たぬきちの月


 「お月さま。見ていてね」
 たぬきちは、今夜も大好きなお月様にそう言って、練習を始めました。
 目を閉じて樫の葉を頭にかざし、ピョンと飛び上がって一回転。小さな蛙に変身するはずでした。
 そうっと目を開けて、手足を見ました。
 「やっぱり、だめだあ……」
 手も足も毛むくじゃらのまま。白いお腹も、ふさふさした尻尾ももとのままです。

 同い年の子狸たちは、もうみんな上手に化けることができます。
 「ぼくだけ、どうしてできないんだろう?」
 みんなで遊んでいると、最近はいつも「化け比べ」が始まります。みんなそれぞれ得意なものに化けます。動物に化けたり、人間に化けたり、大きな石に化けるのが得意な子もいます。

 はじめのうちは、半分しか化けられなかったり、尻尾が出ていたり、いろいろ失敗もありましたが、近頃はちょっと見ただけでは狸が化けているとはわからないほど、みんな上手になりました。

 「化け比べ」が始まると、たぬきちは、そっと仲間から外れてゆきます。
 誰にも見られないように森の奥の秘密の場所へいって、たぬきちは化ける練習をします。
 晩ご飯が終わってからも、そうっとおうちを抜け出して、ここにきます。
 いままで、何百回、何千回となく練習しましたが、一度も化けることが出来ませんでした。

 「見ていてあげるから、やってごらん」
 仲良しの牝狸ぽんこがそういって励ましてくれますが、大きな牛に化けられるぽんこの前では、蛙にもなれない自分が恥ずかしくて、一度も試したことがありません。
 もし、ぽんこのいうことを一度でも聞いて、ぽんこの前で試していれば、たぬきちの運命は違ったものになっていたでしょう。

 「心配ないわよ。大きくなれば自然にできるようになるのよ」
 おかあさんは、そういいます。お父さんも同じことを言いますが、でもたぬきちにとっては、大きくなってからのことより、いまみんなと「化け比べ」出来ないことの方が重大問題でした。

 「お月さま。今夜こそ、ぜったい成功するから、見ていてね」
 ある夜のことでした。
 いつものように、そうっと寝床を抜け出して、秘密の場所に行くと、五、六匹の子狸が集まって何か相談していました。みんな知っている顔です。
 たぬきちは、自分の大切な場所が踏み荒らされているようで不愉快になりましたが、「森はみんなのものよ。狸だけじゃなく、ほかの動物や虫たちのものでもあるのよ」と、いつもお母さんに言われていることを思い出し、今夜はほかの場所で練習しよう、と思いました。

 みんなに気づかれないように、その場を離れようとしたとき、どうやら相談がまとまったらしく、子狸たちが一斉に立ち上がり、走り出しました。

 「どこへゆくんだろう?」
 みんなが走り去った方角は、おうちのある森の奥ではなく、「決して行ってはいけませんよ」と、大人の狸たちから常々言い聞かされている「人里」の方です。
 たぬきちは不安になりました。胸がドキドキしました。

 おとなの狸に知らせに行こうか、とも思いましたが、もしなんでもなかったら、たぬきちは、あしたから仲間はずれにされてしまうかもしれません。
 そこで、とりあえずそっと、みんなの後をつけていって様子を見ることにしました。

 森のはずれで、みんなに追いつきました。
 木陰に身を潜めて見ていると、みんな思い思いのものに化け始めました。
 人間の坊さん、若い男、馬…… ほかに、たぬきちが見たこともないものがいくつかありました。
 こんな夜中に「化け比べ」なんて…… と思っていたら、様子が違います。
 急に静かになりました。

 「いけない! 人間だ!」
 人里の方から人間が二人きます。それも鉄砲を持った猟師のようです。
 みんなは気がついているだろうか、早く逃げるように知らせなくちゃ……
 「あ? あれ?」
 飛び出そうとして、たぬきちはかろうじて踏みとどまりました。

 坊さんに化けた狸が、猟師たちの前へつかつかと進み、何事か話しかけました。
 猟師が何か話し合い、人里の方を指差しています。
 坊さんは猟師に頭を下げ、こちらを向いて手招きをしました。
 馬を引いた若い男の出番です。馬の背には、たぬきちが見たこともない例のものが縛り付けられています。

 「化かしているんだ!」
 たぬきちの心臓は、破裂しそうになりました。
 話には聞いていましたが、人を化かすところを見るのは初めてです。うまくいくんだろうか。

 坊さんが馬の背に手をやり、奇妙な形の…… そうだ、あれは瓢箪だ。
 大きくて色が違うので気づかなかったが、森の中にいっぱいある。
 坊さんは瓢箪を二つ猟師に渡し、馬を引いた男とともに人里の方へゆっくりと歩いてゆきます。
 猟師は、坊さんたちを目で送った後、瓢箪を口に当て、中のものを飲んでいます。

 あは、あは、あははは! うまくいった!
 瓢箪の中身はなんだろう? 狸のおしっこだったりして…… ぼくも早くあんなことができるようになりたいな。あはは…… はっ! あれっ? いけないっ!
 たぬきちの笑いが凍りつきました。
 しっぽ! 坊さんのお尻のあたりに、大きな尻尾が出ています。

 ちょうどそのとき、瓢箪から口を離した猟師たちが坊さんの方を振り向きました。ひとりが坊さんを指差して何か言っています。
 「だめだ! ばれたぞ!」
 坊さんはまだ気づいていません。猟師が肩の鉄砲を手におろしました。
 「逃げろ! みんな逃げろお!」
 たぬきちは大声をあげ、森から飛び出しました。
 「お月さま! みんなを助けて!」

 たぬきちは、大きなイノシシを心に念じました。巨大なイノシシに化けて、猟師に向かって突進しました……
 大きなイノシシになって、猟師たちに体当たりし、その勢いで逃げる。そう考えていました。

 「だめだあ! やっぱり、ぼくはだめだあ!」
 突進しながら見た自分の前足は、狸のままでした。やっぱり化けられなかったのでしょうか。

 猟師たちは、自分たちに向かってくる巨大なイノシシに気づき、銃口をまわしました。

 ダ、ダアーン!

 銃声がとどろき、たぬきちの身体を熱いものが貫きました。
 たぬきちは、もんどりうって草むらに倒れこみました。
 足音がして、猟師が近づいてきました。
 「あれ? 狸だぜ。でけえイノシシだと思ったんだが……」

 たぬきちは知らなかったのです。
 どんなに上手に化けたとしても、狸には自分の化けた姿は見えないんだ、ということを……。

 投げ出されたたぬきちの目に、まあるいお月様が映りました。
 「上手に化けたね。みんな助かったよ」
 たぬきちの目が潤み、お月さまがかすんで見えました。

 狸が化けるというのはイメージの問題、つまり化ける対象物を十分に観察し、一分の隙なく心の中にイメージを作り上げることだったのです。そのイメージとつま先毛先までの全神経が同化したとき、周りから見ると「化けた」ように見えるのでした。
 たぬきちが、何百回も、何千回も、誰よりも上手に化けたことは、お月様だけが知っています。