あしたの風

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   9.  謎

 大きな1枚ガラスの向こうに日本海がゆったりと広がっている。
 急ぐ旅ではなかった。宿賃の計算を待つ間、ロビー(と言うほどの広さではないが)モーニングコーヒーを飲んでいると、軽い眠気がさしてきた。深夜のおねしょ騒ぎなどでやや寝不足気味だったのかもしれない。
 元気なのは、おねしょの張本人の伸一だけで、擬宝珠のついた手すりを伝って階段を上り下りしたり、ドアというドアを片っ端から開けて覗き込んだり、大きな柱時計の振り子の動きに合わせて身体を動かしたりと、旅館内の探検に忙しそうだった。

 誠一と良介は、それぞれ配達されたばかりの新聞に丹念に目を通した。
 新聞は、全国紙2紙、地方紙1紙、スポーツ紙2紙あった。二人ともプロ野球ファンで、通常はスポーツ紙で試合の結果から読み、ひとしきり素人評論に花を咲かせるのだが、この日はどちらが言い出すともなく、一般紙の社会面に目を凝らした。
 もっともプロ野球のほうは、すでに熱狂的なファン層を誇るあの球団が18年ぶりの優勝を決めてしまっているので、試合結果についてさほど興味がなくなったとはいえる。
 だが、二人が真っ先に社会面に目を這わせたのは、野球がつまらなくなったせいではない。もっと重要な情報を探していたからである。
 伸一。昨日から二人の道連れになった、身体中にすさまじい傷痕を持つ、4〜5歳の男の子。この子に関する情報が欲しかった。
 「ないね」
 「うん。ない」
 目指す記事は、見当たらなかった。全国紙にも地方紙にも、子供の「誘拐」はもとより「行方不明」の文字もなかった。
 ほっとするような、それでいて逆に不安になるような奇妙な気分だった。

 昨日、あのコンビニで二人が伸一と出会ったのは昼近くだった。今はまもなく午前10時というところだから、20時間以上が経過している。
 子供が居なくなったら、親は大騒ぎするだろう。短時間の迷子でも、だ。
 近所はもとより、町内あるいは隣町まで探し回るだろう。
 友人知人宅に電話を架けまくるだろう。
 警察に届け、捜索を依頼するだろう。
 そして、テレビ、新聞などのマスコミが騒ぎ出す……
 だが、今のところテレビは何も報じていないし、新聞にもそれらしい記事は一行もなかった。

 「どうなってるんだろうね?」
 「まだ警察に届けが出ていないか、あるいは一晩たってちょうど届けを出した、ってところかな。マスコミが騒ぐのは、今日明日あたりじゃないかな」
 「警察が報道を抑えてるってことはないかな?」
 「それは誘拐事件で、犯人が警察に知らせるな、とか言っている場合だ。ただ行方不明になっているだけでそんなことはしない。幼児小児の場合は早く保護しなければならないから、むしろ積極的に報道すると思うよ」
 「誘拐事件にはなっていない?」
 「親の承諾もなく、何の関係もない俺たちが勝手に連れまわしているわけだから、これはもう立派な誘拐ではあるけどね」
 「なんでもいい。とりあえずマスコミが騒ぐまでは返さなくていいね?」
 「時間が立てばたつほど、いろいろ問題が出てくると思うけどね」

 「じゃ、出発しようぜ。今夜のお宿は、山ん中の秘湯だ。ランプのお宿だって言うから、テレビなんかないだろう。新聞は一日遅れってとこかな」
 良介はうれしそうに言って、姿の見えない伸一を探しに立ち上がった。
 それをうんざりした顔で見送った誠一も立ち上がり、帳場へ向かった。

 汐風荘は、前日の東峰のホテルと違って、建物こそ小さいが、サービスが行き届いていてゆったりとくつろげる宿だった。
 食事は、味といい量といい申し分なかったし、料理の盛られた器にも十分に気遣いが感じられた。
 部屋係の仲居さんにチップを渡そうとしたのだが、「お気持ちだけいただきます。その分はご家族の皆様へのお土産に加えてください」と固辞した。
 おねしょで汚した布団にしても、弁償を申し出たのだが、女将は笑って「お子様のお客様にはよくあることです。クリーニングをすれば済むことですからご心配は要りません」と、そのクリーニング代すら受け取ろうとしなかった。

 玄関前には、すでに車が回してあった。
 荷物を積み込んでいると、女将が紙袋を持って近寄ってきた。
 「あの、差し出がましいとは存じましたが、お坊ちゃまのお靴と、お風呂場に脱ぎ捨てられておりましたお洋服、お洗濯しておきました。上等なお品ですし、まだ十分にお使いになれると思いましたので」
 「上等ってほどのものでもないだろ?」
 「でもお洋服はベントン、お靴はナエキ、どちらもトップブランドでございますから…… それにお子さまは、着慣れたお洋服のほうが身体も気持ちものびのびとするんじゃないでしょうか…… あの、おねしょもきっと慣れないお布団のせいかと思いましたもので」
 「……なるほどね。どうも男はそういうことに気が回らなくてね」

