タイムカプセル



 丸亀駅でホームに降りるとき、強い恐怖感にとらわれた。
 ここはいけない! 最も危険な町ではないか。

 逃亡生活に入ってから、今までは自分の人生に何の係累もない町を選んで渡り歩いてきた。厳しい司直の追求から逃れるには、自分を知るもののいない町に身を潜めるしかないと思ったからだ。
 そうしていてすら、自分を包囲する網が確実に狭まっていることを感じていた。

 交番や駅頭の掲示板、役所、病院、銭湯など、およそ人の集まるところには、他の数人の犯罪者とともに手配写真が張り出されていた。
 マンションの部屋に残してきたアルバムから引き剥がしたと思われる、若い頃のスナップ写真を修正したもので、現在の自分の顔とはあまり似ていないと思ったが、田舎町のひなびたレストランで、ウェイトレスに顔をのぞきこまれたりしたときは、背筋に冷たいものが流れた。

 田舎町は、やはりだめだ。
 多くの逃亡者がそう考えるように、やはり大都会の裏側にこそ安全地帯はあるのだ。
 顔見知りに出会う危険はあるが、東京に戻ろう…… そう思い定めていた。

 四国・丸亀は、青春の一時期を過ごした町だった。
 公務員をしていた父親の転勤に伴って、中学から高校時代をこの町で過ごした。純粋だった頃の、楽しい、また哀しい思い出の詰まった町だった。

 警察は、当然、自分の過去のすべてを洗い出しただろう。この町に住んでいたことも、この町に特別な思い出があることも……。そして当然、この町に立ち回る可能性も視野に入れて手配しているだろう。
 したがって、決して足を踏み入れてはならない町ではあった。

 あれから、しかしもう二十年を経ている。
 この町に住もうというのではない。通りすがりにちょっとだけ、あの頃の思い出に触れてみようと思っただけである。
 通りすがりの、ただの観光客なら、たといあの頃の友人に出会ったとしても、すぐに気づかれることはあるまい。

 のんびりとした平和な町であった。
 駅舎を出てすぐに交番が目に付いたが、警察官はいなかった。
 町の様子は、さすがに二十年前とは一変していた。覚えのある商店名が認められたが、建て替えられているし、店員にももちろん覚えはなかった。
 いままで訪れた多くの「知らない町」と変わりはなかった。

 駅前広場に隣接して、変わった形のビルが建てられていた。「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」と書かれていたが、美術にはまったく知識がなくその名は知らなかった。
 建物正面は巨大なガラス張りで、遮光処理をしてあるためだろう、鏡のように付近の光景を写していた。
 長身の男が映し出されている。長めの髪、髭を蓄え、眼鏡をかけている。自分だった。
 大丈夫だ。自分で見ても、すぐには自分の姿だとは気づかない。

 町の様子は変わっていたが、道筋にはほとんど変化はなかった。
 青春の思い出は、この町のシンボルでもある丸亀城に凝縮されている。
 あの城に行き、石垣の上から町を見て、そしてこの町を去ろう…… そう考えていた。

 いままで、たくさんの町でたくさんの城跡を見てきた。そのたびに丸亀の城を思い出した。丸亀城は、日本一だ、そう思った。
 駅からぶらぶら歩いて十分足らず、市役所の脇を抜けると、眼前に左右数百メートルの壮麗な石垣が現れる。石垣は、力強く天空に向かってせり上がり、四層六十五メートルの頂に天守閣が望まれる。
 天守閣自体は、たとえば姫路城なら、物見櫓ほどの大きさしかないが、生死を分ける戦いの場が城と考えれば、その基礎をなす石垣は、まさに城そのものといえる。

 自分の青春は、この城とともにあった。
 ここで友と語り、ここで殴り合いの喧嘩をした。ひとり瀬戸内の海を眺めながら未来を夢見たし、そしてあの人に恋を語った。
 全身が震え、血が沸きあがった、初めての口付け……
 すべて、この城とともに生きつづけていた。

