あしたの風

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   12.警  察

 ロクなとこじゃない、と誠一は言うが、そんなことはない。碁会所でバクチ好きの元警視正と知り合っていたのは大いに有効だった、と良介は思う。

 警察署へ乗り込んだ良介は、いきなり署長に面会を申し込んだのだった。
 「どちらさまで?」
 「栗原、栗原征治というんだが……」
 「どういうご用件ですか?」
 「うむ。実は個人的なことなので、あまり名乗りたくはないんだがね、わしは先ごろまで警視庁に奉職をしていて、警視正を勤めていた」
 この「警視正」と言う言葉が、抜群の威力を発揮した。
 受付の警官はピクンと背筋を伸ばし、椅子をひっくり返して立ち上がった。
 実を言うと良介は、警視正というのがどれ位の階級なのかは知らなかった。ただ警察から情報を引っ張り出すには、定年退職した元警察官を名乗ったほうがやりやすいと思っただけだった。

 「お待ちください」
 警官はあわてて奥の席にすっ飛んで行き、ヒゲを蓄えてしかつめらしい顔した上司に報告した。これを聞いたヒゲも、その場で直立不動の姿勢になった。
 すぐさま応接室に案内され、お茶が出た。もっとも、応接室とは言っても、警察と言う場所が場所だけに、叩けば埃の出る身の良介にとっては取調室に入れられたようにも感じた。
 待つほどもなく、「次長」の名刺を持った金筋がヒゲを伴って現れた。署長は外出中だという。
 署長に会いたいといったのは良介だが、実際には署長なんぞに出てこられても困るし、第一、警察なんてところにあまり長居もしたくない。必要な情報さえ聞けばさっさと退散したいところだ。

 「あ、いや、いいんだ。署長さんに用があるわけじゃない。実は、警視庁退職後、ある調査会社の顧問をしていてね……」
 民事なのであまり詳しい話は出来ないんだが…… この町に縁のある、ある資産家の遺産相続問題に絡んで、いま一人の子供のことが問題になっている。そこで知りたいのは、ごく最近、この町か近傍で、子供の誘拐とか行方不明といったような事件はなかったか……
 「誘拐、ですかあ?」
 金筋とひげが大声をあげて顔を見合わせた。
 「あ、いやいや、そんな大げさな問題じゃないんだ。事件になるようなものじゃなく、子供をめぐってのトラブルと言うか…… 虐待とか……」
 「虐待も犯罪ですよ」
 「わかってるよ。子供はちゃんと保護されているから問題はないんだ、要するに事件にはなっていないが、子供のかかわった揉め事のような……」

 「ありませんな」
 次長は即座にそう言った。
 「この町は歴史的にも名のある町で、そのせいか住民は皆穏やかで、犯罪はほとんど発生せず、揉め事の類もあまり警察に持ち込まれるようなものはありません。ま、反面旅行者の多い町柄でもありますので、外から来たものによると思われる万引きとか食い逃げといったつまらん犯罪はけっこう発生してますがね。つい先日も、うちの管轄ではありませんが、温泉ホテルの宿賃踏み倒しなんて事件はありましたが……」

 「そんなのは関係ない。問題は子供だよ、この町の子供」
 話が変な方向へ向かいかけたので良介はあわてて軌道修正した。
 「……そうですな。では、最前線の署員に聞いてみますか……」
 次長は、もう少し宿賃踏み倒し事件を話題にしたかったようだが、元警視正の威光には逆らえず、ヒゲを促して立ち上がり、45度の礼をして部屋を出て行った。

 30分ほど待たされた。落ち着かないこと、この上なかった。
 トイレへ行くふりをして逃げ出そうかと考え始めたころになって、次長が若い巡査を伴って戻ってきた。生活安全課の巡査だという。
 「夜逃げってのがありました。若い夫婦者と男の子の一家なんですがね、遺産相続と夜逃げは結びつかないと思ったんですが、子供が絡んだものは、この一件だけでして……」
 「いやいや、そうでもないぞ…… 夜逃げそのものは関係はないだろうが、男の子がいたって言うことになると、あたってみる価値はありそうだ。ここまで出張ってきて、なんにもありませんでしたって報告書も出せんしね」