   10.孤   児

 秘湯ランプのお宿「渓山荘」は、村の駐車場に車を預けて、一般車の通行が禁止されている林道をマイクロバスに揺られること1時間、深い山奥の一軒宿だった。
 紅葉にはまだ早く、濃い緑に覆われて、騒がしいほどに小鳥の鳴き声が響いていた。

 「ちょっと出かけてくる」
 部屋に荷物を下ろすなり、茶も飲まずに良介が言った。
 「出かけるって…… こんな山奥で、どこへ行くんだい?」
 「伸一とね、散歩。谷へ降りて沢蟹でも探してみようと思う。誠ちゃんも行くかい?」
 「やなこった。俺は風呂に行くよ。ここの露天は混浴なんだぜ?」
 「混浴って言ったって、どうせばあさんばかりだろうよ」
 「ばあさんだって女のうちだ。うす汚ねえジジイと入るよりはましってもんだぜ。いいよいいよ、良ちゃんはガキと遊んでな。俺は様子のよさそうなばあさんと遊んでくるから」

 露天風呂は四つあって、一つが女性専用。あとの三つが混浴だった。
 脱衣場に接しているのがいちばん大きい「岩風呂」で一度に20人ほどが入れると言う。岩風呂の巨大な岩をまいて石段を谷へ下ると半分ほどの大きさの「滝風呂」と「釜風呂」がある、と聞かされた。女性専用風呂のほうは、「岩風呂」の隣にあるらしいが、岩と板塀で仕切られていて中の様子はうかがうすべもない。
 女性専用の露天があるなら混浴の楽しみはあまり期待できないな、そんなことを考えながら、誠一は「岩風呂」を皮切りに順番に三つの湯に身を沈めた。
 先客は、ばあさんどころか、うす汚いジイさんもいなかった。まだ早い時間なので、客があまり到着していない様子だった。
 「つまらんな」
 誠一は、ものの10分ほどで風呂を上がった。
 いつもなら、そばに良介がいて、駄話に花を咲かせつつ小一時間は、のんびりと湯に浸かる…… それが言うに言われぬくつろいだひと時なのに。
 なにか味気なく、不安すら感じる露天風呂のひと時だった。伸一に良介を取られてしまった…… そんな嫉妬めいた思いすらして落ち着かなかった。

 「冷たい麦茶、どうですか?」
 なんとなくふさいだ気持ちで部屋に戻ろうとすると、通りかかった宿の男衆に声を掛けられた。セルフサービスだが、食堂兼用の休憩室で冷たいものが飲めると言う。
 「ビールのほうがいいんだがな」
 「冷蔵庫もありますから、勝手に出して飲んでください。伝票がありますから、飲んだ本数を書いて、お帰りのとき、帳場に出してください」
 「冷蔵庫? 電気、きてるのかね?」
 「自家発電の設備がありますのでね」
 「じゃ、テレビも?」
 「ええ、衛星放送と、ちょっと見づらいけど地元の局の放送も見えます」

 ランプのお宿とは言っても、それは客室などの照明だけで、厨房の冷蔵庫や非常用の設備などに必要な電気は自家発電で十分にまかなわれているとのことだった。
 食堂には、新聞も当日版が置いてあった。人気の宿なので、ふもとの町とを結ぶマイクロバスが4台も定期的に往復しており、新聞は、始発のバスが町から運んでくるのだそうだ。
 誠一は、食堂のテレビの前にビールを並べて陣取った。
 もちろん、テレビが好きなわけではない。暇つぶしに見たいわけでもない。一刻も早く、伸一に関する情報を得たかったからだ。情報を得て、早いとこ伸一を親元か警察の手に渡してしまわねば、良介を取り戻すことが出来ない。

 しかし、この日も翌日も、いや旅行を終えて自宅に戻り、一週間が過ぎても目指す報道に接することは出来なかった。

 「良ちゃん、もう一度山形へ行ってみようよ」
 「汐風荘かい? あそこはよかった。女将も従業員もいいし、食い物はうまい、温泉はいい、のいいことずくめだったからね」
 「そうじゃない。あのコンビニだよ。あそこで俺らは伸一に出会った。あの町だ、伸一はあの町に住んでいたはずだ」
 「なあんだ、伸一の身元調べか……」
 温泉旅行の話なら二つ返事で乗ってくる良介だが、伸一を返す話になると急に鼻白む。
 「あのコンビニはやばいよ。俺たちゃ3人とも、あそこで万引きをしたんだもの。のこのこ捕まりに行くのかい? やだよ」
 「コンビニへは行かなきゃいい。だが、あの町へは行かなきゃ問題が解決しない」

