あしたの風 (1) |
1.とんずら 東峰温泉ホテルのロビーは、出発待ちの団体客でにぎわっていた。 その団体の輪の端っこ、玄関口に近いあたりに、カバンを二つ抱えた良介がさりげなく立っているのを目の端で確かめながら、浴衣姿で濡れたタオルをぶら下げた風呂上りスタイルの誠一がフロントに近付いた。 「すまんけど車のキーを出してくれんかね。化粧品を忘れちゃったんでね」 そう言ってルームキーを示す。 フロントマンは、ルームキーをチラッと見ただけで、無言でカウンターの下から菓子の空箱を転用した預かり車のキーボックスを引っ張り出した。 「どれですか?」 キーには、一つ一つ車のナンバーと客の名前を記した荷札が括りつけられている。まともなホテルマンなら、ルームナンバーで客の名前を確かめて該当するキーを探し出すはずだ。 (大馬鹿野郎め!) 声には出さずフロントマンを罵った誠一は、自分のキーを取り出すついでにすばやくもう一個、他人のキーを掠め取った。 (ふん、こういうところがダメなんだ。架体がでかいのに経営者の器が小さすぎて、全体のタガが緩んでいるんだろう……) ちょうどそのとき、団体客が動き出したので、誠一は、カウンターに寄りかかって、全員がいなくなるのを待った。 「夕べは、にぎやかだったね。同じフロアだったから、なかなか寝付かれなかったよ」 「はあ、団体さんは、どうしてもにぎやかになりますので……」 (違うだろ。こういう場合は、嘘でもいいから「申し訳ございません。おっしゃっていただければこちらでご注意申し上げましたのですが」とかなんとか言うもんだ) 「いやいや、気にはしちゃあいない。私らだって、団体になればにぎやかになるんだからね」 「どうも」 (あのなあ、ホテルマンの用語集には、「どうも」なんてあいまい語はないはずだぜ) 「あ、それから部屋の冷蔵庫、まだ締め切らないでね。あとで仕上げのビール飲むから」 「あ、はい」 (「かしこまりました」だ!) 団体客がいなくなったのを見定めて、誠一は宿の下駄を突っかけて、ぶらぶらと駐車場へ向かった。 立ち止まって、あまり手入れのよくない植え込みを鑑賞したり、空を見上げたりしたのは、先を行く団体客との間合いを計るためだった。団体客の脇には着かず離れずカバンを二つ抱えた良介が行く。 団体客が駐車場のバスに乗り込み始めたのを見計らって、誠一は自分の車に乗り込む。 「ふん。ざまあみろ」 つぶやきながら、下駄を脱ぎ、懐に忍ばせてきたスリッパに履き替えて、エンジンを始動した。 「お待たせ」 団体客のそばをすっと離れた良介が助手席に転がり込んできた。 見回したが、誰も良介と誠一に注意を払っているものはいなかった。 二人の乗った車は、さして急ぐでもなく、道路へと走り出した。 「な、ちょろいもんだろ?」 「あはははは。いや面白かった。だけどね、誠ちゃん、何も宿賃を踏み倒すことはなかったのに」 「値切ればよかった、って言うのかい? 1割2割安くなったって、腹の虫は治まらないよ。いろんな温泉旅館に泊まったけど、こんな不愉快な思いをしたことはなかったんだぜ」 「うん、同感だ。風呂は汚いし、あのデッキブラシとホース、今朝までずっと出しっぱなしだったぜ。露天風呂もひどかったね。あれは風呂じゃなくてただの池だね。鯉が泳いでなかったのが不思議なくらいだ」 「飯も不味い。コンビニの500円の幕の内だってあれよりはましだぜ」 「ひどかったね、しょうゆ差し。スーパーで買ってきた赤いキャップの瓶がそのまま、でーんと食卓に置いてある。それも中を洗わないで注ぎ足すもんだから目詰まりはしてるし、白カビは浮いてるし……」 「だから俺、しょうゆ使わなかった」 「そのうち食中毒出して、営業停止になるんじゃないかな」 「それで一泊2食15,000円だってよ。払う気になるかい?」 2.悪いやつ 平井良介62歳。