 ところで、いくら田舎の平和な町の警察でも、警察は警察である。詐欺師の与太話に漫然と振り回されていたわけではない。良介は知らなかったが、この間に、事務室ではさっきのヒゲが電話にかじりついて、警視庁に「警視正 栗原征治」の身分照会をかけていた。
 警察には、毎日いろいろな人物がやってくる。大半は善良な市民で、免許証の更新とか、落し物や不良息子の相談などだが、なかには胡散臭いのも紛れ込んでいる。
 胡散臭い典型は、政治家や政治団体、宗教団体を名乗ってくる連中だが、なかには「○○署の刑事だが、犯人の尾行中にカネが足りなくなった」などと、こともあろうに警察官を名乗ってくるのもいるのである。

 たいがいは他愛もない「抗議」や「協力依頼」だから適当にあしらって追い返すのだが、なかには重大な事件に結びつくものもないとはいえないので、それなりの対応をしなければならない。
 特に「警察官」を名乗って来る者は、それ自体が官名詐称という犯罪だし、他所でも警察官を名乗って良からぬ企みをしている可能性があるので、必ず身分照会を行う。

 結果は、栗原征治は実在で、元警視正というのも事実だった。警視庁が、念のため栗原征治の自宅に電話をしたところ、家族から「本人は旅行中」との回答があった、という。家族は、本人が賭け碁に夢中になって碁会所にへばりついているとは知らなかったから、いや知っていたとしても、旅行中としか応えようがなかったのであろう。
 身分照会の結果はファックスで送られてきて、それには写真も添付されていたが、在職当時の職員名簿から抜き出したものらしく、制服制帽着用の小さい写真のため、本人確認にはほとんど役に立たなかった。
 いずれにせよ警視正栗原征治は実在し、それを名乗る人物の挙動に不審も見当たらないことから、特に疑ってかかる必要はないとヒゲは判断した。

   13.夜逃げ家族

 「夜逃げ」は、一家が住んでいた貸家の家主により通報された。家賃が半年分ほど滞っていたので、家主にとってはこういうときこそ警察に動いてもらわねばならない大事件だった。
 受け付けたのは、当直だった生活安全課の若い巡査である。こちらも、警察官になって以来、事件らしい事件に出くわしたことがなかったため、夜逃げは町の平穏を揺るがす大事件に思えた。
 そこで家主から細かく状況を聞き取り、現場の下見までして上司に報告したのだが、家賃の滞納や夜逃げと言うのは民事だから、とあっさり聞き流されてしまった。
 そんなわけで少々腐れ気味だったのだが、それがなんと、警視庁の元警視正が興味を持つ大事件だったとは……
 巡査は、日誌と警察手帳のメモと記憶と推測に頼りながら、胸を張って事件の概要を説明した。

 夜逃げをしたのは、「笠原利恵とその夫、および男の子」の一家である。
 「変だな。普通はまず夫の名が出て、その妻および子、となるもんじゃないかい? なぜ笠原利恵って妻の名が先なんだ?」
 「はっ! 自分も不思議に思い、その点を家主に尋ねましたところ、家の借主が妻、つまり笠原利恵になっているということでした。夫は笠原雄大、これが利恵の保証人になっております」
 「おいおい、一緒に住んでいる夫が保証人と言うのは変な話だな」
 「はあ。ですが、家の契約のときは一緒に住んでいなかったようで…… 夫は利恵が入居してから3〜4ヵ月後に転がり込んできたということらしいんです」
 「それまで夫はどこに居たんだ?」
 「契約書に記された住所は、東京都荒川区町屋…となっておりますので、そこにいたのではないかと……」
 「で、子供の名前は?」
 「わかりません」
 「へ? わからない、って言うのはどういうことだい?」
 「家主は知らないそうです。子供は関係がないから」
 「そりゃま、そうだが。で、その後、一家の消息はないのかね? うわさ程度でもいいんだがね」
 「は。行方については皆目…… というより、本署の指示がありましたのでその後、聞き込み等はしておりません」