 山の秘湯で一泊した後、二人は、いや伸一を加えた三人は、東京に帰った。東京には帰ったが、良介は、そのまま誠一のマンションに伸一とともに泊まりこんでいる。妻と娘二人のいる家へ、どこの誰とも知れぬ子供を連れ帰るわけには行かなかったからである。
 誠一のマンションを拠点にして、良介は伸一を連れて連日、遊園地だ、動物園だ、と遊びまわっていた。

 「問題なんか、ムリに解決することはない。身元がわからないならわからないままでいいさ。このままおれの子にしちまえばいいだけのことだ」
 「良ちゃん、伸一は犬っころじゃないんだぜ。良ちゃんがそれでよくても、世の中はそれを認めないよ。仮に良ちゃんの子供にするにしても、きちんと法律上の手続きをしないと、伸一自身の不利益になり、幸せな人生を送れなくなるよ。学校……」
 「むう、わかってるよ。学校も行かなきゃならんし、病気になったときのことを考えろ、だろ? で、どうしようっていうんだ?」

 不思議な話だった。
 この一週間、遊びに出かける良介、伸一とは行動をともにせず、テレビのニュース番組や新聞の社会面の記事に注意し続けた。昨日は国会図書館へ出かけて、あの地方のローカル新聞を閲覧した。一ヶ月以上さかのぼって注意深く子供誘拐事件や行方不明事件、幼児小児の虐待事件などを調べたが、伸一に該当しそうな記事は見当たらなかった。

 仮にも一人の子供が消え失せているはずなのである。どんな事情があるにせよ、なんらかの騒ぎにはなっているはずだ。どう考えても不思議だった。
 あるいは、まったくの孤児か。
 いやいや、いくらなんでも現代のこの日本で、孤児が存在するはずがない。

   11.手がかり

 伸一は、従順でおとなしい子供だった。頭もかなり良さそうで、良介や誠一の言うことをよく聞き分け、言いつけは確実に守った。
 欠点は、そのおとなしいこととと、おねしょ癖だった。
 おねしょはほとんど毎晩で、おかげで良介は布団干しとシーツ、パジャマの洗濯という日課仕事をこなさねばならなくなった。おそらく、このおねしょが全身の傷痕の原因だろう、と老人二人の意見が一致した。
 もう一つの欠点、おとなしいこと。これも限度を超えていた。
 伸一と出会った日から、一週間以上が過ぎたのだが、この間にこの子の口から発せられた言葉らしい言葉は「タイム」だけ。あとは「うん」「ううん」と
いう返事と笑い声だけだった。
 父母のこと、友達のこと、住んでいた家のこと、町のことなどを尋ねても、黒い目をちょっと翳らせて考え込むだけだった。推測だが、何事につけ父母があまりにも厳しすぎて、子供は自らを主張する術を身につけられなかったのだろう。

 「捨て子かなあ」
 「捨て子なんて今時ないだろう。あっても大概は、無責任なガキどもが、遊びの果てに出来ちゃった子の始末に困って、というのが相場だろう。五つか六つか、そのくらいまで育てて捨てるっていうのは考えられない。もしそれなら親が騒がなくても周囲が黙っていない。事件になってるはずだ」
 「こういうのはどうだい? 借金取りに追われた一家が、どこかに隠れ住んでて、親が病気で急に死んじゃったため、腹を減らした子供が食い物を探して街に出てきた……」
 「あのなあ…… 三流のお涙ドラマだってもうちっとましな筋を考えるぜ。そういう場合は、親は子供をものすごく愛してるもんだよ。身体中傷だらけになんかしない。それにね、この子の親は生活に窮迫した貧乏人じゃないよ」
 「なぜ?」
 「この子は、上等なブランド品を身につけてたんだぜ」
 「うむう、貧乏人にブランド品は似合わねえ、か。だけどね、見栄っ張りの親がムリしてブランド品を着せてるってことはあるだろ?」
 「それはあるけどね、その場合は子供がそれなりの社会生活をしてるはずだよ。一週間も姿を見かけなくなったら、親が知らん顔してても、周りが気づくと思う」
 「そんじゃ、伸一は金持ちの御曹司かい? でかい屋敷の奥深いところで乳母日傘で育てられ、おねしょをするからって身体中をぶっ叩かれていたっていうのかい? それこそ三流のドラマだな。でも、相手が金持ちとなったら、俺の出番だな。伸一が一生食ってゆけるだけの慰謝料をふんだくってやる」
 仮に慰謝料をふんだくっても、それが自分の手に入るわけでもないのに、金の匂いを嗅ぎつけたとたん、良介は急に元気になって「山形へ行こう」と言い出した。

