雪 割 草 (下) |
「じゃ、子供は返してもらえないんですか?」 実家に戻った翌日、孝美は子供たちを引き取るため、警察で教えられた親のない子供たちの施設「すぎのこ園」を訪れた。 施設と言っても、孝美は、自分が警察に拘束されている間、一時的に預かってもらっている保育園程度に考えていた。だから引き取りに行けばすぐに返してもらえると思っていたのだが、応対した園長だと言う中年の女性から、引渡しはもとより、面会も、持っていったお土産のお菓子の受け取りまで拒否されてしまった。 とりあえず孝美の実家に置いてもらうことになったので、住むところも食べることも心配ないことを伝えたが、園長は首を横に振った。 「いいえ、お返ししますよ。あなたが正志ちゃん、美代子ちゃんのほんとうのお母さんならば、ね」 「ほんとうのって、わたし嘘なんか言ってません」 「そうね、あなたが二人を生んだというのは事実でしょうね。でも、だからと言ってあなたが母親だと言い切れるかしら?」 「どういうことですか?」 「二人はね、ここへきた時は栄養失調で、とくに美代子ちゃんは、もう少し発見が遅れたら死んでいたかもしれないのよ。どうしてそうなったのかしら? いろいろ事情はあるでしょうけれど、子供がおなかをすかせて、死ぬかもしれないと言うギリギリの状態にあるのに、それを放っておいて自分だけ楽しいひと時を過ごしていた、そんな人をほんとうのお母さんといえるのかしら?」 「知らなかったから……」 「何を知らなかったのかしら? 子育てについては、知らないこと、わからないことが、いっぱいあるわね。私も二人の子の母よ、もう二人とも大人になってしまったけど。はじめはなんにも知らなかった。わからないことだらけだったわ。ううん、今でもまだ知らないこと、わからないことばっかりだわ。でもね、子育てというものは、ほかの事と違って誰かに教えてもらったりするものじゃないと思うの。じっと子供を見つめていると、何が必要なのか、いま何をすべきなのか、わかってくるの。当の子供が教えてくれるのね」 「……」 「ほんとうのお母さんなら、いつも自分の大切な子供と向き合って、いま何をしなければならないか、教えてもらえたはずだわ。どう? あなたは、正志くんと美代子ちゃんのほんとうのお母さんだったかしら?」 孝美がほんとうのお母さんなら、子供たちはすぐに返す、と園長は言った。 「住むところがなくても、生活費がなくても、それはどうにでもなるんですよ。恵まれない母子のために、自立を援助する制度がありますからね。いちばん問題なのは、そういう経済的なことより、子供たちを支えてゆくお母さんが母親としての自覚を持っているかどうかなの」 「こちらへきてご覧なさい」 挨拶をして帰ろうとした孝美を、窓際に立った園長が手招きした。 窓の向こうは、保育園の教室のようなつくりだった。 十人あまりの子供たちが、思い思いの姿勢で、床に座った保母さんを囲んでいた。みんなはじけそうな笑顔だった。 孝美は目を凝らして笑顔を一つ一つ確かめたが、正志と美代子はいなかった。 「こっち」 園長が、植木鉢の陰になっている部屋の隅を指した。 美代子が腹ばいになって絵本を見ていた。かたわらに、その絵本を指差して何事か語りかける正志がいた。 ほかの子供たちと違って、二人の顔色は青白かった。 暖房の効いた「すぎのこ園」を出た孝美に冷たい北風が襲いかかった。 「ほんとうのお母さんが現れなければ、ほんとうのお父さんを探します。ほんとうのお父さんもいなければ、このすぎのこ園が二人のお父さん、お母さんになります」 園長はそうもいった。 園長は優しそうな人だったが、言うことは厳しかった。孝美がほんとうのお母さんでなければ、正志と美代子はマサユキにとられてしまうかもしれない。 マサユキなら、もともとほんとうの父親だし、子供好きで面倒見もいいからとられてもかまわないとも思った。 だけど…… ひとりぼっちになってしまう。 