あしたの風

(2)


   5.伸   一

 「どうした? 伸一。なにを見てるんだ?」
 相変わらず口を利かず、名前がわからないので、良介は勝手に伸一と呼ぶことにした。
 「俺たちと一緒にいる間は、お前の名は伸一だ。いいな?」
 良介がそういうと、子供はコクンとうなづいた。知り合ってから初めての反応だったので、良介は手をたたいて喜んだ。
 「ジイちゃんの言うことをよく聞けよ」
 とこれは誠一が言ったのだが、「伸一」はこれには反応しなかった。
 「ちぇっ、かわいげのないガキだ!」

 たまたま通りかかった「道の駅」で小用を済ませ、飲み物を買って車に戻ろうとすると、良介に手を引かれた伸一がしきりに後ろを振り向く。なにか気を引くものがあるのだろう。
 「なんだ? 誰か知ってるヤツでもいるのか?」
 伸一の視線をたどると、売店脇のベンチに一組の家族連れがいて、伸一と同じくらいの年頃の女の子がソフトクリームをなめていた。伸一は明らかにその女の子を見ていた。
 「ん? あれ、友達か?」
 相変わらず無言のまま、伸一は首を横に振った。
 「違うのか。じゃ、なんだ? ……あ、あ、そうか。お前、ソフトクリームが食いてえんだな? そうだろ?」
 伸一は、チラッと良介の顔を見てから、視線をあらぬ方角に変えた。
 「いいよ、わかった。買ってやる。だけどな、今度からは欲しいものは欲しいって言えよ。いいな?」
 伸一はコクンとうなづいた。伸一と確実に意思が通じ始めたのを感じ、良介は心が浮き上がる思いがした。

 「キュエッ!」
 手渡されたソフトクリームにかぶりついた伸一は、奇妙な声を発して口をすぼめ、目をしばたたかせた。冷たさに驚いた様子だった。二、三度大きく息をしながらソフトクリームを見つめ、今度は舌を出して慎重にぺろりとなめた。
 「お前、ソフトクリーム、初めてか?」
 伸一がうなづくのを見て、良介の目が潤んだ。

 「誠ちゃん、どう思う? この子には、親はいるんだろうか? 親がいるなら、いまどきソフトクリームも食ったことがない子供なんているはずがないと思う」
 「食い物には厳格な親だっているさ」
 「食い物に厳格な親が、子供にこんな薄汚い格好をさせておくか?」
 「知らないよ、そんなの」
 「そうだ、着替えを買ってやろう。……靴もだ。きっちり磨き上げて、普通の子供にして返してやる。……場合によっちゃあ、親のやろう、ぶん殴ってやる」
 「よせ、よせ。家庭にはそれぞれ事情ってもんがある。俺たちゃ、人にお説教できる立場じゃないと思うよ。なにしろ今のところ、俺らは誘拐犯なんだからな」

 表面的には穏やかで争いを好まない良介だが、一旦言い出したらめったに折れない頑固ジジイで、いま親に会わせたら本当に掴み合いに発展しかねない。
 誠一のほうはどちらかと言うと喧嘩好きだが、その割に冷静だった。ここは良介の思い通りにさせたほうがいいと判断し、途中の町で洋品店と靴屋に立ち寄った上で、今夜の宿、海岸の温泉に車を向けた。

 汐風荘は、磯うつ波音が心地よい小さな宿だった。
 小さいが、玄関先に車をつけた瞬間から、昨日の不愉快だったホテルとはまるで違うサービスが展開された。
 車が停まるや否や、そろいの和服姿の仲居さんが4人、どこからともなく現れて、降り立つ客を出迎える。三人が手分けして客の荷物を受け持つとと、一人が「お車、お預かりいたします」と運転席に乗り込んで、ハンドルさばきもあざやかに車を駐車場へと移動する。