笹山誠一61歳。 いい年をして、不良である。 二人とも、見かけはむかし流行った「ロマンスグレー」という言葉が当てはまる上品な紳士だ。定年後の有り余る余暇をドライブと温泉めぐりで楽しんでいる、というふれこみで遊びまわっているが、定年もなにも二人に「定職」があったのは30年ほど前までのことで、以後はずっとその日の風に吹かれて適当に生きてきた。 良介には「家庭」があって、妻と娘が二人いる。 が、妻とは家庭内離婚の様相で、一つ屋根の下に居ながら口もきかない。 「間借り人みてえなもんだ」 と、本人が言うとおり、妻と娘たちがダイニングルームで食事をしているとき、良介は二階の自室でコンビニで買ってきたおにぎりをぱくついている、といった按配だ。 どうしても必要な会話は、妹娘を介して行われるか、携帯電話のメールで処理される。 そんな状態でも正式に離婚しないのは、住んでいる家が良介の死んだ父親の名義のままになっているため、「別れりゃ出て行かなくちゃならねえのは向こうだし、出て行きゃあ住む所が無えからだろ」と良介は言う。 が、良介は知らなかったが、妻は遠の昔に郊外に、自分の名義のマンションを購入しており、現在は人に貸して家賃を得ているのであった。要するにその家賃でローンを返してしまい、老後はのんびりと一人暮らしを楽しもうという計画であった。 誠一のほうは、元はといえばお堅いはずの銀行マンであったが、手癖酒癖女癖が悪く、客から預かったカネの使い込みがばれて銀行をクビになった。 たいした金額ではなかったのですぐさま弁済し、警察のご厄介になることはなかったが、カミさんには愛想をつかされて、こちらは妻と共有名義だった購入して間もない家をたたき出された。 ふつうならここで路頭に迷うところだが、誠一は、十日ほどビジネスホテルや24時間サウナ暮らしをした後、中古の安いマンションを購入してねぐらを定めた。 安かったとはいえ一千万円を超えるマンションである。クビになってすぐだから住宅ローンは使えない。ということは現金で購入したわけだが、この男、そんなカネをどこで調達したのだろうか。 実はここに誠一と良介の接点があり、秘密があるのだが、その話は追々明らかにしよう。 「今頃ホテルじゃ大騒ぎをしてるぜ」 人影の無い山すその森の木陰で着替えをしながら、誠一がけらけら笑った。 「俺たちに逃げられたからか?」 「それもあるがね……」 誠一は、先ほど掠め取った誰のものともわからぬ車のキーを取り出し、森の奥に投げ捨てた。 「なんだ、ありゃ?」 「誰かの車のキーさ。今頃、その客がかんかんになって怒鳴り散らしてるだろうよ」 「警察が来てるかな?」 「いいや。警察はまだだ。いま警察を呼んじゃうとホテル中をひっくり返す大騒ぎになっちゃう。そんなことになったら、ホテルはすべてのお客さんから宿賃を一円ももらえなくなる上、お土産付で頭を下げて帰ってもらうことになる。ここは、俺たちのことは後回しにして、車のキーを紛失したお客さんをなだめるのに全力投球さ」 「誠ちゃん、ほんとにワルだね、あんたは」 「あはははは。でもそれを、良ちゃんに言われたかないね」 「ええ? この品行方正の俺がどうしたって?」 「今回の温泉めぐりの資金は、誰が稼いだんだっけ?」 「ん? ……ま、そんなこたあどうだっていいじゃないか」 「良かないよ。俺は確かにワルだ。宿賃3万円に飲み代、税金ひっくるめて4万円くらい踏み倒した。それは認める。だけど、どっかの誰かさんは、碁会所で知り合った欲ボケ坊主をだまくらかして、なんと300万も巻き上げたんじゃなかったっけ?」 「いや、あれは向こうが増やしてくれって持ってきた……」 「ほう。預かったカネを温泉で遊ぶのに使っちゃって、それでもカネが増えるのかね? 世の中にはうまい話があるもんだなあ。