孝美の胸をさびしさが締め上げた。 正志と美代子を連れて帰るつもりだった。 実家では、母が「おいしいもの」を用意しているはずだった。おいしいものは、しかし、正志と美代子がいなければただの食い物でしかない。 二人を連れ帰れなかったことを、実家の父母になんと説明すればよいのだろう。 ほんとうのお母さんじゃないから引き取れなかった? そんなことを言っても誰も信じてくれないだろう。 「ほんとうのお母さん」て、なんだろう? 寒くて、おなかがすいて、むしゃくしゃした気持ちになった。 誰かに会って、パアっと騒ぎたかった。 こんなときはヒロシに会うのが最適だった。以前だったら、孝美のそんな気持ちを嗅ぎつけたようにヒロシが現れたものだ。そう思ってヒロシの家に電話してみたが、やはり昨日と同じだった。ヒロシとはもうだめかもしれない、と思った。 記憶を頼りに、何人か女友達に電話してみたが、誰もつかまらなかった。 いちばん捕まえやすそうなのはマサユキだったが、いまさらマサユキに会っても仕方がないし、マサユキではいまの気分を変えることにはならないと思った。第一、いまうっかりマサユキを呼び出そうものなら、間違いなく子供たちを連れて行かれてしまう。 「子供たちはどうしたの?」 孝美の顔を見るなり母が尋ねた。コタツに足を突っ込んで寝転がっていた父も体を起こして、孝美の答えを待っている様子だった。 説明が面倒だった。いや、どう説明すればいいかわからなかった。 「ほんとうのお母さんじゃないから、返してくれなかった」 そんなことを言っても理解してもらえそうになかった。自分にも理解できていないことなのだから。 なおも問いかける母を無視して、孝美は黙って2階へあがった。 「また黙り込んで…… なにか言えばいいのに」 母のぶつぶつ声が2階まで追いかけてきた。その声を遮断するように、中学時代から使っている「自分の部屋」に入って、音を立ててドアを閉めた。 部屋は、妊娠して父にしかられ、家出同然に飛び出したときのままになっていた。 いや、違った。 足元が暖かいと思ったら、昨日はなかった真新しいホットカーペットが敷かれ、部屋の隅には色とりどりの包装紙に包まれ、リボンのかかった箱がいくつも積み上げられていた。子供たちのためのおもちゃや衣類が入っているのだろう。 窓際の化粧台には白い封筒が置いてあった。覗いてみると、少なからぬ現金が入っていた。 「ばっかみたい」 孝美はそうつぶやいたが、白封筒に落ちた水玉がどんどん増えて滲んでいった。水玉は、傷ついて裸同然で帰ってきた娘への父母の思いに対する、孝美の答えだった。 夢を見た。 アパートのドアが開いていた。 部屋の中で、正志と美代子が遊んでいた。二人の向こうにはたくさんの子供がいて、笑い、叫び、戯れあっていたが、二人は無関心だった。 「どうして一緒に遊ばないの?」 声をかけると、正志と美代子がこちらを向いた。青白い顔をしていた。 二人は孝美を一瞥しただけで、すぐにまた二人だけの世界に戻った。無表情だった。孝美には関心がないようだった。 「なにをしてるの? おかあさんもまぜて」 しかし二人は、今度は振り向きもしなかった。 「おなかすいてない?」 近寄って、なおも話しかけると、二人は立ち上がって部屋の奥へ去った。 広い部屋だった。追っても追っても、二人は奥へ去って行った…… 「今日、わしがそのすぎのこ園に行ってみようと思うんだが…」 朝食を摂りながら父が言った。相談するような口調だったが、すでにそう決めてしまっているらしく、父は早くもネクタイを締めており、脇にスーツが置いてあった。 「行くのはかまわないけど、子供たちは返してくれないと思うよ」 「なぜだ?」 「ほんとうのお母さんじゃないから……」 ポカンとしている父の前に、孝美は涙の染みでシワの出来た封筒を置いた。 「お金、いまは要らない。どうしても要る時に貸してもらう」 「でも、着替えとか、要るんじゃないの?」 母が心配そうにいった。 