 大きく開かれた玄関を入ると、いま到着した客の分だけ、大人用2足、こども用1足のスリッパを正面に揃えて女将自ら出向かえて挨拶する。
 「あ、子供のその靴ね、捨てちゃってくれるかな?」
 「あら、よろしいんですか、まだお使いになれますけど?」
 「いいんだ、汚れてるから。新しいの買って来た」
 女将は黙って伸一の靴を脇へ寄せた。
 「予約より子供が一人増えちゃったけど、いいかな? 友達同士で飲み明かそうと思ったんだが、孫がどうしても連れて行けって言うんでね」
 孫と言うには、こざっぱりした身なりの二人に比して、伸一はあまりにも薄汚く、貧相であったが、もちろん女将はそんなことにはこだわりを見せなかった。

   6.傷   痕

 「なんだ、こりゃあ!」
 なにはともあれ汗を流し、伸一を磨き上げようと言うことになったが、脱衣場で孫を裸にしていた良介が頓狂な声を上げた。
 「誠ちゃん、見てくれ」
 「げっ、どうしたんだ、それ!」
 素っ裸になった伸一を見て、誠一も声を上げた。
 いままでTシャツと半ズボンに隠れていて気づかなかったが、げっそりと痩せてあばら骨の浮き上がった伸一の背中から尻、胸や腹、わき腹にまで、おびただしい数の傷跡があった。
 ムチで叩かれたような蚯蚓腫れ、灸でもすえたような丸い火傷跡、殴られたような青あざなどで、とても子供の肌とは思えない状態だった。

 「誠ちゃん、これ、最近騒がれている虐待ってやつかな?」
 「ああ、間違いない。虐待だ。こんな傷は、普通じゃ出来ない。……ひでえことしやがる」
 「親がやったんだろうか?」
 「親じゃない。鬼だ!」
 「痛かっただろうなあ……」
 伸一をそっと抱き寄せた良介の目に涙はなく、すでに怒りの火が燃え上がっていた。

 伸一は、湯舟に入るのを嫌がった。
 温泉は、誠一や良介には心地よい湯温だったが、一部にまだ新しい傷を残す伸一には熱すぎたようだった。あるいは、垢のたまり具合から見ると、あまり風呂に入ったことがなくて、湯が怖かったのかもしれない。
 良介は、そんな伸一に気長につきあった。
 ぬるめのシャワーを手や足にかけることからはじめ、遊びのように、じっくりと湯に慣らしていった。時々間違ったふりをして、伸一の頭や顔にも湯をふりかけたりもし、塗れたところからボディ・シャンプーをつけてゆっくりと伸一の身体を洗っていった。
 身体中に大人でも耐えられないほどの傷を持つ伸一だが、やはりまだ子供だった。始めのうちはされるままになっていたが、やがてシャワーで遊ぶことに興味を覚えたのか、自らシャワーの中へ身体を差し入れ、良介の手からシャワーヘッドを奪って、振り回し始めた。

 「どうだ、風呂っておもしろいだろ?」
 ひとしきりシャワーで遊んだ後、良介は伸一を連れて露天風呂へ出た。
 湯に慣れたせいか、あるいは内湯よりぬるかったためか、岩で囲った露天湯へは、伸一はおそるおそるだが良介の後について入ってきた。
 「よしよし、いい子だ。よおくあったまれよ。あとで冷たいビール、じゃなかった、ジュースを飲もうな。うまいぞ」

 「誠ちゃぁん! ちょっと来てくれ!」
 先に上がって脱衣場でタバコをふかしていた誠一の耳に、けたたましいと言えるほどの良介の叫び声が飛び込んできた。
 なにか事故があったかと、あわてて露天湯に走ってみると……
 他に客がいないのを幸い、あられもない姿で湯船の中に立ち上がった良介と伸一は、バシャバシャと湯の掛け合いに興じていた。
 「ほらほら」
 飛まつを避けながら指し示す良介の指の向こうに、伸一の顔が…… 先ほどまでとは別人のように、笑いで輝いていた。