で? あの坊さんは、増えたカネをいつ手にできるんだい?」 「さあね。俺の知ったことか。うふふふふ」 「それ見い! あんたのほうがワルだ。あはははは」 3.万 引 き 「おい。見ろよ」 小声で言って、良介が誠一のわき腹をつついた。 小用のついでに飲み物を仕入れようと立ち寄った、街道沿いのコンビニエンスストアでのことだった。 良介の視線の先に、四、五歳の子供が居た。すでに肌寒い季節だというのに薄汚れた半そでのTシャツ一枚に半ズボン姿の男の子だった。むき出しの腕と脚が枯れ枝のように細く、生白い顔に目だけが光っていた。 「なんだ、あのガキは?」 「あっ、やるぞ!」 良介のつぶやくような声に促されたかのように子供の手が動き、棚に並んだおにぎりをつかんだ。すばやい動きでおにぎりをTシャツの内側に隠した子供はチラッとレジの方を見てから、急ぐ風もなく出口に向かった。レジの店員はあらぬ方角を見ていて、子供にはまるで注意を払っていない様子だった。 「なあんだ、万引きかい。放っておけよ」 「だめだ! 捕まる……」 良介の言ったとおりだった。 子供がドアを押して外へ出た瞬間、それまで知らん顔をしていた店員が走り出て子供の肩をつかんだ。 二言三言なにか話しかけたが、子供は一言も答えず、ただ挑むような目で店員をにらみつけた。 さらに店員が厳しい目つきで何か言ったが、子供は唇を真一文字に固く閉ざしたままだった。 店員は子供を引きずるようにして店内に戻り、カウンターの奥に声をかけた。 「警察、呼んでくれ」 「おい! うちの孫になにするんだ!」 良介が大声を上げた。争いごとが嫌いで、いつも穏やかな物言いの良介に似合わぬ激しさで、40年来の親しい友人である誠一ですらびっくりしたほどの口調だった。 「孫?」 店員は、キョトンとした顔つきで良介を見、子供と見比べた。一見してかなり高価と見える服装の、上品な感じの初老の紳士と、薄汚れた格好の貧相な男の子とが不釣合いに見えたからであろう。 「ああ。わしの孫だ。孫がなにかしたのかね?」 「いや、この子が万引きを……」 「万引きだと! 君は、うちの孫を盗っ人呼ばわりするのかっ!」 「でも、この子は商品を持って外へ……」 「わしが払うのがわかっているからだ。問題はあるかね?」 「……」 「さ、いくらだね?」 良介は、ペットボトルのお茶3本と、子供が持ち出した以外にもう一個のおにぎりをカウンターに並べた。 「693円です」 良介は千円札をカウンターに投げ出し「つりは要らん!」と言うや、呆然としている店員には目もくれず、子供を抱き上げて店を出た。 「つり、ちゃんともらってくればよかったのに」 3人の乗った車が出るのと入れ違いにやってきたパトカーをバックミラーに見ながら誠一が言った。 「いや、それじゃあんまり阿漕だからね」 そう言って良介は、ポケットからアメやキャラメルなどを取り出して、子供の膝にばらばらと並べた。 「あれっ、良ちゃん、いつの間に」 「間抜けな店員がこの子をドツいているときさ」 「じゃ、俺、よけいなことしちゃったかな?」 言いながら誠一がジャンパーのジッパーを下げると、懐から袋菓子やパンがころがり出てきた。 「なんだ。誠ちゃんもやったのか」 「このチビスケの腹は、おにぎり一個じゃ足りそうになかったからね」 「これ全部で千円は安かったな。ふふふふふ」 「なのに、つりは要らん、なんて粋がっちゃって。ははははは」 二人が声を上げて笑うのを、口の周りに飯粒をつけた薄汚れた「孫」が不思議そうに見つめた。 4.浮 浪 児 「誠ちゃん、この子どうしよう?」 「どうしようって、良ちゃんの孫だろ? 俺、知らないよ」 「あ、きったねえ。この期に及んで逃げる気かい?」 「この期も何も、俺たちゃ、今日だけでも宿賃踏み倒しと万引きの二つの罪で警察に追われる身だぜ。