だった。とてもじゃないがこの男を絞め殺すことは出来そうにない。そう感じた。

 「タイムじゃないか!」
 笠原雄大は、駆け寄って膝をつき、伸一を抱きしめた。
 「パパぁ」
 伸一のうれしそうな声が響いた。誠一と良介が初めて耳にした、甘い明るい声だった。

   18.大  夢

 「タイム、大きな夢って書くんだけど、この子の名前なんです。俺の夢、俺の夢のすべて、俺の宝物、それがこの子なんです」
 笠原雄大は、二人を自室に招じ入れ、片腕で子供を抱いたまま茶を淹れて勧めた。伸一、いや大夢が、父親にかじりついて離れようとしなかったからである。
 六畳一間、押入れと半間の炊事場がついただけの部屋で、家具と呼べるようなものは何もなかった。食べて寝るだけの生活だったようだ。
 家主のおばさんは「タケちゃんはまじめで、酒も飲まず、彼女もいない」といった。テレビもないこの部屋で、いい若い者がいったいどういう生活をしていたのだろう。

 「利恵に、と言うより大夢のために金を送っていたから……」
 雄大の月収は15万円ほど、利恵に8万円ほど送金していたという。
 ほかに、これは利恵に要求されたわけではないが、思いつくごとに大夢のために着るものやおもちゃを買って送ったという。衣料品は、どんなものがいいか見当がつかなかったので、デパートの店員に年齢と性別を言って選んでもらったのだそうだ。
 残りが家賃を含む生活費というから、なるほどそれでは酒も飲めないし、彼女がいてもデートも出来はしない。食ってゆくだけで、テレビを買う金もなかったのだろう。

 「なんで別れたんだ? 大夢。素晴らしい名前じゃないか。子供にそんな名前をつけたくらいだから、利恵とは愛し合っていたんだろう?」
 「愛か…… そんなもの、俺たちには始めからなかったと思う……」

 詳しくは語らなかったが、笠原雄大は暗い少年時代を送った。中学時代に不良仲間に入り、高校に入ることは入ったがすぐに中退した。
 これといった仕事がなく、学校へも行かない少年たちの行く先は盛り場しかない。盛り場は、カネのあるものには楽しいところだが、カネのない不良たちには黒い思いを膨らませるところでしかなかった。
 金を求めて、盗みを働き、恐喝をした。鬱屈した黒い思いの捌け口を喧嘩に求めた。人から奪い、人を傷つける、明日のないそんな世界に笠原雄大は生きた。
 「そんなバカを10年近くやってた……」
 そして、家出娘の利恵と知り合った。
 「やらせる女とやってくれる男。ただそれだけのことで、愛なんてもんじゃなかった」
 が、愛があろうがなかろうが、することをすれば子供は出来る。
 「ガキなんかいらねえ、めんどくせえだけだ。利恵も子育てなんてやりたくないというので、始末させようとしたけど、カネがなかった。利恵は家出娘だから、保険証も持ってねえ。ウラでつけなくちゃならねえ始末は、目の玉が飛び出るほどのカネがいるんです」
 結局、始末するカネが作れなかったために、子供は生まれた。

 「でも、子供ってかわいいもんだと思った。バカな男と女の間に生まれたのに、普通の家に生まれた赤ん坊と同じだった。夜中に泣くのは参ったけど、俺の顔を見て笑い、ほっぺたを突っつくと笑ってくれた」
 子犬を拾ってきたと思えば腹も立たねえ、その程度のノリで始めた子育てであったが、日がたつにつれて可愛さが増した。
 大夢。
 笠原雄大が、そう名前をつけて出生届けを出したのは、誕生から2ヶ月近くも経ってからだった。届けを出した役所ではこっぴどく叱られ「罰せられる」と脅かされたが、ともかく指導に従って婚姻届も出し、健康保険や母子手帳などの手続きもして、笠原大夢は、「子犬」から「人の子」になった。

 「そういうのが全部終わったとき、俺、このままじゃいけねえと思った。大夢がまともな人間に育っていくために、いつまでもバカはやってられねえと」
 誰も望まず、誰にも祝福されずに生まれた赤ん坊の笑顔が、一人の男を「父親」へと脱皮させた。
 雄大はバカをやめ、働き始めた。
 だが、生活は苦しかった。バカをやっていた男にはそれに見合う仕事しかなく、親子3人が食べて行くのに苦労する有様だった。バカをやってたほうが楽だったかもしれない。
 「それでもよかった。まともに大夢を育てるには、俺自身がまともじゃなくちゃなんねえ。そう思ったから」