 街は、一週間前と何も変わっていなかった。相変わらず静かで平和な田舎町で、あのコンビニも万引き事件は忘れているかのようだった。
 そのコンビニの付近の町をゆっくりと車で流してみた。
 これと言った特色のない、寄って立つ生活基盤もよくわからない街だった。
 伸一を車から降ろし、しばらく連れ立って歩いてみた。伸一がこの街で暮らしていたならば、なんらかの反応があると思ったからだが、伸一の表情に変化はなく、またたった二人ほどだが、行きあった土地の人も伸一には何の関心も示さなかった。

 「だめだね。一軒一軒、しらみつぶしに聞き歩くしかないかな」
 「そんな馬鹿なことはやっていられないよ。警察だ。警察へ行こう」
 「警察はちっとまずいんじゃないかなあ」
 「ちょっとね、警察には近寄りたくないけど、けどね、警察ってところは何かにつけ街のトラブルが持ち込まれるところだから、なにか手がかりがあるかもしれない。迷子の届けが出てればそれに越したことはない。手っ取り早くお屋敷のありかがわかるってもんだ」

 「ついでにコンビニの万引きと東峰のトンズラ事件まで解決されちゃうってこともありうる」
 「そんなへまはしないよ。誠ちゃんは伸一と待っていてくれ」

 警察署の駐車場に車を停めると、良介は悠然と降り立ち、胸を張って正面玄関を入っていった。
 勝負どころだ。
 ふだんは飄然としている良介だが、ここが勝負と決めると強い。誠一は、その強さにいつも舌を巻く。誘拐事件はどうやら心配する必要はなさそうだが、ホテルの料金踏み倒しと、コンビニの万引きは人相書きが出来ていても不思議はない。が、良介は堂々としていて、まったく恐れる風がなかった。

 1時間ほどして、誠一が「もしや逮捕されてしまったか」と気をもみ始めたころ、良介が姿を現した。
 驚いたことに、良介は、この署の幹部クラスと思える金筋入りの制服と連れ立っていた。玄関前でしばらく何事か話し込んだ後、制服の敬礼に軽く手を挙げて応え、ゆっくりと車に戻ってきた。
 「いやあ、田舎町は平和だね。この一ヶ月、事件はなんにもないそうだ。交通事故もなければ、コンビニの万引きもないってよ。万引きは、犯人が捕まらなけりゃ、事件とはいえないらしいね。東峰は管轄違いなんだろう、話題にもならなかった」
 「ふうん。手がかりなしか」
 「おいおい誠ちゃん。俺を見損なっちゃ困るぜ。わざわざ危ない橋を渡って手ぶらで帰ってくる良さまだと思うかい?」
 「おっ! 迷子がいたのかい?」
 「事件はないって言っただろ? 迷子が出たらこの街じゃ事件だ。迷子じゃなくて、親子もろとも、そっくり迷子になっちゃった、ってのはどうだい?」
 「なんだ、それ?」
 「夜逃げだ。ただの夜逃げだから事件性はないってことらしい。だがね、その家族ってのが、若い夫婦者と4〜5歳の男の子ときたら、なんか匂うと思わないかい?」
 「匂うどころか、大当たりだ! 良ちゃん、それだよ!」
 「そうだろ? よし、これでこの話は終わりだ。東京へ帰ろう。夜逃げした若夫婦から慰謝料なんて取れっこないからな」

 相手が金持ちどころか夜逃げするような貧乏人らしいと知って、良介は急に消極的になってしまったが、とにかく伸一の身元を確認しようと言う誠一の意見には逆らわなかった。
 「ところで、良ちゃんは、あの金筋と知り合いかい?」
 「いいや、俺は警察は大っ嫌いだ。知り合いなんかいねえよ」
 「なんか親しそうだったぜ」
 「警視庁を警視正で退官した栗原征治ってもんだ、と名乗ったからだろ。警視正ってのは、本庁の課長か大きい警察署の署長クラスだそうだ。この町の署長は警視だそうだから、俺のほうが上官なんだよ。あはははは」
 「言うに事欠いて、警察官を名乗ったのかい? ばれたら大変だぜ!」
 「大丈夫。栗原征治は実在の人物で、警視正だったのも嘘じゃない。確認しようにも本人は行方不明だよ。家族も当人がどこへ行ったか知らないのさ」
 「なんだそりゃ?」
 「賭け碁で大負けしてね、碁会所の掃除人をやりながら負け分を取り戻そうとがんばってる」
 「ばくち好きの元警官、欲ボケの坊主に詐欺師か。ロクなとこじゃねえな、碁会所ってのは」

                                  
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