 「……とまあ、警察でわかったのはそれだけなんだがね」
 「それだけわかれば十分だよ、良ちゃん。夜逃げをしたやつの行方なんかそう簡単にわからないし、警察にはそのあたりまでで手を引いてもらったほうがいいからね。あまり長くつきあってボロが出たら大変だ」
 教えられた住所を探し当てると、さすがに伸一の様子が変わった。車が停まっても下りようとせず、不安そうに身体を縮めた。伸一の傷痕は、この家でつけられたものだろう。その恐怖を思い出した様子だった。
 笠原一家の住まいは、木造平屋の文化住宅だった。4軒並びのいちばん端で、外から見た限りでは、まだ人が住んでいそうな気配だった。
 家主の家は、敷地の隣り合った、生垣に囲まれた農家だった。

 「ああ、家賃の件は、もう解決しただよ」
 はったりを利かせるつもりで、「警察から来た」というと、人の良さそうな家主は、ニコニコ顔でそういった。
 「夜逃げした先がわかったのかね?」
 「いんや、保証人に電話したら、すぐ送ってきただ」
 「保証人て、夫の笠原雄大かね?」
 「んだ」
 「夫は利恵と一緒に逃げたんじゃないのかね?」
 「んだ」
 「どこへ電話したんだ?」
 「契約書にぃ、電話番号が書いてあってよ。03だから、東京だべ」
 「つまり、一家は夜逃げして東京の元の家に戻った?」
 「だべな。わかんねけど」

 こんにゃく問答のような家主との話で、次のようなことがわかった。
 笠原利恵が東京からこの町に移り住んだのは約一年前のことだった。入居したのは利恵本人と子供だった。
 職業はよくわからないが、収入はあったらしく、しばらくは、きちんと家賃を払っていたと言う。
 入居してから3〜4ヶ月後、気づいたら男が同居していたので、利恵に尋ねると、夫だと言う。夫だろうと他人だろうと、家主としては家賃さえきちんと払ってもらえれば文句はなかったのだが、このころから家賃の払い込みが遅れがちになり、ずるずると払ったり払わなかったりで6か月分が溜まってしまったのだという。
 ここ1〜2ヶ月は、借金取りらしい男たちが訪れるようになり、ついに10日ほど前、笠原一家の姿が消えた。
 身の回りのものだけを持ち去り、大型の家財道具とゴミが残されていた。
 警察に訴えたが、民事だからと何もしてくれないので、家主は、契約書に書かれた「笠原雄大」に電話してみた。いるはずがないと思っていたが、あっさりと本人が出て、すぐさま現金書留で溜まっていた家賃をそっくり送ってきたという。

 「東京の笠原雄大は、夫じゃなく父親かなんかじゃないのか?」
 「契約書の続柄には夫と書いてあり、電話の声も若かっただ」
 「こっちで同居していた夫と同じ声だった?」
 「こっちにいた夫とは話したことがねくて…… 人付き合い、悪かったからね、あの一家は」
 「隣近所とは付き合いがあっただろう? 子供も居ることだし」
 「子供が外で遊んでるのは見たことねえ。窓越しに見かけたくれえだった」
 「子供の泣き声とか、折檻されてたような様子は?」
 「わがんねな。子供は泣くのが仕事だべ」
 「赤ん坊じゃないんだ。四、五才の子供が何もなくて泣くか?」

   14.真  相

 「だいぶ見えてきたね」
 「見たくないものがね」
 「良ちゃん、なにを見たくないんだい?」
 「伸一の親の顔」

 家主はわからないといったが、さすがに隣近所はよく見ていた。
 「夜逃げしてくれて、清々したわ」
 そう言ったのは隣の主婦だった。笠原家は近所の鼻つまみもので、同じ敷地に住んでいるだけで不愉快な一年だった、という。
 引っ越してきたときから近所付き合いは一切なし、挨拶をしても知らん顔、まともに口を利いたことがなかったそうだ。
 「町会の回覧板ね、あそこの家に行くと止まっちゃうのよ。隣へ回さないで捨てちゃってたの。そうそう、ゴミ。ゴミ出しの日や場所はちゃんと決まってるのに、生ゴミも何もお構いなし、その辺にぽんぽん捨てちゃうの。不衛生だし、危険でもあるからって、注意したことがあるのよ。どうなったと思う? 翌日からうちの庭に投げ込むようになったのよ!」
 なるほど、これは夜逃げをしてくれて清々しただろう。