 一方、大夢を生んだ女のほうは、「母親」へと脱皮できなかった。
 子供を可愛いと思わないではなかっただろうが、拾ってきた子犬以上ではなかったようだ。
 産褥が終わってすぐ、利恵は盛り場に舞い戻っていった。
 乏しい生活費から利恵が遊ぶ金を持ち出すので、生活はいっそう苦しくなった。大夢のミルク代にも事欠く始末で、破綻は時間の問題のように思えた。

 実際、利恵は何かにつけ、別れ話ともとれるような話をすることがあった。
 だが、父親はがんばり続けた。死に物狂いの努力で生活を維持し、とにもかくにも3年余り家庭を守りぬいた。
 「楽しみは、休みの日に大夢と公園で遊んだり、商店街をぶらつくことだけだった。大夢のために、俺がしてやれることはそれだけしかなかった」

   19.崩  壊

 「いやな男に付きまとわれて困ってるのよ。亭主が居るって言ってるのに。ちょっと顔出して追っ払ってくれないかな」
 1年前。利恵にそう頼まれた。
 「どうせちょっかいを出したのは利恵の方だろう」と思ったが、大夢の母親がつまらない揉め事にかかわるのも好ましくなかったので、言われるまま「付きまとっている」男に会った。サラリーマンだと言う、気の小さそうな男だった。
 「人の女房に手を出そうってんなら、それなりの覚悟がいるぜ」
 雄大には脅してどうしようというつもりはなかったが、もともと暴力沙汰や脅迫などを日常にしてきた者の言葉である。よほどの恐怖を感じたのだろう、男は震え上がって逃げていった。

 この件はそれで終わったものと思っていたが、一週間ほど後、雄大は恐喝の容疑で逮捕された。雄大は知らなかったが、利恵が例のサラリーマンから金を受け取っていた。
 「なんでパクられたか、わかってるんだろうな?」
 手錠をかけながら警察官が言ったが、そのとき、雄大にはまるで心当たりがなかった。
 「なんだ、どの件かわからねえほど垢が溜まってんのか? よし、徹底的に絞って、溜まった垢をぜんぶ掻き出してやる」
 警察官はそういったが、出てきた垢は皆3年以上前の傷害や恐喝で、ほとんど公訴時効の過ぎたものばかりだった。
 ただし、今回の「恐喝」につては、現実に金が動いてしまった以上、無罪と言うわけには行かなかった。雄大は、送検、起訴されて有罪となったが、彼の生活状況などから情状の酌量があり、3年間、刑の執行が猶予された。

 釈放されて家に帰ると、待っていたのは「田舎の親元に帰る」と言う置手紙と、利恵の署名捺印のある離婚届用紙だった。
 離婚に異存はなかったので、すぐに届けを提出した。
 利恵との別れは、返ってさばさばした気分だったが、大夢との別れは、文字通り夢を失った思いだった。


   20.計  略

 「ところで、大夢はどうして警察のお世話になってるんです? 利恵がブタ箱に入ってるとか……?」
 「いや、すまん。俺たちは警察じゃないんだ。たまたま旅先でこの子と知り合ってね、道連れになっただけだ。利恵の行方はわからん。こっちへ戻ってるんじゃないかと思ってたんだがね」
 「東京へ戻ったとしても、利恵はここへは来ねえと思う。大夢を連れて、一度は、田舎の親元でまっとうに暮らそうと思ったんだろうが、男が出来て夜逃げをするような生活してたんじゃ…… 東京へ戻っても夜の盛り場に沈み込むしかねえと思う。……それにしても、大夢はどうしてあんたたちといるんですか? 利恵が大夢を置き去りにした?」
 「それはわからん。夜逃げのドサクサで迷子になったのか、邪魔だから捨てられたのか、ひょっとして大夢が逃げ出したのか……」
 「逃げ出した? なぜ?」

 「これだよ」
 良介が手を伸ばして父親の膝にかじりついている子供の背中を捲り上げた。
 「げえっ!」
 笠原雄大が悲鳴を上げた。驚きは、次第に怒りに変わった。
 「誰がこんなこと、しやあがった!」
 「あんたじゃなけりゃあ、利恵か、利恵と一緒に居た男だ」
 「殺してやる!」
 「手伝うぜ。なあ、誠ちゃん」
 「いいや、だめだ」
 「なぜ? 親を見つけて絞め殺してやろうって話だったぜ」
 「ああ。だけどな、雄大君は執行猶予中だといったろ? つまらんことにかかわって収監なんてことになったら大夢がかわいそうだ」
 「放っておくのか? 俺は不承知だぜ。俺は本気だよ。誠ちゃんみたいにいつも冷静で、理詰めでものを考える人間にはわからんかも知れんが、人の心ってものは熱いんだ、許せねえものは、どうしたって許せねえ」
 「そんなこと言ったって、良ちゃん、じゃ利恵と男はどこに居るんだい? まず探しださにゃならんだろ? それについちゃ俺に考えがあるが、とりあえず先にやらねばならんことがあるんだ」