「うん、その分だけは抜いてある」 父と母が顔を見合わせ、声をあげて笑った。孝美も笑った。 家族で食事をしながら笑うのは何年ぶりだろう。 「とりあえず顔だけでも見たい」という父と一緒に、孝美は家を出た。 空には重い雲がたれこめて、いまにも降り出しそうだった。父は寒いと言ってコートの襟を立てたが、孝美は寒さを感じなかった。 夢の中で…… 孝美は子供たちに無視された。悲しかった。いや、むしろ怖かった。 子供は、母親についてくるものと思っていた。誰もがそう言っていた。 子供が邪魔だと思ったことはあったが、子供に邪魔にされるとは思ってもみなかった。 自分のことを考えてみた。 親なんか…… うるさいばかりで邪魔だと思っていた。 だが、一人ぼっちになってみると、結局親のもとへ帰るしかなかった。 ぼろぼろになって帰った娘を、父母はなにも言わずに迎え入れてくれた…… 正志と美代子は、孝美のもとへ帰ってくれるだろうか。 自分は父母のもとで飢えたことはなかった。正志と美代子は、死ぬかもしれないほどに飢えた…… 「至らぬ娘で、お恥ずかしい話ですが、皆さんにご迷惑をかけております。今日はこれの父親として、私どもが保証人と言うことで、孫たちを引き取らせていただきたいと……」 言いかける父を孝美は制した。 「わたし、今日は子供たちを返してもらいに来たんじゃありません。逆にもうしばらく、そんなに長い間じゃありませんけど、預かっていただけるようにお願いに来ました」 「昨日、そちらのお部屋で正志と美代子が二人っきりでいるのを見て思ったんです、なぜ、他の子供たちと一緒に遊ばないのか。 「それは、二人がいつもアパートの部屋に置き去りにされていたので、他の子供たちとの遊び方を知らなかったからだと思います。もちろん、それはわたしの責任です。でも、よく考えてみると、それだけじゃないと思えました。二人とも、他の子達の遊びに興味がないわけじゃない、たぶん、一緒に遊んでもらいたいんだと思います。 「でも今は、あのアパートの自分の家ではないところに来たばかりの今は、兄妹のつながりを必死になって守っているんだと思います。二人で寄り添い、お互いに支えあって、小さな、とっても小さな家族を作っているんだと思いました。誰にも頼らない、二人だけの家族。 「その家族の中に、わたしはいない」 「二人を生んだ母親が、二人の真中にいなければならないわたしが、この小さな家族の一員じゃない。 「当然ですよね。二人を生んだのはわたしだけど、生みっぱなしでなにもしなかった。人に頼ることばかり考えて、子供たちに頼られるのが母親だっていうことは考えていなかった。頼りにならない母親なんて、いらないですよね」 「わたし、あの小さな家族の中に入れてもらいたいと思っています。二人だけの家族を三人の家族にしたいと思ってます。 「よその子供たちと思いっきり遊んで、おなかをすかせて帰ったら、温かいおいしいご飯が待っている、そんな家庭をつくりたいと思います。悲しい時もうれしい時も、一緒に泣き、いっしょに喜ぶ母親になりたいと思います」 「そうなるために、ちょっとだけ時間が必要なんです。母子3人、誰にも頼らずに食べていけるように、その準備が出来るまでの時間です。それまで、正志と美代子を預かって欲しいんです」 「よかった。どうやらほんとうのお母さんが現れそうね」 園長が微笑み、父がハンカチで目をぬぐった。 「でも、あまり長くは待てないわよ。なにしろここはお役所ですからね。個別の事情や個人の気持ちより、書類のほうが優先するのよ」 「孝美の気持ちが固まっているんなら、とりあえず引き取ったほうがいいんじゃないか?」 「そうじゃなくて、これ、私自身のケジメなの」 未練がましく言う父に孝美はきっぱりと宣言して、先に立ってすぎのこ園を出た。 孝美の目には、通りすがりに見た商店街のスーパーのポスターの文字が浮かんでいた。 【募集 鮮魚部洗い場 時給七百五十円 時間相談】 |