 「仕事? 何もしてなかったんじゃないかしら。旦那さんだって人が来てからは特に。ほとんど家にいて、喧嘩をしてるか、あれをしてる…… とにかく騒々しい家なのよ」
 主婦が赤い顔になったのは、思わず口走りかけた言葉のためではなく、思い出して再燃した怒りのために違いない。
 「その騒々しさのなかには、子供の泣き声もあったんだろうね?」
 「以前はね、ひどい泣き声が聞こえたけど、そね、ここ数ヶ月はめったに泣き声は聞こえなかったわ」
 「子供の名前、知ってる?」
 「名前なんて、笠原って言う苗字すら、大家さんに聞いてわかったくらいだもの…… 利恵って言う、奥さんの名前はね、宅急便の荷物を預かったことがあって…… それだって、なかなか取りに来ないので、こちらから持っていってあげたのよ。なのに…… 普通ならありがとうとかすみませんとか言うじゃない? なんていったと思う?」
 またまた怒りが火を噴き始め、主婦の顔が張り裂けそうになった。

 「隣近所をあれだけ怒らせたんだから、笠原利恵ってのは相当なタマだぜ」
 「もうやめようよ、誠ちゃん。そんな母親を探し出したって伸一のためにはならん」
 「そうじゃないよ、良ちゃん。あの住民票、見ただろ?」

 隣の主婦の大爆発から逃げ出した二人は、誠一の思いつきで市役所を訪れ、笠原利恵の住民台帳を閲覧した。
 戸籍の謄抄本は、本人および直系親族以外は閲覧も取り付けも出来ないが、住民基本台帳の抄本は他人でも閲覧が可能である。これを見れば、世帯全員の氏名と生年月日、転入転出先を知ることが可能である。
 笠原利恵一家は、つい最近夜逃げをしたばかりだから、転出手続きを行っているとは考えにくいが、保証人である「夫」が、契約書に書かれた以前の住所地にいて、電話連絡が出来たという以上、その住所を確認しておくことは、今後に役立つし、なによりも伸一の本名を知ることが可能と思われた。
 だが、狙いは半分外れた。

 笠原利恵の住民登録はあったが、世帯員は本人のみで、夫も子も登録されていなかったのである。また、利恵の転入前の住所は、契約書に書かれた住所と東京都荒川区町屋までは同じであったが、地番が異なっていた。

 「俺たちの目的はなんだ? 伸一の幸せだろ? 今のままでは、伸一は幽霊みたいなもんだ。ここに居ることは居るが社会的実体がない。病気や怪我をしても健康保険がない。成長して彼女が出来ても結婚が出来ない。就職も出来ない。なんにもないんだよ。良ちゃんがいくらがんばったって、伸一に幸せは来ないんだよ」
 「わかってるよ。だけどな、笠原利恵っていうとんでもないバカ女を探し出したって伸一が幸せになれるとは思えない」
 「そりゃそうだ。子供の住民登録をしてないってことは、健康保険もないってことだ。4〜5歳なら、幼稚園にも通う年齢なのにその気配もない。1〜2年後には学校へ行かにゃならんが、住民登録がなければそれも出来ん。そういう状態にわが子を置いて平気で居るんなら、これはもう親じゃない」
 「だろ? だったら親探しはもう止めだ」
 「違うって。伸一の人生をまともなものにするためには、どうしたってまず親を探さにゃならんのさ。そのあとで、二人で親を絞め殺してやろうじゃないか」
 「絞め殺す? よし、それなら賛成だ」
 「じゃ、今すぐ東京へ帰ろう。手がかりは、東京都荒川区町屋…という住所だ。笠原雄大は、そこに居る。利恵って言うバカ女もたぶん一緒だろう」
 「よし! 途中で縛り首用のロープを買っていこう」

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