 ゆったりと水面に遊ぶ白鳥を見ながら濠を渡り、大手二の門から城内に入る。
 天守に向かうには、通常は二の門から、左へ時計回りに螺旋式の坂を登ることになるが、この坂は石垣の工事中で閉鎖されており、右側からぐるっと搦め手に回り天守閣を目指すことになった。

 頂上には、先客がいた。
 若い白人男性と日本人女性のカップルが二組、老婦人が二人と背広姿にビジネスマンだった。
 若いカップルに頼まれ、カメラのシャッターを切ることになった。ファインダーの中に、幸せそうな笑顔が弾けていた。

 展望台から見る丸亀の町は、二十年前とはすっかり変わってしまっているようだったが、丹念に見ると友人の家を探し出すこともできた。
 ずっとここで暮らしていたら、人の目を避けて逃げ回るような破目にはならなかっただろう…… そういう思いが浮かんで、目が熱くなった。

 瀬戸内の海は、なにも変わっていなかった。
 いや。かすんで見える瀬戸大橋。昔は、あれはなかった。連絡船だった。

 引っ越して行く日、何人かの友人が高松の築港まで見送りに来てくれた。
 その中に、あの人はいなかった。前の晩、お互いに言葉もなく、ただ握手して別れた。あの人の目に涙があった。
 連絡船のデッキで友人たちに手を振っているうちに、駅舎の陰に佇むあの人を見出したが、すでに船は岸を離れていた。

 あの人に逢いたい。あの人だけに逢いたい。
 この町に足を止めたのは、もしかしたら、それが目的だったかもしれない。

 天守閣の裏手、三の丸に古井戸がある。その井戸のすぐ近くの石垣に、一ヶ所、自分とあの人だけが知っている秘密があった。偶然見つけたものだが、大人のこぶしよりやや大きめの石がすっぽりと抜ける個所があり、中が空洞になっていた。

 初めての口付けの翌日、二人でここにタイムカプセルを忍ばせた。
 ブリキ製のペンシルケースに、未来のお互いに宛てた手紙と記念品を入れ、粘着テープで封をしただけのものだった。
 たわいもない遊びだったが、あの人に「子供たちが、今の私たちと同じ歳になったら開けようね」といわれ、ドキッとしたことを思い出した。

 石垣は昔のままだった。
 秘密の個所もそのままで、タイムカプセルはそのまま眠っているはずだった。
 もしこの恋が成就して、あの人と結婚していれば、ちょうどいまごろタイムカプセルは開封されるはずだ。
 甘い思いに浸りながら、空洞に手を差し入れてみると、錆び朽ち果てているだろうはずのペンシルケースはなく、真新しいプラスチック製の箱が出てきた。

 全身が震え、総毛立った。
 恐怖で崩れ落ちそうになったが、かろうじて踏みとどまり、あたりを見まわした。人の気配はなかった。

 薄紅色の封筒が二つ折りにして入っていた。かすかに甘い香水の匂いがした。

 「きっと、あなたがこれを読んでくれると信じています。
 「新聞やポスター、時にはテレビであなたの写真を目にすると、居たたまれない気持ちになります。
 「できれば、警察にお出でになった方がいいと思いますが、それはあなたご自身が決めることですね。
 「タイムカプセルは、私が取り出して保管しています。思い出が朽ち果ててしまうと思ったから。
 「このまま旅をお続けになるのでしたら、たいしたことはできませんが、お助けできるかもしれません。
 「タイムカプセルを開けて、今後のことを話しましょ?
 「私の携帯電話にお電話ください。私しか出ませんから、ご心配なく。
 「090−××××−××××
 「なぜか、近日中にお会いできるような気がしています」

 テレホンカードが一枚同封されていた。
 危険は感じた。が、もはや存在していないと思っていたあの人とのつながりが、ごく細い糸で残っているようにも感じた。

 明るい元気な声が電話線を伝わってきた。なんの屈託も感じられなかった。
 声が出なかった。危険は承知していたが、だからというわけではなく、遠い記憶に沈んでいたあの人の声に触れて、話す言葉が見つからなかった。
 無言の電話に、あの人は事態を察したらしかった。息を呑み、声を潜めた。