   7.タ イ ム

 風呂を上がると、すでに夕食の準備が整えられていた。
 海岸の宿らしく、魚介類中心の会席料理だが、伸一の分だけは子供の好みそうなハンバーグなどが添えられていた。
 ビールとジュースで乾杯した。
 伸一は「乾杯」を知らなかった。あの身体の傷痕を考えると、そういう楽しい家庭環境では育てられてはいなかったようだ。
 「ん? どうした? 腹具合でも悪いのか?」
 食事が始まったが、伸一は目の前のご馳走に手を出そうとはせず、料理と良介の顔をかわるがわる見てもじもじしている。
 「好きなもんがないのかな? あのおにぎりの食いっぷりから見ると、好き嫌いどころか皿まで食っちまいそうだったがな」
 「ほっとけよ。腹が減れば、万引きしてでも食おうってガキだ」
 「誠ちゃん、ガキとは何だ。この子には仮にだがよ、伸一って名があるんだぞ。なあ、伸一」
 そう言って良介が肩を抱くと、伸一がポツンと言った。
 「タイム……」
 「へっ?」

 「いま、こいつ、なんか言ったか?」
 「タイム、って聞こえたな。休戦しろってことかな」
 「そんなことはどうでもいい。こいつ、初めて口を利いたんだぜ」
 「そうだな。何を聞いても完全黙秘だったよな」
 良介の顔が崩れた。伸一を抱き上げて自分の膝に乗せた。
 「さあ、これで俺たちは本当の友達だ。さ、食おうぜ」
 良介が自分の箸で料理をつまみ、伸一の口に持ってゆくと、チラッと良介の顔を見上げた伸一は、「待て」を解除された犬のように、猛然と食いついた。
 「そうだ、それでいい。食いたいものがあったら、俺のでも、あっちのジイちゃんのでもいい、みんな食っていいぞ」

 「この子は、まともに飯を食ってなかったんだろう。許しがなければ、目の前のものも食えない。食おうとすると…… 叩かれたんじゃないかな?」
 「うん。どうやら想像以上に残酷な目にあっているようだ」
 「ちきしょう! また腹が立ってきた。この子は返さんぞ! 俺の子だ、俺の子にする!」
 「良ちゃん、興奮するなよ。気持ちはわかるけど、そんなことできるわけがないだろ?」
 「いいや! なにがなんでも、俺の子だ! なあ、伸一」
 「タイム……」
 「へっ、またタイムかよ。わかったわかった、喧嘩をしてるんじゃない。俺たちゃ親子兄弟より仲良しだからな、お前は何も心配しなくていい」

 「タイム、か…… 伸一のやつ、俺がちょっと興奮すると、ストップをかける。俺に似て争いごとが嫌いなんかなあ」
 「俺に似てって、良ちゃん、その子はあんた孫じゃないんだぜ。似てるわけがないと思うんだがね」
 「いいや、似てる! 誰がなんと言おうと、似てるものは似てる!」
 「ほらほら、興奮すると、またタイムがかかるぜ。あはははは」
 「かけて欲しいよ。この子が口を利くと、なんだかうれしくってね。えへへへへ」
 二人の酒盛りが続くうちに、伸一はいつか良介の膝のなかでぐっすりと眠ってしまっていた。
 「誠ちゃん、ものは相談だがな……」
 「だめだ」
 「まだ何にも言ってないよ。この子のことだが……」
 「だから、だめだって言ってるんだ。良ちゃんの考えていることはわかってる。その子を交番へ連れてゆくのをやめよう、親に返したくない、ってそう言いたいんだろう?」
 「……だめかあ?」
 「だめだ。あの傷跡やこの子の態度を見てると、そんな気持ちになることはわかる。だけどね、その子は犬っころじゃない、人間なんだ。虐待してようがかわいがっていようが、それは親のすることで、他人にはどうしようもないことだ。虐待が事実なら、もちろん放っては置けないが、それにしても他人に出来ることは、せいぜい警察とか児童相談所に通報するくらいのことじゃないかね?」
 「しかし、少なくとも俺たちと一緒にいれば食うこと、着ることに関しちゃ何も心配入らないんだぜ?」
 「学校はどうする? 病気になったら医者にもかからにゃならんのだぜ。健康保険はどうするんだ? 一日二日のことじゃない。この子の長い人生のことを考えなくちゃ」
 「だめか…… わかっちゃいるんだけど、なんだかこの子と離れがたい気がしてきてね。……じゃ、っさ。あと一日、一日でいい。この子にいい思いをさせてやれないかね? 遊園地なんか連れて行って、さ」
 「だめだね。明日だって遅いかもしれない。俺たちにそのつもりがなくてもこれは誘拐事件だからね。いまごろは警察が大騒ぎしてるだろうさ」