 「雄大パパさんよう。あんたが大夢を愛し、大夢もパパが大好きだって言うことはわかった。で、どうする? 今日、このまま大夢を引き取るかい?」
 「もちろん! 大夢はもう誰の手にも渡さねえ」
 「ここで一緒に生活するのか? 子連れとなると、生活をいろいろ改善しなきゃならんぞ。仕事に行ってる間、大夢をここへ閉じ込めておくのか?」
 「保育園に入れる。一年前にもそう考えたんだ。ほかの子と同じように幼稚園か保育園に通わせようと。でもこの辺の幼稚園はみんな私立で、俺には入園料が高すぎた。保育園は区立で、しかも保育料が収入によって決まるそうで、俺たちのためにあるように思えたんだ。だけど、だめだった。保育園は希望者が多くて、母親が働いていない場合は基準外だって、申込書も受け付けてもらえなかった。今度は、母親が居ないんだから、なんとかなると思う」
 「ま、よかろう。だが、男が子連れで生きて行くってのは、考えてるより大変だぞ。覚悟はあるか?」
 「ある。絶対に、大夢を立派に育てて見せる」

 「よし。じゃ、明日いちばんで警察に行き、利恵と連れの男を幼児虐待で訴えろ」
 「いや、そいつはちょっと…… 大夢をこんなにしたやつは憎いが、利恵を警察に売るようなまねはしたくねえ」

 「そうじゃないよ、雄大パパ。これは大夢とあんたを守るためなんだ。考えてみろよ、この部屋には風呂が無い。ってことは銭湯に行くんだろ? 大夢を銭湯に連れて行ったらどうなると思う? 銭湯には、この傷痕を見て警察に訴えるおせっかいな爺さんが必ず居るぜ。そんなことをされたらあんたはまたブタ箱入りだ。執行猶予なんて吹っ飛んじゃうぜ」
 「でも、俺がやったんじゃねえ」
 「一年前の恐喝事件はどうだ? 身に覚えが無くても有罪じゃねえか。警察なんて信用できねえ。だから先にこっちから訴えておくんだよ。あんたがやったんじゃないっていう証明書みたいなもんだ。そうしておいて、こっちは利恵を探す」
 「探すったって、誠ちゃん、どう探すんだい? 東京の夜の街は太平洋みたいに広いんだぜ。太平洋の小魚一匹、探しだすったって……」
 「良ちゃん、それを専門家に任せるのさ。つまり警察だ」
 「警察が、利恵みたいなチンピラを本気になって捜すもんか」
 「捜すさ。ちょっとした仕掛けをすれば、本気になって、血眼になって探し出してくれるさ」
 「またなんか企んでるね、誠ちゃん」

 「パパさんよう、大夢の親権関係はどうなってる?」
 「シンケン、て?」
 「親としての権利義務を父母のいずれが…… 簡単にいやあ、大夢の名が雄大、利恵どっちの戸籍簿に載ってるか、だ」
 「さあ……」
 「最近、つまり離婚届を出した後、戸籍謄本は取ったことがないのか?」
 「住民票ならとったけど…… 一年前、利恵と大夢が居なくなったんで、家賃の関係で8丁目の二間のアパートからこっちに越したんだけど…… そのとき親方に言われてとった。利恵のは山形の親元へ異動の届けを送ってやった」
 「その住民票には、大夢の名は載ってなかったのか? ……載ってないと、保育園にも入れられないぜ」
 「よくわかんねえけど、保険証には載ってるよ」
 「保険証って、国民健康保険証か? なら大丈夫だ。後はこっちに任しておけ。さあ良ちゃん、忙しくなるぜ」
 だが良介は、答えなかった。ぼんやりと窓外の闇を眺めているだけだった。

   21.別  れ

 「帰るぞ、伸……」
 言いかけて良介は口をつぐんだ。
 浮浪児の伸一は、もう居ないんだった。ここにいるのは、大夢。れっきとした父親が居て、大夢は今、その父の膝で眠っていた。

 寝顔をしばらく見つめた良介は「こいつ、おねしょをするからな。明日から洗濯が大変だぞ」とつぶやくように言って立ち上がった。

 「困ったことがあったら言ってくれ。相談に乗る。短い間だったが、大夢と俺たちは時間じゃ計れない付き合いをした。これからも大夢の成長を見守りたいと思っている」
 誠一がそういって、住所と電話番号のメモを笠原雄大に渡した。

