千鶴子の花


 出来ることなら、将来いけばなの先生になりたい。
 それが、千鶴子の夢だった。

 千鶴子は花が大好きだった。どんなにつらい時でも、花を見ていると気持ちが和んだ。だから、いけばな教室に通うようになったのだが、最近は、たまにしか、お月謝を払う時しか、顔を出さない。
 通い始めた頃は気づかなかったが、千鶴子の通う時間帯は、いわゆる奥様方のカルチャーの時間帯で、千鶴子を除けばすべて専業主婦の人たちだった。
 初めのうち、千鶴子の洗練された最先端のファッションをうらやましげに誉めそやしていた彼女たちも、千鶴子の職業がクラブのホステスだとわかってからは、あからさまに敵意をしめすようになった。
 それはそうだ。この人たちの旦那さんから、わたしはお金を巻き上げているんだもの。
 先生は、そんなこと気にしないで通いなさいと言う。千鶴子自身もそんなことを気にしないだけの強さは身についていたが、奥様方のうっとうしい視線を何時も浴びせられていては、お花が可哀そう。


 今日は『同伴日』だった。
 だれかお客さんと一緒にお店に入らないと、罰金を取られる。
 で、いつものように、ハゲ(旦那、スポンサーの隠語)に電話したが、どうしても抜けられない会合があるという。しょうがない、他の客にあたろう、と電話を切ろうとすると
 「待て待て。俺の友人を行かせよう。ちょっと変わっているが、他のスケベ客より安心できる。ただし金のない奴だから、俺のツケにしとけ」
 なに言ってんだい。お店の客でいちばんスケベなのはあんたじゃないか。お金でも持ってなきゃ、誰があんたなんかと付き合うもんか。

 待ち合わせの場所に行くと、説明された通りの「変わった奴」がいた。メガネをかけて、文庫本を読んでいる背の高い奴…… は、待ち合わせ人の多いここ、銀座4丁目、三越ライオン前には、一人しかいなかった。着古した背広、ヨレヨレのワイシャツは、ネクタイは…… こういうのは時代遅れじゃなくて、世代遅れって言うのかな……
 いやだわ、こんなダサいの。誰でもいいと言っても、よりによってこんなのと同伴ではお店に入れやしない……。
 が、休むわけにもいかないし、メガネを放っぽり出して逃げ出すわけにも行かないので、結局、千鶴子はヨレヨレを店へつれて行った。
 隅っこに座らせてヘルプを一人あてがっとけばいい、と思っていたが、こういう時に限って店はヒマ。同伴相手を見つけられなかった子がヘルプに回ったので、千鶴子の席は4人も女の子がついてしまった。

 歌はダメ、踊れない、じゃあなにして遊びましょうか?
 千鶴子は情けなくなった。こんなのと比べたら、酔った振りしてしなだれかかるスケベオヤジのほうがまだマシだった。
 ……と思っていたが、ふと気がつくと、浮き上がっているのは千鶴子一人。メガネと4人のヘルプは何事かさかんに話し合っている。
 「うさぎが亀に追いつくためには……」
 なに馬鹿なこと言ってんの?
 「まず亀との距離の半分の地点へ行かなければならない。そこからうさぎはまた亀との距離の半分の地点へ行き……」
 なんなの?こいつ。
 「これは、ソフォクレスと言うギリシャの哲学者が・・・」
 お前はショボクレスじゃ。
 「詭弁と言うのは、こういう……」
 「キベンてなあに? 便器なら知ってる!」
 アハハハハハ…… 結構盛り上がっていて、他の席のほうがしらけ気味だ。

 ショボクレスは、千鶴子の思いなんか無視して、結局ラストまでねばった。
 もっとも、新しい客も来なかったので、お店としては相手が誰だろうと売上になるのだから帰ってほしくなかっただろう。
 「お寿司、食べに行こ。みんなもおいでよ」
 どうせ、ハゲのつけだ。ショボクレスに全部責任をおっかぶせて、この際、女の子達に恩を着せておくのも悪くない。
 千鶴子は、開き直って、ショボクレスを利用することにした。

 「なんて運の悪い日なんだろう」
 千鶴子は泣きたくなった。お店ではピンシャンしてたのに、ショボのやつ、お寿司屋さんで酔いつぶれた。
 女の子達は、食べるだけ食べたら「ご馳走さまあ」とか言って帰ってしまった。いや、それを責めるわけにはゆかない。ショボは千鶴子の客なのだ。しかも同伴の……。そういう客に手を出さないのが、この世界のルールだから。
 道端に放り出して帰っちゃおうか、とも思ったが、結局、千鶴子はショボをタクシーに押し込んで、自分のマンションに連れかえった。ショボの自宅を知らなかったし、本人は完全に死んでいたから聞きようもなかった。
 お寿司なんかに色気を出したからいけないんだ。お店の前で捨てちゃえばよかった。