 「あなたなのね」
 「いいわ、黙って聞いて。私、今、仕事中で、すぐには出られないの。二時間、ううん、一時間待って」
 「一時間後に、天守閣のところに行くわ。待っていてね」

 わかった、とだけ答えて電話を切った。
 全身が小刻みに震えてとまらなかった。長い旅の終わりが近づいているように思えた。
 あの人の代わりに、警察官がやってくることも考えられる。
 賭け…… そんな思いがあった。 

 天守閣付近への入り口は一ヶ所のみ、周囲は高い石垣だから、万一のときは逃げようがない。
 天守閣は、あまりにも危険だ!
 が、最下層から天守への道は、大手、搦め手の二箇所だが、大手口は工事中で通行できない。
 とすれば、先ほど自分が上り下りした搦め手からの道を注意していれば、危険は事前に察知できそうに思えた。

 かつて、ワル仲間と制服のまま花見に来て、ポケットウィスキーで酔っ払って補導された思い出のある公園が、搦め手の入り口である。公園の隣には広いグランドがあって、高校生と思しき一団が入り乱れてサッカーの練習をしていた。
 とりあえず、グランドのネット脇でサッカーの練習を見学することにした。
 グランドの、公園とは反対側の隣に駐車場がある。
 もし、パトカーや警察官がやってきても、ここにいれば様子がわかるし、逃走ルートはいくらでもある。

 一時間は、すぐに経過した。この間、天守閣方面の人の動きは数えるほどだった。
 上っていったのは、石垣工事の職人、犬を連れて散歩する付近の住人、カメラを担いだ観光客らしい夫婦連れ、鞄を持った背広姿は売れないセールスマンのようであった。ほかに子供たち、若いカップルなどもいた。

 駐車場に濃紺の小型車が走りこんできた。
 かなり急いでいると見え、ブレーキ音を響かせながら、正規の駐車スペースでないところに強引に停め、中から女性がひとり、転げるように飛び出してきた。
 あの人だ。
 高校時代とは、もちろん姿容は変わっているが、すぐにわかった。

 すぐに声をかけたい衝動を押さえ込み、あの人に背を向けたまま、サッカーに見入った。
 あの人は、黒いコートに袖を通しながら、急ぎ足で天守に向けて上っていった。

 三十分ほど、サッカー見学を続けた。
 これだけの時間をかければ、あの人が危険を連れてきたとしても、それと知れるはずであった。
 十分に安全を確認している間に、あの人があきらめて下りてくれば、ここで声をかければ良い。そう思っていた。
 時は、なんの異常も感じさせずに流れた。

 あの人は、天守閣脇の展望台に立ち、静かに海を見つめていた。
 美しい、実に美しい後姿だった。
 親の転勤という、子供には如何ともしがたい事情だったにせよ、二十年前に失ったものの大きさが感じられた。

 近づきながら声をかけた。
 あの人は振り返らなかった。
 聞こえなかったと思い、もう一度声をかけた。わずかに身じろいだが、あの人は振り返らなかった。
 愕然となった。あの人の美しい後姿は、はっきりと厳しい拒絶を伝えていた。

 細い糸がつながっていると思ったのは錯覚だった。
 自分自身を振り返れば容易にわかることだった。結婚して子供もいる…… 子供はもう、かつての自分たちと同じくらいの年齢になっている…… あのタイムカプセルは、無用のもの、いや存在してはならないものになっていたのだ。真新しいプラスチックの箱に触れたとき、それに気づくべきだった。

 背後に視線を感じた。
 振り向くと、売れないセールスマン風の男が、背広の内ポケットから封筒を抜き出しながら近付いてくるところであった。
 はっとして周囲に目をやると、石垣工事の職人、犬を連れた散歩姿の男、カメラを下げた観光客風の夫婦連れが、四方からゆっくりと迫りつつあった。風体は違っても、彼らの目には共通の意志が認められた。