 外に出ると、ひんやりとした風が二人の間を吹きぬけた。
 「笠原雄大。いいやつだったね」
 「……」
 「大丈夫だよ、良ちゃん。あいつならきっと立派に育て上げるさ」
 「……」
 「どんな男になるか、ずっと見届けたいもんだな」
 「……」
 「大夢、か…… 良い名前だ。大物になるぞ、きっと」
 「……」
 「でも、なんだか急にさびしくなっちゃったなあ……」
 「……」

 「良ちゃん、腹が減ったよ。その辺でそばでも手繰っていかないかい?」
 「……」
 「焼き鳥もいいなあ、熱燗でさ」
 「……」
 「さっきの話し、利恵を探し出す話ね、打ち合わせもあるし……」
 「……」
 「良ちゃん……」

 「じゃぁ」
 駅に着くと、良介はつぶやくように言い、片手を上げて改札口へ向かった。
 帰る方向は同じだから、同じ電車に乗ればいいのだが、誠一は黙って見送った。
 そっとしておこう、良ちゃんは、いま一人になりたいんだ。何事も理詰めで解釈しなければ気がすまない男にだって、人の心はわかるんだ。
 たたずむ誠一の肩を、深まる秋の夜風がそっと叩いて去った。

   (epilogue)あしたの風

 マンションのドアを開けると、心なしかおねしょの匂いが漂っているように感じた。懐かしい匂いだった。
 伸一、いや大夢を父親に返してから、良介はなんとなく誠一と疎遠になり、このマンションを訪れることもなくなっていた。今日は、「話がある」と言う誠一の呼び出しに応じてやってきたのだが、本当は気が進まなかった。
 この部屋には、たった一週間ほどだが、大夢と過ごした楽しかった思い出が残っていて、おねしょの匂いがそれをさらに増幅した。

 「なんだ、めかしこんで。どっか行くのかい? 人を呼び出しておいて失敬なやつだな」
 「デートだ」
 「ったくぅ…… いい年して、いつまで女の尻を追っかけてるんだ。で、どんな女だ? 若いのか?」
 「26だ」
 「おいおい、娘みたいな年じゃねえか。そんなのどこで引っ掛けたんだ?」
 「さあね」
 「どっかの飲み屋だろ。ホスちゃんか?」
 「いいや、れっきとしたOLさんだ。うらやましいか?」
 「うらやましかないよ。今時のOLなんて裏でなにやってるかわかったもんじゃない。誠ちゃんみたいな年寄りの相手になろうってのは、目的は金だな。ま、せいぜい気をつけるこった」
 「金じゃない。人生をまじめに考えてる、とびっきりのいい女だよ」

 「人生をまじめに、ね。じゃ、つまりこういうことか。世間知らずのおぼこ娘を色ボケのワルジジイが毒牙にかけるって寸法だな?」
 「ワルジジイ? 俺がか? そんなこと言うと連れてってやらないよ」
 「お? 俺も行っていいのかい? つまりその、おぼこ娘の友達も来るからダブルデートってことかい? うん、さすがに誠ちゃんだ。あんたはいい男だよ、すばらしい友達だ」
 「ちぇっ、よくもまあ、そうころころ変われるもんだ。デートの相手はな、平井尚美、詐欺師の娘だ」
 「尚美だあ? この野郎! 俺の娘にまで手を出しやがったのかあ!」
 「詐欺師の娘になんか、誰が手を出すもんか。縁談だ。いい男が見つかったんで、紹介してやるんだよ」
 「尚美に縁談? だめだ。不承知だ。尚美には世界一の婿殿を俺が探してやるんだ」
 「そうかい、そうかい。俺の世話じゃ気に入らんのかい。じゃ、やめだ。やめていいんだな?」

 「やな言い方をするなあ ……どんなやつだ? 3Kか?」
 「まあ、3Kって言やあ3Kだな。高校中退、金なし、コブ付」
 「コブ付だとぉ?」
 「ああ、コブの名前は伸一、あ、いや、大夢だ」
 「……誠ちゃん!……」
 「不承知か? 大夢には母親が必要だ。人生をまっすぐに考える母親がね」
 「……話は、どこまで進んでるんだ?」
 「まだ進んじゃいない。進むかどうかは、今日、二人が会ってみてからだ。尚ちゃんは、お父さんが気に入ってる人なら、って言っていた」
 「やつのほうは?」
 「彼にはまだ何にも話していない。飯を食おうって呼び出しただけだ。いきなり会わせてくっつけちゃおうって腹だ。どうする? 行くかい?」
 「行かないでどうする。その悪巧みには、俺の手助けが必要なんだろ?」

 連れだって外へ出ると、秋の心地よい風が二人を包んだ。
 「誠ちゃん…… あんたはとびっきりのワルだ。人の心を弄びやがってよ」
 風は青空へ舞い上がり、真っ白な雲を明日へと運んでいった。