   8.星 月 夜

 「ねえ、誠ちゃん。警察が誘拐事件で騒いでいるとしたら、そこへ当の犯人が子供を連れてのこのこ出てゆけるもんかね?」
 「うん、そいつをいま考えてるとこだがね……」
 暗闇の中、布団に腹ばいになって、二人は難題に頭を抱えていた。明かりを消したのは、眠っている伸一のためだった。布団は三つ敷いてあるのだが、良介は伸一を自分の布団に寝かせていた。

 「迷子だなんて言い訳をしても、警察は、はいそうですか、と黙って受けとりゃしないだろ?」
 「当然、どこにいたかとか、そのときの様子とか、誘拐犯人を探す手がかりを聞き出そうとするだろうね。それどころか、まず俺らを疑ってかかるのが普通だろう」
 「本当のことは言えないよ。なにしろ伸一と出会ったコンビニでは万引きをしてきちゃったんだからね」
 「交番の近くに黙って置いてきちゃう、ってのは」
 「そりゃ、だめだ。昨日だって、この子は俺にへばりついて車を降りようとしなかったじゃないか」
 「弱ったね……」
 「だからさあ、どうだろう。とりあえずこのまま連れてっちゃおうよ。いやまあ、聞いて。誠ちゃんはこの子を警察に渡そうとするから事が難しくなる。親か、身内に返せば問題はないだろ?」
 「いいや、問題は二つある。第一、この子の家も親もわからないこと。第二に、これが肝心なんだが、この子は虐待にあってる可能性がある。だからもしわかっても親には返せない。警察をかませる必要があるんだ」

 「なるほど誠ちゃんが警察にこだわるのは、この子のことを考えてのことだったんだね。やっぱり俺の友達だよ」
 「警察をかませるとね、これが虐待なら当然親は逮捕され、刑を受ける。つまり、良ちゃんがぶん殴らなくても、お国が代わりにぶん殴ってくれるってことさ」
 「そりゃだめだ。ぶん殴るのは俺自身じゃなきゃ腹が治まらん」
 「好きにするさ。じゃ、どうやって親を見つけ出すんだい?」
 「それだよ。ねえ、誠ちゃんは誘拐事件だっていうけど、いまのところ警察は、誘拐かただの迷子か決めかねているんじゃないかね? 誘拐ならいずれ犯人からカネの要求がある。それがなければ、ほらよくあるじゃないか、公開捜査ってやつ……」

 「そうか! 公開捜査になれば、この子がどこの誰かかがわかる。ふむ。警察に渡すのはそれからでもいい、ってことだね。ただね、良ちゃん、これはかなりヤバい橋を渡ることになるぜ」
 「いいさ。こちとらどうせ地位も名誉もないイカサマ師だ。この子を傷つけた鬼を退治できるなら、人身御供になろうよ」
 「よし、決めた。公開捜査になるまで、明日から3人旅だ」
 「ひゃぁ、だめだ、だめだ!」
 「なにがだめなんだい?」
 良介が布団を跳ね除けて立ち上がった。
 「やられたよ」
 隣で寝ていた伸一も起き上がった。二人の浴衣がびっしょりと濡れているのを見て、誠一は声を上げて笑った。
 「さ、もう一回風呂に行こうぜ。ちゃんと洗っとかないとおねしょの臭いが染み付いちゃうからな」

 深夜の露天風呂は爽快だった。
 磯波の音を聞きながら、浴槽の縁に頭を乗せて全身の力を抜くと、身体がふわぁっと浮き上がる。見上げる空には満天の星。
 汗をたっぷりかいて湯から上がると、さわやかな海風が、火照った身体を心地よく包む。暗い海の向こう、水平線のあたりには、漁火が一直線に並んできらめいている。
 「なあ、坊主。いずれお前とは別れなければならんが、ジイちゃんたちはお前が幸せになれるように、いつもあのお星様にお祈りしてるからな。お前も星を見たら、わしらのことを思い出してくれよ」
 しかし伸一は、良介の言うことなど聞いてはいなかった。なにしろ、子供にとって、お風呂ほど面白い遊び場はないのだから……

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