腹ペコのガキの面倒なんかいつまでも見ていられないだろ? とりあえず思い切り満腹にしてやっただけで、行きずりの義理は果たしたと思うけどな。後はこの子の親の問題だ。適当なところにおっぽり出しておけばいいんじゃないの?」 「そんなこといったって……」 満腹になったガキは、良介の出っ張った腹に抱きつくように寄りかかって、ぐっすりと眠っていた。 「家がどこだかわからねえし、おっぽり出そうにもこの通り俺にしがみついて離れようとしないんだよ?」 ガキは、口を利かなかった。 名前を聞いても、家を尋ねても、一切、答えなかった。 誰とも知れぬ子供をつれて旅を続けるわけにはいかない。あのコンビニから少し離れたところで車から降ろしたが、良介が「なんとなく気になる」というので一回りして戻ってみると、降りたときの姿勢のまま、車の去った方角を見つめて佇んでいた。 放っては置けないと再び車に乗せたが、それからは車が停まる度に良助にしがみついて、決して降りようとはしなかった。 「この町にあまり長居はできない。連れて行くしかないよ」 「良ちゃん、犬っころじゃないんだぜ。黙って子供を連れ去れば誘拐だ。誘拐となれば、万引き犯を追っかけるのとはわけが違う。警察の目も厳しくなるぜ」 「だからさ、あとでどっかの交番へ、迷子です、と差し出しちまえばいいんじゃないか?」 「あとで? なんの後だ?」 「……この子な、風呂に入れてやりたい」 「風呂だとっ?」 「垢まみれでな、長いことまともに風呂に入ってないみたいなんだ。少々、臭う」 「良ちゃん。もしかして、良ちゃんはその子をほんとの孫みたいに思ってるんじゃないかい?」 「違うよ、誠ちゃん。孫じゃない。この子は友達なんだ。……伸ちゃん、伸一って言うんだがね……」 良介は眠り続ける子供の頭をなでながら、話を続けた。 「誠ちゃんは覚えてないかな、俺たちがこの子と同じくらいの歳のころのこと。そう、終戦後のドサクサのころだった。町に『浮浪児』と呼ばれる子供たちがあふれていたことがあった。空襲などで親を失った子供たちだよ。食うものはなく、寝るところもなく、町をさまよっていた。仲間同士が集まって、焼け跡のボロ小屋で身体を寄せ合って眠り、拾い食い、もらい食い、盗み食いをして命をつないでいた。 「大人たちはね、そういう浮浪児を哀れに思い、何とか手を差し伸べようと思いながらも、それができなかった。なにしろ自分と自分の子供たちに食べさせることすらできなかったんだからね。俺んちの両親もそうだった。少し多めに食べ物が手に入ると、近所の工場の焼け跡をねぐらにしていた数人の浮浪児に届けていたけど、みんなで食うとほとんど一口か二口でなくなってしまうほどでしかなかった。俺んち5人兄弟だろ? ほんとは他人に恵んでやるほどの食い物はなかったんだよ。 「伸ちゃんは、その浮浪児の一人だった。あまり身体が丈夫ではなかったらしく、他の子が町へ食い物探しに出かけても、一人で日向で寝ていることが多かった。だから、俺、なんとなく友達になっちゃったんだがね。 「ある日のことだった。お袋が配給の小麦粉でパンを焼いてね。俺に二切れ渡した。一個は伸ちゃんに持って行けと。だけどね、パンなんて珍しかっただろ? 俺、二つとも食っちゃったんだ…… 「……何日か後、伸ちゃんが死んだ。俺がパンをやらなかったからだ。いやわかってる。一切れのパンを食おうが食うまいが、伸ちゃんは死んだだろう。だけど俺はそのとき以来、ずっと伸ちゃんを殺したのは自分だと思っている。やせこけて垢まみれで、近寄ると臭かった伸ちゃん。……この子がね、伸ちゃんみたいに見えるんだよ。 「風呂に入って垢を落として、うまいものを腹いっぱい食わして、交番へ届けるのはそれからでもいいんじゃないか、なんて思って……」 |
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