 男が、ソファに端然と掛けていた。
 「キャッ!」
 千鶴子は思わず叫んだ。
 こいつ……、そうだ、昨夜、連れてきたんだっけ。眠りが深かったので、ショボの事をすっかり忘れていた。
 やだあ。これじゃあ、また今日もツキのない日になりそう。
 憂鬱を抱え込んで、それでも千鶴子は、ショボにエサを作ってやった。
 「千鶴子って、いい名前ですね。千羽鶴。あなたの夢はきっとかなう」
 食事を終えて、お茶を飲みながら、ショボがぽつんとそう言った。
 千羽鶴は知っている。でもそれが、夢と関係があるとは知らなかった。ただの飾りだと思っていた。

 ハゲのやつ、ショボを自宅に引っ張り込んだことを話しても、アハハと笑っただけだった。
 「だから言っただろ。あいつは安心なんだ。学生時代からの付き合いだがね、あいつの女を取ったことはあるが、取られたことはない」
 ひどい。いくらなんでも、そんな言いかたしなくたって……。確かに風采も上がらず小難しい話題しか持ち合わせていないショボよりも、明るく精力的なハゲのほうがモテるには違いなかろう。だからといって……。
 千鶴子はショボにちょっとだけ同情した。
 これにて一件落着、と思っていたところ、とんでもない形でショボと再会することになった。

 ハゲが急死した。心臓病だと言う。
 散々お金を吸い上げてやったハゲの死…… こんな場合、いやだけれど、銀座の女として礼を欠くわけにはいかない。
 冷たい遺族の視線。いきなり、面罵されることもある。花輪、生花は拒否され、香典を投げ返されたこともある。
 しょうがない、だって仕事だもの。千鶴子は、そう割り切っていた。

 受付で記帳しようとして、止められた。お店にも来たことのある、ハゲの会社の若い社員に。
 なんだい! 社長が死んだって知らせてくれたのは、あんたんとこの専務だよ。
 千鶴子は黙って軽く会釈をし、香典をさりげなく盆に残してきびすを返した。
 こんなとこで愁嘆場を繰り広げるほど、ハゲに惚れていたわけじゃないもの。

 後ろから足音が迫り、腕を掴まれた。
 これも経験がある。
 あのときは振り向いたところを、ぬかみそ婆あにいきなりひっぱたかれた。
 「千鶴子さん、でしたね?」
 警戒しつつ振り向いたら、あのショボクレスだった。

 やだあ、もう!
 一目見て、千鶴子はやりきれなくなった。初めて会ったときと同じ服装、違うのは左腕にまいた喪章だけだった。
 今日は、あなたのお友達のお葬式よ。喪服ぐらい、着てきなさいよ。

 ショボは、しり込みする千鶴子を強い力で引っ張り、制止する関係者、遺族を振り払って、強引に焼香台の前に立たせた。
 「故人をしのんで別れの挨拶に来た人を追い返す権利は誰にもない!」
 読経の声を経ち切って、ショボが叫ぶ。
 故人なんか偲んじゃいない、私は義理を果たしに来ただけなのよ。
 千鶴子は簡単に焼香を済ませ、ショボの袖を引っ張った。祭壇わきに正座したまま涙を溜めた暗い目で、ショボを見つめる初老の女に気づいたからだ。
 ハゲが言っていた、ショボから奪った女…… そう感じた。

 千鶴子は、銀座をあがった。
 マンションを売り払い、学者だというショボクレスの家に、千鶴子は入りこんだ。
 押しかけて行った日、ショボは戸惑い、迷惑そうにしていた。が、何日もしないうちに「チーちゃん」と呼んで、千鶴子を追いまわすようになった。
 ショボは、いくつかの大学の掛け持ち講師をしていた。
 大学の先生と言えば聞こえはいいが、安月給だった。その上、本をやたらに買いこむので、食べて行くにも事欠くありさまだった。
 少しづつ、千鶴子の貯金が減って行った。でも、千鶴子は気にも留めなかった。ハゲの葬式の日に見た、ショボの、男の強さを知っていたから。
 私は、ショボがハゲから奪った女。千鶴子は時々、そうつぶやいて一人で笑った。

 最近、女子学生達の間で、急にショボの人気が高まっている。
 服装が変わり、立ち居振舞いも変わり、もともと長身なので、年齢相応の渋さが加わって、男の花が開いた感じだった。

 千鶴子の夢は夢のまま、新しい夢に引き継がれた。